オペラ座の麗人
テオはお人好しで、要領の悪い男だった。その日も頼まれて、オペラ座の地下倉庫へ小道具を取りにいったのが彼の不幸の始まりだった。
湿気とカビの匂いがする薄暗い廊下を、ランプ一つ頼りに歩いていた。さっさと仕事を終わらせて一杯飲みたい気分だったので、自然と足取りも速くなる。やっと目的の倉庫の側まで来て、テオは異変に気づいた。
倉庫の扉がかすかに開いている。床に光を照らすと、ホコリの上に真新しい足跡がある。誰も寄り付かないこの倉庫にいったい誰が?扉に近づくと、中から何かを引きずるような音がする。
テオは恐怖心を押さえて、扉の隙間から中を覗き込んだ。最初に見えたのは男の足だった。足から体の方へ視線を動かすと、男は腕から血を流して仰向けに倒れていた。顔は真っ青で、遠目には生きているか死んでいるかもわからない。テオはその男の顔に見覚えがあった。しかしそれを思いだす事よりも、男の体を引きずって歩く人影の方が気にかかった。
あれは誰だ?あの男は死んでいるのか?まさか…殺人事件とか…
そこで逃げ出していればよかったのに、テオは好奇心に負けて男を引きずる人影の顔を見てしまった。
それはとても美しい横顔だった。細く華奢な首筋、東洋と西洋の入り交じったミステリアスな顔立ち、悲しげに憂いをおびた瞳。女の美しさに心奪われたテオは、この状況を精一杯好意的に解釈した。こんな美しい女性が人を殺すはずがない。事故で怪我した男を助けようとしているのでは?
そしてテオは何の警戒心もなく、部屋の中に入っていく。女は振り返ってテオを見た。
その時テオは声にならない悲鳴を上げた。顔の右側に醜い痣がある。左側が整っている分、醜い痣は化け物のように恐ろしかった。
震え上がるテオを無視して、女は部屋の奥へ進んでいき、扉の前で止まった。
その時テオが正気であったなら、この部屋の奥に扉などなかった事に気づいただろう。しかしテオは早くあの恐ろしい化け物が目の前から消えてくれる事を願って震えていた。
女は扉を開けてその向こうに男を引きずりこんだ。扉が閉まった時、テオは深呼吸をして気持ちを落ち着けた。そしてもう一度部屋の奥を見ると、扉はあとかたもなく消えていた。テオは大声をあげて逃げだした。
テオはこの話を仲間達に話したが誰一人信じる者はいなかった。しかしこの話は噂となって広がり、怪人の伝説が生まれた。
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テオが怪人と遭遇するよりもずっと前の話。同じオペラ座の地下倉庫をさまよい歩く一人の男がいた。男はうつろな目で、ふらふらと歩いていた。わざわざ地下倉庫にくる目的などない。ただただ絶望だけが男を支配し、人目につかぬ所で嘆きたいだけだった。
男の名はジョシュア。家の名は田舎を飛び出した時に捨てた。元々貧しい大工の家だったから、たいした家ではない。
オペラ座に初めて来た時から十数年、オペラ座の隅々を知り尽くし、ジョシュアにとってオペラ座は庭も同然。だからこそジョシュアは地下倉庫に入り込んだ時にすぐに異変に気づいた。倉庫の奥に扉がある。今まで何度か来た事があるが、あそこに扉などないはずだ。
ジョシュアは絶望して自暴自棄になっていたのかもしれない。どうなってもかまわない。そんな気分で扉に近づいてノブに手をかけた。
開かない。どうやら鍵がかかっているようだ。元からたいして興味があるわけではなかったのですぐに諦めようとした。その時異変が起こった。いつの間にか左手が握りこぶしを作っていた。開いてみると見た事もない鍵がある。いつのまに鍵なんて握った? そもそもこの鍵はいったいなんだ?
見知らぬ鍵と見知らぬ扉。不思議な物が二つ揃って現れた。もしやと思いジョシュアは鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。かちゃりと音がして扉が開いた。
扉の向こうは幅が広い廊下が続いていた。等間隔に並んだランプの明かりだけが頼りの薄暗いその廊下には、沢山の物が壁際に並べられていた。家具や美術品、遠い異国の物なのか、ジョシュアの見知らぬ様々な物が雑多に並べられている。
その中で際立って数が多かったのが時計。様々なデザインの時計が数多く並んでいたが、共通していたのはバラバラの時刻を指し示していた事と、針が止まっていた事。窓一つない廊下だから時間の感覚がおかしくなりそうだ。
ジョシュアは初めてこのおかしな空間に恐怖心を抱き戻ろうと振り返ったが、扉が消えて同じような廊下が続いていた。
「いらっしゃいませ。ようこそ『館』へ。久しぶりのお客様を歓迎するわ」
ますますパニックになるジョシュアの背後から、麗しい女の声が聞こえた。振り返るとそこに妙齢の美女がたたずんでいた。漆黒の長い髪を後ろに流し、黒いドレスに包まれたそのグラマラスな肢体は魅惑的である。
なにより特徴的なのは、顔の左半分を隠す仮面の存在。あらわになった右半分の顔ははっとするほど美しい。その印象的な灰色の右目が優しくジョシュアに微笑みかけた。
「誰だ……」
ジョシュアがやっと絞り出した言葉はそんな陳腐な言葉だった。
「わたくしはこの『館』の主。ラウム。よろしければお茶とお菓子もご用意していますからどうぞ居間へ。そちらでゆっくりとお話ししましょう。この『館』の事も貴方の事も」
ジョシュアは躊躇ったがそもそも帰る手段がわからない。少なくとも目の前の女性に敵意は感じられなかった。ここは大人しく話を聞いて、帰る手段を探さないといけないかもしれない。
「いらっしゃ〜い」
居間にはラフな服装に身を包んだ、陽気な少年がいた。黒髪に褐色の肌。顔立ち的に中東系と思われた。人懐っこい笑みを浮かべながら、ティーカップ片手に手招きする。
「さあ、一緒にお茶飲もうよ。あ、僕ハシムよろしくね。そういえば君の名は?」
謎の『館』とは似合わぬ底抜けな明るさに拍子抜けして警戒心を和らげる。
「ジョシュアだ」
名前を知られたからってどうという事はない。ラウムがソファに座るとハシムはその横に座りなおした。空いている向かい合わせのソファにジョシュアも腰をかける。
並べられた菓子や茶に不審な点はなかった。目の前で堂々とハシムが手に取って食べているので、恐る恐る口を付ける。味は文句なく美味しかった。
「まずはこの『館』についてお話ししましょう」
ラウムは紅茶の香りを嗅いで目を細めながら語りだした。
「ここは時から切り離された空間。時の止まった異次元とも言うべき場所。どの時代のどの国からもここへ来られるし、その逆もできる」
信じられないという表情をつくりジェスチャーつきで表現すると、ハシムが立ち上がって窓に走り出す。窓はカーテンで遮られ塞がれていたが、それを一気に開いてみせた。
窓の向こうは草原だった。呆然と見つめるジョシュアをさらに驚かせたのは風だった。ハシムが窓を開けると草の匂いとともに風が部屋の中に流れ込み、草原の葉がひらりと舞い降りる。
その葉に触ると本物で、草原の光景が作り物ではない実物だと告げていた。
しばらく眺めていると突然窓の景色が草原からどこかの町中に切り替わる。賑やかな市場だ。人々の雑多な話し声、屋台の親父が焼く焼肉の香ばしそうな匂い、五感がこれは本物だと告げていた。
そうかと思うと砂漠になって急に熱気が押し寄せたり、スコールの熱帯雨林になって部屋の中まで濡れたり。
ジョシュアの常識をぶちこわす数々を見せつけてから、おもむろにハシムは窓を閉めた。
「これで少しはここが普通の場所じゃないと分かってくれた?」
確かに常識では説明できない場所だ。そもそも存在しないはずの扉、突然出現した鍵、入ったら消えた入り口、そしてあの窓の外の世界。
信じられない事ではあるが、信じざるを得なかった。ラウムはそこでさきほどの続きとばかりに話し始める。
「でもね。この『館』に選ばれないとここには来られないの。この『館』へと通じる扉と鍵それが貴方の前に現れた。つまり貴方は選ばれた人間なのよ」
「胡散臭い話だ」
ジョシュアの疑いに、ラウムは微笑んだだけでかわした。
「この『館』に選ばれるのはね、強く過去に戻りたい。もう一度やり直したい。そう願う人が多いの。ジョシュア。貴方にもあるんじゃない? 戻りたい過去が」
ラウムにそう聞かれてどきりとした。ここに来る前の自分は絶望していた。そしてやり直せるならと思い詰めていた。
「もし人生をやり直せると言ったらどうする?」
それは今のジョシュアには甘すぎる誘惑だった。ハシムは何も言わずにニヤニヤと笑いながら窓際からこちらを見ていた。ラウムはその不可思議な灰色の瞳でじっとジョシュアの言葉を待っていた。
「戻れる物なら過去に戻りたい」
ジョシュアはそう言って自分の過去を振り返り始めた。
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今日もまた、パリ・オペラ座の幕が下りた。観客の拍手の大きさが、舞台の出来を表している。
客が帰り静かになったロビーを、不満げに歩く一人の男がいた。男はロビーの真ん中で立ち止まり、溜め息をついて上を見上げた。
何度見ても豪華な装飾やシャンデリアで目がくらみそうになる。ここは夢の世界の入り口なのだ。初めてここに立った時、いつか自分も夢の世界の住人になるのだと期待を膨らませた。あれから十数年、いまだに自分は入り口にいる。
「一舞台終えたばかりだというのに不満そうな顔ね。ジョシュア」
聞き慣れた意地の悪い声に、皮肉な笑みを浮かべて振り返った。
「セリフもない端役ですけどね。あなたが来ているとは思いませんでしたよカトリーヌ。てっきり隠居して、田舎にでも引っ込んだのかと思ってました」
カトリーヌは照明の消えた薄暗いロビーで遠目に見るとたいそうな美女に見えた。しかし厚化粧と首に巻かれたショールで年齢をごまかしている事をジョシュアは知っている。
「喜劇に坊やが出るっていうから笑いにこようと思ったの。全然似合わなかったわ」
そう言ってカトリーヌは笑った。ジョシュアは神経質そうな顔をひきつらせてにらんだ。
「そんな恐い顔しない。今日はよい話を持ってきたのよ坊や」
カトリーヌはジョシュアを焦らすように、扇子をゆっくりと閉じた。
「今度オペラ座で行われる『トリスタンとイゾルテ』のオーディションがあるそうよ」
トリスタンは難役として有名な役。ジョシュアもいつかやってみたいと思っていた。
「でもオーディションと言っても推薦人がいないと受けられないのでは…」
「落ちぶれても元オペラ座のプリマよ。あなたの推薦人になるくらいのコネはあるのよ」
ジョシュアは嬉しくてしかたなかったのに、カトリーヌに素直に礼を言う事ができなかった。それでカトリーヌの手を強く握りしめて、頭を下げた。カトリーヌはそんなジョシュアを突き放し、閉じた扇子で叩いた。
「オーディションに出られるってだけで、浮かれて落ちたら許さないわよ」
そう言った後、意地の悪い笑みを浮かべてこうつけ加えた。
「もう行きなさい。早く伝えたい相手がいるんでしょ」
カトリーヌは赤くなって口を閉ざしたジョシュアを追い出すように送りだす。一人ロビーに取り残されて、ふと昔の事を思いだした。
「そういえば坊やと初めて会ったのもここだったわね」
あれはどれほど昔の事だっただろう。いまだカトリーヌが現役でオペラ座のプリマをしていた頃だ。
カトリーヌがロビーのそばを通りかかった時、入り口付近で騒いでいる声が聞こえた。
一人の少年がオペラ座の職員達に取り押さえられている。年の頃は13、4ぐらい。くすんだ金髪の下で、生意気そうな目が睨んでいた。真っ直ぐな眼差しがカトリーヌの好奇心を刺激した。
「どうしたの?」
「カトリーヌさん! すみません。このガキがオペラ座の中に入りこもうとしたんで、追い出してるんですよ」
押さえつけられた少年は、必死にもがきながら吠えるように言った。
「俺はこのオペラ座で歌手になりたいんだ。雑用でも何でもするからここに置いてくれって」
カトリーヌはわざと大きな声で笑った。間近で聞く大音声に驚いて少年は大人しくなった。
「歌手になろうって人間が、そんな大声出してのどを潰すつもり?」
カトリーヌは持っていた扇子で少年のあごをすくい上げて、少年の眼差しを正面から受け止めた。
「声変わりも終わってない、発声の基礎もできてない、おまけに南部訛りも残ってる。村一番の歌い手とか言われていい気になってやってきた田舎者って所でしょ。オペラ座の舞台に立つなんて百年早いわよ」
少年は真っ赤な顔して悔しそうに睨んだ。
「あんた誰?」
職員は少年を持ち上げてこう言った。
「この人はな、今日の舞台の主役カトリーヌさんだよ。一流の人間がお前じゃ歌手になれないって言ってるんだ。諦めて大人しく田舎に帰るんだな!」
少年はオペラ座を追い出されても、落ち込む事もなく、オペラ座を睨んでいた。
「俺は絶対ここに帰って来るぞ!」
「坊やはどうしてオペラ座の歌手になりたいの?」
「ここはフランスで一番の劇場だろ。やるなら一番を目指すんだ」
カトリーヌは大声をあげて笑った。怖いものなどないような少年の根性が気に入ったのだ。
「坊や。名前はなんていうの?」
「ジョシュア」
「気に入ったわ。死ぬ気でやるっていうなら、私が稽古してあげてもいいわよ」
ジョシュアはこぼれ落ちそうなほど目を見開いて驚いた。その顔がすぐに輝くような笑顔に変わった。
「ありがとう。おばさん。俺死ぬ気でやるよ」
カトリーヌは扇子でジョシュアを叩いた。
「お姉さんでしょ。私はまだ31よ。まず礼儀からしこまなきゃ行けないようね」
「痛いなぁ。俺の母さん30だよ」
「一言よけいだよ」
カトリーヌはもう一度ジョシュアの頭を叩いた。
それから十数年カトリーヌに鍛えられ、実力は身につけたジョシュアだったが、未だ無名の売れないオペラ歌手だった。
せめて一度でもチャンスがあれば、きっとジョシュアなら成功する。そうカトリーヌは信じていた。だからこそもはや失われかけた過去の栄光を駆使して最後のチャンスを彼に与えにきたのだ。
後はジョシュア自身の実力でチャンスを物にするしかない。彼の居なくなったオペラ座の入り口を一人眺めながらしばらく感傷に浸っていたカトリーヌだった。
狭い路地裏をぐねぐねと曲がり、雑多に入り交じった道を陽気に駆け抜けるジョシュア。彼はやっと訪れたチャンスに舞い上がっていた。そして同時にこの喜びを一刻も早く彼女と分かち合いたいと願っていた。
貧しい物達が身を寄せ合って住まうこの地区では、明かり代の節約のためどこの家も最小限の明かりのみで薄暗い。それでもジョシュアの目には一軒だけこうこうときらめいて見える家があった。温かく、幸福な我が家、そしてそこで待っていてくれる人がいる。
ジョシュアはふと思い立ち、はやる気持ちを抑えてこっそり窓から我が家の中をのぞき見た。
家の中には若い女が椅子に座って、小さな明かりを頼りに一生懸命帽子作りをしていた。彼女は手先が器用でこうやって内職で稼いで家計を支えてくれている。彼女の支えがなかったら、売れない歌手など続けていられなかっただろう。ジョシュアの愛しの恋人メイフェアだ。
彼女との付き合いは長い。同じ田舎の出身で二人は幼なじみだった。昔は妹のように可愛がっていたが、歌手になりたくて家も捨て、メイフェアも置き去りにして、パリに飛び出してきた。
それから数年後。彼女はジョシュアを追ってパリにやってきた。以来二人で力をあわせてなんとかこの大都会で暮らしてきた。彼女が居なかったら困窮で挫折していたかもしれない。まだ結婚していないのは、自分に稼ぎがないからだ。
いつか一流のオペラ歌手になって彼女にプロポーズをする。それを目標に今まで決して腐らずに努力を続けてきたのだ。
パリにきて何年もたつというのに、メイフェアはどこか田舎じみたあか抜けない女だった。家事と仕事でぼろぼろの手。贅沢などできずに貧しい身なり。化粧っけもないがそれでもジョシュアにとってはオペラ座のプリマより愛らしく愛おしく見える。
そんな愛する恋人の姿をそっと眺めてからゆっくりと扉を開けた。
「ただいま。メイフェア。今日はいいニュースがあるんだ」
メイフェアは自分の事のように大げさに喜び、ジョシュアがオーディションに受かる事を信じてくれた。この愛らしい恋人のため、自分の持てる力のすべてを注ぎ込もう。そうあの時のジョシュアは思っていた。
それからジョシュアはオペラ座の雑用以外の時間を、オーディションの稽古のためについやした。といっても貧しい彼が練習場所など借りられる訳もない。家で大声で歌う訳にも行かず、誰にも気兼ねせず練習できるようにセーヌ川のほとりで歌い続けた。
トリスタンが難役と言われるのは、その長過ぎる歌と台詞からだ。それをミスなく芸術として高めるためには時間はいくらあっても足りない。
来る日も来る日も川沿いで歌い続ける日々。疲労が蓄積され次第にメイフィアですら心配するようになってきた。
「今日は練習休んだ方がいいんじゃないかしら」
「いや。まだ納得いかない所が沢山あるんだ。時間が足りない。一日だって休めないよ」
メイフェアが心細そうに、ジョシュアの服の裾をつかむ。幼い時からよくしてきた仕草。ジョシュアはそれを愛おしそうに微笑みながら、いつも通り頭を撫でてあやした。
「俺は大丈夫だから。いってくるよ」
不安げに瞳が揺れるメイフェアを残しまた練習へと赴いた。
異変が訪れたのはもうじきオーディションという頃。蓄積した疲労と、川沿いという寒い所に居すぎたせいで、ジョシュアは風邪をこじらせた。しかも困った事に喉にくる風邪で、とても歌えた物ではなかった。
メイフェアも仕事を休んでまで必死で看病してくれたり、少しでも栄養をと奮発して食事を作ったりしたが、なかなか風邪が治らない。そしてついにオーディションの日を迎えた。
結果は最悪だった。体調が万全なら誰よりも上手く歌える自信があっただけに、いっそう悔しい。メイフェアの忠告も無視して、カトリーヌの善意を無駄にして、二度と来ないかもしれないチャンスを駄目にしてしまった。
いくら悔やんでも悔やみきれない。やり直せるなら、今度こそ体調を整えて、オーディションに向かうのに……。諦めきれずオペラ座に向かい、ふらふらとさまよっていた。
それが『館』に来る直前のジョシュアだった。
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長い、長い話を終える頃にはお茶はすっかり冷めきっていた。一口で飲み干すと、ハシムが新しい温かい茶を入れてくれる。ラウムは先ほどと変わらずに穏やかに微笑んでいた。
「なるほど。それで過去に戻りたいのね」
そう言いつつ、ラウムはテーブルに置かれたアンティークの砂時計を弄び始める。
「この館には過去に戻ってやり直す方法がある。でも代わりに代償が必要なの」
「代償?」
ジョシュアは警戒心を高めながら、じっとラウムの動きを観察する。ラウムは砂時計をひっくり返してテーブルの上に置いた。砂は重力の法則に従って、下へ下へと流れ落ちて行く。
「一人の人の人生には決められた時間がある。簡単に例えるなら、この砂時計の上にある砂が残りの未来の時間。落ちて下にたまったのが過去の時間。未来の時間の総量を増やす事はできない。でもこうやって……」
言いながらラウムが再度砂時計をひっくり返すと、上下逆さまになり、下に落ちていた砂が上にあった砂と合流する。再度ひっくり返し直すと上の砂の残量が増えていた。
「こうやって過去の時間を未来の時間の総量に足し直す。そういう力がこの館にはある。問題はこの過去を未来に変換し直すという事。過ぎ去った過去というのは人間の記憶なの。つまり貴方の記憶の一部を代償にもう一度やり直す事ができるわ」
「記憶を代償に……」
おうむ返しにくりかえしたジョシュアの言葉に、ラウムはほんのわずかに美しい微笑をゆがめて真剣な表情を作った。
「どんな記憶が失われるかはやってみないとわからない。それでも貴方は過去に戻ってやりなおしたい?」
ジョシュアは迷った。やり直したいという思いは強い。しかしその後にどんな代償が待っているのか分からないのだ。自分の過去の記憶が失われる。恐ろしいような、漠然としすぎてよく分からないようなそんな気分だ。
「無理強いはしない。貴方が決める事よ」
ラウムに突き放されてジョシュアは思わずその手をつかむように言ってしまった。
「過去に戻りたい。やり直したい。そのためならどんな代償でも支払う」
ほう……とラウムはため息を一つついて目をつぶった。その目はなぜか悲しげだった。
「そんな簡単に決めてしまっていいの? 貴方の記憶はそんな安い物なの?」
言われて振り返る。自分の今まで生きてきた人生を。辛い思いも苦しい思いもした。しかし楽しくも優しい時間だってあった。
「違う。そうじゃない。過去は大切な過去だ。でも失ったとしても自分は変わらない。変わらずに俺らしく生き続けられる。だから後悔しないためにもう一度やり直す」
ジョシュアの迷いのないそのまなざしをじっと見据えて、ラウムは頷いた。
「わかりました。貴方の願いを叶えましょう」
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さあカーテンコールの時間だ。
ジョシュアが舞台に出ただけで、観客はスタンディングオベーションとなり、拍手喝采を浴びせる。
未だに夢のような気分だが、今まさに観客の賞賛を浴びているのは自分なのだ。感激と誇りを胸に堂々とお辞儀をする。
ジョシュアは見事トリスタン役を射止め、舞台を成功に導いた。無名の役者から、一躍トップスターの座に上り詰めた。オペラ歌手になる事を反対した父に、オペラ歌手になど慣れる訳がないとバカにしたオペラ座の職員に、この姿を見せたかった。
もうすでに次の役のオファーまできている。今オペラ座でもっとも輝いている役者だ。
カーテンコールを終え、楽屋に戻ると仲間達がねぎらいの言葉をかけてくれる。楽屋の外でファン達がジョシュアを待ち構え警備員達が困るほどだった。そんなファンの中で、一人場違いなほどあか抜けない一人の少女がいた。
「ジョシュア!」
その少女はジョシュアの名を呼んで必死に手を伸ばした。目に涙を浮かべて。ジョシュアはファンの一人かと思い握手をしながら、こう言った。
「今日は舞台を見に来てくれてありがとうございます。お嬢さん」
少女は目を見開き涙をこぼしながら言った。
「私はメイフィアよ。忘れてしまったの? どうして帰ってこないの?」
メイフィアという名に、何か心の奥底で温かくとても大切な何かを感じたが、それは一瞬で消えた。目の前の少女に覚えがない。忘れたのかとなじられて困ってしまう。
「申し訳ないがどこかでお会いしただろうか?」
その言葉にショックを受けたように少女は数歩後ずさり、泣きながら走り去った。首を傾げながら少女の後ろ姿を見送っていると、ジョシュアの頭をいきなり扇ではたく者が現れた。
「なんてやつだい。見損なったわ」
「カトリーヌ。どうしてそんなに怒っているんだ? なにか舞台でミスでもしたかな?」
カトリーヌは静かな怒りを讃えてジョシュアを見据えた。ジョシュアの恩人で師匠でもある彼女には頭があがらない。
「舞台役者としてはもう一流よ。でもね男としては最低だ。チヤホヤされたからって女を捨てるようなバカに育てた覚えはない。もう二度と顔も見たくないわね」
カトリーヌがなぜ怒っているのかジョシュアにはわからなかった。しかしその日を最後にジョシュアの前にカトリーヌは二度と現れる事はなかった。
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薄暗いオペラ座の地下倉庫の中で、ジョシュアは倒れ伏していた。左手は刃物で切り裂かれ血がどくどくと流れている。右手には血塗られたナイフが一つ。
少しづつ死へ近づいて行く事にジョシュアは安堵していた。人生の絶望と苦しみからの解放。安らげる死がすぐそこまで来ていた。
過去は振り返りたくない。思い出すだけで息がつまるように、胸の奥が痛む。
過去の栄光は短く、転落は早かった。次から次へと舞い込む仕事をこなし続け、ジョシュアはオペラ座の看板歌手になった。皆がジョシュアを褒めそやす。しかし心のどこかにぽっかりとあいた穴は埋まらない。なぜだかわからないがむなしかった。
その風穴を埋めるために、夢中で仕事をし続け、喉を酷使し続けた。その上不幸な事に流行病にかかり、熱に浮かされ喉を痛めた。それでも無理して歌い続けようとして、喉を完全に潰してしまった。
医者からも見放され、歌手生命は断たれた。それまでジョシュアの周りに取り巻いていた人々は、みんな離れて行き、後には何も残らなかった。
今の自分に何も残っていない。夢も希望も大切な人もいない。そんな命なら捨ててしまえ……。そう自暴自棄になりここへやってきた。
以前体調を崩してオーディションを受けられずに、絶望した時にこの場所へとやってきた。自分の命を捧げる場所はここが一番ふさわしい気がしたのだ。オペラ歌手に憧れた男は、オペラ座で死ぬ。落ちぶれて誰も近寄らぬこんな薄暗い部屋で息絶えるのがふさわしい。
意識を失う間際に重い扉が開く音がした。ずりずりと引きずるような足音。それはジョシュアの目の前で止まる。最後の力を振り絞って見上げると真っ黒のドレスを着た死神がそこに立っていた。美しい灰色の右目がジョシュアを見下ろす。そして左目の周りには不気味で醜い痣。まさに死神にふさわしい容姿だった。
死神はジョシュアの体を懸命に持ち上げ、引きずり始める。地獄へ連れて行ってくれるのだろうか?
そう思いながらジョシュアは意識を手放した。
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ジョシュアが目を覚ますと、そこは地獄ではなく館の居間だった。ソファに寝かされ毛布がかけられている。ずきりと痛む左手には不器用にも包帯がまかれていた。
「起きたみたいだね」
ハシムが変わらぬ無邪気な微笑みを浮かべ、チェストの上に行儀悪く座っていた。笑いながら困ったような表情をするというのは実に器用だ。
「なぜ……ここに……」
ジョシュアの声はしわがれた老人のような醜く恐ろしい物だった。自分の声だと言うのに嫌悪感しかわいてこない。
「ラウムが連れ帰ってきた。僕は止めたんだけどね。どうしてもって飛び出して行っちゃった。こんな事珍しいんだよ。よほど君の事気にいってたんだね」
見回すが部屋の中にはラウムはいない。ここにいない存在に向かって毒づく。
「余計な事を……」
「まあ自殺する人間を止めるなんて馬鹿馬鹿しいと思うけどさ、でもだからってせっかく救われた命無駄にしないでね。ラウムの苦労が無駄になる」
ハシムは無邪気な子供の顔をしながら辛辣な言葉を口にした。それがジョシュアの癇に障った。
「誰も助けてくれなんて言ってない」
「うん。そうだね。君を助けたのはラウムの勝手だよ。でもラウムは命がけで君を助けた。その気持ちだけは忘れないでほしいな」
「命がけ?」
とたんにジョシュアはこの場にラウムがいない事に不安になった。自殺しようとした人間を放置してどこに行ったというのだろう。
「ラウムは今休んでいる。彼女はね不治の病に冒されているんだ。この時間の止まった『館』の中なら病状が止まるけど、外の世界に出ると生きて行けないんだ。君を助けに外に出て具合を悪くしてしまったんだ」
「どうして……そこまでして……」
「さあね。案外人目惚れだったりして」
ちゃかすハシムを無視してソファに座り直す。不器用に巻かれた包帯はきっと彼女の精一杯の誠意の証だ。もうこの世に味方は誰もいないと思っていた。それでも引き止めてくれる存在がまだいたのだという事に、ジョシュアは救われる思いがした。
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『館』の奥にその不思議な部屋があった。図書館のように多くの棚が並んでいる。その棚には無数の鍵がかけられていた。その中からラウムは一本の鍵を手に持って部屋の奥へと進む。鍵の軸には『ジョシュア』と掘られていた。
部屋の中央には不自然に扉の形をした板が立っていた。ラウムは躊躇う事なくその扉に鍵を差し込みノブを回す。
扉の向こうは麦畑が広がっていた。扉をくぐり抜けるとラウムの姿は幽霊のようにおぼろげに変わった。
風邪が吹き麦穂が揺れる。風とともに少年特有の透き通った高音の声が聞こえてくる。くすんだ金色の髪の少年は目を閉じて懸命に歌を歌う。その目の前には一人の少女が座って歌を楽しんでいた。歌い終え余韻が消えた後、少女は立ち上がって少年に飛びついた。
「すごい! すごい! ジョシュアならきっと国一番の歌手になれるわ」
子供だからこその純粋で無邪気な言葉。ジョシュアもその少女の歓声に満足していた。
「メイフィア。じゃあ僕が国一番の歌手になったら、メイフィアを特等席に招待するよ。一番いい席でメイフィアのために歌う」
「素敵! 待ってる。いつまででもその時を待ってるから」
純粋無垢故に愛おしく、悲しすぎる現実。ジョシュアは二度とメイフィアの事を思い出さない。
ラウムの頬に涙が一筋流れる。この無邪気な少年と少女の約束が果たされない事を知っている。自分が余計な事をしてしまったばかりに二人の幸せを壊してしまった……そう思うと胸が痛む。
ラウムはジョシュアが『館』に訪れる前から、ずっと彼の事を見ていた。『館』の窓の外の景色を眺めて、ジョシュアの苦労を、メイフィアの献身を、二人の愛情を。幸せになってほしかった。
自殺しようとした彼を助けたのは罪悪感を紛らわせるための、自己満足にすぎない。
また少年の声が風に乗って麦穂の上をとおりすぎて行く。少女は大人しく耳を傾ける。ラウムはそれ以上見ていられずに去って行った。
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ラウムが紅茶に口を付ける。ジョシュアはじっと手元を眺めたまま無言でソファに腰掛ける。重苦しい空気が続いていた。ハシムもさすがに冗談を言えるような空気ではなかった。逃げ出したい気持ちがありつつも、それを押さえて二人の様子を見守る。
最初に口を開いたのはラウムだった。
「それでこれからどうするのかしら?」
ラウムの問いにぴくりと身をふるわせてジョシュアは左手をみた。もはや包帯もとれ、傷口はほとんど塞がっていた。
「もう死ぬつもりはない」
ジョシュアのその言葉にラウムはほっと胸を撫で下ろす。しかしジョシュアが続けた言葉にまたぴりりと緊張する。
「だけど生きる目標も今はない」
ジョシュアの目にはいまだ覇気がなかった。せっかく命を助けても生ける屍となっては何の意味があるだろう。
「ではどうするの?」
「しばらくここにいてもいいだろうか?」
ジョシュアの意外な提案にラウムは息を飲む。じっとジョシュアを見つめるが、その瞳はあくまで純粋だった。
「俺がいたあの時代、あの場所にもはや居場所も未練もない。貴方が拾った命なら、貴方のために使おう。そしてここで過ごしながら生きる意味を探したい」
生きる気力を失った物とは思えない、はっきりとした言葉にラウムは心を動かされた。初めてこの場所であった時、躊躇いなく過去に戻る事を選んだ潔さ。過去を失っても自分は変わらないと言い切った強さ。今もそこに心地よさを感じる。
何より長い時、この『館』から出る事のかなわない籠の鳥である自分の側に、新たな友がいてくれる。その事が嬉しかった。
「いいでしょう。好きなだけここにいて」
ジョシュアはそこで初めて薄く微笑んだ。初めて見せた本物の笑顔はまだぎこちなかったが、それでもラウムは嬉しかった。彼から奪ってしまった物の代わりを与えられるかもしれない。
「紅茶が冷めてしまった。淹れ直してきましょう。居候の身分なら、何か仕事をさせてほしい」
ジョシュアはハシムにキッチンの場所を聞きながら部屋を出て行く。ハシムは悪戯っぽく微笑みながらラウムに言った。
「よかったじゃん。命をかけたかいがあったね。ジョシュア男前だし」
「別にそういうわけじゃ……」
「いいのいいの。もう数十年、いや100年以上続いているかもしれないこの場所に飽き飽きしていた所じゃない? ラウムも僕だけじゃ退屈でしょ」
ジョシュアはやがて生きる目標を見つけてここから旅立つかもしれない。それでもほんの一時でいい、側にいてくれる。ジョシュアの選択がラウムの気持ちを喜ばせたのは事実だ。
「そうね……当分退屈しなさそう」
時のない『館』にも新しい風が吹く。また願いを持った客が訪れるだろう。ラウムはそれをじっと待ち続ける。ハシムとジョシュアとともに。




