0*.超越シタ惡サエモ引鉄デ在ル。
能く云うだろう。
世間の答えは其の時代にとっての一番可能性が高い仮説に過ぎないのだと。
ならば、真実の掌握は次世代に委ねようではないか。
其れまでの引き継ぎには精を出さねばならぬのだが。仮に精を出したとしても、無事に着床する保証は何処にも無かろう。
「そんな事を口走っていたら、此れまでの議論が崩れ落ちてしまうぞ。牛乳の主成分はカゼインなのだろうが、そんな事を知らなくても牛乳は白い。視覚で分かる。他に白い物と云えば、紙があるが、古紙を再生して作る再生紙だ。晒パルプと古紙が原料と耳にした事もあるが、此れも白い。此の両成分は異なるのに、其の色合いは同色ではないか。真処、紙にカゼインが含まれて居るから白いのだとは誰も云うまい。ならば、他に共通している事は何であろうか――其れが視覚だ。可視光線の色は七色に分けられるが、逆に分けなければ、白……否、透明……否、視えないと云うべきか。此れは逆接的だが、七色が混合しているから視えないのであれば、現に白く視えているのは白く視える波長が反射されていると考える他無いだろうね。詰まりは七色未満の色が混合しているので、視覚的に白く為ると見做すのが尤もらしい説明ではないだろうか……否、紛らわしくて済まないね。物質に依って反射される波長の違いを色として知覚出来るのだが、博巳君の云い分だと、成分に拘らず光の反射が重要だと誤解され兼ねない。残念乍ら堂々巡りに陥ってしまうよ――覗き込むと分からなくなるので、全体像を把握するには俯瞰して視なければならない。勿論、其の二つの視点で常に物を視る事は難しい。だから、個々の事例を観察するだけで満足してはいけない。其れらの関連を見出す事こそが真理を手繰り寄せる方法だ」
博巳は腕を組んで仰け反った。
鼻息を荒くし、無い知恵を絞っているのだ。
「はあ、成分と光の波長で考えると、思考レヴェルが一気に上がりますね」
圓生が身を乗り出した。
「具体的に考えて視れば、能く分かるだろうね。先ずは可視光線を簡単に云うと?」
「太陽ノ光デスネ」
「では、太陽の光は何色だろうか?」
「七色でしょ。さっき自分で言ってたし」
「では、七色と云えば?」
「虹ですかね」
博巳が恍けた様に加えた。
「まあ、そんな処だろう。では、此の七色を云える人は居るかい?」
圓生は子供三人に問い掛けた。
「赤青黄色」
上の空だった都波が先行する。
意外であった。先程まで外方を向いて居たのに。
「正解、残り四色――凉、分かるかい?」
凉は頚を傾げた。
「緑、とか?」
「正解、残り三色」
「紫!」
閖が自信満々に続けた。
「正解だね。残り二色だけれど?」
子供三人は互いに目配せして、頭を横に振った。
背凭れに深く沈んだ圓生は大人二人に主導権を丸投げした。
「あの、圓生さん……話が逸れている気が」
「私ガ思ウニ、圓生サンハ七色ノ内デ何色ノ配色ガ白色ニ為ルノカヲ導キ出ソウトシテイルノデハナイデショウカ」
圓生は瞼を閉じて黙り込んで居る。
神父が穏やかに核心を突いた。
「白ノ配色ハRGBデ回答出来ルデショウ」
「あーるじーびー?」
「英語デ綴ル三原色ノ頭文字デス。Red、Green、Blueデス。此ノ三原色ヲ等量デ配色シタ場合ニ白色ニ為リマス。ト云ウ事ハ、牛乳ハ三原色ヲ反射スル成分ヲ含ンデイルト考エル事ガ出来マス」
「矢っ張り此の段階になると、直線的な知識じゃ太刀打ち出来やしませんねえ。私の様な付焼刃じゃあ、全く役に立ちゃしません。嗚呼、何て云えば良いんでしょうかねえ……忸怩たる思いとでも表現すれば良いんですかねえ」
博巳が渋い表情をして頭を掻いた。
圓生の肩を揺さ振り、援助を求める。
「圓生さん、圓生さんってば……起きて下さいよ」
「誰も寝ちゃ居ない」
圓生は片目を開け、眉を吊り上げた。
「忸怩とは大層な心境ではないか。如何にも官僚が云いそうな言葉だね」
「腰の重たい方々ですよねえ」
「全クデス」
圓生が深く深く溜息を吐いた。
「博巳君が落ち込む必要は無いんだ。実験的であり現実的でもある試みだと思うよ。実際に店舗に並ぶ牛乳を把握し、企業に電話し確認を取る姿勢は事実を重んじる記者其の物だろう。余りにも精力的過ぎて、此の老人には真似出来ない位だ」
「そう云って頂けると、助かります」
「どうせ、君の事だ。未だ続きがあるのだろう? そうだとすれば、最後まで貫き通し給え……中途半端では許さないぞ」
「荷が重いですが、何とか頑張ります」
瓶ビールをグラスに注ぎ、グイと飲み下した。
「此処からは負の問題に就いて考えたいと思います。牛乳を工業的に搾る余り、弊害を生じさせてしまった訳ですが……ええ、先程も触れた様にですね、直線的な視点だけでは如何にも上手く理解出来ないんです」
都波が飛び上がり、ソファから立った。
全視線が一点に集束した。
天井を見上げる。
「一抜けた。凉ちゃん、オセロしようよ!」
凉の手を奪い、梃で腰を浮かせた。其の手を握った儘、連れて行ってしまった。
凉は後ろ髪を引かれる様子で在った。
都波に注がれた視線は今や閖に集中して居た。
閖は掌を天に向け、肩を竦めた。
「閖ちゃんは?」
「私はこの授業を受けるよ。続けて」
「良いね、素晴らしい知識欲だ! 流石、蛇草閖! 未来は明るいだろう」
圓生が大袈裟に拍手し喝采した。
「馬鹿にされた!」
「酔っ払いは無視して、先に進みましょうか」
「ソウシマショウ」
「さっき直接的には語れないと断りましたが、此の問題は牛乳を飲まなければ良い消費者の姿勢では解決出来ません。乳牛を工業製品として扱った人類への罰な訳です。其の罪が再利用です」
「確カニ、企業ハ無駄ヲ嫌イ効率化ヲ求メマスガ……」
「再利用……売れ残りとか?」
「鋭いねえ」
博巳が嬉々として綻びた。
瓶ビールに思わず手が伸びる。
「納得出来マセン。牛乳ハ生鮮食品デス。賞味期限ガ過ギレバ処分シテ当然ノハズ」
「消費者ならそう思いますが、企業は全てを公にして呉れませんよ。知られたくない情報は企業秘密ではぐらかす訳です、其の企業とって好ましい情報や好ましくない情報までもが企業秘密の範囲なんです。私達は店舗に並んだパック詰めの完了した牛乳しか知りません。工場見学も出来なくは無いのですが、問題無い処しか公開されませんし、案内する人は企業にとって良い処しか説明しません。悪口なんて聞き出せませんよ」
「デハ、工場見学ニ意義ハ無イト?」
「意義ですか……何と云えば良いんですかねえ、勿論意義は無い訳じゃありませんよ。自分の眼で視る、此れは大切な事だけれど、善い処と悪い処の両端は視られない訳です。アンフェアですよね。其処が頂けない」
「何か見せられない理由でもあるの?」
閖が促した。
「警察の様な質問だけれど、其れはズバリ消費者軽視です!」
「其レ以外ニハアリマセンネ」
「消費者は黙って消費して居ろ! そう云っている訳ですよ。酷い話です。若しかすると閖ちゃんには分からない事かも知れないけど、何かを欲しいと親に強請らせる事が企業の狙いでもあるんだよ。儲けたい企業の策略に取り込まれちゃってるね」
閖は前髪を掻き上げた。
「ふ~ん、残念だけど私にはそんなことないかな。今のところだけど」
「何時まで背伸びする心算だ! 子供は所詮子供に過ぎない」
圓生が声を上げた。呂律は回らない。
背に凭れ、一見寝て居る様だ。本当に寝言だろうか。
「……もう一つ再利用の罪があるんです。分かりますか?」
「牛乳瓶?」
「外れ」
「牛乳パック?」
「其れも外れです。もっと牛全体の事を考えて視て下さい」
「……嗚呼、私ハ分カリマシタ! 閖サンハ如何デスカ?」
閖は観念した表情を作った。
「手掛カリハ再利用デス。ソシテ、病気デ死ンダラ普通ハ何ヲシマスカ?」
「何って普通埋め――あっ! 再利用、まさか、でも……死体の?」
膝に肘を乗せ弛緩した博巳と神父は同時に溜息を吐いた。
「えっ、違う!?」
「正解デスヨ……」
「死体の再利用って……でも、どうして?」
「さっきも云ったけれど、企業は効率良く事業を進めたいんだ。本当に其れだけ」
閖の表情が引き攣った。
「でも、だって……共喰いなのに?」
「其れでも、なんだ……」
閖の呼吸は荒く、肩を上下し始めた。息苦しく為ったのだ。
唾を飲み込んだ。
「信じられないだろうけれど、其れがもう一つの罪で紛れもない事実な訳です……其の結果がご存知の通り、狂牛病の発症です」
「狂牛病……」
閖は虚ろに復唱した。
「閖ちゃん、狂牛病は何時の病気だと思う?」
「テレビで聞かないから、昔の病気だと思うけど」
「昔トハ具体的ニ何年位前ノ事デスカ?」
閖は云い淀んだ。
「じゃあ、狂牛病はどんな病気だと思う?」
「狂犬病の牛版みたいな……」
「デハ、狂犬病トハ何デショウ?」
質問攻めである。
知らぬ事は答えられぬ。
閖も例に則して居る。
「狂犬病は犬の伝染病で、病原体のウィルスが中枢神経を侵す。感染すると最終的には全身麻痺で死ぬ。家畜や人間にまでも伝染し、水を飲むと痙攣する事から恐水病とも云うんだ。伝染経路は咬傷だから、口腔内か唾液中にウィルスが潜んで居ると判断出来る。咬まれなければ隣に居ても伝染しないだろうが――」
笑い乍ら続けた。
「――其の狂暴性から咬まれないはずが無い訳だね」
広辞苑第五版(岩波書店、二〇〇六年)の定義を基に、冗談を交えて述べた。
「狂犬病の治療法は……」
溢れた唾を飲み下し、返事を待つ。
博巳が閖と神父の視線を捉えた。
「予防は出来ても、発症すれば治療法が無いんです」
眉を上げ、眉間に皺が寄る。
一瞬に緊張した面持ちへと変化した。
「一文字違うだけですが、狂犬病と狂牛病は全くの別物! 此の狂牛病は二十世紀後半に突如出現した奇病でした。閖ちゃんは昔の病気だと云ったけれど、実は極最近の事なんです。テレビで聞かないからとの意見は御尤もで、マス・メディアは視聴率や注目度だけで動くのが特徴だから、或る企業や或る個人を引き摺り出しては煽惑的に不安を膨らませる訳です。其の瞬間を非常に重要視しているもんだから、続報など殆どありませんよ。一度報道したのであれば、責任を取って最後まで報道し続けるのが誠意ってもんですね」
神父は腕を組んで頷いた。
「確カニ新聞ヤ報道番組デ取リ上ゲラレル事案ノ多クニ、結局如何ナッタノカト云ウ疑問ガ湧キ上ガリマス。例エバ、裁判ナドノ報道ハ時間ヲ要スル為ニ注目度ガ下ガッテ報道自体サレナクナリマス。度々、原因不明デ御座ナリヲ書キ散ラシタ記事ヲ眼ニスル事モアル程デス」
「そこまで悪者にしなくても良いと思うけど……」
「否ね、報道の筋の通らなさを不快に思ったから、私は悪だと云ったんだよ」
「彼ラハ低俗サノ反面、権力ニ対スル反抗的ナ強サヲ兼ネ備エテイマス。其ノ強力サモ悪ニ為リ得ルノデス」
「おお! 神父様、其の切り口は面白いですね」
其の口調は妙に軽快であった。
瓶ビールを何本も空けているのだ。
流石に酔いが回って来たのだろう。
傍ら、圓生は軽く鼾を掻いて居た。
「何カヲ使ウニシテモ、其ノ使イ方次第デ善クモ為リ悪クモ為リマス。包丁ヲ握ルニシテモ、料理ニ使エバ幸福ニ為リマス。然シ一度其ノ包丁デ誰カヲ刺殺シテシマエバ、不幸ニ為ルノガ常デス。此ノ思考ハ色々ナ事柄ニ適用出来ルト思イマスヨ」
「誰もが善悪を持っているってことね」
閖は視界を細めた。
何かが引っ掛かった。
脳裏に千代の言葉が過り、先日の学校での騒動を思い出した。彼の問題は誰もが行動しなかったからこそ、生まれた悪であった。既にやり直す事は叶わぬ。彼の時に動いて居たならば……などと嘆く事さえ愚かしい。此の経験は其の時と云う現在がどれ程掛替えのないモノかを物語る。渦中に巻き込まれると、途端に冷静な判断を下せ無く為り、動けなくなる実例ではないか。肝に銘じたい。
「而シテ悪トハ罪デモアリマス。其ノ報イハ受ケナケレバナリマセン。然シ犯罪ヲ犯シタノデハアリマセンカラ、警察トハ無関係デス。報イトハ一体何デショウカ。一ツニ肉体的ナ報イガ体罰、一ツニ精神的ナ報イガ禁欲デス」
「と云う事は、狂牛病を生み出した人類の報いは禁欲だったんですね。食肉文化圏の人々は自らの文化を禁じざるを得なかった訳ですから」
「其ノ様デシタネ」
「狂牛病はどんな病気?」
「嗚呼、未だ説明して無かったね。此処で散々力説した牛乳の殺菌方法を思い出して欲しいんだけど、パスチャライゼーションは覚えているかな?」
「覚えてる――低温殺菌法、六三℃三〇分間」
「正解! 其の開発者の一人がフランス化学者で細菌学者のルイ・パスツールと云う人物。説明が前後して申し訳ないが、文字通り彼の名前に由来していて、先に説明した狂犬病のワクチンは彼が開発したんです。偉業ですよ」
「繋ガッテイルノデスネ」
「ええ、其の通りです。彼が亡くなった一八九五年から九〇年後の一九八五年に、悲惨にもイギリスで狂牛病が発生しました。否、起こるべくして起こったとでも云い変えましょうか……国が認めたのは翌年の事です。其の症状は攻撃性の増加や起立不可能に至ります。其れらの異常行動は春先のミネラル不足やホルモンのアンバランスが原因になる事が多いんだそうです。初めての症状で診断書を書いたにも拘らず、机の引き出しに眠った儘忘れ去られていたんです。其の間にもイギリス各所で同時発生していて、伝染病じゃないかと疑問は拡大傾向との差異で否定されました」
「狂犬病は咬まれて広がるなら、狂牛病はどうやって広がったの?」
「其の答えの前に、閖ちゃんは感染症だとか伝染病が何なのか分かるかな?」
質問返しであった。
進展の遅さにむっとし乍らも、閖は伝染する病気だと渋々云った。
「文字通り伝染すれば感染する。此の流れに問題は全く無いんだけれど、病原体が体内に侵入し、病気を発症させるから問題な訳です。で、病原体は細菌、ウイルス、そして寄生生物の三つから考えらて、細菌は一〇〇〇分の数mmの原核生物、原核生物は真核生物と違って核が有りません。核は無いけど染色体がある単細胞微生物です」
「The kingdom of monerans」
「モネラン? 嗚呼、五界説のモネラ界ですかね。原核生物は光学顕微鏡で観察でき、其の性質にも特徴があります。偏性好気性、嫌気性、そして通性好気性です。空気が無ければ生きられないとか、空気を嫌うだとか、無くても生きられるだとか。其れって呼吸するって事ですよね。矢張り生物な訳ですよ。そして環境に依って、分裂し増殖します――次にウイルスは一〇億分の数mmの大きさで、特徴的なのは此の小ささからも分かる様に生物ではなく、粒子だと云う事です」
「粒子デスカラ、自ラ分裂シ増殖スル事ハ無イノデスネ」
「ええ、自ら増殖する機能は無く、細胞に感染してから、宿主の細胞にウイルス蛋白質を作って貰ったり、ウイルスゲノムを複製して貰ったりする訳です」
「光学顕微鏡で見える?」
「其れが細菌とウイルスの大きな違いで、電子顕微鏡だと視える――最後に、寄生生物は進化の都合上宿主から離れる事なく、共生関係にあります」
「質問」
閖が軽く挙手し、流れを遮った。
「はい、何でしょう?」
「もっと具体的になんないの?」
「具体的?」
博巳には閖の意図が通じていない様だ。
其の表情に閖は不満を募らせた。
「例えばどの細菌が何の病気なのかとか、表面的な説明だけじゃ分かんない」
「よし。だったら種類は二つで、病名は病原体の名前を借りるのが殆どなんです。先ず再興感染症――細菌病にコレラ菌とジフテリア菌。ウイルス病にデングウイルスや黄熱ウイルスがあります。そして新興感染症――細菌病にレジオネラ・ニューモフィリア、大腸菌O157、ボレリア・ブルグドルフェリ、そしてコレラ菌O139。ウイルス病にエボラウイルス、ヒト免疫不全ウイルス、C型肝炎ウイルス、A型インフルエンザウイルスとある訳ですけど、再興感染症に関しては、治まっていたデング熱は媒介蚊の増加で勃発しましたし、ジフテリアや黄熱はワクチンの接種が疎かになった事が原因ですね。何れも主に公衆衛生の崩壊が原因なんですよ」
「新興感染症ハ如何デスカ?」
「技術の発展です。さっきも触れましたが、例えば光学顕微鏡では細菌が視えて、電子顕微鏡が開発されてから漸くウイルスが発見されたんです。例えばテレビにしても、白黒からカラーになって、デジタルに移行したかと思うと4Kとか8Kかと出て来て、映像が綺麗に視える様になりました。技術的進歩は大いに結構なんですけど、逆に視え過ぎるからこそ苦しむ事もあるんですよ。例えば出生前検査がそうじゃないですかねえ。産む前から障害がある事を知らされ、新たな命を喜べない。寧ろ、何て事を明かしてくれたんだと、技術の進歩に疑問を感じざるを得ない……最悪ですよ……で、新たな次元を迎えるには段階的に覗き込む必要がある訳です。其の結果、病原体は種の壁を超越したんです」
其の瞬間、閖は身に覚えの無い恐怖を感じた。
人間は種の壁を越えた其の先の光景を知らない。
自然や動物を踏み躙り、挙句の果てには同類で殺し合う。
人間の振舞いは恰も複雑な要因が絡み合う様だが、呆れる程に単純だ。
驚く程に愚かで、何も分かっていない。
何かを理解するには言葉を必要とする。其れが人類の限界だ。
「諄イカモ知レマセンガ、狂犬病ノ感染経路ガ咬傷ト云ウ事ハ接触感染デ良イデスカ?」
「専門家じゃありませんから断定出来ませんが、咬むなら接触感染ですかねえ。因みにコレラ菌や大腸菌O157は経口感染で、ジフテリア菌やA型インフルエンザウイルスは飛沫感染。デングウイルスや黄熱ウイルス、ボレリア・ブルグドルフェリなら媒介感染で、ヒト免疫不全ウイルスやC型肝炎ウイルスは血液感染。エボラウイルスは経口感染または血液感染。最後に、レジオネラ・ニューモフィリアは空気感染のはずです」
「マルデ呪文ノ様デス」
別に覚えなくても結構ですよと博巳は云った。
「此れ以降は触れる機会が無いと思いますけど、黄色ブドウ球菌と云う細菌は接触感染ですが、耐熱性の高い毒素エンテロトキシンを発生させるので、超高温滅菌で黄色ブドウ球菌自体は死滅したものの、食中毒が起こってしまった訳です」
「嗚呼、其レガ雪印乳業食中毒事件ノ……」
「ええ、加熱神話は見事に崩れましたが、企業の体制が」
「依然ト変化無イノハ如何シテナノカト、何ヲ反省シタノカト云イタイノデスネ?」
神父は冷静な口調で、博巳の瞳を覗き込んだ。
「否あ、視え視えですかあ」
博巳は頭を掻いた。
「分かった! 手洗いうがいに五月蠅いのって接触感染と飛沫感染が防げるからだ」
「確リトヤッテイマスカ?」
「よ、余裕よ……」
閖は口籠った。
「で! 結局私の質問に答えてもらってないんだけど?」
「狂牛病の感染経路だったねえ」
「遠回りだったんじゃないの?」
博巳が頬を掻いた。
「其れは閖ちゃんの考え方次第だと思うけど、全ては知識な訳だ! 私の話を斯うして聴いて呉れているのも知的好奇心の表れじゃないか。全て吸収すれば良い!」
指を鳴らし、人差し指で閖を指した。
閖は二つ返事をした。
「狂牛病とは俗称で、牛海綿状脳症が正式名称です。英語で」
「Bovine spongiform encephalopathyト云イマス。省略スルト」
閖を促した。
「BSEか……」
「其ノ通リデス」
博巳は掌を打った。
「さあさあ、狂牛病を覗き込んでみようじゃありませんか。原因は餌です!」
「餌ってことは経口感染か……それが答えね」
「牛の餌って何だろうね?」
博巳は態とらしく恍けた。
「牛が食むのは草でしょ」
「じゃあ、ホルスタインの餌は?」
「どうして聞き直すのか分かんない」
「そんなに答えが欲しいのなら、一つの事実を挙げよう」
博巳は机にある三枚の画用紙から一枚を抓み上げた。
顔の横に掲げ、其の絵をぐいと示した。
「狂牛病が罹るのは閖ちゃんが絵に描いた和牛みたいな肉牛じゃなくて乳牛な訳だけど、此の事実を如何思う?」
「どう思うって云われたって……」
「質問を変えて、例えばスポーツ選手がドーピングに頼るのは如何してでしょうか?」
「ええっと……運動能力を高めて」
「そして?」
「良いパフォーマンスをするため」
拳を握った。
良い流れなのだろう。
「じゃあ、ホルスタインで考えてみようか。餌をプロテインだとして」
「分かんない」
博巳は肩をがくりと沈ませた。
閖が唸った。
浅い知恵を絞っているのだ。
「良し、更に一つの事実を挙げようじゃないか。ホルスタインが其の搾乳量を増加させられた二つの要因は品種改良と――」
博巳は閖に視線で問い掛けた。
「――餌?」
「搾乳量の増加がパフォーマンスなら、プロテインの餌は」
「……蛋白質」
軽く筋を伸ばした博巳が深呼吸した。
「そう、其れが亦一つの事実。牛用プロテインが肉骨粉だった訳です。英語で」
「Meat and bone meal, MBMデス」
閖は深々と背に凭れた。
「BSEにMBMね……暗記試験かよ」
「否あ、閖ちゃんの云う通りだと思うよ。実際に忘れてしまったら、過去の過ちを繰り返しちゃう破目になるからねえ。其れに圓生さんも云ってたじゃないか」
隣で寝て居る圓生をチラリと流し視た。
「真理は負の記憶から導き出した方向感覚だと!」
「それ、鶴見俊輔の言葉だから!」
背凭れから跳ね上がり、グラスにジュースを満たした閖は喉を潤した。
「ホルスタインは草を食まない。肉骨粉を食んでいたんだ、禁止されるまではね。現代の彼女達は種の根底から蹂躙され、共喰いの果てに死んで逝った……其れを強要したのは全て人間の仕業な訳です! 私はずっと考えていたんですよ、或る種の出来上がった体制が悪に為り得るのだと……すっと考えていたんです。今もですよ」
「如何云ウ事デショウカ?」
「物流と云う流れや通報と云う救いの手を断ち切る事は出来ないんです。無意識に伸ばす手を引込められないのと同様ですよ。善かれど悪しかれど兎にも角にも、製品が出来れば店頭に並べ販売し、通報が有れば現場に急行し、事実確認の末、其の場に則した対応を取るならば、絞った生乳は回収車に運ばれ、決まったルートを辿り、恒例の処理を施されると、パックに詰められ、牛乳として出荷される。当たり前ですよね?」
「ソウネスネエ……」
「何が云いたいの?」
「詰まりは流れが出来れば、各自其の担当が業務になって、給料が発生するから、生活の為には一度出来上がった其の流れを簡単に変える事が出来ない――否、させないんです。一度流れに乗れば、後は単調な作業の繰り返しで、考えなくても給料が貰える訳です。ですから、其の出来上がった流れが悪だと云ってるんです!」
顔を見合わせた閖と神父は口を噤んでしまった。
「如何して分かって呉れないんですか!?」
「具体的じゃないからよ」
「じゃあ、具体的にすると……例えば、詐欺被害を立証出来ない人が其の資金で悠々自適な生活を送る悪から見事に取り返したけれど、窃盗罪で警察に逮捕されてしまった場合ですが……一体誰が悪でしょうか?」
「取り返したけど、捕まった人じゃないの? 窃盗罪なんだから」
「其の答えこそが此の世は間違っている証拠なんです。此の場合の悪は警察な訳です!」
「け、警察が悪だったら治安は無いも同じでしょ」
「私ハ博巳サンノ考エガ理解出来ナイノデハアリマセン」
「嘘でしょ!?」
閖の口は開きっぱなしであった。
少しずつグラスのジュースを飲み込んで行く。
「抑々、警察ノ出ル幕デハナイト考エマス。逮捕サレタ人ハ取リ返シタダケナノデスカラ、此レデ平等ニナリマシタ。窃盗罪ダトシテモ、此ノ場合ニ関シテハ再犯性ハ認メラレナイデショウ。刑務所ハ焼却所デハアリマセンノデ、逮捕サレタトシテモ死刑ニデモ為ラナイ限リハ結局ノ処、釈放サレルノデスカラ、悔イ改メタ証拠ハ何処ニモアリマセン。デスノデ、警察ハ犯罪ガ有ルノデ犯人ガ存在スルウ云ウ思考ハ捨テ去ルベキデアリ、新タニ個々ノ出来事ガ犯罪ニ関ワッテイルノカ否カヲ判断スル必要ガアリマス。犯罪性デハナク、再犯性ヲ念頭ニ置クノガ賢イノデハナイデショウカ。罪ヲ犯シタノデ逮捕デハ能無シデス。博巳サンガ指摘シマシタ体制ニ沿ウ悪ハ先ノ詐欺被害ヲ見逃シタ警察ナノデス」
「そう云われれば、そんな気もしてくる様な……」
閖は考えに揺れていた。
優柔不断なのは未だ道徳観や価値観、判断基準が確立されていないからだ。
此の年齢に速断を求める事は酷である。
「その前に、話それてるから」
「如何ヤラ、進行役ハ閖サンノ様デスヨ?」
「ええ、全くです!」
筋が違えば、立たせなければ為らない。
何を話していたのかと博巳が問い掛けると、
MBMだと閖が云った。
「人が人を食べるのは共喰い。牛が牛を食べるのも共喰い。草食動物が肉食を飛び越えて共喰いしたのは人のせい……牛は一体何を食べているの?」
「閖ちゃんは料理出来る?」
「未だできないけど……何?」
「例えばハンバーグに何を練り込んだかは調理した人しか分からないね?」
「そうね」
「其れが人のミンチだとしても」
「有り得ないし」
閖は鼻で笑った。
「私達は出された料理を黙って噛み砕いて飲み込むしか無い訳です。ハンバーグだと云われる前に、其の形状と色合いで食べる側が勝手に見做しているのが現状なんです。こう云う物だと云う印象が脳裏にあって、一寸でも類似点があれば何となく疑わない。まあ、此れが悪なんですが、外食だったらメニューから選んで頼むから、届いた料理を態々説明して貰ったりはしない。詰まりは料理する人以外は全て牛と全く同類な訳ですが、牛の飼料は草系の粗飼料と穀物系の濃厚飼料があります」
「前置きが長すぎると思うんだけど……」
「否、重要な事じゃないか。食べている物を知らない点では牛と一緒なんだよ!? 其の判断が牛に出来れば、共喰いを拒み、狂牛病なんて起きなかった」
博巳は前のめりに熱く語る。
「然れどMBM自体や其れを食んだ牛が悪いとは云い難い。MBMを与えたのは人間だし、MBMを製造したのも人間なんですから。じゃあ、如何してMBMが出来上がったのかと云うと、結局ねえ……死骸の処理なんですよ。人間は賢くなんか無いよねえ。全くの逆! 馬鹿、馬鹿なんですよ! 馬鹿だから間違わないと分からないし、実験しなくちゃいけない。じゃあ、其の為に数多の命が散るのは必要悪なのかと云えば、話は別な訳で……」
「牛が草と穀物を食べてるのは分かったけど、さっき人を食べても分からないって云ったじゃない?」
「云ったねえ」
「それは美味いから分からないの? それとも、牛や豚の肉と似た味だから分からないの――どっち?」
眼を細めた博巳は笑った。
「其の質問に答えられたら、私は殺人者か何かじゃないですか。否ですねえ――でも、人の総カロリーは約八万カロリーらしいです」
「何食分?」
「何食分と云うか、持って一ヶ月一寸って処ですか」
「保存食ってことか」
博巳は頭を振った。
前に出した両手で何かを遠ざける。
「勘違いしちゃ駄目だよ。其れは共喰いだからね。しちゃいけない事だ」
「知ってるし! だから牛は狂っちゃったんだし」
「そうだね、牛は狂ってしまった……発祥地はイギリス、異変を示した乳牛の脳を覗いて視ると、スポンジ状の孔が見付かりました。まるで或る症状だった」
「何なの?」
「羊のスクレイピー――此の病気は感覚異常や運動障害が生じ、躯を擦り付けて脱毛したり、末期には衰弱して死に至る、一八世紀まで遡る病気です」
「原因は? 狂牛病と同じ経口感染?」
「発症した羊の胎盤で経口感染する可能性を指摘出来たとしても、其れは二次的なものであって、直接的な個発生の原因は解明されてないのが現状です」
狂牛病はスクレイピーが大本だと明かした。
羊のスクレイピーは不治の病である。
「狂牛病も不治の病ってことか……じゃあ、MBMにスクレイピーに罹っていた羊の胎盤が混ざっていたってこと? それが自然だと思うんだけど」
「そうかもね!」
「可能性」
「そう、可能性だと考える事しか出来ない。だからこそ此の病原体は厄介なんだ」
MBMが原因だと判明する前の事、抑々MBMは一九二〇年代から使用してた様だけど、狂牛病は半世紀一寸過ぎてから発症した。其れは何故かと云うと、可能性の一つに石油不足によって製造工程が変わったから。一九七三年一〇月に勃発した第四次中東戦争で石油の生産量は削減され価格が高騰した。幾ら友好国と見做されていたとしても、石油が十分だとは云い難い状況だった。二つ目にMBMを子牛の餌として使用したから。潜伏期間を得て発症してしまったと考えるのが妥当! そしてスクレイピーは風土病の質があって、其の頃のイギリスは飼育頭数が非常に多く、スクレイピーの発症率も高かったと予想ができ、其の分がMBMに大量に混入した可能性は余りにも高い」
閖は飲み干したグラスを乱暴に机に置いた。
グラスの底が踊り、机から落ちそうになった処を慌てて掬い上げた。
「潜伏期間って――大体感染症って直ぐに体調に出るものでしょ? 風邪は一日くらいかもしれないけど、食中毒とかだったら」
博巳と神父は顔を見合わせた。
其の表情は驚愕を表していた。
次第に口角が上がる。
「着眼点が素晴らしい! 其の潜伏期間が長いんだ。二年から八年、一〇年から一五年と云う説もある。此れまでの伝染病と一線を画す訳だ。其の区画にして伝達性海綿状脳症」
「Transmissible spongiform encephalopathies. 略シテTSEデス」
口を開けて呆けている閖に、神父がウィンクした。
「また増えた……TSE、伝達性……海綿状脳症だっけ? これまでの伝染病じゃないんだったら、細菌でもなければウィルスでも寄生生物でも無いってことだけど」
「うん、纏めて呉れて有難う。TSEはプリオン病とも云える」
「プリオン病?」
神父がprotein-aceous infectious particleと云った。
「直訳して蛋白性感染粒子と云う文字通りの感染する粒子。此奴が恐怖の大王の正体だ」
恐怖の大王と云えばノストラダムスの予言ではないか。
一九九九年、空から降って来ると云うものだ。
恐怖と云えども、アンゴルモアを呼び覚ます引き金でしかないのならば、プリオンでさえも何かの引き金でしかないのであろう。
現に種の壁を越え、プリオンは人類に迫っている。
※現在補強中にて未完です。(最終更新:二〇一四年七月二七日付け)
【参考文献】
次の書物を参考にさせて頂きました。
・平澤正夫著『牛乳・狂牛病問題と「雪印事件」 安心して飲める牛乳とは』講談社、二〇〇二年
・ピエール=マリ・ジェド著、桃木暁子訳『プリオン病とは何か』白水社、二〇〇五年
・福岡伸一著『プリオン説はほんとうか? タンパク質病原体説をめぐるミステリー』講談社、二〇〇五年