0*.白黒斑の血を呑む。
すべての水のほとりに種をまき、牛およびろばを自由に放ちおくあなたがたは、さいわいである――旧約聖書『イザヤ書』第三二章。
闇に挑むには光が必要だ。此れから剥ぐモノは常識、想い込み、勘違い、偏見である。眼を逸らす事は許されない。当たり前で済まされたのは過去の話だ、さあ此れから視える景色は何色だろう。
聖劇を終えた後日、閖は子供会のクリスマス会に参加する為に集会所に脚を運んだ。聖劇は難を得る事無く終えた。当日は聖誠院でも教会でミサを執り行っている様だが、神父の教会は其の筋が異なるらしく、クリスマス会の前にミサを行うので、閖は参加する事にした。彼女は何処の教会でと云う拘りを持ち得なかったからだ。
雲行きは怪しく、ニュースで幾ら降らないと云っても亦雪が降るのではないかと思ってしまうのも、身を刺す寒さを否定出来ない。心持ちも怪しく、其の気持ちを引き摺った儘ミサからクリスマス会へと至るのだが、曇り空から計り知れぬ正午には既に彼女の腹の蟲が鳴き叫んで居た。
参加者は閖に神父、凉と圓生、都波と彼女の父親の博巳、その他に連なる。子供会は地域で区切られるので小規模になる反面活動の自由度は高いが、事ある毎に集まらないと其の活動自体が立ち行かなくなってしまう。集会所自体も活用されなくなり、子供達の交流も疎遠、彼らの声は町から消えると云うのが定めだ。
「お疲れ様でした! 乾杯!」
グラスを持ち上げ祝いの音を鳴らすのだ。子供達はジュース、大人達は酒を飲み交わし、数枚のピッツアとプレートで焼かれる肉が食欲を掻き立てた。
「何から食べようかな。もう腹へり」
零れそうになる唾を啜り乍ら、閖が机に広がる食事を覗き込んだ。
小皿と箸を配っていた圓生と凉から、
「閖ちゃん、はいどうぞ」
「ありがとう。ねえ、肉焼いてよ、肉!」
「今焼くから待って居なさい。先ずピッツアを食べたら如何だろう。焼き肉のタレは味が濃い。其の後に食べるピッツアは嘸かし焼き肉のタレ味だろう」
「ぬうう、じゃあピッツアが先……臭い」
閖は背後に何やらぬめりとしたモノを感じた。
髪を振り乱して咄嗟に振り返る。
「あゝ、神父様」
「何ガ美味シイノデスカ?」
「未だ食べてないんだけど」
「ソウデスネ、デハ此ノ良イ匂イガスルノハ如何デショウ?」
「臭いから無理!」
「臭イデスカ。此レニ蜂蜜ヲ」
「かけるの!?」
「掛ケマス。美味クナリマスヨ」
「臭いし、それ本当に美味いの? パンケーキやワッフルにハチミツを付けて食べたことはあるけど、チーズにハチミツとかないわ」
「チーズハ臭イ程美味イト考エマショウ」
「ハチミツ付けたら臭い物にふたして甘さのゴリ押しも良いところ!」
圓生は他の親と肉の当番を代わり、ピッツアを食べに来た。和装ではあるが、此の前の恰好とは正反対に質素感が伝わる。几帳面にも前掛けを頚元に巻いているのが何とも感想を云い難い印象である。
「どれを食べようか――美味いのはどれだい、閖ちゃん?」
「私はご意見番か! このカニが良さそう」
「ほほう、ロブソンさんは蜂蜜掛けがお好きな様ですね」
「凄ク美味イソウデショウ。此レハオ勧メ出来マス。折角、名店主御本人様ガイラッシャイマスノデ、アチラデ律儀ニ酌ヲ注イデ回ッテイルノヲ早々ニ切リ上ゲテ貰イ、此方デピッツアノ解説ヲ乞ウノハ如何デショウ」
「其れは実に良い案です。お呼びしましょう……博巳君、此方に来給え!」
瓶ビールを片手に携えた、人当たりの良い中年だ。おまけに面倒見まで良い。
「お疲れ様です、注ぎますよ」
トトククトクと注ぎ口からグラスを順に満たして行く。
「おっとお、悪いね。濃い物を食べると酒が進む。誰かと飲むのも偶には悪くない。酒屋でボトルキープし乍ら飲むのも良いが……騒いで飲むのもね……私が注ごう」
「ありがとう御座います……嗚呼、結構です」
「其れでは、再び乾杯と行きますか」
「良イデショウ」
乾杯の音頭とグラスのかち合う音が響く。喉を潤して行く。
「博巳君、ピッツアの解説をお願いしても良いかい?」
「では此方から」
「ソウ云エバ、通販ヲ始メラレタソウデスネ」
「おうえ、そうだったのかい? そう云う事は事前に云ってくれないと」
「お蔭様で」
博巳が軽くお辞儀をした。
「知らなかったなあ。調子は如何だい?」
「ボチボチですよ」
「はっきりとしないなあ」
「私ハ好評ダト耳ニシマシタヨ」
「何だ、儲かっているじゃあないか。其のピッツアの解説を宜しく頼むよ」
「ええっと……」
どのピッツアから始めようかと、視線を泳がせる。順に見てみよう。
「此方は御存知の通りマルゲリータで、定番のメニューから――モッツァレラ・ディ・ブファラ、バジリコとトマトのシンプルな具材ですが、其の反面素材は厳選させて頂きましたので、ご満足頂けるかと……冷めてしまわない内に一先ず皆さん、さあさあ」
周りに集まった皆々が手に取ったマルゲリータを味わう。
試食販売でもしている様な雰囲気だ。
「愚直に美味い」
「チーズが滲まずもっちりと原型を保っている」
「生地ノ何処ト無ク抜ケル香リガ……嗚呼中々」
「チーズには詳しくない者で申し訳ないが、モッツァレラ・ディ……」
「ブファラ」
「応、其のモッツァレラ・ディ・ブファラと云うのはモッツァレラと違うのかい? 聞いた試しが無い……否、私が単に無知なだけか」
「否々、そんな事はありませんよ。こう云う事は機会が無いと知り得ない事ですから……簡単に云うと、モッツァレラは二通りありまして……原料に水牛乳を使うのがモッツァレラ・ディ・ブファラで、普通の牛乳ならモッツァレラ・ディ・ヴァッカと呼び分けますね」
「と云うと、ブファラが水牛でヴァッカはその他と云う訳だ、成程ね……水牛は日本に居ないだろう? 幾ら拘ろうにも拘れないな」
「そうですね……ええ、正確には過去形ですが」
「ほほう――居た、と?」
「私も詳しくないのですが、口蹄疫で殺処分を逃れる事は出来ず全頭土に還ったとか……勿論飼養する水牛が居ないとなれば其の牧場は閉鎖せざるを得ませんから……抑々水牛乳でモッツアレラを作りたいと云う動機だった様で、不幸の後では拘りも何もあったもんじゃないですよ」
「そうだなあ」
「残念デスネ」
「おいおい、モッツァレラ・ディ・ブファラを使用しているのならば、此のピッツアは公式に販売しているものと異なるじゃないか? 真逆、態々輸入したとでも云うまい」
「贔屓先で何とか……まあ、集まりなので今回だけの特別です」
「何時モハ自家製デスカ?」
「ええ、一部は」
「水牛に変わる他の牛はホルスタイン種だろう。抑々……」
「……ねえ、三人だけで会話するとか何なの? 周り見なよ」
圓生と博巳は閖の指摘の正しさを認めた。捉えた表情は決して食を楽しんでいるものではなかった。難しい講義を受講する学生其の者ではなかろうか。直接会話に加わっている訳でもないので、聞耳を立てている姿勢が野次馬の印象を払拭させない。
「うう、済みません……閖ちゃん、君は良いタイミングで口を挟んでくれたね。では」
佇まいに配慮した結果、博巳が円卓で食事を摂る事を提案し、手早く配置換えを施した。此れなら互いの顔を視合い乍ら会話出来る構図だ。
「ええ改め況して……何の話でした?」
「モッツアレラを自家製で作るとかでしょ。その話は別に後からにしてよ、逃げないから。良い食材使ったのに、冷ますとかモッタイナイ!」
博巳が沁み沁みと頷いた。
「確かに、御尤も! では、サクッと二枚目と三枚目の解説を加えましょう。もうねえ、食べて貰える事が嬉しくて作ってますから」
「つべこべと!」
「では皆さん、ご清聴下さい――此方の二枚目は所謂海鮮ピッツアです。ズワイ蟹を中心に配置してまして、ブロッコリーの緑がズワイ蟹の此の赤とで見た目を彩っている訳です。マヨネーズの甘さはブラックペッパーで絶妙な調和に仕立て上げます。地元の漁港で上がった物を調理していますので新鮮さは抜群です、どうぞどうぞ!」
一同が手に取り、海鮮ピッツアを頬張る。舌の彩りは如何か。
「んむむ、ズワイ蟹とマヨネーズが美味」
「ブラックペッパーハ味ヲ導ク手綱カ!?」
「美味、次!」
「最後は蜂蜜と絡める贅沢ピッツア――マスカルポーネ、パルミジャーノ・レッジャーノとロックフォール――自慢には程遠いですが、私が拘り抜いて選出したチーズにゴルゴンゾラではなくロックフォールを含んでいるのが味噌だと謳わせて頂きたいんです! 蜂蜜を絡めるピッツアと云えばゴルゴンゾラを採用するのが月並みでしょうが、個人経営の私は一味違いました。世界三大ブルーチーズの一つと云われる程に有名なゴルゴンゾラは原料に牛乳を、ロックフォールは羊乳を採用していると云う初歩的な差異があります。更に青カビの見た目や匂いで云えばロックフォールの方がドギツい! 幾ら窯で焼き溶かしても、青カビが表面に浮き出ているのがお分かりでしょう。そうです、此れは上掛けした証拠ですと私は主張します! 其れ以上に硬派な雰囲気を感じるのは気の所為ではありません。匂いが堪らないのは仕方の無い事です。何故なら皆さんは味わった試しが無いからです。私が本日持て成します! 其の匂いが堪らなく良いに変わる時が何時かは来るはず。食わず嫌いは視野の狭き愚か者! 私は皆さんに本物を知って頂きたい。其の想いの儘に此処まで参りました。蜂蜜を塗ってご賞味あれあれ」
博巳は手に持つビールを一気に飲み干した。叩き付けたグラスが暴れる。
「博巳君、君は未だ未だ頑張れるね。そうだろう?」
「はい、頑張ります! 此れからも、永久に――」
圓生が博巳の肩を叩き励ましている。
「良い話になった!」
「何デショウ、未ダ何モ終ワッテ居ナイト云ウノニ」
「お父さんは一寸変わってるから」
神父が都波に視線を落とした。
「誰モ変ワッテナド居マセンヨ……其レガ個性ト云ウ物デス」
神父は都波の頭を撫でた。
「確カニ人ト違ウ生キ方ハ苦シイ物デス。ダカラト云ッテ、駄目ダト思ッタリ怖ガル必要ハ全クアリマセン。都波サンノオ父サンノ様ナ生キ方ハ寧ロ誇ラシイ物デス、素晴ラシイ事ナノデスヨ。人ト違ウト云ウ事ハ其ノ分ダケ違ウ事ガ出来ルノデスカラ……都波サン、貴女モ人ト違ウ道ヲ歩ム事ガアレバ、如何カ勇気ヲ持ッテ喜ンデ下サイ。此レガ私ノ切ナル願イデス」
「にううん……」
都波は苦笑いで表情が引き攣っていた。上手く笑えていない。
「分カル時ハ必ズ来マス。其ノ時ヲ待チマショウ……サア、冷メテシマウ前ニピッツアヲ食ベマショウ!」
閖が溜息を吐いた。
「溜息デスカ」
「マルゲリータ食べたし、ズワイガニも食べたよ――だけど」
「ダケド?」
「臭い……」
「ロックフォール、デスカ」
「私――食べず嫌いだ、絶望的に」
「閖サンノ好キナ料理ハ」
「蕎麦と」
「渋クテ素敵デス」
「豆乳……」
閖が素っ気なく答えた。
神父は返答に苦悶した。
「ト兎ニ角、私ハロックフォールニ蜂蜜ヲ掛ケテ食ベル事ニシマス。仮ニ食ベナイノナラバ、閖サンノ分ヲ私ニ頂ケマスカ?」
「好きにすれば」
蜜は別添えの容器から専用のスプーンで掬い取る。気泡を含む金色の液体が光を乱反射させ、べた付く甘ったるさを視覚的に訴えた。
口に含んだ者達が順に声を上げ始めた。
「ンホホウ、黄金ノピッツア正ニ食ノ旅!」
「此の独特な匂いとは逆に口当たりが実に円やか。食の悦びが何処にあるのか気付く事が出来ましょう。正に通を分けるに相応しい食材だと云えるのかも知れません」
「美味いとしか云えない表現力の乏しさが憎い!」
一同が拍手で博巳の熱意に応える。博巳は手を挙げた。
神父はパックにピッツアと焼き肉を少しずつ詰めた。其の所作は異様に丁寧であった。落としたら恰も割れてしまうかの様に奥へと運んで行った。場違いな程に厳かで声すらも掛け辛いので見送った。
「オジサン、さっきの続き」
「恰も良し……ありがとう、閖ちゃん……この中で、チーズやヨーグルトの様な乳製品は何で作られているか、知ってる人は居ますかね――はい、誰も手を挙げませんよ。都波?」
「牛乳だよ」
「うん勘違い惜しいね……乳製品の大本は牛乳、定義的に云えば生乳な訳ですが、牛乳って何か分かる人? 誰も手を挙げ」
閖が気怠く指を鳴らした。何処と無く蔑んだ様子である。
「はい、閖ちゃん!」
「牛からしぼった乳だろ、猿でも分かるし!」
「確かに生乳は何時になっても神秘的だろう」
「なっ……にを」
「酒が入ってるからって無理矢理そんな事は云わなくて良いんですよ。恥曝しは圓生さんだと云う訳で、生乳の説明をどうもありがとう」
閖が会話の繋ぎを買って出たにも関わらず、不快感を抱いたのは云うまでも無い。不用意に口を開いてはいけないと云う戒めを以て、以後慎むのであった。
神父は何気無く戻り、会話に加わった。
「牛乳自体ノ区分ハ如何ナッテイルノデスカ?」
「勿論乳製品とは別です、牛乳とすれば無脂乳固形分が八%以上で乳脂肪分は三%以上の成分が規定されて、加熱殺菌も必要ですから」
「成程、前段階ガ生乳ダト」
「最低限はそうですね。市販だと他の処理もしていますが、他に何も混ぜちゃいけません、成分も弄っちゃいけません。生乳一〇〇%な訳です」
「待て、君は何を基に云っている? 乳等省令か?」
「嗚呼、はいそうです」
「ハテナ乳等省令トハ?」
「正式には『乳及び乳製品の成分規格等に関する省令』だったかな……長いです。厚生省――否、厚生労働省の省令です」
「まあ、そうだろうね」
圓生は外方を向いた。溜息と共に淋しい貌をして遠くを視て居る。
「市販ガ行ウ他ノ処理トハ一体?」
「如何云う訳か、固まっている脂肪分を均質化するんです――“homogenize”です。加熱殺菌する前段階の処理です」
「如何シテデショウ?」
「如何してでしょうね本当に、訊いてみないと分かりませんよ。乳等省令で「製造の方法の基準」には加熱殺菌をせよとは書かれても、均質化なんて文字は見当たりません。何故に必要無い工程が組み込まれているのかって話です……脂肪分が付着し難くなるから製造機械の手入れが楽になるのでしょう、本当に詳しくは分かりませんが。仮に其れが事実だったら製造効率の都合で、消費者は置き去りな訳です」
「理由は色々とあるのだろう。私達が兎や角云えば済む話ならば良いが、そうじゃない……かと云って、世界は正されるのが常だから、本当に何が良いのかは直に分かるだろう。否、既に実感しているとでも云うべきか……実はね、真理は目の前にあるんだ」
「はあ、真理ですか」
「新しい真理を発見するのは常に少数派だと語るのが湯川秀樹ならば、鶴見俊輔は此れ迄の失敗の記憶を保持する消極的能力の下、真理を間違いから逆算される方向感覚だと説いた。ドストエフスキーならば嘘と交錯させて、其れらしく視せて来たと誤魔化し、ゲーテ先生は直視出来ない事から、真理を松明に譬えられた――嗚呼、私達消費者も意思と声を持たないとね、矢張り淘汰されて亦然り」
「湯川秀樹、鶴見俊輔……ドストエフスキー……ゲーテ」
閖が順に其の名を口にする。
指折り数えて、確かめた。
「理論物理学者に哲学者、小説家に詩人であり自然科学者と連なるが、偉人に縋らなければ語る事が出来ないのならば、何も喋らない方が増しだね」
圓生は独り淋しく苦笑していた。
「如何してゲーテだけ先生と呼んだの? 教師だったから?」
「泰山北斗、確かに教師も先生だね。他にも医師や弁護士、作家も先生と呼ばれる人達だけれど――斗南一人、先駆者や或る地域で頼りになる方々も先生として敬われる者だよ。ゲーテ先生と呼ぶのは、私が只個人的に慕っていると云う理由があってだねえ……」
圓生は独り言の様に呟き始め、嗚呼でも無く斯うでも無いと、視えない何かと戦っていた。肩が動き、手探りで掴もうとするばかりであった。
閖が頷いて虚ろな表情をした。
「圓生さん、一応牧場を見学させて頂いたので、私は生乳と市乳の違いを分かっているつもりですが悪い事じゃ無いですよ」
圓生は自分の膝を弾いた。
「心算か――まあ、聴いてあげなくも無いが」
「圓生さんは牛乳を飲んでます?」
「最近は飲んで居ないよ。専ら酒さ」
圓生がビールを掲げて啜る。牛乳よりも好きだとの行動だろう。
「あると解釈して……皆さんは……」
縦に首を振る者が多数である。
「凉ちゃんは嫌いかな?」
「お腹の調子が悪くなりますから」
「嗚呼、為るよね。でも病気じゃないから心配しないで良い」
「私は牛乳で下したことなんてないけどね!」
閖が豪語した。特段自慢出来る事ではあるまい。
「取分けチーズで腹を下したなんて聞かんな」
「確カニ、違イハ加工サレテイル事デスガ」
「其の問題点は“乳糖”な訳です。同じ原料を使う牛乳とナチュラルチーズとの製造工程を考えてみますか。牛乳にする際は先ず原乳を十℃以下に冷やして――清浄、均質化、そして殺菌と工程を重ねます。ナチュラルチーズの作り方は加熱殺菌した後、乳酸菌、凝乳酵素を加えます。固まった“カード”の表面を切り、表面積を増やします――“水分”を抜き易くする為です。続いて撹拌し乍ら加熱します、型に詰め圧搾した“カード”を塩水に浸した後に熟成させます。此れがナチュラルチーズの工程です」
「“乳糖”トハ何デスカ?」
「水分に含まれています。此の水分を“ホエー”とも云いまして、他の栄養素も入ってます。牛乳と比べて、チーズは凝固させる過程で其の乳糖の含有量が少なく為る訳です」
「其れは何処の情報だい?」
「製造工程は日本乳業協会がHPに掲載している情報を参考にしています。特定の書籍を読み漁るのと違って誰でも観覧可能です。此れは平等の知識な訳です、非公開じゃありませんから」
顎に手を添え、圓生が沈んだ瞳で諭す。
「何かを発言する際の其の真偽は決して問題では無いよ。其の発言は何を拠り所にしているのかを問い質すべきであって、其の真偽などは後回しさ――覚えて置くと良い、其の真偽は決して問題では無いんだ」
「恰好良いですね!」
博巳が仰け反った。
「茶化すんじゃない」
圓生が隙を突いて博巳の顎を軽く叩き上げた。
「誰の言葉ですか?」
「さあねえ、少なくとも私の言葉じゃ無いのは確か。書籍を読み漁って、既に此の口から出る言葉が私の意思に則して居るのか甚だ疑わしい。然し何時の偉人の言葉であろうとも、真理の為に道理を踏み外す事は決して有り得ない事だがね」
「認知症とか止めて下さいよ」
「阿呆が、未だ現役よう」
「何の現役ですか」
「ポイズン!」
再び圓生が隙を突いて博巳の顎を軽く叩き上げた。
「子供じゃないんですから」
互いのビールが残り少なくなっているのを確認すると、ビールを注ぎ合った。乾杯を交わす程仲が宜しい事は何よりである。ぐいぐいと喉を鳴らす。
「均質化ハ先程脂肪分ヲ細カクスルト仰イマシタネ。殺菌ノ仕方ニ決マリハアリマスカ?」
「乳等省令では「保持式により摂氏六十三度で三十分間加熱殺菌するか、又はこれと同等以上の殺菌効果を有する方法」と明記してあるので、「摂氏六十三度で三十分間加熱殺菌」が基本かと……ナチュラルチーズの加熱殺菌も此れですし」
「他ノ方法ハ?」
博巳は口を窄ませて頚を掻いた。落ち着かない。
「何だ、如何した?」
博巳が席を立ち、後ろのショルダーバッグから何かを取り出した。席に戻ると、手にした物を机上に広げた。
「何デスカ?」
「此れを視て下さい」
ステープラの針で綴じられている。資料の様だ。プレゼンテーションでも始めようと云うのか。此の集いの為に事前に準備していたに違いなかった。
「何だ、此れは……資料を作るのは結構だが、何が目的だ?」
「食の安全と云いますか……私達は企業に頼らざるを得ない如何しようも無さを自覚すべきじゃないかと考えていまして……此の度是非とも皆さんに認識して頂きたく」
「御託を並べるな」
圓生が博巳の想いを容赦無く切り捨てた。
「私は只考える機会を与えたくて」
「黙れと云っとるのが分からんのか!」
圓生は怒りに任せて机を叩いた。抑えられない。
机上に置かれたグラスの水に波紋が拡がる。
「圓生サン、落チ着イテ下サイ」
「別に此処で博巳君がプレゼンでも演説でも始めようが、私は気にも留めない。否寧ろ、大いに歓迎すべきだろうが、然し私が懸念しているのは此処に居る子供達の事だ。彼の娘である都波ちゃん、そして閖ちゃんや凉達の将来に影響を及ぼし兼ねないからだ」
圓生は見渡し、其の場全員の顔色を窺った。一呼吸し資料を手に取り捲る。
「如何やら私の想いは伝わっていない様だ。成程、拈華微笑とは此の事か――良し、此の博巳君は実に熱心な男だ。誠実でもある。仮令身内の評価が芳しくなくとも、先程食べたピッツアの味は素人にも伝わる程に拘り抜かれていた。称賛に値するよ……然し乍ら此れから彼が始めようとしている事は全くの別物。此の話題は非常に繊細で、素人が気軽に扱って良い代物では無い。下手に扱うと身を滅ぼす程に危険! 正直に云うと何も期待が出来ない。どうせ市販の牛乳よりも本来の“牛乳”の味を知るべきだ、とでも云うのが落ちだろう……此の資料を流し読みしただけでも察しが付く……断言しても良い、其の結論に至るまでに十分に論理的である力量を君は持ち合わせてなどいない! 子供達に偏見を植え付ける様な事は絶対に止めてくれ! 眼に視えた悲劇だ! 分かっていて放置する気は更々無い」
圓生は肩を震わせ深呼吸した。自分で強張った肩を解す。
博巳は辟易して居た。唇を噛んで居る。
「圓生サン、貴方ノ言イ分ハ痛イ程ニ伝ワリマシタ。私モ子供達ヲ大事ニ思ッテイマス。其処デ今一度考エテミテ下サイ。 子供達ニハ知ル機会ガ必要ダト思イマセンカ? 確カニ不用意ニ情報ヲ与エル事ハ避ケナケレバナリマセン。其ノ代ワリニ、彼ノ意見ハ飽クマデモ一ツノ考エデ全テデハ無イ、ト教エレバ済ム話デハナイデショウカ。箱入リデハ弱イ儘デス。成長ヲ促シ見守リマショウ」
圓生が唸った。表情が歪み、首筋が浮き出る。
神父の考えも分からないでは無かった。
博巳の握った拳が時折震えていた。其の仕草を流し目で視ると圓生が自分の膝を、音を立てて叩いた。反射的に博巳は飛び跳ねた。
「博巳君、何時まで黙っている心算だ?」
博巳が顔を上げた。其の目は潤んで情けなかった。
「真逆怯んだなんて云わないだろうな。私は私の主張をした迄の事。次は君の番じゃないか。さあ、云いたい事を云い給え。其の権利は確かにあるが、控える事も出来る」
「わ、私は……」
「其れが君の信念なのだろう。だったら、貫くべきだ。人に云われて如何斯うする事じゃない。本当に心が張り裂けたならば、何も云えず只管に蹲っているだろうよ」
漸く、此の場の緊張が緩和されて来た。
子供達は気の毒な程に何も云えなかった。居場所は何処に在る。
「続けます!」
圓生が子供達に向き直った。
「さあ、君達は一寸したお勉強の時間だ。何、分かる必要は無いよ。聴いて居れば直に済むだろう」
「あゝ、超面倒」
「閖ちゃん」
閖が愚痴るのを凉は宥めた。
其れを視て、都波が微笑んだ。
「何処から始めましょうか……」
「殺菌の温度が何とか――あゝ、乳糖も何とか言ってたっけ」
「記憶力が良い!」
「まあね!」
前髪を掻き上げ、閖は無い胸を張り天狗に為った。
「私ガ訊キマシタ殺菌方法カラ」
「否、ロブソンさんには本当に悪いが――日本には以前に水牛を扱う農家はあったと話していたはず。ホルスタイン種が市場を席巻している現状で他種はどの様な地位に就いているのか――先ず此の疑問から始めたとしても、市場の牛乳がどの様な物なのか順に説明される過程で、殺菌方法の説明を如何しても避けては通れません。ですから――此処から始めましょう」
「分カリマシタ。私モ此ノ話題ニハ興味ガアリマス。宜シクオ願イシマス」
圓生が送った視線の合図を博巳は頷いて受け取った。
「実際、店舗に並ぶパッケージに表示されている原材料名は「生乳一〇〇%」で何の生乳かは明示されません――ホルスタインが鉄板だからです。ジャージーの名前など何処へやらですよ、全く。神父様が気に掛けていた殺菌は如何表示されているかと云うと「一三〇℃二秒間」が主でした。二件「一二〇℃二秒間」と「一四〇℃二秒間」がありましたけど、まあ「一三〇℃二秒間」が相場だと考えましょう」
「店舗ニ足ヲ運ンダノデスカ?」
「勿論です。其れ位当然ですよ」
「何店舗周ったんだい?」
「ええ……四店舗ですけど、十四品目の内十二件が「一三〇℃二秒間」でした」
「其れは商品名の数か、其れとも企業の数かい?」
「商品名ですから……嗚呼、企業数だと十です」
「大手企業モ入ッテイマスネ」
「うへは、必ず這入ってる来るのが大手じゃないですか、笑わせないで下さいよ」
「ハハハ、実際ニハ何処デスカ?」
「敢えて云えと? まあ明治、森永、雪印……オハヨー、小岩井、泉南、日本酪農、梶原、よつ葉、東海牛乳、の十企業でした」
「ははあん、大阪まで調べに行ったのかい、態々?」
圓生は茶化した。
「ええっと、昨日今日調べた訳じゃありませんから」
「東海牛乳は古いだろう」
「えっ……ええ、そうです古いです。其れにしても、否お詳しい」
「何て事は無いよ。苦学生だったからね、私も昔は」
圓生は視線を遠くに向け呆けていた。
「電話してみました」
「何処ニデショウ?」
「勿論東海牛乳に」
「何ト?」
「本当に古いです。創業当時の事に詳しい方が殆ど居ないらしくて……私の質問には答えて貰えませんでした。あの前田留吉は明治四年創業、低温殺菌を最初に導入した東京の和田牛乳は明治八年、東海牛乳が明治十六年な訳で……和田牛乳は最後明治に取り込まれた悲劇! 後者が企業に転換したのは昭和四十年ですから、其の年までに警視庁の『牛乳営業取締規則』が改正されて、牛乳には消毒じゃなくて“殺菌”が要求されたんですね。其れが昭和二年です。単に低温殺菌を導入するだけじゃなくて、色々と承認が必要な訳で、如何にも一牧場だけで対応出来るものかと」
「其れで、君はどんな質問で先方を困らせたのだい?」
「否、まあ――設立までの要因と和牛からホルスタインへの変遷です」
「確カニ、当時ヲ知ラナイト困難ニ違イアリマセン。一消費者ニ対シテ、真面目ニ答エテイタラ業務ニナリマセシ、身分モ明カサヌ者ヲ一々ト相手スルノハ切リガアリマセン」
「御尤も」
圓生が同意した。
周りは其の緩急に付いて行けず、躯を強張らせた。
「其れで――ジャージーは蒜山で一体何をしているんだい? 隔絶された楽園で其の存在は最早幻の様に扱われているのではあるまいな……嗚呼、何故だろう心配だ」
感情の起伏が激しかった。忙しなく大儀である。
「心配デスカ?」
「心配は……心配ですよ。ジャージーの方が視た目温かそうで、撫で易そうではありませんか。モノクロームは私にとって……何と云えば良いのか、寒い色なのです」
「不安に苛まれなくても彼らは、否彼女らは他にも北海道と熊本で確りと生き抜いている訳ですよ」
「視テ来タノデスカ?」
「家畜改良センターが公開した平成二十四年三月末日の資料を参考に」
「全国ニ何頭イマスカ?」
「ええっと、約一万三千頭位の様ですね」
「対してホルスタインは一体どれ程居る事やら――嗚呼」
「農林水産省による平成二十五年畜産統計を参照すると頭数は約一四〇万頭ですけど……全部資料にせっせと纏めたんですがねえ、酔っ払いには読む気は無いと……何だかなあ」
圓生が堅く腕を組み、眉間に皺を寄せて居た。度々舌を打つ。
「私ハ聴イテ居マスヨ、教エテ下サイ」
閖が膝を叩いて博巳の気を引いた。
「私達も聴いてんですけど……ねえ、凉ちゃん」
「ええうん……都波ちゃんは分かる?」
「アレね、牛類を話してんだ。違う?」
圓生が否定の意を呈する。
「私は酔っ払ってなど居ないよ。そんな事よりもホルスタインとジャージー、他の牛種は此処日本には居ないのかい?」
「農林水産省が公開しているデータに『この表には学校、試験場等の非営利的な飼養者は含まない』の文言が付いています……もうお分かりですよね……調査対象は営利的な飼養者に限られる訳です。営利は利益が目的ですから、まあ……牛種は必然的にホルスタインです。他の牛種はブラウン・スイス、ガーンジー、エアシャーとありますけど、搾乳量でホルスタインに勝てない訳です。国自体が如何して搾乳量重視の品種改良に拘る背景を掴んでいれば、他の牛なんて見向きもしないんだなあと分かります……小規模な飼養者は数えられていません」
「胸糞悪いね」
圓生が舌打ちをしてグラスに触れた。
「国民ヲ想ッテノ事デショウ」
「善意の押し付けに過ぎない」
圓生は頭を抱え、溜息を吐き続けた。
博巳が大学ノートを千切り、閖達三人に渡した。鉛筆も共に差し出す。
「気晴らしに、一寸牛を書いてみてみよう。上手く書けるかな?」
見合わせた三人は肩を竦めて書き始めたが、其の内凉の手が止まった。閖と都波は難なく書き切った様だ。
「出来た!」
都波が一番乗りで絵を掲げた。牛のシルエットは上出来、白黒の斑模様でホルスタイン種の特徴を捉えている。角は無かった。
「うん、良いね」
「ふん」
閖が描いた牛の躯は黒く塗り潰されていた。此方には角が有った。
「黒毛和牛……出来ればホルスタインを書いて欲しかったんだけど」
「見たことないよ!」
「成程、能く分かった。凉ちゃんは如何かな?」
凉の用紙には輪郭の様な曲線が描かれただけであった。
「……分かりません」
「否、良いんだよ。ありがとう!」
「私も閖ちゃんと一緒で見たことが……」
「落ち込む事はないよ。此処で確認したいのは牛から搾った母乳が牛乳になるって事。母乳が出ると云う事は?」
三人は答えない。頚を傾げている。
「乳が出るのは牝な訳だから、人間と同じでお母さんのおっぱいからは出るけど、お父さんのおっぱいからは何も出ないよね。私からも勿論出ない、出ては困る! 其れともう一つ、忘れちゃいけないのは妊娠している事。君達から出ないのはそう云う事だね」
「セクハラじゃね?」
「セクハラです」
「セクハラ以外に考えられない」
「セクハラじゃない!」
博巳が赤面して叫んだ。
「オヤジの口からおっぱいとか聞きたくないし……全く話が進まない。やっと牛種だし長すぎるし――殺菌は「一三〇℃二秒間」が鉄板なんでしょ。はい次々」
「閖ちゃんの云う通り! ピッツアの如くサクッとね」
圓生が片目だけ開き流し目で視る。
「鉄板は熱すれば熱く為る物だろう。止めて置け、火傷するのが落ちさ……矢張り君は力不足なんだよ、自覚すべきだ。荷が重いと音を上げるだろう」
「楽観的に考えるのも悪くないかと」
「時にはね。ロブソンさんは楽観的でしょう」
「如何ナノデショウカ」
神父は困って頬を掻いた。
「博巳君が調べた企業は十分に製造工程を明かしているのだろうか」
「実は」
博巳は資料を捲り確認し乍ら説明を始める。
「残念乍ら、圓生さん――大手と呼ばれる三社のHPには納得の行く製造工程は明記されていませんでしたが、代わりに工場見学が案内されてます。納得の行くと云うのは何故、誰の為に、其の過程を辿るのか理由を明記しているかです。基本的に「一三〇℃二秒間」の高温殺菌に縋り、技術と称した体の良いネーミングと外部機関の保証を前面に打ち出しているだけな訳です」
「成程、技術トハ実ニ耳心地ノ良イ言葉デス」
「はい、技術は素晴らしい物で便利に為りますから」
「結局は都合さ、誤魔化されてはいけないよ」
技術と云う言葉には三人とも同様の印象を持っている様だ。確かに技術は発達し頼り得る物だが、絶対的では無いだろう。古い物が駄目で新しい物が優れている事実は更新に依る。技術とは基礎から枝を伸ばしているに過ぎない。更新され姿が変化する。其処に勘違いが生まれる。新しい物に縋ってしまう所以だ。書き変わる物に関しては此の様な考え方は当て嵌まろうが、何時の時代でも人の歴史に変化は無い。生まれて死ぬ。此の事実は絶対的である。
「技術は便利で良いんでしょ。何がダメなの?」
「閖ちゃん、この場合技術が何の為に使われているのか考えてみよう。其の為にはどの様に牛乳が造られているのか実際の工場を見学出来れば手っ取り早いんだけど、まあ此処じゃ無理だから掻い摘んだ説明しか出来ない訳で。さっきも説明したけど、清浄、均質化、そして殺菌――と。嗚呼、言葉じゃ分からないよね」
博巳は上半身を動かし乍ら、少し考えて口を開いた。
「良し! じゃあ、牛乳は殺菌する飲み物だけど……例えば都波達が手を洗う時はどんな時かな?」
都波、閖、凉の順に答える。
「ご飯の前かな?」
「家に帰った時でしょ」
「トイレの後……だと思います」
「と云う事は?」
博巳が促す。
「決まりだから?」
「キレイにするため……ですか?」
博巳は肩を落とした。
「惜しい」
「汚いからでしょ!」
閖が止めを刺した。
博巳は拳を掲げた。
「一寸強引デハアリマセンカ?」
「異議無し」
圓生が肩を持ち、念を押す。博巳を睨んでさえ居た。
「殺菌する事自体が其の証明な訳ですよ!」
「消極的過ぎるね、日持ちしないからと云う事もあるだろう。新鮮さを維持する為だとかね。牧場の方々だって生では飲むまい。低温殺菌した後の方が美味しいと云う話ではなかったのかい? 其れに理由付けは何だって出来るさ。果たして消費者の為かは定かで無いのだがね」
「ソウデス」
「許されて良い訳がありません、生命を操作するなんて」
「君はそう云うが、養殖は気にしないのかい。両方とも人間に依る消費が最終的な目的のはずだろうし、偶々君がピッツア職人になりチーズから牛乳に関心が及んだので調べる内に変な気に唆されたとしても、牛乳だけに偏るのは可笑しな事だよ。仮に問い質すとするのならば、人間の欲深さを徹底的に追及すべきだろう。滅多な口を利くんじゃない。何回も云うが、偏見に囚われてはいけないよ」
「次行こ、次――「一三〇℃二秒間」以外の方法はないの?」
閖が急かす。
「「摂氏六十三度で三十分間加熱殺菌」が基本なのに沸点を越えるなんて異常ですよ」
「摂氏って?」
「温度を測る尺度だね――殺菌方法は四通りありまして、先ずは低温保持殺菌法」
「省令で言ってた奴」
閖が後に続けた。
「そして高温短時間法」
「日本の方法ですか?」
凉も積極的な姿勢を示す。
「残念、「七二℃一五秒」或いは「八〇~八五℃一〇~一五秒」の殺菌法。欧米で主流らしいですよ」
「普通ハ知ラナイデショウネ」
「如何ですかね、知ってる人は知ってるんじゃないですか――三つ目が超高温短時間殺菌法。此れが日本の鉄板。最後に超高温滅菌「一三五~一五〇℃一~四秒」の四通り。中央酪農会議と云う所が公開している情報を参考にしましたが、全国牛乳流通改善協会では其の四通りに高温保持殺菌法「七五℃以上一五分以上」を加えて五通りとしてます。他にも三通りに分類している所もあって、省令自体が詳しく定めないから如何にでも為ります」
「大手ハ明記シテイナイノデシタカ?」
「一瞥しただけじゃ見付からないと思います。区分だと質問蘭ですかね、其処に殺菌方法が記載されてました。此れは如何云う態度だと思いますか?」
「ト云イマスト?」
「何故質問形式なんですかね?」
「分かり易いからだろう」
圓生が久々に口を開いた。
「誰が質問したの?」
閖が鋭く指摘する。
「消費者と考えるのが妥当な訳ですが」
「自問自答デスカ?」
「あはは、笑える! ねえ」
誰も笑わない。閖しか笑わなかった。
「自社の製品を悪だと信じて売るなど狂人以外に居ない。正当化は当然だろうが、然し信念を貫徹する精神の持ち主も正に狂人足り得る資質の持ち主だろう」
「均質化ヤ超高温短時間殺菌法ニ拘ル理由ハ一体何ナノデスカ?」
「何、何時でも多数が強大で少数は軽視される。此れが規模のお話し。善悪は亦別の場所にある、其れは道徳のお話しです」
圓生は喋っては居るが、会話に加わっては居ない様だ。最早独り言であろう。
「そうですね……古い話で、和田牛乳の三代目は「均質化」を研究していた様ですが、均質化は保存方法じゃないと気付き、低温殺菌の必要性に早くから着目していたみたいです。其の結果、日本で初めて導入した先駆者に……此の低温殺菌は「パスチャライゼーション」と云う別名があり、「六三℃三〇分間」の低温保持殺菌法と「七二℃一五秒」の高温短時間法との二通り……病原菌だけを死滅させる訳ですから、本当に美味しく飲む事だけを重視した最低限の殺菌法です! 酪農家の方々の想いを消費者に伝える意志があるなら、大義を見い出し頑として此の殺菌法を採用すべきですね!」
パスチャライズと云う片仮名表記を英語表記に変換しようとすると、学が無ければ母音表記に難を認める事だろう。同様に発音する英単語“pasture”や“pasturage”は奇しくも牧場を意味する。件の綴りは“pasteurization”である。上記した様に低温殺菌法を意味する。辞書に掲載されている単語だ。
此の点を補強したい。少々長くなるが、引用して置く。
――都市化がすすみ、酪農家と客との距離がはなれるにつれ、口にはいるまでに時間がかかるようになり、乳が腐敗して食中毒が頻発、加熱の必要にせまられた。はじめは加熱をいやがる客が多かったけれど、二〇世紀の三〇年代には、欧米で、牛乳の加熱殺菌が定着するにいたった。このときの加熱条件は、フランスの有名な化学者ルイ・パルツール(一八二二~九五)が創案し、デンマークのドッセント・フィヨード(一八二五~一八九二)が牛乳に応用したパスチャリゼーション、つまり牛乳の理化学的性質をかえることなく有害な病原菌をころす加熱方式、具体的にいうと六三度三〇分であった。そのほか、より短時間でおなじ効果をあげる方式、七三度一五秒もおこなわれるようになった。ただし、消費者のあいだでは、加温の小さい六三度三〇分のほうが「牛乳にやさしい」と好評のようだ(『牛乳・狂牛病問題と「雪印事件」 安心して飲める牛乳とは』六二頁より引用)。
ルイ・パルツールの名に由来し、Louis Pasteurと綴る事を知らなければ、発音は出来ても表記までに至らないのである。此の知識段階を蹴散らせば、其の者に学を重んじる資格は更々無いと云えよう。
「一方で「一三〇℃二秒間」の超高温短時間殺菌法は「ステアライゼーション」と云って、設備的な違いから、蒸気を使う「直接法」と金属板を使う「間接法」の二通りがあります。有用菌諸共死滅させる処か正しくの滅菌法! 此の滅菌法には脂肪球を溶け込ませる「ホモジナイゼーション」の処理工程がべったりとくっ付いて来ます。必ず絶対! 此の処理をしない牛乳は乳脂肪分の浮いたクリームラインが出来ますけど、此の脂肪球を細かくすれば消化が効率良く飲み心地も一貫すると消費者の利点を謳う訳ですが……実際は金属板に焦げ付いた脂肪球の目詰まりを嫌ったからなんです。超高温短時間殺菌法ではタンパク質が熱変性を起こし、悲しいかな本来の味わいを損ねます」
「企業ハ気付イテイナイノデスカ?」
「彼らは認めていますよ!」
「デシタラ如何シテ――」
「何が、消費者の為ですか! 消費者が「ホモジナイゼーション」や超高温短時間殺菌法を研究して、企業に採用してくれと訴えたんですか? 違いますよ。其れが私の疑念です! 根底にある乳業メーカーへ対する不信の念です……製法の特許を取得する権利への不戦勝! 当時の管理の甘さを補う為に導入された超高温短時間殺菌法は今や賞味期限を延長する為の云い訳に過ぎません。一体誰が求めたのでしょうか。牛乳は生鮮食品なのに! 保存が目的ならチーズを作るべきなんです……私の口から、もう一度問い質します……如何して均質化や超高温短時間殺菌法を採用し続けるのでしょうか?」
誰も答えない。圓生までもが眼を伏せた。
今こそ情報を整理すべきだろう。
「何故、博巳サンハ其処マデ生乳ニ拘ルノデショウ?」
博巳は悲観した。
「卵を注文したのに殻に入ったものじゃなくて、目玉焼きが届いたりしたら最悪じゃないですか。訴えても良いです」
「では牛乳が飲みたければ牛を発注しろとでも云うのか? 冗談じゃないぞ。良いかい、博巳君……君は自分が何を話しているのか知らないが為に自分をも誤解しているんだ。此の話題は規模の問題であり分布を把握しているに過ぎないのだから……何回でも云うが、善悪のお話しじゃない。例えば君が生きるべきか死ぬべきかを問うとすれば、“べし”を問う際は個人の意見を単に述べているのではなく、寧ろ人類としての天命を問うているのだ! 先ず君は生きて居る現状を自覚しなければならない……其処からだよ。死んで居るから生きるべきかを問うに値すると知れ。如何云う生き方なら有意義に過ごせるのか、生きて居る限りは考え抜くべきだ」
「ト云イマスト?」
「牛自体を取り寄せるのは現実的ではないし、飲みたいと思うのならば、選択肢の中から選べば良いと云う事ですよ。前を向いて実際の行動を考えないとね」
「私は核為る部分を剥き出しにしたいだけです、其の疑問に世界が答えて呉れない訳で……日持ちさせる技術に頼ったのは移動や冷蔵手段が今の様に発達してなかったから頼らざるを得なかったのも仕方ないと云えば仕方ないです。でも、今となっては其れらの手段は格段に進歩しているはずなのに、如何して固執するのか私は問いたいんです……如何しても日持ちする“保存食”を作りたいらしいんです。保存食に鮮度は要りませんよ、だから保存の利かない旬の食材を口にするんじゃないですか」
「技術とは不便を解消する為に在り、利を求めるモノ――人は権利を求める生き物だから、一度獲得してしまえば、後は我が物顔で乱用する迄さ。其の権利に縋り離れようとしないばかりか、可愛過ぎて抱き締めてさえ居る現状を君は如何視る! 其れが君の指摘する固執だよ。手にする迄は必死に訴え、認められれば善とし啓蒙して行く――然し善だと云うのは甚だしい勘違いで、理解され受け入れられたからと云って善悪に結び付くのは其の亦先の事。押し付ける其の態度に依る事を知るべきだ。人は未だ知らない――否、訴える人々は居るには居るが聞き流して身に沁みない。権利は既に獲得しているからね、信じて疑うはずが無い」
「神父様、此れが答えですかね」
神父が頷いた。
「成程、不便ヲ解消スル為ノ技術ナラバ、不便トハ大本ノ生乳デアル――ト。其レデハ、生乳ヲ直接飲マセラレナイ理由ガアルノデスネ?」
「乳等省令で牛乳に出来る生乳の細菌数は“四〇〇万以下”と定められていて、牛乳では細菌数を“五〇、〇〇〇以下”で大腸菌群は陰性じゃないといけない訳ですが……其れは検査してみないとですよね?」
「勿論デストモ、細菌ガ眼ニ視エルハズガアリマセン!」
「酪農家さん方の所にタンクローリーが収集しに来ます。其処で本格的な検査が出来るとは思えませんから、設備のある工場に到着してからでしょうね。タンクローリーが収集に周る酪農家さんは一件じゃないです。問題ありますか?」
「アリマセン?」
「要は収集後に細菌数が“四〇〇万以下”だったら良い訳ですよ」
「デハ、一件ダケガ少シバカリ多クテモ構イマセンネ」
「そうなんです、だから農家さんと違い生産者の顔が視えないんです! 更に超高温短時間殺菌法の存在意義を引っ繰り返すと――“四〇〇万以下”の細菌数を“五〇、〇〇〇以下”に減らさないと、生乳は飲めたもんじゃないそと云ってる訳です!」
「ナ、何ト!?」
圓生が口を開く、飽くまでも自然に。
「ロブソンさん、丸め込まれてはいけませんよ」
ビールを一口飲んで続ける。
「まあ、顔が視えないのは事実です。酪農家ではなく、悲しいかな搾乳量が主体なのですから。厳しい基準を乳等省令が定めてしまえば、搾乳量が落ちます。其の前に酪農家の戸数が落ちてしまうでしょうけれど――問題ありますか?」
「アリマセン」
「では、何故乳等省令は厳しくないのでしょうか?」
圓生はビールを二口飲み、其の後黙った。
「私が答えますぜ」
博巳はグラスを空にした。
「っぷう――其の理由はですねえ、“この省令は、昭和二十七年一月一日から施行”されているからですよ。さっきも云いましたけど、前田留吉らを始め牛乳作りは明治時代には始まってる訳です。詰まり後追いで、知識面は実務者の方が詳しいはずですから、彼らの意見も当然取り入れられてるはずなんです。だったらば、自分の頚を絞める様な事を教えるとは思えませんね……そうでしょう? じゃあ、此処から闇に挑みましょうか」
「其レハ怖イデスネエ」
閖が割り込む。空気が軽くなった気がした。
「んで、牛乳はいつから飲まれたの?」
「さっきも触れたけど、一般的になったのは比較的最近な訳で……んう、其の質問は日本の歴史的に? 其れとも世界的に?」
「何でも!」
閖は適当に喋っていた事を誤魔化した。
「うむむ、日本の歴史から視てみると、牛乳を初めて飲んだ人物が孝徳天皇。六世紀の渡来人――智聡と云う男が医学書を携えて来て、其の書に牛乳の彼是が詳細に記されて居た訳で、孝徳天皇に献上したのが其の息子の善那。牛乳は“薬”として扱われ、其れ用の職務があったと……「酥」と云う乳製品の保存食を作って居たとか。一般に出回る事は無くて、朝廷や貴族に納められたと云う話。時は流れ、仏教の教えに則して、牛馬犬猿鶏の殺生肉食は禁止され、同様に牛乳も疎遠になる――と。江戸時代には将軍や大名が薬用として愛用してたらしけど、未だ一般的じゃなかった」
天武四年(六七六)の詔で、猟方法の禁はあったものの薬用扱いだった鹿や猪などは含まれて居なかった事から、家畜を活用した農業に支障を来させない為だったのではないだろうか。其の後の肉食禁断令が出た際も、同様に餓死させようと目論んだものでは無かったはずだ。
八世紀以降、祖先供養や祭祀の為に神道が出来た。三不浄――死穢、産穢、血穢――を意識する。次第に仏教と交わり浸透した。奈良時代に貴族は米、農民は雑穀を食した。鎌倉時代では、武士に肉食の禁忌はなかったが其の食は質素であった。然し庶民は十分な食事に在り付けて居なかった事を忘れて為らない。
仏教の五戒――不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒――に基づいて居るのならば、其の他仏教国も覗いて見る必要があろう。中国では国家的には肉食を禁止した事は殆ど無かった様だ。チベット、スリランカ、ビルマ、タイなどの仏僧は肉や乳製品も好んで食べると云う。仏教国――スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアなどは殺生を慎むが、食さない訳ではない様だ。
「世界的ニハ、牛ヨリモ羊デショウ。旧約聖書デ“アベル”ガ羊飼イデスシ、主ハ“アベル”ヲ顧ミラレマシタ。ソシテ悲劇ガ起コリ、“アベル”ノ血デ“カイン”ハ呪ワレタノデス。“ノア”ヲ生ンダ“メレク”ハ“エノク”ヲ除イテ最モ短命デス。ソノ“メレク”ノ子、“ヤバル”ガ畜飼イノ祖先デスカラネ。牛ハ家畜ニ含マレテイルノデショウカ?」
圓生が軽く挙手し口を開く。
「良いだろうか、其の前の第六の日に家畜や這うモノ、地の獣を創り、支配する人を創造されましたね。では、羊はどの様に分類されるのか明確にした方が宜しいでしょう。羊は家畜と区別されているが、飼うと云う行為が其の区分を曖昧にしていると感じませんか? ロブソンさんの着眼点も素晴らしいが、言葉が邪魔をしている様だ」
「確カニ……“アブラム”ノ時代ニ漸ク牛ガ登場シマス。エジプトノ地デス」
「フランスだが、ラスコー洞窟で発見された壁画が有名だね。約一万五千年前に描かれた様だ。同じくフランス、ショーベ洞窟の壁画は世界最古とされ約三万年前。スペインにあるアルタミラ洞窟の壁画は世界遺産だ! 果たして描かれた牛は何だったのだろう。スペインのドルドーニュからエジプトの……例えばイスマイリアまで陸地で行くのならば約四千kmを目安として、此の一帯に生息していた牛は何だったのだろう。壁画に描かれている牛が仮にだが同様にオーロックスならば、エジプトにも生息していたとしても何ら不思議は無い、と私は判断するのだが」
「はあ、オーロックスですか」
博巳が気の遠くなる様に呻いた。
「人の手によって絶滅したのさ――嗚呼、博巳君は此の件には疎い様だ。周さんならば」
閖の表情が一気に落ち込んだ。
閖が伏せたのに気付いて、圓生は咳払いをして改めた。
「済まない、禁句だったね」
皺の寄った眉間に手を添えた。言葉に為らぬ気持ちを抱き疲労感に歪む。
「話ガ逸レマシタ」
「今は何処に……」
博巳が苦悶の表情を浮かべた。
「否、逸れては居ないよ。ロブソンさん、アブラムがエジプトに入ってからの経緯を簡単にお願いします。足取りだけで結構です」
「分カリマシタ。エジプトニ入ッタ“アブラム”ハ“パロ”ニ厚ク持テ成サレ、牛ヲ含ム財産ヲ得マシタ。エジプトカラ離レ、ネゲブ、ベテルヘト至リマス」
「“パロ”とは王の事ですよね?」
「ソウデショウネ。王朝ガ位置スル場所ヲ首都トスレバ、古代ノ都市ハ“メンフィス”。時代ニヨッテハ“テーベ”ヘト遷都サレマスガ、“ベテル”カラ南下シタノナラバ“メンフィス”ダト思イタイデス……聖書ヲ歴史的ニ検証スル学ガ私ニハ無クテ、申シ訳アリマセン……“エジプト”デハ“ナイル川”周辺ノ恩恵デ、牛ガ草ヲ食ベルニハ困ラナカッタノデハナイデショウカ」
「エジプトに南下した抑々の原因はネゲブに飢饉があったから、で間違いありませんね?」
ソウデスと神父は答えた。
「ネゲブはどんな所なんですか?」
「“イスラエル”ノ砂漠地帯デス」
「嗚呼、お隣のシナイ半島も似た様な所な訳ですよね……だとすれば、あの一帯で食糧不足になるのも不思議じゃないと云いますか当然の事じゃないですか……あと、ネゲブからシナイ半島を飛ばしてエジプトに南下する、此の表現も腑に落ちない訳でして」
博巳の指摘を受けて、圓生と神父が深々と頷いた。
「現状はエジプト領だから其の表現が当て嵌まらない事も無いのだろうが――過去の区画が分からない以上、腑に落す事は難しいだろうね。良し良し、確かに話が逸れている。ロブソンさん、云うなら今でしたのに」
「機会ヲ逃シマシタ」
「其れでは、どうぞ」
「話ガ逸レ亦三郎!」
「源五郎は何処行った――なあんちゃって!」
大人達は爆笑したが、子供達に全く訳の分からぬやり取りであった。
「話がそれたんじゃなくて、進んでないんだろ!」
「閖ちゃんには参るよ、的を射ている。ロブソンさん、旧約聖書で次に牛が出て来る場面を暗唱して頂けますか?」
「分カリマシタ……ハイ、確カ……其レハデスネ」
――吃った。
「覚えておられない? 正確にお願いしますよ」
「まあまあ圓生さん……お経じゃないんですから」
「私は神主だよ」
冷徹である。圓生は宥めようとする博巳を見下げ睨み付けた。
神父は慌てて奥へと引っ込み、旧約聖書を携えて戻って来た。
「オ待タセ致シマシタ――同ジク『創世記』第一八章デス」
神父は相当の箇所を読み終えた。額には汗が滲んでいる。手の甲で拭う。其れでも吹き出て止まらなかった。暑イデスネと云った。閖が熱くないと跳ね除けた。
「凝乳と牛乳――調理した――!?」
博巳が感嘆した。高揚感が窺える。
「“ぎょうにゅう”って何だっけ?」
「さっきチーズの作り方に“カード”ってあったよね、それのこと」
「あゝ、ああああ――ありがと、凉ちゃん」
閖は自然と微笑んで居た。
其の笑顔を視た凉の心に蕾が開いた。
「此れでイスラエル周辺には牛が居たと証明された訳ですね!」
「まあ、落ち着き給え。博巳君」
「お二人は古代エジプトの石棺に刻まれた絵柄をご存知ですか?」
「知らない――とでも云って置きましょうか?」
圓生は視線で同意を求めた。神父が汲み取る。
「其レガ良イデショウ」
「亦々、母牛の脚に仔牛を紐で括り付けて搾乳しているレリーフですよ。其の他にも、壁画にホルスタインと思われる白黒斑の牛や赤褐色の斑の牛はエアーシャーかガーンジーのどちらかな訳ですけど、牛が壁画に刻まれている。証拠ですよ、此れは!」
「其れは結構なのだが、証拠証拠って一体何の証拠だい? 古代エジプトの壁画に描かれる人物の肌の色だとも粗赤褐色だと反論出来なくもないが、其の様な事よりも今君が云ったエアーシャーかガーンジーかの件だが、寧ろフランスの大陸から泳いで果たして渡り切り、其の地で固有の種に為ったと云うべきじゃないのかい、島なのだから。亦は地続きの時代に其の地に居た牛だと考えるのが道理だろう――さあ、ロブソンさん、続けましょう」
神父は意表を突かれて慌てた。頁を捲る手が覚束ない。出来る限り速く、頁を破らない様に。此れまで、“牛”を中心に読んだ試しなど皆無だった事に他為らない。
「『創世記』第四一章――雌牛デスガ、豊作ト飢饉ノ象徴トシテ“パロ”ノ夢ニ現レマス。『出エジプト記』第二〇章――所謂“モーセの十戒”ノ第一〇番目ニ挙ゲラレ、続章デ処罰ノ方法ガ詳細ニ記述サレテイマス。全体的ニ主ヘノ供物トシテモ扱ワレテイマス。『申命記』第三二章――“牛の凝乳”ニ文句ガアリマス。『士師記』――“ペリシテびと”ヲ驢馬ノ顎骨デ残虐シタ“ナジルびと”デアル“サムソン”ハ妻ヲ雌牛ニ例エテイマス。彼ノ力ノ源ハ髪ノ毛デシタ。両目ヲ抉ラレ捕縛サレマシタ、“サムソン”ハ女性ヲ愛セナイ可哀想ナ人デシタ」
「余談ですね――続きを」
圓生は冷やかであった。返事が素っ気ないのだ。
「あの携帯端末で有名な」
「母音が違う――さあ、ロブソンさん」
神父は呟き乍ら頁を捲り続けた。必死だ。
「調ベテイマスノデ、進メテ下サイ」
「承知しました――博巳君、流石に疲れたんじゃないのかい?」
博巳はねっとりと頚を横に振った。膝に手を突いて頚が沈む。
「いいえいえ、未だ語るべき事が山の様ですよ」
都波が痺れを切らしたのか席を立った。隅にある引き出しから折り紙と本を取り出してソファに戻ると手際良く折り始めるのだが、博巳らは仕方が無いと云う妥協の念を持ち、話を進める。凉だけが都波を気にしつつ、空気を読んだ。
「じゃあ、遅くなりましたが……牛乳の成分と“乳糖”について説明し切っちゃいましょう。話題が行ったり来たりして纏まりませんから」
「纏まらないのは君の統制力に難があるからだろう」
「手厳しい」
閖も時折都波の手元に視線を送った。
赤色の折り紙を一枚取り出した。角を自身の躯に向け、上下の角を合わせ半分に折り、更に左右の角を合わせ亦三角形にする。上部二枚目の間に指を指し込み正方形に折り、裏返して同様に正方形に折る。角を捲り両端を畳む。裏にも施す。股がある方の両側面を股側に折り込んだら、裏返して同様に折る。両足を内側に立てて折り込み、一方の脚を下向きに折り込んだら――鶴の出来上がり。翼を広げて悠々と佇んで居た。
都波は折り方の本を適当に捲り、次に何を折ろうかと思案していた。
博巳が圓生のグラスに注ごうと、瓶を傾けた。
「うむ」
グラスに並々注がれたビールで喉を潤す。
「“乳糖”は乳製品だけなの?」
「そうだよ、“乳糖”は日本人が摂取して来た栄養素じゃない。戦後、国の方針で牛乳が普及し無理矢理日本食に組み込まれ、何時の間にか刷り込まれていた! 例えば、総理府広報室が公開している、平成八年九月五日~十五日の間実施された「食料・農業・農村の役割に関する世論調査」の質問にこんな質問がある――」
資料を読み上げる。
「“日本人の食生活は、米を中心として、これに野菜、魚、肉、牛乳などがバランスよく組み合わされた「日本型食生活」ともいうべき食事内容になっています。あなたは、これからも、このような「日本型食生活」を続けていくことについてどう思いますか。この中ではどうでしょうか”――何か思い当たる事はありませんか?」
視線を上げ、博巳が其々の顔を見渡した。
「どこに問題があるの?」
「日本型食生活の説明でしょ」
閖が怪しく微笑んだ。
「ふふふ、閖ちゃんは流石に鋭いね。此の質問方法は明らかに尋問誘導です。回答者は質問者の定めた意味での「日本型食生活」を此れまで続けて来た者として回答せざるを得ない訳です。「貴方が盗んだ下着は赤色ですか?」と云う盗んだ前提での質問と同じです。問題は「日本型食生活」の名称ですよ、「戦後型食生活」と云うのが妥当な訳です」
「んで、前田留吉のお出ましね」
「御明察の通り! 民族で腸の長さなど躯の作りが異なる様に、“乳糖”に馴染みが無い其の原因を乳糖不耐症なるモノで片付けるなんて、可笑しな話だよ。如何して耐える必要がありますか。そんな下らない事よりも、如何して牛乳を謳うのかに疑問を投げ掛けるのが筋ってもんです」
都波は水色の折り紙を取り出し、正方形の表面に対して四分割の折り目を付けた。其の折り目に沿って各角を中心に折り込んで、更に各角を裏側に折り込み、続けて表の各角を中心に折り込む。裏側の手前の角と対極の角の割れ目を開いて潰すと長方形が出来る。左右の中心に折り込んだ角を開き、内側に入れ込むと脚が出て来る――はかまの出来上がり。上半身も作らなければならない。
「牛乳は完全栄養食品って言うのは?」
「ははあ、じゃあ『日本食品標準成分表二〇一〇年版』と『日本人の食事摂取基準二〇一五年版』を参考にして牛乳の成分を検証して見ようか。資料に掲載しましたので捲って下さい」
博巳が各々に資料を捲って手渡した。閖も凉も読む。
「先ず処理前の生乳は脂肪球と脱脂乳に、脱脂乳はカゼインとホエーに分離出来ます。脂肪球は脂肪球被膜が脂溶性ビタミンを包んだ状態で、ホエーは蛋白質、件の乳糖、ミネラル、水溶性ビタミン、遊離アミノ酸を含みます。栄養素としては乳糖が炭水化物で、カゼインホエー蛋白質遊離アミノ酸が蛋白質で、乳脂肪は脂肪、カルシウムやリンがミネラル、ビタミンBは水溶性でビタミンA、Dなどが脂溶性ビタミンです。此の全ての五大栄養素を兼ね備えている訳です――」
乳糖は炭水化物なので、最終的にブドウ糖になる。例えば米はデンプンが主成分だが、アミラーゼに因りマンストールに分解され、小腸でマルターゼに因りブドウ糖に分解される。乳糖は小腸でβガラクトシダーゼ(ラクターゼ)に因り、ガラクトースとブドウ糖に分解され、肝臓でガラクトースはブドウ糖に変えられる。ブドウ糖は高濃度なので、乳糖に変えなければ牛の場合、血糖値が五%にも上昇する。乳糖に変える事で血漿の浸透圧と同程度に治まっている。人の場合だと通常〇.二%にもならない。如何に五%が高値かお分りだろう。
乳脂肪は炭素数四~一二までの飽和脂肪酸である――酪酸、カプロン酸、カプリル酸、カプリン酸、ラウリン酸。十未満が低級、十以上が高級に区分され、「低級脂肪酸は胃と小腸で吸収され、血液によって肝臓に運ばれ速やかにエネルギー源となる。一方、高級脂肪酸は小腸で吸収されたあと、そこで脂肪に再合成されてカイロミクロン(脂肪とタンパク質が結びついたもの)になり、リンパ液に乗って胸管を通って静脈まで運ばれ、最終的に肝臓で処理される」(『牛乳とタマゴの科学 完全栄養食品の秘密』六八頁より引用)。
処で出産後の初乳は出荷されない。否、許されていないとでも云うべきか。乳等省令で明記されている様に、“分べん後五日以内のもの”が初乳に当たる。初乳は子牛に与えられるべきものだ! 初乳を子牛に与えなければ、細菌に対して免疫が付かない。常乳と比べ、免疫グロブリンが多い。小腸のパイエル板で吸収される。免疫グロブリンはカゼインと同様に蛋白質だが、出産直後だと胃で消化されてしまう事が無い。
其のカゼインに牛乳の色は由来している。胃は胃酸を出しpHを下げてペプシンを活性化させる。蛋白質をペプチド化させ、アミノ酸断片に変える。小腸でエレプトシンに因りアミノ酸となり吸収される。ペプチド化する際には脂肪球が付着する為に、分泌されるリパーゼで分解され低級脂肪酸が取り込まれる。此の脂肪球は生乳が製品化する段階でホモジナイゼーションを施されるが、脂肪球被膜が破れて脂溶性ビタミンは漏れ出す事が無いと云う。被膜と云えども簡単には破れないのだ! 子牛の体内では、蛋白質消化酵素キモシンが分泌されパラκカゼインとマクロペプチドに分解する。離乳するとペプシンが強く為り、草が消化出来る様に為ると云う具合である。
都波は茶色の折り紙を抜き取った。はかまの脚を広げるまでの同様の過程で、頭以外の角を長方形に潰す――やっこさんの出来上がりだ。
「乳業メーカーが謳うカルシウム含有量ですが、普通牛乳には一〇〇g当たり一一〇mgが含まれています。成人男性推奨量の八〇〇mgを採用すると――グラス約三.五杯分です」
閖が頚を傾げた。
「計算はどんな感じ?」
圓生は眼を閉じ腕を組んでいた。瞑想しているのだろうか。
「嗚呼、駈足かな……ええっと一〇〇gをmlに変換すると一〇三.一mlになるんです。其れは牛乳だからで、水だと数値的に同数変換になりますけど、牛乳だと比重が違う訳でして……水の比重は一、牛乳が一.〇三一で計算します」
「理詰めで結構結構」
「まあ、問い合わせただけですけど」
都波は黒色で横長の折り紙を取り出した。短い線の一方角を側面から食み出さず滑らせて折り、対角も重ねて三角を作る。三角部分の頭を底辺に付けて畳み、全体を半分に折る。摘まみを残し、両翼を広げる。更に両端を立てる――飛行機の出来上がり。出来具合を軽く確かめると、宙に投げ放った。
舞い上がった飛行機は旋回し、大きく弧を描いた。
「どこに?」
「明治に、川中さんと云う女性が早急に対応してくれたお蔭で疑問も解けた訳さ」
「積極的」
フラフラと高度を下げ、飛行機は博巳の頭に衝突した。
「都波!」
都波は無邪気に笑った。
「それでですね……カルシウム一一〇mgに〇.〇三一を掛け合わせれば、二〇六.二mlをグラス約一杯分と見做すと、二二六.八二mgと弾き出せる訳です。繰り返しますけど、カルシウムに関しては三.五杯で賄えます。でもですね、カルシウムの吸収を促進させるにはビタミンDが必要なので、次はビタミンDに視点を置くと……グラス一杯で約〇.六二µgが摂れ、成人目安量五.五µgには粗九杯分要ります。カルシウムの成分が多いので約三.五杯飲めばビタミンDは二.一七µgなので、三.三三µg足りない訳です……じゃあ、何で摂れば良いのか考えたら、紫外線です。日光を浴びると皮膚が作って呉れますけど、三.三三µg分だと天気関係なく正午前後の一時間程で生じる様です……」
ビタミンDは紫外線で皮膚に依って生成されるが、カルシウムと骨との間に必ずしも科学的根拠が有るとは云えないらしい。食料からも摂取出来る。不足するとくる病や骨軟化症に繋がり易く、過剰すると高カルシウム血症、腎障害、軟組織の石灰化障害が見込まれる。基本的に考慮すべし点が多過ぎる為、現時点では絶対的な摂取量を数値化するのが困難だと云う事だ。
「次に蛋白質はグラス一杯に六.八g含まれ、成人男性推奨量は六〇gで在るからして、同様に粗九杯分……次にカリウムはグラス一杯に三〇九.三mg含まれ、成人男性目安量だと二五〇〇mgなので約八杯分……最後にリンだとグラス一杯で約一九一.八mg摂れますので、成人男性目安量一〇〇〇mgは粗五杯飲まなくちゃなりません……まあ、纏めますと牛乳で全てを補おうとすれば、カルシウム過剰に為りますんで……飽くまで牛乳に依存するとしても一日三杯で見切るのが賢明です。其の際、ビタミンDは三.三三mg、蛋白質は三六.二g、カリウムは一四一七.四五mg、リンは三二八.七mg……其々不足する訳です。自覚したいですね。仮に其れでも私は牛乳で生きるんだと意気込むんなら、グラスで九杯は免れません! カルシウム摂取量にして二〇四一.三八mg、一八五四ml飲む事に為りますから牛乳十一パック約二本分です。即ち、成人男性推奨量六五〇~八〇〇mgを遥に飛び越え、耐容上限に届き得る質量なのです!」
圓生が頚を回し、左腕を伸ばすと頭越しに肘を掴んだ。筋を伸ばす。
「ふはああ」
「退屈ですか!」
「否、聴いては居るよ。だが長談だ」
「嗚呼、確かに遠くまで来ました……」
欠伸した圓生は眼を擦った。眠気がある様だ。
「博巳君、君は鳥目じゃなかったかい?」
「はあ、そうですけど……」
「ビタミンAの不足が鳥目に繋がると云う話を本で読んだ事がある……君は其れに乾燥肌じゃないか! 増々摂取しなければ!」
「無理云わないで下さい。牛乳でグラス十一杯も飲み切れませんよ! 下痢します」
「下らない」
圓生は勝手に話を切り上げた。天井を仰ぎ見ている。
「下るんですよ、私は! だから乳製品ならチーズを推したいんです」
話を戻そう。
「ふうん、完全栄養食品じゃないんだ……豆乳は分かんないの?」
博巳が云い淀んだ。歯の隙間から息が漏れる。
「むぬうん、調べてないのが正直な処……御免!」
「良いわ、話進めて」
斜めに構えた閖は悪戯に資料を捲った。
圓生が神父に視線を向けた。
「嗚呼、終わられたんですね」
神父は姿勢を正すと説明を始めた。
メモ用紙を指で辿り、一つずつ漏れが無い様に、印を付け乍ら。
「否、見切リヲ付ケタ迄デス――デハ、先程ノ続キデスガ、『詩篇』ニ“牛酪”ト云ウ言葉ガ視ラレマス。『レビ記』デハ牛ト羊ハ同列、『民数記』馬ト羊ガ家畜デ括ラレテイル記述ガアリマス」
「牛と羊を選ぶ訳と云いますか、其の理由は――?」
「家畜にするのに容易だったからだろう。家畜なら大人しい方が良い」
「旧約聖書デハ食ニ対スル禁忌ガアリマス。『レビ記』第七章、『申命記』第一四章――脂肪ヤ血ヲ嫌イマス。牛羊山羊鹿ハ蹄ガ割レ反芻動物デスカラ食ヲ許サレマス。駱駝兎狸豚ガ駄目デス。魚ハ鰭ト鱗ガアレバ構イマセン。鳶鴉鷹鷺ガ禁、這ウ動物モ禁。牛乳ニ関シテハ、母乳デ子山羊ヲ煮ルノハ禁デス。此レガ“ユダヤ教”デス、キリスト教ニハ特ニアリマセン。イスラム教ナラバ豚、ヒンズー教ハ牛デスネ。仏教ナラバ殺生ハ控エマスガ、食ニ関シテハ縛ラレテハイマセン」
「そう云う人達は――」
「牧畜民」
圓生が口を挟んだ。
「ぼ、牧畜民は食の範囲が狭い訳ですね?」
食に対する忌避は民族の在り方其の物である。農耕民と比べ砂漠の民は自然の脅威に抗い乍ら、草地や泉を求めた。此の地では自然との共存は在り得ず、逆らわなければ死を覚悟しなければならない。遊牧民の生活だ――彼らは好戦的である。例えば万里の長城が築かれる前の中国を視て見ると、淮河を境にして北の牧畜民は南の農耕民の地を侵略したが、其の逆は無かった。
日本人(農耕民)は自然と共存すべしと心得るが、欧米人(牧畜民)は自然と対峙し常に自己中心的に考える。歴史から学んだのだろう――菜食民族は勝者に為れず、牛を喰う民族は常に勝者で在ったと。
牧畜民が抱く自己中心的思考の例を挙げよう。古いが先ずは、一九六六年ブラジル政府が施行したオペレーション・アマゾニアで、牛の牧場の為に約三八%の森林破壊を引き起こしたと云う。家畜産業の拡大が森林破壊を生むと云う実例だ。他の環境破壊としては土壌侵食、放牧地の劣化、砂漠化、大気温室効果、大気汚染などが挙げられる。此のアマゾンの開拓は強欲と無知が放牧地の劣化を招いた悲劇であった。極め付けは牛肉を文明の象徴と見做なし、自滅へのカニバリズムを誘発した事だ。十九世紀末である。
「其ノ様デスネ」
都波が右掌に乗せ折り紙で折った鶴を掲げた。眼を細める。
「私は肉の方が好きかな、ジュウウウって音が好きだし」
旨は脂と蛋白質で決まる。蛋白質が占める割合は動物性食料の方が高く、アミノ酸価も高い。効率的である。繊維質を消化出来ない人間の消化器官には栄養素が高く、消化の早い食物が最適だ。高蛋白、特に動物性食料に傾く。
アミノ酸も多く良質であるが、牛肉豚肉などの動物性蛋白質は血液を酸性にする。因みに牛で食す部位は内臓肝臓腎臓第一・二胃脳舌胸線、豚では腎臓心臓腎臓小腸脳舌足耳唇吻だ。亦家畜類に含まれる脂質は飽和脂肪酸が多く、血液を酸性にする為に食べ過ぎ注意である。日本は酸性土壌なので、酸性に偏らない為に魚を摂取するのが賢明だろう。魚肉には各種ミネラルが豊富だ。
「都波、魚も食べないと大変だぞ。バランスだ、バランス!」
「耳に胼胝よ」
処でイヌイット人に心筋梗塞が少ない事をご存知だろうか。血中にEPA(エイコサペンタエン酸)が多い為だ。EPAはα-リノレン酸から変換され、リノール酸と共に多価不飽和脂肪酸に含まれて居る。魚油だと判明する訳だ。魚油にはDHA(ドコサヘキサエン酸)が多い。血液を固まり難くし、血中のコレステロール濃度を低くする。肉は飽和脂肪酸だ。飽和脂肪酸の多量摂取は成人病の原因に為るだろうが、多価不飽和脂肪酸が循環器疾病の予防に効果がある。此れは日本人が酸性の米を摂取し、其の上で他の飽和脂肪酸で食の調和を崩す事に因ると考えられる。
「私達は農耕民ですよね?」
「そうだねえ、貝塚が物語っているよ」
牧畜民と異なり農耕民は土着し雑食である。食の対象は幅広く栄養の調和も保たれる。況してや我が日本国は島国――漁業があるではないか! 沿岸部では漁業に頼るが、現在と同様に明日の予測はし難い物だ。
牧畜型の第一次産物を飼料として家畜に与え穀類を更に高次の生産物(畜肉)に変える作業と比べ、漁業は天然生物の採捕其の物を恩恵として居る。幸いにも漁業に忌避は殆ど視られなかった。普段食べない物を忌避するのは当然の事だが、其の逆祖先からの馴染みで丸で問題が無い。
縄文時代の貝塚には熊狐猿兎狸鼫羚鹿猪、雉鳩鶴真鴨、鮭鱒アメノウオ鯰鯉鯏鮒鰉オイカワ鰻梶木、鯛鱸鮃鰒鮫鮪鯔鱒鰤鰆、鯨鯆、赤貝サルボウ蛤蜊汐吹沖蜊莫迦貝オオノガイ牡蠣、蜆田螺烏貝など……。陸上哺乳動物、鳥類、魚類、水中大型哺乳類、貝類と並ぶ雑食だ。世界的には海豹や鯨の忌避率が高いらしい。
余談だが、“さかな”とは酒菜であり、酒のお供の菜と云う意味だ。真菜とも呼ばれ、まなを調理する板を“まな板”と云った。魚は鮮度が大事なので、流通で味が決まる。魚には季節感があり旬があり、索餌と産卵期の間が美味である。夏産卵すれば春、秋産卵すれば夏が狙い目で、適した調理方法を知ると便利だ。焼き魚は脂質が多い真鰯秋刀魚鯵鯖鮭鰤の様な回遊魚が美味! 魚の醍醐味は蛋白質がペプチドやアミノ酸に分解されてからである。死後硬直の後に短い熟成期間に入る。例えばハゼ科のシロウオは「おどり食い」だが、サケ科のシラウオは死後が宜しい。
室町時代には農業の発展で米の収穫量が増加した。江戸時代は地引網が盛んに為り、鰯の需要は殆ど肥料用だった。新鮮な物を庶民が入手するには難があった。農山村では云わずもがなだ。戦後は発展するも、最終的には需要に追い付けず悲しいかな輸入に頼るしかなくなった。
「やっぱり、斯う考えると牛乳が異物にしか視えないですよ」
「未ダ根付イテ百年足ラズデスカラ、食文化トハ云イ難イデス」
「圓生さん?」
「下手な事は云えんよ」
店舗に何気無く並べられる牛乳は品種改良で搾乳量を増量させた恩恵の象徴だ。我々は其の恩恵を享受している。
「品種改良ハ国ガ動イテイルノデスヨネ?」
其の恩恵の背景に一体何頭もの命が犠牲に為り弄ばれたかを想うと――、
「胸が痛いです。此の事業は牛の自由を剥奪し、営利を求められない牛から殺して行きます! 牛舎に詰め込まれ、運動を禁止され、生態を否定された食事を与えられ、出産をも管理され、搾取される事にしか存在価値を与えられない訳です」
乳を出す雄牛は居ない。故に殺処分の対象に為るのだが――、
「処で、品種改良で産まれる雄の頭数をご存知でしょうか?」
分かり易い記述がある。
最初に優れた遺伝的形質を備えていると思われる子牛を選ぶ(候補種雄牛)。頭数は毎年一八〇頭前後である。育成中、餌の利用性、強健性などいくつかが調査される。つぎに人工授精によって一頭あたり約四〇〇頭の子牛を得る。うち娘牛は半分で二〇〇頭、これが父牛一頭の遺伝的能力を評価するのに必要な頭数である(『牛乳とタマゴの科学 完全栄養食品の秘密』二三一頁より引用)。
「一八〇頭が候補となり、一頭ごとに二〇〇頭の息子牛が産まれるんです。詰まり、毎年三六〇〇〇頭もの子牛が、食用に処理されている塩梅ですよ! 余りにも身勝手だとは思いませんか? こんなにも残酷な事が如何して出来ましょうか……全ては営利主義の為せる業です」
予言しよう。此の思考は人社会でも当て嵌める事が可能である。其の内、営利を求めない者、即ち働かない者は殺され、子孫を残す事を許されない時代が来るだろう。優秀なキャリア組の精液が冷凍保存されるのだ!
「国家事業だからこそ体制を変えなければ、悲しいかな牛達が救われる事など有り得ない訳です。此れは決して私達、消費者と云う末端が如何の斯うののお話しじゃありません」
五月蠅い者の喉を潰し、視姦する者の眼を潰し、強姦する者の性器を潰し、営利主義者の精神を潰さなければ為らない。
企業が行う事は全てが善意の押し付けである。装っては居るが悪意に違いない。創業者は得てして、誰から頼まれたと云う事が無く、己が良いと思うのだから他の人も良いと思う“はず”だ、普及させたいと云う思い込みから動いている。“はず”の精神は道理を示す。其れが人の道理なのだから、疑っては正義では無いのだ。その様な自己暗示に掛かった者は周りの者が只気付いて居ないだけだとして、諦める事を知らない。其れは何故か――簡単に説明出来る。其れに気が付いたのが何故自分だったのか――其れは選ばれたからに他為らない! 当然の如く活動にも力が入る。熱を帯びる。此れが自分の使命だと確信しているからだ。周りも其の熱に当てられてしまうのは仕方が無い。
「博巳君、誤解しては居ないと思うが――此れも善悪の問題ではないよ。正しく規模の問題だ、国家規模のね」
第三者に徹しければ、決して道徳を問い質す事は出来ない。
肉骨粉由来の牛海綿状脳症(所謂BSE)、ヒ素が混入した第二リン酸ソーダ由来の森永ヒ素中毒事件、雪印八雲工場食中毒事件(一九五五年)、雪印食中毒事件(二〇〇〇年)などの忌まわしい事件は全て此の類いが引き金と為っている。
眼を逸らすな事は出来ない。
「牛乳は血液から作られているのに、如何して白色なのでしょうか。純白で無垢の色合いは人が受け入れるのに抵抗が無いからです。視覚に騙されて、人類は血液を飲み続けています。其の事に気が付かないんです。此れまでの牛に対する仕打ちを想うと……彼ら、否彼女らの血呪は私達の体内に刻まれ、過去の事件や現状を引き起こしたのかも知れません」
【参考文献】
次の書物と電子情報を参考にさせて頂きました。
・長崎福三著『肉食文化と魚食文化―日本列島に千年住みつづけられるために―』農山漁村文化協会、一九九五年
・黒川鍾信著『東京牛乳物語――和田牧場の明治・大正・昭和』新潮社、一九九八年
・平澤正夫著『牛乳・狂牛病問題と「雪印事件」 安心して飲める牛乳とは』講談社、二〇〇二年
・中洞正著『黒い牛乳』幻冬舎、二○○九年
・酒井仙吉著『牛乳とタマゴの科学 完全栄養食品の秘密』講談社、二○一三年
・乳及び乳製品の成分規格等に関する省令<http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26F03601000052.html>(二〇一四年五月接続)
・「日本人の食事摂取基準(二〇一五年版)策定検討会」報告書<http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041824.htmlhttp://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/houkoku/1298713.htm >(二〇一四年五月接続)
・日本食品標準成分表二〇一〇年版<http://www.meiji.co.jp/meiji-shokuiku/know/know_milk/01/>(二〇一四年五月接続)
・新生酪農株式会社『パスチャライズド処理』<http://www.sinsei-rakunou.com/pasteurized.html>(二〇一四年五月接続)
・機能生物化学研究所HP(講義資料→生化学の基礎→脂質)<http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/index.htm>(二〇一四年五月接続)
・おりがみくらぶ<http://www.origami-club.com/index.html>(二〇一四年五月接続)