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皮膚を剥ぐ  作者: 永見拓也
第二章:聖劇編(奥村椛の振舞)
7/10

03.白薔薇のロサ・アルバ・セミプレナの香りね。

 すでに前提によって、百人いれば、百の現実があることは認められている。それなら百一番目を知る人は、人間世界に「ない」はずなのである。唯一客観的な現実があったとしても、それを実際に述べることができる人は、この世に一人もいない。

 それなら、それを知る人を一人、別に立てればよろしい。それが唯一絶対神である。神は全知だということは、そのことを意味している。神はすべての詳細を知っている。

 ――養老孟司著『養老孟司の人間科学講義』(筑摩書房、2008年)138頁

【代役】


「はああ!? 自分が言ってること分かってんの?」

 閖が純葉に云い放った台詞だ。

 激高している様子がお分かり頂けるだろうか。

 事の次第は以下の通りである。簡潔に述べる。

 聖劇の脚本でガブリエルの台詞が長いと云う懸念を純葉が抱いて居たのは既知なのだが、その事が今回の問題点となっている。指摘された際に修正しておけば、何も問題が起こらなかったのだろうが、起こってしまっては事態の収拾に努めるのが誠意と云うものだ。

 ガブリエルに配役された生徒が長台詞を覚え切れないと音を上げてしまい、純葉に相談した後、閖に台詞の修正を依頼すると決めたのであるが、当の本人がその修正を頑なに断るので、だったら自分が演じろと純葉が押しつけて来た。

「無理言ってんじゃねえ! ちょっと文句あるから、ソイツ連れて来いよ」

 ぐつぐつと腸が煮え返り、震える肩をどの様にして鎮静させるべきだろうか。

 閖の鋭い視線が純葉を容赦無く突き刺した。

「今日は休んでるわよ! 貴女が代役にならないなら、さっさと台詞を書き換えなさい! そうすれば、役を代わらなくて良いし、あの子も頑張って役を演じきれるわ。融通が利かないのが分かってるから、こうして私が出張ってるんじゃない。はああ、手間ばかりかけるんだから」

 額に手を当てて、純葉は首を振った。

「この前、ガブリエルの台詞は覚えられるって言ってたの、嘘だったんだ?」

 閖が舌打ちをした。

「言ってない、やる気があれば出来るんじゃないのって意味」

「じゃあ、あの子はやる気が無いって言うの?」

「かもね……」

 視線を逸らして、閖は頬杖を突く。

 純葉は蹴りの付かない会話に頭を抱えた。

 其の状況を見兼ねた千代が口を挟んだ。

「良いかな、本人は如何言ってたの?」

「無理かもって……」

 千代も苦悶の表情を浮かべた。

「蛇草さんは台詞を変えたくない理由があるの?」

「役者ってなりきる者でしょ、その役者がなりきれなくて台詞を変えることが許されるとでも? 私は聖劇を汚すつもりなんて無いから」

「歩み寄っても良いと思うんだけれど……」

 純葉はぼそっと呟いたが、ピクリと閖の肩が揺れた。

「仮に、他の仕事はありますか?」

 千代が純葉に訊いた。

「役者以外の仕事なら沢山あります。脚本を書き終わった蛇草さんにも手伝って頂こうと思っていたところです」

「ええ~」

 閖は顰め面をした。

「何よ」

「別に……」

 千代は考え込んでいた。

 役者の意向に添うのか、飽くまで聖劇に拘るのか。

 其の判断は大人が下しても良いのか、生徒に委ねた方が良いのか。

「長利さんは如何したいのですか?」

「なりきるのが役者って意見には、賛成しなくもないです」

 純葉は妥協点を見付ける事が出来た様だ。彼女は絞る様に述べた。

「蛇草さんは?」

 顔を伏せて、閖は両手で蟀谷を揉んでいた……黙っている。

 僅か乍ら唸り声が聴こえて来る。

「何か言いなさいよ」

 閖の肩を掴んで、純葉が揺さ振る。

 何も言わない閖に苛立ちを隠せないのだろう。

「ちょっと!」

「止めなさい!」

 余りにも閖に激しく当たるので、千代が純葉を引き離した。

 振り解こうと抵抗する其の躯を確りと取り押さえる。

 純葉の表情に悔しさが滲む。

「書き換えないってんなら、てめえがガブリエルやれよ」

 塵を投げ捨てる様に、気持ちを吐き捨てる。

 語気が荒く、其の言葉も強気だ。

「演じてみせろよ!」

「良いよ……」

「余裕なんだろ、書き換えないんだからなあ」

 千代は純葉の制御で精一杯だったが、閖の声を微かに聞いた。

 か細い呟きで詳細までは分からない。

「長利さん、黙って」

「はい?」

 閖は顔を上げた。前髪を掻き上げて、挑発的な視線で睨み上げる。

 其の表情は迷いの無いものであった。

「やってやる、私がガブリエルを演じ切ってみせる」

「凄い自信ね……」

 千代は純葉を解放した。

 純葉がゆっくりと一歩踏み出す。

 純葉の開いた口は塞がっていない。

 閖の変わり身が信じられない様だ。

 演じろと云う命令に従っただけだとしても、素直過ぎるのだ。

「ほ、本当にそれで良いの?」

「あゝ、もちろん」

「本番まで、あと一週間もないけれど……」

「上等!」

「マリア役は湯谷さんよ、上手く出来る?」

 一瞬閖は返答に窮したが、

「任せなさい」

 頚だけ捩じり、純葉が無言で千代に意見を求めた。

 千代の口が開かれるのを待つ。

 結局、千代が決断を下す。

「良いでしょう、やってみなさい」

 机の端を叩き、閖が右手の人差し指を力強く突き立てた。

 純葉は漸く肩の力を抜く事が出来た。

「音を上げる事は許されません。長利さん、余り時間はありませんが、厳しく行きましょう。何せ此れは単なる劇ではありません。聖なる劇――聖劇なのですから」


 ※※※


 閖は覚悟を決めた。

 この聖劇を成功させる為には、何よりも閖と凉の仲を修復しなければならない。

 悠長には構えて居られない。

 劇は生物(なまもの)だ。役者の駆け引きが物を云う。

 視線を絡ませ、呼吸を合わせ、会話を応酬させる。

 心臓の音を調律し共鳴させろ。

 嬌名などは後から付いて来る。期待するな。

 見据えるべき者が其処に居る限り、視線を逸らすな。

 ――逃げるな。

 其れは乗り越えられる壁だ。

 乗り越えられなければ抑々壁に為らない。

 壁の体ならば、乗り越えられるべき物なのだ。

 挫かれるな、不屈であれ。

 無暗に求めず、固定せず、期待せよ。

 霊鬼を避け、穢れを祓い、浄められよ。

 喧然歉然を静め、顕然たる健全が安寧也。

 閖と云う少女の在り様に迫る。


 ※※※


 放課後に集会所で話し合う約束を、閖は純葉を通して凉から取り付けた。

 クリスマスを待てば、後の祭りとなってしまう。

 覚悟を決めた――はずだったのに。

 集会所のソファに坐り乍ら、閖は身震いしていた。

 マグを握る手が小刻みに震えている。

 神父に入れてもらった毎度お馴染みのココアだ。

 温まったマグを包む掌は温かく、手の甲は逆に冷たい。

 暖房が利いているはずのこの部屋が自棄に寒く感じる。

 机の上に置いてある複写脚本の一点を見詰めている間、視界の端はぼやけるので視ている様で見えていない。その視点が定まらなくなると、次第に文字は二重に見える。

 其の傍で神父が心配そうに見守っている最中、予定の訪問者が漸く現れた。

「遅くなって、ごめんなさい。委員会の仕事に手間取っちゃって」

 瞳孔の開き切った眼球をギョロリと剥く。

 凉を視界に捉えた矢先、閖はソファから跳ね上がった。

「神父様、お久し振りです」

 凉の挨拶に神父が手を挙げて応える。

「オ久シ振リデスネ。如何シマスカ、ココアデモ淹レマショウカ?」

「お願いします、お手数でなければ」

「ナアニ、気ニシナイデ下サイ」

 腰を上げ、神父が奥へと姿を消した。

 閖はずっと立った儘であった。

 凉と向き合う時が遂に来たのだ。

「いらっしゃい」

 口腔に溜まった唾を呑み込み、閖は机の向かいのソファを勧めた。

「今日は来てくれてありがとう」

「私たち友達だよね?」

 予想外の質問に如何答えれば良いのか分からず視線を泳がせ、閖は口を噤んだ。

 穴が開くとは正にこの事であろう。

 凉は閖の顔をまじまじと観察していた。

「……す、座って。私も座るから」

 脱力を心掛ける様に息を吐きつつ、凉は勧められたソファに坐った。ランドセルを足元に置いて、机の脚本に視線を落とした。

「練習――してたの?」

「あゝ……そう、そうなんだよね。ガブリエルはお喋りだから台詞が長ったらしくて、舌が付いて来ないし回らないしで、暗記だって大変だよ」

「閖ちゃんが自分で書いたのに?」

「自分で書いても、それを覚えるとすれば、話は全く違うからね」

「そうなんだ」

「……そうなんだ」

 閖が凉の言葉を復唱した。

 其の行為が如何に馬鹿であったかを、口に出した途端に実感した。

 苦笑いで誤魔化そうにも、何だか虚しい。

 神父がマグを凉に渡して、二人の様子を見守れるカウンターに控える。

「マリア役はどんな感じ? 大丈夫?」

 おずおずと切り出す様子が、如何も閖らしくない。ぎこちなかった。

 遠慮した視線が凉の視線と絡む。

「大丈夫にするしかないよ。役者は演じ切らないとね」

「聞いてたんだ」

「あれだけ大声で言い合ってれば、聞くなって言われても無理だよ」

 凉がココアを冷まし乍ら啜る。

「スゴイね」

「何が?」

「あれだけ言われたら、私だったら黙るしかないかも。セリフ変えちゃうと思うし、普通あんなに言い合いは出来ないよ。本気なんだなって伝わって来るし、どうしてそんなにも強いのかなって憧れる」

「強くないよ」

 閖は弱々しく答えた。

「強くないと立ち向かえないよ。長利さんは私、一寸苦手だし、あの強気さで来られると、顔なんて見れない」

「顔なんて見なくても言いたいこと言えば?」

「嫌われたら?」

「好きになってもらいたいの?」

「嫌われたら、しゃべってくれないよ」

「嫌われたくないんだ」

「普通そうじゃないの?」

「普通って何?」

 閖が苛立たしく睨み上げた。

 凉は口元に手を当てて、視線を逸らした。

「好かれるんじゃなくて、嫌われたくない」

「そんなんじゃ……」

「そういうことじゃないの?」

「え?」

 凉は視線を上げて、閖の顔を見た。

 驚いた事に、其の表情は穏やかだった。

「何に、脅えているの?」

 人と向き合った際に脅える事とは何だろう。考えてみる。初対面で最も印象を与える要素が外見であるのは有名であろう。其れは誤解、全ては誤解から始まった。

 顔の表情、髪型、服装、身長、姿勢――、

 ――声色、口調、喋る速さ、呼吸のタイミング、

 何よりも視線――。

 視線が刺さる以上に貫通する。

 視られると粗を探されている様で堪らない。

 其れは気の所為と云わざるを得ない。

 相手は外見しか視えないからだ。

 では、誰が粗を視ているのか。自分以外には居ない。

 視ない様にしていたのに、視線の方向が気になるから、視てしまう。

 相手と視線を合わせた状態だと、如何やら此方を視ている様だが、其の行き着く先が如何も分からない。“私”を視ている事だけは分かる。

 其の意識が“私”を丸裸にする。

 此の誤解が視線を怖れる理由である。

 閖の見せた表情は凉の(ざわ)めきを宥めた。

「なあんだ、大丈夫そうじゃない」

 緊張が緩み、凉は此処へ来た理由を思い出した。何に置いても、閖と仲直りする為ではなかったか。そうならば、本人が目の前に居るのに、如何して歩み寄らずに逃げているのか。心の表層に上がった時、初めて閖を真っ直ぐ見た瞬間であった。

「……閖ちゃん」

 閖が急に立ち上がり、

「ごめんなさい!」

 と深々と頭を下げた。

 凉は何に謝られているのか分からず、距離を取ろうとするも、背凭れに阻まれるだけであった。

「ごめんなさい、あの時は怒鳴ったりして! ずっと言わなくちゃって思ってたんだ。でも、シナリオは絶対に手が抜けなかったし、アレもあったし……何だかんだで、ちょっと機会が無かったしで……」

 凉の漏れる笑い声に、閖は腰を曲げた儘で顔を上げた。

 凉は目元を拭っていた。眼が少しばかり潤んでいる様だ。

「何で笑ってんの!? こっちは真剣なのに」

「ごめん、ホッとしちゃって……閖ちゃんと仲直りできないかもしれないって思ってたから、嬉しくて……今まで凄く不安だった」

 綻んで、閖はソファに腰をドッサリ落とした。

「私たち友達だよね?」

 凉は同じ質問を繰り返した。声の調子は弾んでいた。

「あゝ、うんん……」

 頬を赤らめ、閖は恥ずかし紛れに外方を向いた。口を尖らせ、吹けもしない口笛を吹こうとしている姿が微笑ましい。

「口笛、吹けないんだ」

「うっさい!」

 閖の照れ笑いを視て、凉も笑う。

 無事に仲直り出来た様で、安心する。

 子供は素直に為れる。下手な意地が無いからだ。

 其の一連の様子を眺めていた神父が閖の隣のソファにぎこちなく座った。

「神父様」

「如何ヤラ、仲直リ出来タミタイデスネ。良カッタデス」

「ココア、ありがとうございました」

「見世物じゃないんですけど」

 閖が露骨に不機嫌な態度を取った。

「全ク、閖サンハ相変ワラズデスネ。此レガ話題ノ“ショーカラ娘”デスヨ」

「何でその話、知ってんの!? あのジジイ、しゃべったな」

「コラコラ、凉サンノオ祖父サンヲ悪ク云ワナイ」

 閖は凉を気に掛けた。

「ご、ごめん」

「お祖父ちゃんと仲良いの?」

「ま、まあ……」

 笑って誤魔化す馬鹿が居る。

「最近ダト、学校ノ図書館ノ書庫デ」

「だから、ぺらぺらと喋るな!」

 閖は神父の二の腕を軽く叩いていると、手元が覚束ないのか、凉が躯をふら付かせ乍らランドセルを漁っているのを視界の端に捉えた。

「ど、どうしたの……大丈夫?」

 大丈夫と呟きつつも呼吸を整えようとする凉の様子を気丈だ、と見做すのは困難だろう。何よりも顔面蒼白で震えている。手先の神経が疎くなっているのか、動かし辛そうである。

「神父様……み、水を……頂けますか?」

 凉の呼吸は乱れていた。視るからに苦しそうだ。

 神父は凉のマグを握り、奥へと飛んで行った。

 ランドセルから凉が取り出したのは、内服薬と明記された紙袋だった。

「……薬」

 上体を起こして凉は背を凭れたが、閖にはその表情と視線が余りにも虚ろで絶句した。

 神父が戻り、凉に水入りのマグを手渡した。

 薬を飲み込んだその表情に閖は安堵を覚えた。

「片頭痛なんです……あゝ……神父様、横にならせて、下さい」

「片頭痛なんて持ってたっけ?」

「なんか……急に、最近になって……」

「そうなんだ。ツラい、よね?」

「ええ……でも、薬飲んだから、もう少しすれば、楽になるから……」

 閖と神父が見守っていると、凉が話してて良いよと云った。

「そ、そうだ、じゃあさ、アレ話してよ。この前のヤツ!」

「エエット、何デシタッケ」

「とぼけないで良いから!」

「何ヲ話シマショウカネ……」

 神父は顎を撫でた。

「以前は、何を、話されたんですか?」

 凉が会話に加わろうとするが、未だ苦しそうだ。

「何デシタッケ、閖サン?」

「えっ、私に振るの? そうだねえ、ええっと……脚本を書いてて分からなかった所や色々宗教について、だったかな。学校だと当り障りのないことしか教えないと思うから、まあ……神父様からだと具体的な話で考えさせられる」

「考エタ方ガ良イデスネ」

「……やっぱり脚本って書くの、難しいの?」

「何を書くかで違うんじゃない? 聖劇だったら、『新約』と『クルアーン』の一部を使って書いたよ。それに千代ちゃんが書庫の過去分を見せてくれたしで、助かったかな。過去分を最初から見せてくれていたら、丸写しで良くね? って思ったけど、キャラの口調や私の小さなわがままを許してくれたことは……感謝なのかな、よく分かんないけど!」

「……大変だったんだね」

「楽しかったから、別に」

「私も、演じ切ってみせたい!」

 凉は上体を起こし、太腿の上で拳を握った。

「もう良いの?」

「もう平気だよ!」

「其ノ意気込ミヤ良シ。私ガ教エラレル事ハ子供ニトッテハ多イカモ知レマセンガ、身ニ付ク事ナド高ガ知レテイマス。デハ、私ニ出来ル事ハ何ナノカト云エバ、導ク事ダト思ッテイマス。何ヲ信ジルカハ人其々デスシ、人ノ数ダケ亦真実モアリマス。私ノ感覚ト貴女達ノ感覚ガ違ウ様ニ、其ノ感覚ダケデ受付ケナイ事ハ沢山アリマス。好キダトカ嫌イダトカノ感情ニ振リ回サレルト、何モ視エナクナリマス。其レハ絶対ニ避ケナケレバナリマセン。私ハ貴女方ニ伝エタイ事ガ数エ切レナイ程アリマス」

 神父は粛々と語った。押し付ける態度は一切感じさせず、寧ろ願望に近い淡い希望を抱いているかの様に、その目元は細い。

 彼の態度は師匠を慕う弟子其の物である。

 閖達には神父の態度が奇妙に視えているだろう。不安よりも心配の念が勝っているだろう。彼女達が感じたものは憂えに他ならなかったからだ。

「じゃあ、伝えなよ」

「私たちが引き継ぎますから」

「子供だからって、舐めんなよ」

 閖が神父の肩を拳で小突いた。

 笑顔が眩しい。無邪気で可能性に秘めたその表情が、――神父には痛い。

「今直ぐって訳には行かないけど」

「神父様の気持ちは伝わって来ましたから」

「……だから、さ」

「そんな淋しそうな顔、しないで」

 自分の表情は誰もが確認出来ない。

 神父は頬を撫でて顔の皮膚を揉んでいると、その眼から涙が零れた。

 感極まった様だ。

 神父は死に行く存在で、一方閖達は此れから生き抜く存在だ。此れまでの歩みと此れからの歩みが、この様に続いて行くのだと提示される。

 命の在り方はその躯に収まる以上に壮大だ。

「有難ウ御座イマス」

 神父が頭を下げた。その所作は実に丁寧であった。




【聖劇の背景】


「で、何を教えてくれんの?」

 閖が気持ちを切り替える様に、神父に訊いた。

「何故、聖劇ヲ行ウノカ御存知デスカ?」

「お祭りじゃないの、ねえ?」

 閖が凉に促す。

「小学校で習ったことのまとめ、でしょうか?」

「実ハ厳正ナ儀式ダッタノデス」

 儀式と云う言葉に、彼女達の表情が若干曇った。

 儀式と云われれば、宗教色が濃い。

「貴女達ノ役ハ何デシタッケ?」

「マリア役です」

「……ガブリエル」

「聖母ト大天使デスネ。大役ジャナイデスカ、素晴ラシイデス」

 神父が拍手で応えた。

「こっちは立候補したんじゃないんだからね! 脚本やっと完成させたと思ったら、次は役者をやれたあ、どういうことなの!? 図々しいでしょ」

「マアマア、閖サン、落チ着イテ下サイ。納得サレタノデスヨネ?」

 閖は渋々頷いた。

「如何デスカ、凉サンハ?」

「やるしかありません。私はもう決心しましたから」

「デハ、誰カヲ呪ッタ事ハアリマセンカ?」

「ある訳ないでしょ!」

「さしも呪ったように言わないで下さい!」

「反応ガ激シイデスネ」

 茶化す様な口調は挑発を誘う。

「だって、人を呪わば穴二つ用意しないといけないんですよね? 自分も死ぬ覚悟が必要ということですよね?」

「ソウナノデスカ?」

「ことわざだよ!」

「如何ヤッテ呪ウノデスカ?」

「藁人形でしょ!」

「発想ガ貧相デス」

「五月蠅いわ!」

 神父は閖から視線を逸らした。呆れる。代わりに凉に向けた。

「……丑の刻参りですね」

「嫉妬深い女ノ所業デス。貴方ヲ殺シテ私モ死ヌ、ト云ウ常套句。考エテ視テ下サイ、人ヲ殺シテ冷静デ居ラレマスカ?」

「……居られるとは思えませんけど」

 閖は眼を伏せて考え込んでいた。

「閖サン――?」

 神父が呼び掛けて覗き込んだ。

 閖は流し目で告げる。

「分からない……、人を殺す覚悟って相当なものでしょ。私が脚本に向かった時のように、それしか視てなかったら、きっと……」

「キット……何デスカ?」

 姿勢を正して続ける。

「否、聞カナイデ置キマショウ。サテ、丑ノ刻参リノ呪術デ神木ニ打チ付ケル藁人形ニハ何ガ施サレテイルノデショウカ?」

「丑の刻参りは見せしめでしょ? その対象に意識させることが目的で、呪われる原因を探させるから、悪いことが起これば、過去の行いが悪かったと思わせるようにね。そうすれば、呪った人が復讐されることもないから」

「因果応報――ソウ云ウ考エ方モ出来マスネ。人ガ思イ当タル事ナド、些細ナ事デス。信号ヲ無視シタトカ、多ク貰ッタ釣銭ヲ返サナカッタダトカ、人ノ悪口ヲ云ッタダトカ――。シカシ、閖サンガ先程オッシャッタ様ニ、人ヲ呪ウ事ハ相当ナ事デス。丑ノ刻参リヲスル為ニハ、決メラレタ時刻、衣装ヤ小物、欠カセナイノガ藁人形デス。ソノ決心ヲ固メタナラバ、一切ノ精力ヲ此ノ儀式ニ注ギマス。魂ヲ注グト云ッテモ間違イハアリマセン」

「魂を注ぐ……」

 閖達は唾を飲み下した。

「魂ガ注ガレタ藁人形ニ釘ヲ打チ付ケル事デ、同時ニ呪ッタ人ノ魂ヲ釘付ケニシテ、自分ヲモ殺シテイルノデス」

「うわあ、怖いわ」

 閖が背筋をのけ反らせ、深呼吸した。

「凉ちゃん家の神社にはそう云うの無い?」

 凉は口元に手を添えて脳裏を探った。

「どうだろう、お祖父ちゃんに訊いてみないと分かんないかな」

「圓生サンナラ、詳シイデショウネ。機会ガアレバ訊イテミタラ、如何デショウ」

「藁人形に名前書くんでしょ?」

「星座モ含メルト良イデスネエ」

「あとは?」

 閖は興味津々である。

「髪ノ毛ヤ所有物ヲ手ニ入レルト良イデショウ」

「……あのお」

 凉が空気を読んで口を挟む。

「何?」

「神父様、こういうことは余り詳しく教えない方が良いんじゃ……」

「別に良いっしょ。マジでやる訳じゃないんだし」

「神父様?」

 凉は神父の顔を窺った。彼女自身が彼の魂胆を見い出せないで居たからだ。

「ソウデスネ、余リ宜シクハ無イデショウ。少シ説明スルノニ遠回リシテシマイマシタ。デハ、話ヲ戻シマショウ」

「聖劇と呪術にどんな関係が……」

 遠回りしなければ、説明にならない事がある。結果だけを求める輩は時間的考慮が欠けている場合が殆どである様に、物事には順序が在る。腰を据えて聴こうとしない者は同じ土俵にさえ上がって居ないので、相手にするだけで時間の無駄なのだ。

「呪術ノ場合ソノ力ノ方向ハ外向キデスガ、聖劇ノ場合ハ内向キナノデス」

 閖が不快な表情をする。ピンと来ないのだろう。

「注グノデハナク、取リ込ミマス。ソノ役ヲ演ジル事デ、ソノ人物ノ神聖サヲ身ニ纏ウト云ウ厳粛ナル儀式ナノデス」

「聖母は『無原罪の御宿り』……」

「……エル・グレコ――」

 神父が反射的に呟いた。

「……ガブリエルって何? いやあ、天使なのは分かるけどさあ。それに比べて、聖母だと穢れ知らずじゃん。処女、処女!」

「ち、ちょっと! 連呼しないでよ! 恥ずかしいよ」

 神父は微笑んで見守っていた。

「凉サンニハオ似合イダト思イマスヨ」

「えっ、何で?」

「未来ノ(かんなぎ)デハアリマセンカ」

 閖は納得して指を弾いた。

「あゝ、なるほどね」

 閖と神父が凉に視線を注いだ。閖の方が熱い。

 堪らず、凉は座り心地を直すには落ち着かず、もじもじと身を縮めた。

「悪い虫が近寄らないように気を付けないと!」

「全ク閖サンノ云ウ通リデス」

 何やら、無駄に意気込む二人であった。鼻息は荒く、肩を震わせ、眼球が血走っている。凉が危ない! 明日を待たずに犯されんばかりである。冷静になるが良い。

「マア、閖サン、落チ着キマショウ」

 神父が閖の肩を押え、椅子に坐り直させた。

 凉は溜息を吐いて胸を撫で下ろした。

「凉サンハ、何時カラ実際ニ巫ニナルノデスカ?」

 凉は頬を掻いて、

「中学生になってからだと思います。今は手伝えたら手伝っている感じです」

「応援シテマスヨ」

「ありがとうございます!」

 はにかみ乍らも、凉は満面の笑みを輝かせた。

 閖も笑顔になった。

「じゃあ、帰るわ」

 閖が立ち上がり、帰り支度に取り掛かった。机に広げた脚本の複製を纏める。

「わ、私も……」

 凉は机に二つのマグを寄せて置いた。

「今日ハ早イノデスネ、此処デ聖劇ノ練習ヲシテモ構イマセンヨ」

「いや、今日は凉ちゃんに謝りたかっただけだし……それに、あの刑事らが来ると五月蠅いから、もう帰りたい。台詞を覚えるのは家でも出来るし」

「嗚呼、確カニ」

 神父は苦笑いを禁じ得なかった。肩で堪え乍ら笑っている。

 閖は凉に視線を送らなかった。仲直りしたとは云え、未だ顔を視るのが照れ臭いのだ。黙々と出した物をランドセルに詰めて行く。

 凉は身支度を終えていた。

「神父様、マグは流しに」

「否、其ノ儘デ良イデス。私ガ片付ケマスカラ」

 凉は二つのマグを運ぼうとするのを制止させられたので、机にそっと戻した。

 ランドセルを背負い、閖は肩に馴染む箇所を確かめた。

「じゃあ、さいなら」

「さようなら、神父様」

 彼女達は神父に手を振り、集会所を後にした。


 ※※※


 子供達の声が無くなった寂しさに浸る神父が、黄昏の視線を入口に向けていると、近付いて来る件の刑事の姿を捉えた。相変わらずの猫背で、その表情は若干強張って視える。連日の訪問であった。

「失礼しますよ」

 稔の態度に躊躇さは無いのだろう。真っ直ぐ見据えて、敷居を跨ぐ。

「閖サンナラ先程帰リマシタヨ。入レ違イマセンデシタカ?」

「こちらに向かう途中で会いました」

「ソウデスカ……デハ、何ノ御用デスカ?」

 稔は神父の向かい側のソファに無言で腰を下ろした。

「聊カ不躾デハアリマセンカ?」

「今日は貴方に用があります。アラン神父」

 腰を曲げ、上目遣いで挑発的に構え、語り始める。

「未だ、あの事件は解決していません。菊一周は依然と指名手配中です。捜査で、菊一はこの地域に潜んでいるとしか思えないんですよ」

 神父は手元に視線を落としていた。稔を視るや否や、含み笑いを漏らした。

「モウ昔ノ様ニ感ジマスヨ」

「他人事みたいに仰いますね」

「私ガ興味ヲ抱コウト抱クマイト、事件ノ解決ハ警察ノ仕事デショウ?」

「異論は御座いません。此処に私が居るのも捜査の一環です」

「何モ話ス事ハアリマセン」

「事情聴取と判断されましたか。菊一は能く協会に出入りしていたのは捜査上明らかになっている事実です。信者だった」

「……何ガ云イタイノデショウカ?」

「はっきりと申し上げても?」

「構イマセンガ?」

 互いの態度に譲ると云うものは無かった。

 正義は何処に在る――。

 確信だけが共有しているモノだった。

「私達は貴方が菊一を匿っているのではないか、と疑っているのです」

「家宅捜索デスカ? ドウゾ調ベ上ゲテ下サイ! ソノ位ノ協力ハ厭イマセンヨ」

「ご協力有り難く思いますが、本日は違う用事もあるんです」

「何デショウ?」

 稔が懐を漁っている。

 拳銃――ではなく、何かの用紙を取り出した。

「此れを読んで頂けますか?」

「ハテサテ、ドレドレ」

 神父は其の用紙を受け取り、開いて読み始めた。

 如何やら手紙の様だ――。


 ※※※


聖誠院小学校

校長 森内匡 様


 謹んで申し上げます。

 この度は、御小学校が今月に開催するクリスマス・ウィッシング当日、御学童らを天国にお送り致しに参ります。

 年の瀬もいよいよ押し詰まりし頃、相も変らぬ御学童らのお元気な笑い声が私の耳を擽って御座います。其れは微笑ましい事です。その様な無垢で穢れの無い声は現実と云う辛い日々を過ごす上で、この上ない活力を与えて呉れます。

 然し彼らも亦私と同様に大人に成り、人生に憂えを感じる時が来ます。純粋に笑う現状の彼らからは考えられない事で、其の将来を思うと悲観的に為らざるを得ないのではないでしょうか。教師の皆様方なら、容易にお分かり頂けると思います。彼らはそれ故、儚い存在です。笑顔が枯れ、皮膚に皺を増やす事がどれ程絶望的かを理解させる必要があります。

 時を止めるのです。彼らの無垢と純潔を守る事こそが私達、大人の使命です。確かに教育で彼らを導いてあげる事も大切ですが、彼らの背後にあるモノを守る事も同様に考えるべきです。私は声を大にして主張します。

 私は彼らをこの世に居てはいけないと考えています。この世が彼らにとって危険だからです。この世は余りにも穢れ過ぎているからです。其れは成長に隠されています。大人は元々汚い存在では決してありません。何が大人をその様な存在に仕立てるのかと云えば、お金に縋っている世の中なのです。お金とは数字であり、形が無いモノです。紙幣に頼らずとも商品が購入出来る理由も此れに尽きます。

 お金が根本的な悪ではありません。お金に縋り、他に取り換えが利かない世の中の仕組みが悪です。お金が無ければ生活出来ない世の中が悪、お金が無くても生活出来る世の中が善と考えられます。形の無いモノへの執着は精神を病む原因と為ります。精神を病めば、煩悩が顕著に現れて来ます。視るが儘に三毒に呑まれてしまいます。その様な仕組みは全くの正義などでは無く、悪其の物なのです。俯瞰しているだけでは視えて来ず、お金を通した其の背景に見い出せるモノなので、掴み難く捉え難いのです。その影響が精神を病むと云う結果に結び付きます。日本が少子化に傾いている現状は、この様な世の中に生まれて来るのがどれ程不幸な事か大人達が理解していると云う事なのです。

 此れは犯行予告と云う下種な物では御座いません。勘違いされては私の真意に反します。私は彼らに涙を流させたくはありません。彼らが泣くと私も悲しく為ります。思い浮かべるだけで、この胸が締め付けられて痛いのです。

 この世にこれ以上留まる必要を考えては居りません。御学童らと御供致します。

 私を止める事は悪の所業だとお分かり頂けたと思います。

 私の切なる願いを認めた次第で御座います。


 如何か、神の御加護があらん事をお祈り申し上げます。

                                  謹言

  平成○○年○○月○○日

                             〒○○○-○○○○

                      ○○県○○市○○ ○-○○-○○

                            ○○ハイツ○○○号

                                 ()(ずみ)(あお)()


 ※※※


 神父は読み終えると、手紙を折り畳み机上に滑らせ、稔へ返上した。

 溜息の様に、力無く口を開いた。

「何デスカ、此レハ――? 逮捕シテクレ、ト云ッテイル様デスネ。ゴ丁寧ニ住所マデ……、然モ近所ダ。凄ク丁寧デス、此ノ犯行予告文章」

 神父が熟読している最中、稔は片時も視線を逸らさずに監視していた。

「ニュースで観ていませんか?」

「観テイマセンネ」

「そうですか……」

 稔は手紙を懐に戻した。

「この名前に覚えはありませんか?」

「……アリマセンネ」

「神の御加護を――だなんて、普通の日本人が言いますか?」

「如何デショウカ」

「私は言いませんよ。信者なら、その限りじゃないと思いますが」

「逮捕シテイナイノデスカ?」

「身柄は既に特定しています。懲役では無く罰金で事なきを得た――と云う様子でしたが、そうは行きません。クリスマス・ウィッシング後日まで監視付きで自宅に引き籠らせています。拘置所も可能でしたが、人手とか食費とか……アレですので、まあ」

 稔は無言で再び懐に手を突っ込んだ。手にしたのは写真だ。

「この顔に見覚えは?」

 眉間に皺を寄せ、険しい表情だ。

 神父は黙っている。

「ピンと来ているはずです。何せ、彼は――神父! この男も亦、貴方の管轄している教会に通っていたのですから」

 神父の表情は崩れない。其れ処か、弛緩すらして居る様子が窺えた。

「犯罪者ノ罪ヲ其ノ信仰ニマデ転嫁サセルノデスカ?」

「経緯を辿るのも真相を探る為に必要です」

「私共ニハ関係御座イマセン」

「最近、聖誠院小学校に関連する犯罪が多発していると思いませんか?」

「私カラハ何トモ……」

 何処からか、振動音が鳴った。携帯電話の着信だろう。

 稔がポケットを押えた。

「出テモ構イマセンヨ」

 稔は取り出して、携帯電話の着信画面を確認した。表情が曇る。

「済みませんが、此れで失礼させて頂きます。お騒がせしました」

「構イマセンヨ、私モ忙シイ身デスカラ」

 神父は気さくに笑い飛ばした。

 稔が立ち上がり、軽くお辞儀をして踵を巡らせた。




【不細工】


「おはようございます!」

 教室の入り口で隅々に届く挨拶をする千代は立ち止まり云い直した。

「おはよう! ございます!」

 其れでも生徒からの挨拶は一つ二つしか返らず、元気が無く余所余所しさすら感じられた。千代の声を聞くや否や着席し、十分間読書を前倒しで始めてしまう。

 千代は肩を落とした。朝の第一声が肝心だと云う意見は全く以て其の通りだ。挨拶とは交わすモノであるからこそ、返して呉れる相手を要する。此れでは独り騒いでいるだけではないか……空回りである。創意工夫で乗り切れば問題無いのだが、彼女の機知の閃きは残念乍ら鈍い。研げば一流に化ける可能性は秘めているだろう。発展途上なのだ。潜在的能力は未だ知られなかった。

 出端は挫かれ、気分に影が差した。

 窓越しの空も曇っていた。

「入れませんけど……千代ちゃん」

 背後からの声にたじろいだ千代は柱に背を預け隙間を開けた。

「嗚呼閖さん、おはようございます」

「……おはようございます」

 上目遣いに閖は微笑んで、教室の中を指差した。

「何、入らないの?」

「這入りますよ。其れにしても遅刻寸前じゃありませんか」

「遅刻しなければ良いでしょ」

「そう云う問題ではありません。もう少し早く来れば、クラスの皆と話せるし遊べる時間も増えるでしょう」

「朝が弱いのよ」

 閖は欠伸の演技で誤魔化そうとした。

「朝が弱ければ簡単に倒せるはずですが」

「早く来たって何もする事ないし暇なだけで、それこそ時間の無駄だと思う」

「無駄だからと言って必要無しとは言えませんよ」

「蛇足ね」

 蒟蒻問答である。

 予鈴が鳴り始めた。

 千代と閖は漸く教室に這入った。

 ホワイトボードの脇、窓際の席に座り納得の行かない表情で、千代は栞の差し込まれた頁が紡ぐ物語に身を寄せた。此れはあの司書から頂いた同人誌である。


 ※※※


「峠の不法投棄って――」

 ()()()は口を挟んだ。

「最近、外から来る奴が多い。そいつ等の仕業に違いないさ。俺達が小学生だった頃に田圃だったあの地域は、田舎暮らしを満喫するんだってやって来た都会の奴等が土地を埋め立てて、陣取っている。俺の先祖の土地だって潰された……珠羅、お前の家もそうだったよな。ブームだの何だのと知らないが、丸で侵略者だ! 侵略者は現地民を追い立てようとして、住み心地を悪化させるのさ。企業から買った土地だから切りは無いだろうけどよ……態々(わざわざ)町長に挨拶までするってえのは少々度が過ぎるが、この土地で共に暮らすんだ。一緒に住みます、宜しくお願いします位の感謝は持つべきだとは思わないのか! それなのに、恩を仇で返しやがって、変な集団まで――」

「――“天女の集い”」

「そうだ、そんな名前だったろうが今は如何でも良い。俺は変な集団がこの町に這入り込んで、暗躍でもしていると考えただけで、もう気分が悪くなる――」

 と云い乍ら、真優仁は赤く腫れた(たま)()の白い肌を優しく愛でた。蚊に刺された其の箇所は汚点であり、逆に目立ち過ぎる。否――此の純白に感化されて其の蚊も引き寄せられたと云うのならば、話は別である。と云うのも人外をも引き寄せる代物だと示した訳で在るからだ。

 珠羅の其の脚は決して細くは無いのだが、妖艶な魅力を放って居る。抑々の脂肪分、脹脛から(あしくび)までの曲線、そして太腿の柔らかさが視覚的に美を体現し虜にさせる。

 初めて其の魅力に気付き言葉にしたのが、真優仁自身では無い事が逆に恨めしい。其の人物こそが果たして達家(たつけ)(なかば)で在るが、思いの外に彼の着眼点は驚くべきモノで在った。宛ら恋のキューピッドで在る。然し恋のキューピッドなど彼本人にとっては全くの皮肉でしかなく、其の事を意図した訳では更々無かった。

 事実上、真優仁が惹かれたのは珠羅が“視た”事に因るのだった。

 夢を見る、

 時計を見る、

 ――劇を観る、

 ――熱帯魚を観る、

 此の様に珠羅は決して見なかった。

 珠羅は真優仁を、

 ――存在を視ていた。

 視軸で視ていたのだった。

 掴まれたと云う印象を真優仁に与えたのだ。

 実際には眼と眼と、視線と視線とが繋がり其の基で認識に至るのだが、珠羅の視線は其の先に在る眼をも貫き通す眼力を宿している。正に“射抜いく”と云う表現だ。

 何時しか真優仁は彼女を通して其の眼力を得ていた。

「それで気は晴れた訳?」

 頭上からの冷めた声が鼓膜を揺らす。脳が動作停止を命令している。真優仁は其の声色から、珠羅が何かの理由で機嫌を損ねているのだと即座に察した。然し乍ら、其の原因に思い当たる節は無かった。思案を神速で巡らせるが、如何しても分かり兼ねた。全く身に覚えが無かったのだ。然し珠羅は現に不機嫌である。

 不機嫌は歓迎すべき状況ではない。そうであれば機嫌を取っては如何か――。

 麗しい純白を目前にして、そんな事は些細な事であった。只、真優仁は其れを堪能して居たに過ぎない。己に誠実で居たのだ。

「簡単に気が晴れれば苦労はしない」

 珠羅の顔を窺うべく、怖ず怖ずと真優仁は視線を上げた。

「――ただ俺はお前が愛おしくて仕様がないのさ」

 冷徹な視線は降り注ぎ、悉く穴と云う穴を射抜いた――突き刺した。其の視線に磔にされた上に、視線さえ逸らす事を許さない。弛緩していた口元は痙攣し始め、声に為らぬ息でさえ喉に詰まる始末だ。洒落にも為らない。

「気が晴れるに越した事は無いよ。それに愛でられて悪い気はしないけれど、真優仁は別の手段を考えるべきだと思う……これじゃあ、丸で変態みたいでしょ……この好意を受け入れている私まで変態だと思われるのは好きじゃないな。今は人目に付いてないけど幾ら恋人だからって、恋人揃って変質者になるのだけは勘弁したいの。真優仁には暴走しない補償なんて一切無いんだから……その点だけは弁えて。聞き分けの良い子だもの、分かるでしょ」

 触れはしないが、声で真優仁を撫でた。視線は依然として冷やかで在る。其れで居て声だけは優しかった。

 其の温度差に腹を下したかの如く、真優仁は顔を顰めた。苦痛に表情を歪めた様にも捉え兼ねない。

「悲しい表情で訴えても駄目……男が下がるわ。そんな情けない顔は見せないで」

 珠羅の目尻は垂れ口角が上がった。母性溢れる微笑みだ。

「分かったよ――」

 真優仁は視線の桎梏(しっこく)から解かれた。

 周りの草木が戦ぎ再び突風が駆けたかと感じるや否や、ワンピースの裾は真優仁の頬を掠めて捲れ上がった。

「きゃっ――」

 津波が押し寄せる。呑み込まれれば溺れる身であるが、今回ばかりは溺れて仕舞うのも悪くないと真優仁は思った。水中では酸素を求めて足掻くのだが、此の状況に陥っては呼吸を荒げるばかりで瞬く余裕すら無い。裾が捲れ上がる瞬間は激しく、垂れ落ちる段階には凪の域に至っていた。

 今や漆黒のショーツは目の前に在る。既に真優仁の物だ。誰にも干渉されない空間を手に入れた瞬間は静止した。フリルが施された総レース越しの肌は妙に艶めかしく、途轍もない妖艶さを秘めていた。故に抗えぬ衝動に駆られた。欲情の念に呑み込まれる――自我は消え行く――。

 ――瞬時の出来事で在った。

「もお~いぃ~かあい?」

 其の粘着質な掛け声と共に、然し乍ら閉じた空間は強制的に抉じ開けられた。現実が開幕される。裾の左側が捲られ、澄んだ酸素が這入り込んだ。差し込む光で珠羅の肌白さは一層映えるのだ。


 ※※※


 ――如何した事か。

 這入り込めない。

 文字が追えない。

 溜息は漏れる――。

 手の甲に額を乗せ、耳を澄ませた。深としているが、頁を捲る指が紙を擦る音を聴く。指で机を小突いたり、鼻息と共に唸る声がした。

 其の様な音を拾っていると、十分など瞬く間であった。

 朝の会では黙想や朝の祈りを捧げる。最後は毎日交代する生徒のスピーチで閉じるのだが、最近は内容的に聞き手側の質問意欲が落ちていた。スピーチのテーマは自由だが、疑問力が高まるように挙手を暗黙の了解としている。スピーチが終われば、出席番号が書かれたゴルフボールを箱から引き、次の担当者を決める流れだ。

「では、スピーチに移りましょう。今日は誰でしたか?」

 覚えていないのでは無かった。挙手させ返事をさせる事で、自発意識を高めようと云う魂胆なのだ――狙いは良い。

 誰も名乗り出なかった。

「はい!」

 確りと挙手した生徒は廊下側の席中央に坐る純葉(いとは)だった。何ら躊躇う様子が無い。

「如何しました、純葉さんは担当ではないでしょう?」

「はい、担当の人がいつまでも前に出ないので」

 純葉が窓際の席に坐る閖を睨んだ。挑んでいる。

「閖さん?」

 千代は閖に視線を向けた。閖からの発言を待つ。

「……何言うか考えてただけです」

 肘を突いて閖は外を眺めた。態度が悪い。

「閖さん、前に出ましょうか。内容は前日に考えておくものですよ」

 千代が嫌な雰囲気を読み取った。

 閖は無言で席を立ち檀上した。純葉を見下す。

「クリスマス・ウィッシング当日まであと数日です。脚本を書き終えて、私の役目はとっくに終わったと思ったけど……今度は役者をしろと言われたので、ガブリエル役になりました……前に神蔵先生から役を演じたいのかと聞かれたけど、今は楽しんでます! 脚本兼役者は難しいかもと思ったけど、やって出来ないことはありませんでしたね! 私が演じるしかなかったんです。当日はがんばりましょう」

 閖は流し目で問い掛け、千代が手振りで先を促した。

「質問はありませんか?」

 以前なら粗全員が手を挙げていた。質問する姿勢が活き活きと感じられた。精力旺盛であったのに、今や其の影すら見当たらない。

 率先垂範は純葉だ。先ほどと同様に、腕を天井に向け真っ直ぐ突き上げていた。

 他はちらほらと挙げるのみだ。

「如何したのですか? 手を挙げましょう、はいはい」

 生徒らの視線が交差する。泳ぐ視線もあった。

 顔を見合わせてはくすくすと笑う声に、眉を顰めた千代は唇をも尖らせた。

「何がそんなに可笑しいのですか? 手を挙げましょう、手を……其れとも質問が一つも考え付かないのですか? そんな事は無いでしょう。閖さんのスピーチを聞いて、嬉しく思いましたよ。聞きたい事も勿論あります。だから斯うして先生も手を挙げています……視て下さいよ……」

 千代の懸命な訴えにも拘らず、挙手しない生徒は挙手しない儘で、残念乍ら其れ以上の進展は無かった。

 思春期特有の他者への意識だろうか――否、恥ずかしさだろうか。誰にでも周りの視線を意識した試しがあるだろう。子供だけではなく大人であろうとも、他者と比べずに居られないはずである。あの人は自分より痩せていて、あの人は自分よりも太っている……あの人は自分より恰好良くて、あの人は自分よりも不細工だ……あの人は自分よりモテる……あの人は自分より運が良くて、あの人は自分よりも運が悪い……あの人は自分より年収が高くて、あの人は自分よりも年収が低い……あの人は自分より……あの人は自分より……。

 限が無いのだ。上には上が居るし、下には下が居るからだ。

 他者を視野に入れなければ良いと勘違いしてはならない。判断基準を失うからだ。比べる事で優劣の区別が可能になるばかりか、比べる事自体が個を視る事に他ならないのだ。

 其れは個の尊重である。

 故に思春期の意識変化は尊ぶべきであり、馬鹿に出来ない。

 空気を読むと云う便利な処置があるが、其れは逃避だ。保身に過ぎない。紳士的な対応は気が利くのであって、決して空気を読んだのではない。

 空気を読むとは否定的だ。受動的で責任を他者に擦り付ける。能動的な人間が立ち上がる最中、空気を読む受動的な人間は重い腰を上げる事が無い。立場を示さない事で責任逃れを謀っているのだ。

 此れが許されざる悪である。

「良いでしょう、純葉さん」

 返事をした純葉が徐に起立した。

「脚本を変えたくないから、役目を奪いましたか?」

「……答えて下さい、閖さん」

 千代は躊躇ったが中継した。

「今さら言われても変わらないと思います」

 左手を蟀谷に添えて閖は構えた。

「神聖な劇を汚しているのは貴女でしょ!」

「役目はきっちり果たしますけど!」

 千代が拍手した。

「もう十分です。他に質問はありませんか?」

 着席した純葉は切歯扼腕(せっしやくわん)に歪んだ。

 閖と純葉は呉越同舟(ごえつどうしゅう)の間柄であった。お互いが嫌い合っていると云うよりは、反りが合わぬ事が問題だろう。閖が愚直な為に純葉の押し付けがましい善意は無下に撥ね付けられる。其の反応に対して、純葉が瞬時に沸点に達する。其の効果は正しく反射である。壁に叩き付けられた石は受け止められるはずもなく跳ね返り、下手するとピッチャー返しの如く投げた石で怪我を負ってしまう事も有り得るのだ。

「閖さんはお疲れ様でした……今日も手を挙げない人達が目立ちましたが、スピーチをする人は緊張しながらも喋っていますので、其れに耳を傾けるのは礼儀だと思いますよ。前に出て一生懸命に話したのに、誰からも質問や其れに対しての反応が無かったら、自分に興味が無いんだと思ってしまいます。此れはスピーチですが、基本的には会話と変わりません。なので、会話だったら何かしら反応するのが普通ではありませんか? そう思いませんか? 其のやり取りが此の場でもっと活発になれば良いと先生は思います」

 スピーチの後に閖が引いた数字は四だったが、此の数字から出席番号以上の意味は見出されない。見出せるはずが無いのだ。

 午前は最後の聖劇練習に当てられた。備品組は最終仕上げを済ませ、役者組は聖劇を通して演じ全体的に確認し乍ら最終調整を終える予定だ。

 閖の芝居は悪くなかった。練習の末に調子良く舌が回る様になり、台本に無い台詞を喋ってしまう際には、役に這入り込み過ぎている為に舞台に立って居る意識さえ湧かないとの云い訳は余りにも空し過ぎるモノである。幸いにも慣れたのだ。練習を重ねるに連れ人前で声を張る事に抵抗を無くし、其の呼吸までも舞台限りで身に付けた。日常に戻ると其の実感は無くなってしまうので、再現してみせろと云う依頼には応えられないし、恥じらいさえ覚えていた。

 凉にとって聖劇の大役は荷が重かった。楽しもうとするモノではなく、義務感で務め様とする対象であった。勉強に近い。三度の食事には程遠く、巫女の舞を練習するにより近い。詰まりは熟せない理由は無いのだが、聊か不自然の感が否めない。巫女は降ろす者だろうが降ろし切れていないばかりか、残念乍ら其の空気さえ纏えていないのだ。そうとは云っても一応は形に為っていた。

 衣を纏えない天女は只の人である。

 最後の全体練習を終え、昼休憩が過ぎた五限目の頃、教室に嵐の兆候が示された。授業の始業時間が来たと云うのに始まらないのだ。五分……十分……と経過して行った。生徒達は不安の表情を浮かべ乍ら、時計を気にし、千代の表情を気にし、周りを気にしてはヒソヒソと耳を打った。教科書を読む振りをしては周囲の状況を窺う生徒は優柔不断で頼りなく、此見よがしに頚を伸ばす生徒が声を上げれば良いものの、口をぱくぱくさせては呼吸に徹していた。

 誰一人として他力本願で、自ら動く事をしないのだ。

 千代から一切の焦燥や不安の類いは感じられなかった。眼を伏せて、其の表情や姿勢からは他ならぬ冷静さしか読み取れない。肩の力は十分に抜け切っていた。

「……授業を、始めませんか?」

 始めに明確な発言をしたのは純葉であった。流石は学級委員長と云った処か。当たり前だと見做せば其れまでだが、此の教室に漂っている雰囲気に抗えられる者は空気を読まぬ者だけだと指摘した上で、其の行為がどれ程大変かは日本人なら一つや二つ容易に身に覚えがあるだろう。

 騒めきの波は引いた。

 一瞬の躊躇いを見せた千代は眼を伏せた儘弱い口調で、

「始めません」

 と云い、顔を上げて続け様に

「始めたくありません」

 否定の意を込めて、首を横に振った。

「ど、どうしてでしょうか?」

 千代は真っ直ぐな視線を発言者に向けた。全体を見渡す。

「時計視て下さい。今は何時ですか? 授業はどの様にして始まるのでしょうか……予鈴が鳴り終わった時ですか、先生が教室に来た時ですか。思い出して下さい、何時もどの様に授業を始めていたのかを……如何ですか? 分かりますよね、気付いて下さい」

 思い出したかの如く、日直が慌てて号令を発した。生徒間の一連の動作は凸凹で、掛け声さえも掛けているか如何かも定かでは無かった。其の声色に勉強する意志は込められておらず、其の姿勢は非常に等閑である。

 千代が頷いた。席を立ち、チョークを取って黒板へ向かった。

 先ず“学級会”と大きく書いた。

 “発言や発表しやすくするためには?”と副題を書き、

 【目標】

 ・一日一回は発表する。

 ・相手を否定して自分だけが正しいと思わない。

 ・朝のスピーチなどで意見に対して反応する。

 と続けた。

「此の時間は学級会を開きたいと思います。学級委員長の純葉さんが指揮を執って下さい」

 生徒達はガタガタと机を移動させ、二列のU字形を作った。

 学級委員長と書記が黒板の前に陣取った。

「礼!」

 常に号令から始まる。

「今回の話し合いは“発言や発表しやすくするためには?”です……意見のある人は手を挙げて下さい」

 純葉が云い終わった瞬間、彼女に向けられていた視線は一気に逸らされた。

 其の視線が右往左往する。

 両手を擦り合わせる者や顎元に手を添える者が特に落ち着かない様子だ。

 手を挙げる者は誰一人として居なかった。

「如何しました、お昼寝の時間ですか? お昼ご飯を食べたばかりですものね……良いですか、問題は既に目の前で起きていますからね。今手が挙がらない此の状態こそが学級会で話し合おうとしている事柄ですよ。手を挙げられない人は其の理由を考えてみて下さい」

 漸く手を挙げようか挙げまいかの挙動を見せる生徒が出て来た。

 確りと挙げない為に千代は更に続けた。

「では……発表する事が中々難しくて、一寸怖いかなあって思う人は手を挙げてみて貰っても良いですか? 誰も責めたりしませんので、正直に」

 其の問い掛けに対して、大半の生徒が挙手した。凉も同様だ。

 千代はだらし無く挙手している生徒に肘を伸ばす様に注意した。

「それじゃあ、手を挙げていない閖さんや純葉さん都波さん達は問題なく発表出来るのですね? そうですね……はい、手を下ろして下さい」

 閖は手を挙げなかった。何が面白いのだろうか、肘を突き口元に手を添えて微笑んで居た。他人事だから面白いのだろうか。

 純葉は毅然とした態度で坐っていた。

「大半の人の挙げましたね。では、如何してそう思うのでしょうか? 如何して発表する際に手を挙げ辛いのでしょうか?」

 縦横無尽で在らねばならぬ。

 飽くまで生徒達の自主性を重んじるべきだ。

 此れに徹する。

 先ず、間違えたら笑われるのが嫌だと云う意見が出たが、千代は此の意見に関して反応が無いか問うた処、周囲の人達が其の様に勘違いされない行動を取るべきだと云う指摘や、其の人の気持ちを考えて其れに適した反応を示せる態度を身に付けるべきだと云う、学級会で求めていた意見が述べられた。

「素晴らしい意見が出ましたね……良いでしょう、学級会は此処までにします。残りの時間は僅かですが進めましょう。六限目に勿論変更はありません」

 而して学級会は閉幕した。

 聖誠院では問題が生じる度に話し合いを行う様にしている。特に閖の学年は思春期の入口でもあるので、単純に授業を行うのみでは支障を来す場合があるのだ。

 全授業を終え下校時間になると千代が教室の黒板に、

 “おはようございます。

 あいさつは元気に、相手の気持ちを考えて行動しよう!

 クリスマス・ウィッシングまで残り二日です。

 時間を大事にし、今日も良い一日にしましょう。”

 と学級会で決めた事柄を含めて記した。

 良しと呟き、希望に満ちた眼差しで教室を見渡した。

 雲に覆われ夕日は顔を出して居なかったが、其の心境たるや如法暗夜に閃光を追い求めるが如く、眼を閉じても平静を保てて居られた。

 ――翌日の朝が来る。

 千代は何時もより早めに教室へ向かった。其の歩調は軽やかだった、先日の学級会で生徒達の意識が改善されたと思ったからだ。

「おはようございます!」

 教室の入り口で立ち止まり、返事を待った。

 待ったが、期待通りの結果は得られなかった。

 ――現実と理想の隔たりが受け入れられない!

 千代の想いは引き千切られ踏み付けられ裏切られた。

 呆然とした意識が教室への踏み込む意気を消沈させた。

「おはよう!」

 元気な朝の挨拶と背中へ入れられた活で意識を取り戻した。

 其の活に痛みは無く、寧ろ感じた手形から可愛ささえが感じられた。

 勢いを付け走って来たに違いない。

 着地した足音と同時に、ランドセルの中身が暴れる音を聴いた。

「閖さん、おはようございます」

 閖を認めた千代は教師として接した。

「廊下を走ってはいけませんよ、危ないでしょう。其れに挨拶を元気にするのは大変素晴らしい事ですが、言動に丁寧さを欠いてはいけません。分かりましたか?」

 閖はランドセルを背負い直した。外套の上では滑り易いのだろう。

「はあい」

 気の抜けた返事であった。

「あと、屋内では被らない」

 閖の頭部に手を伸ばした千代は瞬間的な違和感を指先に覚えた。

「あっ!」

 外套のフード部分を徐々に剥すと、閖の髪の毛が引っ付き乱れて行った。

「嗚呼……嗚呼……」

「気持ち悪い……何、静電気?」

「……みたいですね」

 前髪と襟足が浮遊し遊んでいる。後ろ髪には寝癖が付いた儘だった。

 千代が咄嗟に左腕の腕時計を確認した。肺の空気を入れ替える。

「閖さん、お手洗いに行きましょう……寝癖も直していない様ですし、先生が其の髪を整えてあげます」

 廊下突き当り角の便所へ駈足で向かう。

 閖は最早走っていた。

「廊下は走らない、でしょ」

「走ってはいません。急ぐだけです」

「言い訳、私が走ってる」

「言い訳ですか……例えば今の場合、此の廊下前方は対向者が居ませんので、安全は確保されています」

「真横の教室から、急に誰かが飛び出して来なければね」

「そうですね……だとしても、不注意の相手に注意を払えば避けるのは簡単です」

 噂をすれば影が差した。

 廊下先角からじゃれ合う女子組が現れた。横一列に闊歩し周囲に無関心で実に迷惑だ。会話途中の過剰反応に因る挙動が、下手をすると自ら体当たりを仕掛ける事になり兼ねない。

 「ほら来た」

 千代が窓越しに空を指差した。

「な、何ですか(あれ)は――浮いていますよ!」

 其の口調は見事に動揺を彩っていた。

 案の定、其の声に釣られた女子組は窓越しに駆け寄った。

 彼女らが答えを求めたので、千代が通りすがりに斯う答えた。

「浮いているのは雲です。両脇を占拠するのは煙たく、他の人に迷惑です……気を付けて下さいね」

 女子組が赧顔(たんがん)するのを視た閖は失笑した。角を曲がった先での事だ。

 便所で千代は素早く手洗いを済ませると、携えていたポーチを開けて、一五㎝程度の縦長容器を取り出した。スプレー型で化粧品に能く見られる形体だ。其の容器表面には薔薇の模様が印刷され、容器内部の其の液体は無色透明である。

「何ですか、それは?」

「水洗い不要のヘアトリートメントよ……いらっしゃい」

 閖を鏡の前に立たせた。蓋を外すと、千代は二回押し出して掌に液を拡げる。

 其の香りが爽やかに鼻腔を通り抜けた。甘い香りが仄かに後を追う。

「良い匂い」

 閖は眼を細めて香りに酔った。

「白薔薇のロサ・アルバ・セミプレナの香りね」

 毛根手前から馴染ませ始めた。長髪を扱う其の仕草は愛おしく撫でる様であった。

「ロサ・アルバは白薔薇の祖と呼ばれ、赤薔薇の祖と呼ばれるのがロサ・ガリカ。此のロサ・ガリカとロサ・フェニキアとの交雑でロサ・ダマスセナが誕生し、更に此のロサ・ダマスセナとロサ・カニナとでロサ・アルバへと系譜を辿る事が出来ます。此の流れがヨーロッパ系、所謂ダマスク系で豊かな香りが特徴です」

「白バラと云えばマリア様でしょ」

「純潔の象徴ですね。サンドロ・ボッティチェリが描いた『ヴィーナスの誕生』で舞っている白薔薇が此のロサ・アルバ・セミプレナだとする説もあるくらいです。まあ、ロサ・アルバの品種にはピンク色もありますから、断定は出来ませんね……興味深い事に、『ヴィーナスとマルス』の女神ヴィーナスが白い衣装を着ているんですよ」

 液を一回分足して、千代は更に馴染ませた。

「マリア様が着ているのは赤と青の衣だから……逆ね」

「赤薔薇が愛を表しますから、此の場合は母性かしら。マリア様が描かれるのは幼子イエスを抱く姿が多いですからね」

 最近絵画の話ばっかりだと閖が笑った。

「如何してですか?」

「アラン神父だよ。あの人、絵画好きだから」

「……気を付けて欲しいのですが、目上の人に対しては丁寧な言葉を使って欲しいですね。女性の美しさは身嗜みですから、言葉使いも大事ですし、髪の手入れも疎かにしてはいけませんよ……折角の良い髪なのに」

 手を洗い直した千代は次に携帯用ヘアアイロンを手に取った。根元から毛先に向かい、平行してじっくりと下ろして行く。ストレートヘアに整える。

「そのセリフ、椛が何回も言いますよ!」

 閖は戯けて語尾を丁寧語に切り替えた。

「椛さん……六学年の奥村さんの事ですね。卒業したら県外に引っ越してしまうとか」

「何で知ってるの?」

「彼女の御両親から校長先生に連絡がありました……淋しくなりますね」

「淋しくなんか」

 閖は軽く俯いた。

 ヘアアイロンとヘアトリートメントをポーチに仕舞い、千代は閖の顎を無理やり持ち上げた。櫛で梳き始める。

「下は向かない……ほら、凄く綺麗!」

 閖の手を取り、千代は髪を一緒に撫でた。其の表面は滑らかで、異様なまでに手触りが心地良い。艶も出ていた。

「わあ、天使の輪」

 閖が頚の角度を変える度に、天使の輪が何度も現れた。

「閖さんにぴったりじゃありませんか、ガブリエルだもの……さて、教室へ戻りましょう」

 千代が腕時計を視乍ら、秒数を数え始めた。

「あと三〇秒で予鈴が鳴りますね」

 予鈴は定刻に鳴り響いた。

 朝礼が終わると、純葉が閖に吐き捨てた。

「その髪型、色気付いてるの? 調子に乗らないことね」

「口が過ぎますよ、純葉さん……先生が閖さんの髪型を整えました。純葉さんも閖さんと同じ様に髪を梳いて欲しいのでしたら、喜んでやってあげますから仰って下さいね。遠慮は要りませんよ」

 思いも寄らない処から閖は援護された。

 鼻を折られた純葉は拳を握り締め教室を出た。

 凉が閖に駆け寄った。

「純葉さんどうしたんだろう、最近怖いよね……大丈夫? 閖ちゃん」

 閖はありがとうと笑顔で答えた。

「私は好きだよ、この髪型……先生にやってもらったんだね……触っても良い?」

 閖の髪を掬い上げ撫でると、凉は鼻元に宛がった。

「サラサラだよ……大人の香り……」

 一限目は午前八時五〇分に始まるはずだった。

 教室の壁時計が狂っていなければ、現在の時刻は九時を指している。

 授業は始まっている必要があった。

 千代は堅く閉口していた。

 此れでは先日の二の舞である。其の原因も同様に、日直が号令を掛ける事を忘れたからに他ならなかった。

 其の一〇分後、千代が静かなる怒りを吐き出した。

「好い加減にしなさい、先日貴女方は何を話し合いましたか? ……(間)……もう忘れてしまったのなら余りにも残念です! 発言しやすい雰囲気を作るのではなかったのですか、貴女方が口にした事は全て嘘だったのですか……(間)……先生が朝の挨拶をした際に、挨拶を返してくれた人は何人居ましたか。身に覚えの無い人が大半だと思います……(間)……考えてみて下さい、友達に挨拶をしても無視されたら、どんな気持ちになりますか?……(間)……其の気持ちと、教室に這入る前の先生が感じた気持ちは同じでしたよ……(間)……相手の事を考えて反応を示すと云う意見に賛成したのは一体誰だったのでしょうか……(間)……自分には関係無い、誰かがやってくれる。そんな考えが皆の心にあるから、先生だってそうです……(間)……先日だけのお話ではありませんが、善悪の心を皆は持っているけれど、どっちの想いが強くなるかの問題でしたよね……(間)……此の問題に如何応えるのか、其の答えをもう一度考えて欲しいと思います……(間)……私は、此れ以上何も言う事はありません」

 千代は教室を去った。

 一限目終了の鐘が鳴ると、生徒達は背筋を伸ばした。

 何処と無く“話し合い”や“学級会”の声が上がる。先日とは異なり机の配置は変えず、黒板の前に集合した。学級委員長の純葉を中心として意見を出し合った。其処で採用された“答え”を職員室に居る千代に伝えに行ったが拒否され、再び考え直す事になったばかりか、より一層学級の纏まりは欠いた。

 話し合いが全く進まないので、今度は席に着いて行った。

 先生に謝ると云う意見が出たが、賛成する側は時間の経過に焦り、飽くまでPDCA(Plan=計画、Do=実行、Check=見直し、Act=行動)サイクルを訴えた。

 一方、反対する側は思慮深かった。此の学級会の議題は謝罪する方法では無く、学級の在り方を示す事だと見抜いていたからだ。

 三限目始業の予鈴が虚しく鳴った。

 教室で学級会は継続されていたが、発言する者は一部でしかなかった。具体的な意見を述べる者に強く当たり、いざ口を開けば只騒ぐのみであった。

 三限目の担当の先生は顔を出したが、話し合いを続けろと云うだけで、助言も何も与える事がなかった。四限目の担当の先生が様子を視に来たのは終業の鐘が鳴る直前であった。

 午前では収まらず、五限目も続けられた。全体で話し合っても一向に纏まらない苛立ちから、純葉が提案した少人数で班を作り、意見を出し合う方向に落ち着いた。

 五限目が終わる頃、純葉は代表して職員室へ向かった。

 納得した千代が教室の敷居を跨いだのは既に六限目が中盤に差し掛かった頃であった。

 どの班も一貫して、自主的に行動すると云う意見を主に推した。

 千代が信頼の気持ちを明かした。

「勘違いをしてはいけない事があります……(間)……皆は先生の為に話し合いをしたんじゃないって事を分かる必要がありますよ……(間)……挨拶を返すにしても、人の話を聴くにしても、其れは全て教室の雰囲気作りで、喋りやすい雰囲気を作る為です。如何してか、分かりますか? ……(間)……相手を尊重する為、思いやる為です……(間)……確かに嫌な事をやらないといけない時もありますが、他人任せにせず私がやりますと自主的に動ければ良いなあと思いました。自分がやれば仲間が楽になると、皆が思う事が出来れば、皆は笑顔になれます……(間)……先生も貴女方が考えている最中に、同じ様に此の問題について考えていました。今日の事も覚えていて欲しいですね」

 純葉は二日連続の学級会に納得して居なかった。不満を漏らす。

「私だけで答えを出せと言われたら、もっと早く終わったと思います。友達三人が集まっても直ぐに答えが出ないのに、クラス全体でやったから、ずっと話し合いで授業が出来なかったんです! もう班に分かれましょうと言いました。でも自分の意見を言おうと皆がしたら、もっと長くなったと思います」

 都波が時には立ち止まる事も必要だと認め、

 凉は確かに人任せにしてしまったと反省した。

 前髪を掻き上げた閖は肩の力が抜けていた。

「あいさつをしたのは私だけでしょ? 意識の問題だと思うけど……何、空気を読まない私が悪いって言うの? それってちょっと違うんじゃない。空気ばかり読んでいたら、長利さんの思うままだし……そっちの方がダメでしょ」

 云い訳ばかりを並べる走尸行肉(そうしこうにく)であった。

【参考文献】

 以下の電子情報を参考にさせて頂きました。

・地方発ドキュメンタリー「学力日本一 踊る教室」NHK、二〇一四年六月一〇日放送分

・姫野ばら園八ヶ岳農場「白ばらの祖 アルバローズ」

< http://himenobaraen.jp/column/engei/alba.html >(二〇一四年六月接続)

・蓬田バラの香り研究所株式会社「バラの香りとは:香りの系譜」

< http://www.baraken.jp/learn/lineage.html >(二〇一四年六月接続)

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