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皮膚を剥ぐ  作者: 永見拓也
第二章:聖劇編(奥村椛の振舞)
5/10

01.誰かに言われた気がする。

 夢を覚えている日は多くない。

 抑々、目を覚ました時点で心は次の動作に向けられている。それは規則的でもあり機械的でもある。寝る時間と起きる時間を決めていれば、何を考える必要はない。

 ――はあ。

 閖は見覚えの無い天井をぼんやりと眺め乍ら、溜息を吐いた。この天井も自宅のものではないと分かると、今置かれている状況が全く把握出来ない。

 右目が覆われている不快感からか、不意に右手で右目を触る。ざらざらした手触りでガーゼだと知る。気怠い躯は動かさず、頚だけを窓の方へ傾げた。

 漸く点滴が視界に這入り込んだ。

 ――ああ、もしかしたらここは病院かもしれない。

 と閖は思った。

 窓越しに映る空は昼過ぎだろうと云った模様だ。何分この室内に時計はない。正確な時間が把握出来ないのだ。

 雪は既に止んでいた。先日の吹雪は一過性のものだったようだ。

 雀が横切りその後をカラスが追う。そんな昼下がりの光景が――と云うよりも、雲が覆っていない青空が妙な安心感を与えてくれる。その何処までも広がる青に、閖の視線は引き込まれるように注がれていた。

 暫くして、この病室と云う(はこ)を外部へと繋ぐ扉が静かに開いた。

 その侵入者を確認もせずに閖は身動き一つ取らない。依然として外を向いている。

「あれっ、起きてる――?」

 閖はその声を聴いてピクリと身を捩った。知った声であったからだ。

 意識を取り戻して、最初に顔を出したのが看護師ではないのが何よりの皮肉であろう。

「矢っ張り」

 その声の主はベッドを回り込んで、閖の目の前に現れた。胸元に手を宛がい、文字通り胸を撫で下ろす様子であった。閖と違わぬ長髪ではあるが、癖が無く光が流れる艶があった。窓からの逆光でその頭を縁取るように光って見える。

(もみじ)――」

 青空に吸い込まれた視線を引き戻した。

 寝惚けている分、椛の髪の輝きが幻想的であり無駄に演出掛かった映像であった。視界のピントを調整する。次第に曖昧な輪郭は重なり、くっきりとした線になる。

 そして、閖はギロリと目の前の少女を射抜いくのだ。

「何しに来たんだよ」

「お見舞いに決まってるでしょ。それに今日で三日目よ。閖、あなた覚えていないの?」

「覚えるも何も――今起きたばっかだし。時計はおろかカレンダーさえない」

「そうね」

 椛は軽く室内を見渡した。

 質素な空間に一輪の花が色を添えてあるだけ。個室なのは良しとしても、備品がベッド意外に何も無い。カーテンさえ窓に備わっていない。病院生活と云えばベッドの横に棚があり、その上にテレビを置き、イヤホンで音を拾う恰好で番組を観覧するのが想像出来るが、果たしてそれは陳腐な妄想だったのだろうか。

 宛ら使用してない空部屋に押し込められた様なものである。

 背後のパイプ椅子を手繰り寄せ、椛は腰を落ち着かせた。

「良かったわ。無事に目を覚まして」

「別に心配しなくても――」

「するわよ!」

「ただ変な奴に殴られただけじゃないか」

「その変な奴に殴られることがただ事じゃないわ。三日も目覚めないなんて――、一生植物状態になるんじゃないかって思う程よ。絶望だわ! 地が崩れたみたいだったわよ」

「おおげさだね。こうして生きているのに」

「植物状態だってある意味生きているけど、脳死判定されたら終わりよ」

「脳死判定――?」

「知らない? 臓器提供うんぬんって話」

「ああ、聞いたような聞かなかったような」

「心臓は止まってなくても、脳が死んでいたら目覚める訳ないの。もちろん手足だってピクリとも動かせないわ。そうなれば、治療費だけ無駄に費やすことになるから、それなら臓器提供して助かる他の人を助けようってこと。分かる?」

「まあ」

「1歩間違えれば、閖だってそうなっていたかもって言ってんの」

「それは怖いね」

「他人事みたいに――こっちがどんな想いだったか、なんて考えないのでしょうね」

「ゴメン」

「何? 謝ることないじゃない。でも――閖が自分から謝るなんて、こっちの方がよっぽどね」

「私に良心がないなんて思ってんの? 心外だ」

「そういう訳じゃないのよ。ずっと目覚めなくてやっと起きたでしょ? もしかしたら別人にでもなってるんじゃないかって――」

「思った? 勘弁してよ。テレビの見すぎ」

 閖は何だか背中が痒くなり身を捩った。そうすると、その痒みはすっと消えた。

 ――気持ちが悪い。

 閖はそう思った。

 ベッドに横たわり、訪問者は勿論見下ろす格好になる。その上からの下へ注がれる視線が何とも不快感を与える。その不快感の正体は何なのか、視線の角度だろうか。

 この構図自体が気に喰わないと、心で舌打ちをした。

「目覚めたのは本当に良いことだけど、もう直ぐクリスマス・ウィッシングの本番の日でしょ。何回か練習の日はあったけど、閖ったら余り練習に、その、力が入っていなかったみたいじゃない。そんなことしていたら、本番にだって――」

「別に良いじゃない。大した役じゃないし、居ても居なくても回る役だし」

「そんなことないわ。クラスが一緒になってやるから意義があるんでしょ。単純にクリスマスの雰囲気作りじゃないし、もちろん授業潰しでもないのよ。ちゃんとした学校行事。お母さんお父さんや外部の方々だっていらっしゃるんだもの。この聖劇に取り組む真意が分からないわけでもないでしょ、閖なら」

「学校がどういう所なのか理解していれば、その行事が何故行われるかなんて明々白々――履き違えているつもりはないよ。それはそうでしょう、と認めても私の関心はそこには無いんだ」

「無関心――ってこと?」

 閖ははぐらかす様に声にもならない相槌をし、寝返りを打った。

「それが1番いけないわ。無関心ってことは自分の意見がないもの。他人任せで自分勝手、文字通りのわがままお嬢様。迷惑極まりない――どうしてこんな風に育ってしまったのかしら。痛ましい、悩ましい、そして、うらやましい――」

 どうしてうらやましいのよ、と閖はポツリと言った。

 椛はその表情を窺えない。向けられている背中をじっと見詰める。

「閖をうらやましく思うわ。無関心になれるだなんて、私にはできないことだもの。いつも感情に振り回されて、情に流されてしまう。考えてみれば、それだって自分の意見はないようなものなのにね――はあ」

「ため息吐くだなんてらしくない。悪いけど、眠いから帰ってくれる?」

 閖の重たい瞼は今にも閉じられようとしていた。視界の狭さと違和感から疲労を感じていたのだ。そうであれば、目を閉じ寝てやり過ごす他あるまい。

 その背後で、流し目に視線を送る椛の表情は実に穏やかだった。

「そうね、眠ると良いわ。目覚めたとはいえ、未だ恢復したわけじゃないもの」

 閖はああと返事にもならない呻き声を出した。

「そうだ、凉ちゃんや都波ちゃんに伝えておくわね。やっと意識が戻ったんだもの、あの子たちだって安心すると思うわ」

「否、止めて――」

 椛は如何してと頚を傾げて、今にも寝落ちそうな表情の閖に猫撫で声で如何してと訊いた。

「彼女らはただ同情で傍にいるだけ――独りでいる私に、余計なお節介を働いているだけ――友達のいない可哀想な人を助ける振りをして悦に浸っている――放っておけばいいのよ」

「そう――」

 椛はその発言を受けて目を伏せた。その表情には影が落ちている。

 それは悲愴感であろうか、孤独感であろうか。遠回しに椛自身も友達も居ない哀れな閖に同情しているだけの他人に見られているのだろうか、と在らぬ妄想を抱いてしまう。

 それは愚鈍な思案だと払拭した。

 閖と椛との間柄は付き合いの長さだけではない。付き合いの長さが縁の深さに直結するとは必ずしもそうではないが、切れず離れずの線上に立っている二人の関係は文字通りの均衡である。仮令その線が波立つことがあろうとも、自身は崩れ落ちず相手を突き落とすことを良しとしない。自己を、その人を思い遣れる。況やその視界に映る正にその人こそ、閖にとっては椛であり、椛にとっては閖なのだ。

「とにかく、この劇には参加して。私たち最後の年だもの、思い出は多い方が良いでしょ」

 思い出は美化される。

 美化された記憶は持ち主の独り善がりであり、共有しようとすると食い違いが生じる。その食い違いも結局は持ち主の価値観に頼るしかない。価値観が人其々違うのだから、同じ場所に居ても同じ場面を思い出にするとは限らないのだ。だからこそ、思い出が多い程その思入れの度合いも自ずと違ってくる。そうすると、あの頃を思い浮かべても共有出来る相手が居なければ、淋しい思いをする羽目になってしまう。それまでだ。思い出の価値を考えさせられる。

 次第に閖は寝息を立て始めた。

 椛は身を乗り出して、閖の顔を覗き込んだ。右目を覆っているガーゼにそっと指を添え、輪郭をなぞった。彼女の態度とは裏腹なその無防備な寝顔が可愛らしく想う。笑みも零れてしまう。意識を取り戻した事に改めて安堵しつつ寝顔を愛でると、一先ず満足して椛は病室を後にした。


 ※※※


 閖は湖でボートを漕いでいた。

 只風に流されるが儘に揺れていた。頭上の葉は枯れたものから落ちて来る。

 行き成り男が騒がしく岸辺に駆け寄ると、そこから大蛇を投げ込んだではないか。冷静に考えれば、見るからに屈強な大男ではないその男がどの様にして人一人呑み殺せそうな大蛇をひょいと投げ飛ばせられたのか疑問である。その前に彼自身が丸呑みされても何ら()()しくはなかったのだ。

 男に担がれていた大蛇は妙に大人しかった。寧ろ、美しくも感じられた。気品に満ちている。白き鱗を纏い、しなやかな躯に見惚れる。そんな些末な思考など事実の前では無意味に等しい。投げ入れられた大蛇は大いに暴れたのだ。豹変して怒り狂った。

 水辺の波紋は波になり、草木はざわめき始めた。そうなると枯死が拡がり、一気に散った枯れ葉は巻き上がり竜巻を作った。

 狭いボート内では逃げる場所などあるはずもない。後退りしても湖に落ちるだけ。ガクッと体勢を崩して、仰向けに黒い空を見上げた。絶望感が襲う。

 垂れ落ちた腕が水面を掻いた。ひんやりとした感覚が自棄(やけ)に残る。

 果たして大蛇は閖の足に噛み付いた――かと思えば、閖の躯に巻き付いて息苦しい程に締め上げる。鋭く光る牙を喉元に突き刺されたら、息など吐く暇もない。

 黒い空が落ちて来る。枯れ葉で視界は遮られてしまった。


 ※※※


 病室は闇が覆っていた。

 窓から這入る光は街灯のもので、それ以外には何もなかった。誰の(あしおと)も響いて来ない。看護婦達は中央室に引き籠っているのだろうか。

 文字通りの(しん)とした空間。夜だと云う事は分かってもそれ以外の事は知れない。

 星は――残念乍ら見えなかった。

 雲で覆われているのかもしれない。明日は曇りだろうか、それとも雨になるのだろうか、と思案していても時間の経過は全く早く感じられない。

 田舎では星空が綺麗に見えると人は云うが、今となっては空は別の光で明るくなってしまった。地域経済対策なのか、パチンコ店が跋扈(ばっこ)しているのだ。大画面を掲げ、チカチカと夜を彩る。建物から放たれる照明光線は強力なもので、夜の空を突き抜ける程である。

 半端な時刻に目を覚まして、寝付けない。目を瞑っても眠気は何時になっても訪れはしなかった。時間を持て余している。暇で仕方がない。

「お腹が減った」

 軽く呟いた声は何処に響く事なく空虚に掻き消された。

 眼を開いて天井を見上げる。目が慣れない内は闇の張りぼてでしかないが、硬かった闇は段々柔らかくなり深々となり行く。更に注視すると、何かの模様に見えて来る幻影。悲鳴を上げる少女の表情がぐにゃりと歪み、老人か幼児か見分けの付かぬ(かお)で怒り狂っている。

 静寂が支配する院内は若しや得体の知れない何かが支配しているのだろう。それは生命を持たず、人の世界に干渉出来る精神世界との狭間――なる場所が仮に在るのなら、そこに居る何かが見せる幻影に違いない。

 筋肉が動く音が骨を伝う――。これは幻聴だろうか。

 音が五月蠅いと気を病ませ乍らも、音によって平静を取り戻せる。無音も逆に毒になるのだと知れば、昔の作曲家の音にも耳を傾ける事を覚えよう。その精神を殺す様に、病室の空気は重く圧し掛かってくる。そして、肺に溜まった二酸化炭素は溜息として押し出された。

 ――酷く気が滅入る。今更に空腹を実感した。

 そうしたら、頭も空空(からから)で考えを巡らせるのが苦痛になる。

 食事を用意して貰えない時間帯に起きてしまい、何度目か分からない溜息が漏れた。何処となく呆然と見詰める事が多くなる。天井を見上げれば闇が視線を喰らい尽くす。

 眼を閉じて無心に眠る事だけに努めるしかなかった。

 翌日、依頼した朝食を看護婦が閖の病室に運んで来ると、見慣れぬ男女の二人組も這入って来た。その二人組は入口付近で看護婦が退室するのを待機している。

 どちらもスーツ姿だ。

 男は背が高く、髪型は刈上げですっきりとした印象を受ける。如何やら猫背のようで目測の身長判断に誤差が生じる。きょろきょろと、あからさまな仕草で室内を観察しているのが嘘くさく感じてならない。単純に落ち着きがない所為なのかもしれないが、病室に這入った試しがないでもなかろうに、矢張りその態度が気に喰わない。

 女の方はパンツタイプのスーツを身に纏い、如何にも活発そうである。スカートを選んでいないその指向からすると、男社会の中で(たくま)しく生きて行こうとする決意の表れなのだろうか。(はた)また、女性はスカートを穿くものだという偏見に対する抵抗の意思表示であろうか。本人の心の内を聞かぬので知る由もないのだが、気の強い性格なのかもしれない。

 看護婦は食器を移動式テーブルの上に乗せ、ベッドの足の方から閖の手前まで差し込んだ。一通り作業を終えると、食べ終わったらナースコールで呼んで下さいね、と言い残しそそくさと出て行ってしまった。

 その後ろ姿を見送った男はこんにちわと云いベッドに近付く。そして、懐から何かを取り出し開いて見せた。警察手帳であった。テレビのドラマでもよく見る場面だと思うと、現実味が湧かなかった。

 そして、男は自身を()(いの)()と名乗り、女の方は志摩(しま)と名乗った。

「何も無い部屋だねえ。病室ってのはこんなに淋しいものなのかなあ」

 先程きょろきょろしていたのは本当に興味があったようだ。

 読めない――。

 閖が道祖尾に抱いた最初の感想であった。

「嗚呼、良いんだよ。ほら、朝食を食べちゃいましょう。気を使わないで。昨日起きたばっかりと聞いたから、お腹が減っているのは当然のこと。点滴じゃあ膨れないさ」

 如何返事をしたら良いのか、閖はまるで分からなかった。

 虚を衝かれたとは正にこの事だ。

 この男が持つ初対面の相手に対する馴れ馴れしさとその饒舌さは予想外の何ものでもなかった。見た目だけでは判断が全く付かないのだ。無理もない。

 人は見掛けに依らないと云う訓えが身に染みる。

 一言、閖ははいとだけ言い、十字を切り静かに祈りを述べた。その最中にも視線が突き刺さる。勿論やり難いのだが、一々文句を言っていては何も始まらぬ。

「へえ」

 道祖尾が感嘆の声を上げた。

 気にならない訳がない。

「な、何――でしょう?」

 閖はぎこちなく訊く。

「矢張り食事の前にはお祈りをするのだ。頂きますではなくて、もっと儀式的だ。それが学校の習わしなのだろうか?」

「習わしというか――誰でも食事前には有りがたく思うはず。宗教とか関係なくて、ただ私の身近な感謝を示す方法がそれだっただけ。普通の学校――なんてよく分からないけど、聖誠院小学校に通っていなかったら、頂きますと合掌で箸を取っていると思うけど」

 道祖尾はなる程と云い、腕を組み頚を縦に振って唸った。

 閖は食事を始める。

 一口目として、質素には感じなかったと云うのが正直な感想である。病院の食事への偏見を考慮しても、矢張り当て()まらなかった。と云うのも、閖は意識を取り戻すまでの間、一切の固形物を摂取しておらず、点滴が唯一の栄養源であった。栄養は摂れているが、空腹は免れない。食事と云う、口に含み噛み締めるその確かなる実感が最高の調味料となっている。それ故に質素の言葉は似つかわしくなく、逆に感じ得ない味であった。余計に箸が進む。

「よく食べるねえ。流石に成長期と言ったところか」

 道祖尾は肩越しで志摩に(めくば)せして、何かを受け取った。

「これはお見舞いの品だから遠慮なく食べて良いんだよ」

 と云い、閖のベッドにそっと置いた。

「あ、ありがとうございます」

 果物の詰め合わせだった。

「否、別に礼になど及ばない」

 右手を振って誤魔化している。

「そうだ、志摩君に林檎でも剥いて貰うと良い。そうすれば、食後のデザートになるからね、体に良いはずだ――見舞いの果物じゃなければ、僕が食べたいほどさ。高価だからね、物凄い贅沢なんだ」

 そう(まく)し立てて、林檎を一つ志摩に渡した。

「果物ナイフなんて持ってませんけど――」

 志摩の表情を見ると呆れているのがよく分かった。

 顔に出る人なのだろう。隠し事が出来ない質と云う奴か。

「看護師が持っているだろう。ここは閖ちゃんの為に林檎の1つくらい剥いてやってくれよ。君が剥かずして誰が剥こうと云うのか」

「只自分が剥きたくないからじゃないんですか?」

 志摩と云う女は自棄に毒を吐く。

 道祖尾が命令したりこの場の主導権を握っているのも、彼は立場が上の人間だからと云う事なのだろう。その道祖尾に向かってその様な発言が出来るのは反抗的だとか、見下している印象の方が強い。皮肉を言い合える仲もあるかもしれないが。

 踵を返して渋々部屋を出て行く志摩。

 満足そうな表情を顔に張り付けて、果物の入った籠を漁る道祖尾。

 これは美味そうだ、これも美味そうだ。

 羨ましいねえ、憎いねえなどと呟いている。

 ――羨ましい。

 誰かに言われた気がする。

 椛だ――。

 先日を思い返す。見舞いにやって来た椛が言っていた。

 私が羨ましい――と。

 横に座る道祖尾と云う男。この男もまた、羨ましいと言った。値段の張る果物を食べられる閖の状況を、だろうが。兎に角、羨まれたことには違いない。

 閖は被害者である。身勝手な因縁を付けられ、挙句の果てに引き摺られ暴行を加えられたのだ。その出来事を経ての現状であるのに、如何して羨むことが出来ようか。そこを理解されていない。忘れられている。

 一つの側面だけしか見えていないのだ。椛にすれば閖の無関心さなのだし、道祖尾にしてみれば目の前の果物に眼が眩んでいるだけである。

 ――五月蠅い。

 閖にとっては煩わしさしか感じられなかった。

 全てが、耳元で蚊の放つ音――。

 手で振り払われても、何度でもやって来て気を乱す嫌な音だ。冬なら寒さ故に死んでいるとばかり思っても、何時しか冬でも現れる様になった。年がら年中、聞かされると考えただけで気が狂いそうになる。

 そんな事が脳内で展開していたとしても、閖の食事の手は止まらなかった。

 食欲とは不思議なものだ。

 そうしている内に、志摩が戻って来た。兎さんにした林檎を皿の上に乗せて。

「どうぞ」

 と云い、盆の右に置いた。

「おお、やれば出来るじゃないか! そして、美味そうだ」

 兎さんを1つ攫って、口の中に投入れた。

「ああ、何してるんですか?! それは閖ちゃんの為にわざわざ剥いたんですよ。先輩が食べないで下さい」

「美味い美味い――っと、貧乏臭いこと言うな。1個くらい何だってんだ。抑々、これは僕が購入したものだ。如何して食べる事が出来ない」

「だ、だって先輩は閖ちゃんにあげるって」

「そうだ、そう言ったとも。でも、独りで食べる程味気ないと思わないのか? 折角の美味しい果物なのだ。皆で味わった方が得だろう」

「得って――貴方の価値観を押し付けないで下さい。閖ちゃんだって困ってるでしょう」

 志摩は閖の表情を窺う。

 道祖尾も閖の顔を覗き込む。

 閖に視線が集まり――さて、困った。

 刹那の沈黙。

「別にかまいませんけど」

 とだけ、愛想なく云った。

「ほら、良いって言っているではないか!」

「遠慮してるんですよ。先輩が不躾(ぶしつけ)な大人だから」

「おや志摩君、君は言って良いことと悪いことの区別も付かない大人だったのかね?」

「貴方が人の気持ちを汲めないのが問題なんですよ!」

「ご忠告有難う。しかし、皆で美味しく食べようってのも立派な配慮だ。淋しい子供の気持ちが分からないのは何処の何方ですかい?」

「先輩はデリカシーに欠けます!」

 どうしてだろう――。

 大人達で口論が始まってしまった。その口論の原因が閖自身であることが、堪らなく苛立たしかった。この二人の仲の悪さなのか口論にまで発展してしまったのだ。

 閖が直接関わっている訳でもないのに。

 ――だから、

「あ、あの!」

 閖の声掛けで瞬時に口論は止んだ。閖に再び視線が集まる。

「私、一応病人なんですけど」

 刑事どもはハッとした表情に変わった。

 病室で騒ぐなど愚か者のする事なのだ。それを理解した表情を実に彼らが示してくれている。

 閖には滑稽(こっけい)にしか映っていない。節度が無いだの、機微が分からないなどと相手を(なじ)り、仮令真実を突いた主張をした所で――場所が場所だ。此処は病院であり、病室である。

 お互いが思慮に欠けているし、節度も無ければ機微も分からぬのだ。

「ま、まあ――朝食も食べ終わっているみたいだ。さあさあ、兎さんでも食べて元気におなり、また学校へ行きましょう。神蔵先生も待っているはずだしさ」

 道祖尾は椅子に腰を落ち着かせた。

「神蔵先生? あゝ、千代ちゃんね」

 閖は口元に宛がった林檎を徐に下ろした。

「担任の先生なのだろう」

「どうして?」

「知っているのかって? そりゃあ、知っているさ。君の捜索をする流れで小学校に乗り込んだ、校長先生や神蔵先生が快く対応してくれたよ。皆が君のことを心配していた」

 皆が心配していた――、

 ――私のことを。

 その時、閖の心は心底揺れた。

 心配を掛けたと云う事実は、人様に迷惑を掛けた事に置き換えられた。未熟な脳みそで考える事など単純であるが、愚かな閖はそれすらも思い至ることはなかった。

「だから、早く恢復して顔を見せてあげるのが、君が今出来る最大の仕事だ」

 と続けて道祖尾は云うが、最早閖の耳には届いていなかった。

 ――人様に迷惑を掛けてはいけない。

 それは閖が家で唯一聞かされた訓えであった。

 マリア様が微笑む学び舎でも学ぶべき訓えは沢山ある。

 何よりも家訓に重きを置いていたのは、それが曾祖母の()()からの訓えであったからに他ならない。曾祖母は女性が家庭に籠る時代であったにも拘わらず、偉大な学者であったと聞いていた。閖はその強さに尊敬の念を抱いたのだ。その偉大な曾祖母の訓えであれば、自然とそれが指針とならぬ訳がなかろう。

 今回ばかりは多大な迷惑を掛けてしまった。しかも学校全体に、疎か社会的にも。

 御免なさいの一礼では済まぬだろう。

「閖ちゃんは顔色が悪い様だ」

「ま、不味いですよ、先輩! もしかしたら――林檎が!」

 お互いに見合わせた刑事達の顔色も蒼褪めて行った。

 閖も顔面蒼白だ。

 彼らとは別の意味である。

 慌てふためく刑事どもは看護師だと叫んで、病室から出て行った。ナースコールを忘れて。

 閖は枕元にあるナースコールを押して、横になった。

 薄れゆく意識の中、白黒写真に写った曾祖母である那岐の顔を思い浮かべた。あの写真は仲間たちと撮ったものだろう。合計で七人いたと思う。何の研究をしていたのだろう――などと考え乍ら、閖は望洋(ぼうよう)とした意識の海へと沈んで行った。




――――――――――――――――――――――――――――


【聖劇/著:蛇草閖(クリスマス・ウィッシング用)】


ナレーション「皆様こんにちは、25日のクリスマスはイエズス様の誕生日です。馬小屋でのイエズス様生誕の場面の人形が先日完成しました。生徒玄関前に飾ってありますが、皆さまはもうご覧になりましたでしょうか? この飾りはイタリア語で『プレゼピオ』と云います。集会委員会の方々が作って下さいました。この場を借りて、お礼を申し上げます。ありがとうございます。劇の始まりは御使いガブリエルがマリア様にお告げをする少し前の場面からです。そして、マリア様はエリサベツの所へ向かいます。エリサベツはメシヤの先駆者のヨハネを授かります。そして、マリア様はヨセフと住民登録のために、ガリラヤ地方のナザレからユダヤのベツレヘムへ移動します。宿が無く農家に頼んで馬小屋を借ります。そしてイエズス様がお生まれになるのです。それでは、イエズス様生誕の顛末をどうぞご覧下さい」


   開幕。


○天界

   ガブリエルが壇上。

ガブリエル(独白)「さあさあ、神様のお告げをマリアにもお伝えに行こうか。ザカリヤには先程済ませておいたところだが、あやつめ、私の姿を見るや恐怖に慄いておったわ。あの驚愕した顔を見たか、見物ではあったぞ。否しかし、如何して驚く必要があろうか。あやつは祭司ではないか。黙って信じていれば良いものを。その不信感は口を閉ざし、ヨハネが生まれるまで言葉を失わせるのだ。ザカリヤとはエリザベツの夫の事である。そのエリサベツはマリアに比べて相当なご高齢なのだ。いくら願いが叶えられると云っても、如何して母体に負担の掛かる年齢まで放っておいたのだろうか。おまけに彼女は子供の出来ない躯であった。さぞや、嘆いたはずである。嘆かないはずがない。応、そうに違いない。その証拠に彼女はその事実に恥じていたではないか。何故その様な者に――いやはや、もう何も云うまい。神様の御意思である。かく云う私は御使いガブリエル。どうぞ、よしなに。何? 自己紹介が遅いだと? 成る程、以後参考にさせて頂こう」

   佇まいを正す、ガブリエル。

ガブリエル(〃)「それにしても、マリアか。彼女らの関係は従姉妹だ。少なからず、血の繋がりがあると云うモノ。マリアは何処に住んでいたか。嗚呼、確かガリラヤのナザレか。先のザカリヤの元に養女として居るのであったな。ダビデ王の子孫のヨセフとは婚約しているのか、ふむふむ、成る程な。お告げを聞いてエリサベツは大層喜んだが、果たしてマリアはどの様な反応を見せてくれるのだろうか。否、今更になって何をすると云うのだ。私はイエスを授けに行くのだ、この上なき任務である。マリアが彼を授かる事は他の使いの者が既に知らせているのだから。奴等は果物を手土産に持って行くとか云っていたな。よしよし、では私は何を携えて行こうか? うむうむ」

   ガブリエル、左端から退場する。

   暗転。


○モスク・個室(朝)

   テーブルと椅子、本で埋まっている棚、ベッドがある簡素な個室。

   窓からは神殿の庭が見える。

   マリアは窓を開き、外を眺める。

マリア「窓を開けて、新鮮な空気を入れましょう。今日も良い天気ね、日光浴日和になるはずだわ」

   庭を見る、マリア。

マリア「段々人が集まって来たみたい。お香をたくのはザカリヤおじさんの番ね」

   扉がノックされる。

   御使いが扉の前で待機している。スーツを着用し、果物の籠を携えている。

   マリアは振り返る。そして、扉に向かって問う。

マリア「何方でしょう?」

御使い「私です、足長おじさんだよ」

マリア「どうぞ」

   御使いが扉を開けて入って来る。

御使い「お早う。ご機嫌は如何ですか、マリア?」

マリア「お早うございます、お蔭さまで相変わらず健康そのものです」

御使い「それは何より。マリアよ、今日の分の果物です。お食べなさい」

マリア「ありがとうございます」

   マリアは踏み出して果物籠を受けとり、テーブルに置く。

御使い「うむ、庭には人々が集まって来ているようですね」

   御使いは棚の前に移動して、旧約聖書を手に取る。パラパラと捲る。

マリア「はい、今週はザカリヤおじさんがお香をたく役目を果たす番です」

御使い「それは光栄な事です。ザカリヤですが、その役目を果たしている最中に口が利けなくなるようです。嫌々、何も心配する事など在りはしません、マリア。貴女は只ザカリヤの調子に合わせて、やり過ごせば良いだけの事です」

マリア「は、はい。分かりました」

   不安な表情になる、マリア。

御使い「宜しい。そう云えば、朝食は?」

マリア「未だです」

御使い「そうですか、それでは私が持って来た果物を摂りなさい。そして、日光浴を欠かさずに健康体で居るようにしなさい。マリア、貴女は神に愛されし子供なのだから」

マリア「神の御心のままに」

   マリアはゆっくりとお辞儀をする。

   御使いはその姿を視て、旧約聖書を棚に戻す。扉の前に移動しながら、

御使い「早く朝食にしなさい。祈りの時間が迫っているのでしょう?」

マリア「あ、あの、貴方の正体を明かして下さいませんか?」

   扉を開き振り返る、御使い。

御使い「前にも言ったと思うが、私は只の神様の使いの者です。マリアよ、この事は口外しないと誓いなさい。仮に誰かに訊かれる事があるようならば、知らないと白を切りなさい。足長おじさんだとでも言っておけば良いでしょう。宜しいかな? 忙しないけれど、私はこれにて失礼するよ。体調管理は怠らないように、良いね」

   御使いは扉を閉めて退出する。

   マリアは椅子に座り、果物を食べ始める。

   暗転。

   扉がノックされる。

   ザカリヤが扉の前で待機している。

   マリアは振り返る。そして、扉に向かって問う。

マリア「何方でしょう?」

ザカリヤ「私だ、ザカリヤだよ」

マリア「どうぞ」

   ザカリヤが扉を開けて入って来る。

   マリアは立ち上がり、お辞儀をする。

ザカリヤ「お早う、ああ朝食中なのだな。そのままで構わない。ご機嫌は如何かね?」

   ザカリヤは向かい側の椅子に座る。

マリア「お早うございます、お蔭さまで相変わらず健康そのものです」

   マリアも座り直す。

ザカリヤ「それは何より」

   テーブルにある果物を指差す、ザカリヤ。

ザカリヤ「その果物は如何したのだね?」

マリア「足長おじさんに頂きましたの」

   訝しむ、ザカリヤ。

ザカリヤ「足長おじさんだって? 一体その人は誰なのだ?」

マリア「知らないおじさんです」

ザカリヤ「どんな人なのかな? 如何してお前に」

マリア「優しいお方です。何度も訪ねていらっしゃいます」

ザカリヤ「何度も?」

マリア「はい、何度も。その度に果物を下さいます。でも、その方は少し風変りのようで、私たちとは違う雰囲気を持っています。服装も全く違いますし」

ザカリヤ「多分、外の人間だろう。服装が違うのも頷ける。しかし怪しい人物に違いない。今度その足長おじさんとやらがいらっしゃったら、私を呼んでくれ。是非とも顔合わせをしておかねば。今後の用心の為にもね」

マリア「分かりました、その通りに」

ザカリヤ「うむ、では私は神殿に戻るとしよう」

   ザカリヤは椅子から腰を上げる。扉から退出する。

   マリアは窓の外を見る。

マリア「もうあんなにも人達が集まって来ているわ。私も庭へと移動しなくちゃ」

   窓を閉める、マリア。

   暗転。


○神殿・庭

   大勢の人々が居る。

   マリアは周りの人々と同じように祈りを捧げる。

   エリザベツもマリアの隣で祈りを捧げる。

   ザカリヤが神殿から出て来る。訳の分からぬ仕草をして喋らない。

   その様子を見てざわつく、民衆。

   マリアは驚く。

マリア「まあ、足長おじさんの仰っていた通りだわ。でも、如何してザカリヤおじさんが喋れなくなる事をお分かりになられたのでしょうか。不思議なお方。私の身を案じてくれているから、優しいお方には違いないのだけれど」

エリザベツ「如何いう事なのです、マリア」

マリア「それが私にも詳しい事は分かりません」

エリザベツ「そうなのですか。ザカリヤが狂ってしまわない事を祈ります」

マリア「狂ってはいないと思います。足長おじさんの仰る事には、ただ口が利けなくなっただけだそうです」

エリザベツ「その足長おじさんという人物は? ザカリヤも心配していましたよ」

マリア「繰り返しますが、本当に何も知らないのです」

エリザベツ「そうですか」

   肩を落とす、エリザベツ。

   暗転。


ナレーション「マリアとエリザベツの見たザカリヤの行動は、現れたガブリエルの言葉を信じないために口が利けなくなった事が原因です。ザカリヤとエリザベツは子供に恵まれないままに、高齢になってしまいました。しかし『ルカによる福音書』の13行目で、ガブリエルはこうように言っています。『エリザベツは男の子を産むでしょう。その子にヨハネという名前をつけなさい』と。口を噤む罰は、神様のお知らせを信じなかったザカリヤへの、ヨハネが産まれるまでの罰なのです。そうして、言われた通りエリザベツは懐妊しました。不妊を恥じていたエリザベツは大層喜びました。次の場面は、遂にガブリエルがマリアの元へやって来る所から始まります。それでは、どうぞ」


○モスク・個室(朝)

   椅子に座り、朝食を摂るマリア。

   朝食とは御使いが与えた果物である。

   扉がノックされる。

   ガブリエルが扉の前で待機している。

   先の御使い以上に、スーツを巧みに着こなしている。

   果物ではなく、羊を連れている。

   マリアは振り返る。そして、扉に向かって問う。

マリア「何方でしょう?」

ガブリエル「私、ガブリエルと申します。何、決して怪しい者では御座いません。マリアよ、お前ならば足長おじさんを知っているだろう? 私はその類いの者だ。重大な事を伝えに来たのだ。入っても宜しいだろうか?」

マリア「どうぞ」

   扉を開け、顰め面で偉そうに入るガブリエル。

   羊はガブリエルの足元で裾を噛んでいる。

マリア「お早うございます。まあ、果物ではなく羊なのですか?」

   マリアは椅子から腰を上がる。

マリア「今日は当の足長おじさんは如何されているのでしょうか? あら、ガブリエルさんも足長おじさんと同じ変わったお召し物ですね。やっぱり、外国の方なのですか? それはそうと、ガブリエルさん?」

   マリアはガブリエルを質問攻めにする。

   その勢いで、ガブリエルはマリアに挨拶を返す機会を逃す。

ガブリエル「何だね?」

マリア「その羊、お召し物を噛んでおりますよ」

   マリアは指で指して指摘する。

ガブリエル「何だと?」

   ガブリエルは目線を落とし確認する。

羊「メエェ~」

ガブリエル「おい! 答えなくても良い質問をぺらぺらと喋る前に、如何して」

   横に飛び退いて、羊と距離を置くガブリエル。

ガブリエル「如何してこちらを早く言ってくれなかったのだ! 嗚呼、涎でベタベタではないか! 勘弁してくれよ」

   喚くガブリエル。

   憐れんだ表情をするマリア。

ガブリエル「そんな顔で私を見るんじゃない!」

   ガブリエルは咳払いをして、その場を誤魔化す。

ガブリエル「マリアよ」

マリア「何でしょう?」

ガブリエル「お前を恵まれた女として祝福しに、私は遣わされたのだ」

マリア「はあ」

   何と言って良いのか困る、マリア。

ガブリエル「はあとは何だ、はあとは! もっと嬉しそうに反応出来ないのか? 神様がお前を祝福して下さるのだ、光栄に思わずして何を思う。私でさえわざわざこうして足を運んでやったと云うのに、お前は私に椅子を勧めもしない。何と云う仕打ちだ! お前は如何だ? 見てみろ、優雅に朝食中ではないか。ふん、まあ良い。否、良くは無いのだが」

マリア「申し訳ありませんでした。そちらの椅子にお掛けください」

ガブリエル「うむ」

   落ち込むマリア。

   席に着くガブリエル。羊の手綱をテーブルの脚に結ぶ

ガブリエル「何だ、目に見えて気を落とす事もなかろう。まるで私が悪いみたいではないか、ははは」

   ガブリエルは笑って場を和ませようとする。

   しかし和む気配が無いから、咳払いをして話し出す。

ガブリエル「話を進めるからよく聴きたまえ。宜しいかな、マリアよ」

   頷くマリア。

ガブリエル「私が来た理由は先に述べた通り、神様の祝福を届けに来たのだ。心して聴きたまえ。(咳払い)これからお前は懐妊し、男の子を産むだろう。そして『イエス』と名付けなさい――と云うのが神様のご意志だ」

   マリアは衝撃の余り言葉が出ない。

ガブリエル「『彼は非常に偉大な人物になり、神の子と呼ばれ』る。神である主は、その子に先祖ダビデの王座をお与えにな』る」

マリア「質問しても宜しいでしょうか?」

   マリアは恐る恐る手を挙げる。

ガブリエル「どうぞ、何だね?」

マリア「『どうして子供ができましょう。まだ結婚もしておりませんのに』」

ガブリエル「マリアよ、勘違いをしてはいけない。結婚しなくても子供は産まれる者だ。そうでなくても、これは他ならぬ神様の言葉なのだ。その神様がそうなると言えば、そうならない訳がない。必ずその通りになるのだよ」

   ガブリエルの言葉を聴いて、増々困惑するマリア。

ガブリエル「如何して喜べない!? ザカリヤのように罰でも与えられたいのか? そうでなければ自らの表現として、じゃれた子犬のようにはしゃぎ回って、歓喜してみよ。お前の従姉妹のエリザベツも神様のご意志があればこそ、あんなに高齢になってでも身籠る事が出来たのだ。知っているな?」

マリア「はい、とても幸せそうでした」

ガブリエル「そうだろう、喜ぶ者なのだ。しかし如何したマリアよ、お前は敬虔で従順な信者のはずだ。神様の言葉に全てを委ねるのだ」

マリア「私は主のお言葉を信じます」

ガブリエル「そうだ、それで宜しい」

   ガブリエルは立ち上がり、扉へと足を運ぶ。そしてドアノブに手を掛けた所で振り返る。

   羊を指差して言う。

ガブリエル「その羊は神様からお前へのプレゼントだ。好きにしたまえ」

羊「メエェ~」

   ガブリエルは退出する。

   暗転。


ナレーション「その後、マリアはエリザベツと面会しました。時が流れ、エリザベツは果たしてヨハネを出産します。そして聴衆は割礼の日に、その子供がヨハネと名付けられる事に驚きます。何故なら過去にヨハネという者が一人も居なかったからです。口を利けなかったザカリヤは漸く喋る事が出来るようになります。更に時は流れ、成長したヨハネが砂漠に住むようになるのは別の話――一方で、マリアはイエスと名付けられるべき男の子を出産し、その子供を布でくるみ飼葉おけに寝かせます。次の場面には羊飼いたちが登場します。それでは、どうぞ」


○野原(夜)

   羊飼い三人が火を焚き、暖を取っている。

   毛布か何か寒さを凌げるように厚着である。しかし震えている。

羊飼い1「昼夜の寒暖の差がヤべえ。さ、さ寒い……」

羊飼い2「あゝ全くだが、こればっかりは如何にもならねえ事だがな」

羊飼い3「羊に抱き付いて良い?最高の暖だよ」

   羊飼い3はケラケラと笑う。

羊飼い2「確かにあのもふもふは暖かいだろうが、羊たちの睡眠を妨げるってえのは本末転倒じゃねえか。外敵に襲われないように、俺たちが見張りをしているのを忘れちゃあ困るぜ?」

羊飼い1「なあ、お前さんは口を開くと第一声は相手に賛成するが、その次の言葉は決まって正論を吐きやがるなあ。それは何でえ、上げて落とすって奴かい? 振りなのかい?」

羊飼い3「もう寝ても良い? オイラ、寒さでヒドク眠いよ」

   ウトウトとし始める、羊飼い3。

羊飼い2「上げて落とす? 振り? 何の事を言っているのかさっぱり分からねえが、俺にこれ以上如何しろってえんだ? 俺たち皆、同じ環境じゃねえか。寒いのには違わねえし、逆に今急に暖かくなってでも見ろ。天変地異の前振れじぇねえか」

羊飼い1「違いねえ。お前さんの言う通りだよ」

羊飼い2「それはそうと、そこの坊やが眠り始めたぞ。起こしてやってくれねえか?」

羊飼い1「ああ」

   羊飼い1は羊飼い3を揺さ振る。

羊飼い1「おい、起きねえかい! おい!」

   羊飼い3は微睡んでいる。

   羊飼い1は羊飼い2に身振りでやれやれと示す。呆れ顔と共に。

羊飼い2「まあ、死なない程度に寝かしてやりゃあ良いじゃねえか」

   羊飼い2は羊飼い3が眼を開けている事に気が付く。

羊飼い2「何だ、お目覚めかい、坊や?」

   羊飼い3はぼんやりと夜空を見上げている。徐に空を指差す。

羊飼い3「……流れ星だあ」

羊飼い1「こりゃあ、寝惚けている」

   羊飼い1は頭を掻く。

   羊飼い2は指差された方向を見る。

羊飼い2「否、本当に流れ星だ」

   立ち上る、羊飼い2。

   羊飼い1も視線を向け、立ち上がる。

羊飼い1「おいおい! 流れ星ってのはあんなにも流れているもんなのかい?」

羊飼い2「光がこっちに来るぞ!」

羊飼い1「うへええ!」

   暗転。

   ガブリエル、壇上。

ガブリエル「ガブリエル様が参上☆ さあさあ、羊飼いの皆様方。恐怖しているな?」

   ガブリエルは腰を曲げ、羊飼いたちを指差す。

ガブリエル「何、殺して喰ったりなどしないから、どうか安心なさい。おやおや、私が誰なのか知りたいと云う顔をしているね。私は神様の御使い、ガブリエルdeath★ お前たちには特別に素晴らしい出来事をお知らせしようと思うのだが、如何だろうか?」

   耳に掌を添え、返答を待つガブリエル。

   羊飼いたちはコクコクと頷くばかり。

ガブリエル「成る程、成る程。よく分かりました」

   大きく頷く、ガブリエル。

ガブリエル「お前たちは鳩か何かに違いない。全く言葉を喋らないではないか!」

   ガブリエルは指を鳴らす。

ガブリエル「楽にしなさい――宜しい。そして聴きなさい。『今夜ダビデの町で救い主が誕生した。その方こそ主キリストである。布に包まれ、飼葉おけに寝かされている。それを目印にしなさい』」

   他の御使いたちがガブリエルの傍に壇上。

   ガブリエル一同が唱え始める。

御使いたち「『天では、神様に栄光があるように。地上では、平和が、神様に喜ばれる人々にあるように』」

   ガブリエル一同は退出する。

   羊飼いたちは立ち上がり、身振り手振りで話し合っている風にし走って回る。

   暗転。


ナレーション「さて、羊飼いたちは町に戻り、息を切らして探しました。そして飼葉おけで寝ている赤子を発見しました」


○馬小屋(夜)

   飼葉おけで赤子が眠っている。

   その傍にはマリアとヨハネがいる。

   羊飼いたちが出て来る。

羊飼い1「馬小屋だ、飼葉おけと言っちゃあここじゃないのかい?」

羊飼い3「飼葉おけで寝かせてくれるの?」

羊飼い2「良し、覗いて見ようじゃねえか」

   羊飼いたちが飼葉おけに歩み寄る。

羊飼い2「チョイと失礼するよ、奥さん」

羊飼い1「この奥さん、随分と若いじゃあないのかい?」

   羊飼い1はマリアに視線を向ける。

   俯いて黙っているマリア。

   羊飼い1は飼葉おけを見る。

羊飼い1「おお! あの御使い様の仰っていた通りじゃないかい!」

羊飼い3「主キリスト様ぁ~」

   羊飼い3は膝を突き拝み始める。

   羊飼い1と2はお互いに顔を見合わせ、3と同様に拝み始める。

   羊飼い2は腰を上げる。

羊飼い2「もう十分じぇねえか? 主がお目覚めになる前に退散するぞ」

羊飼い1「了解。おら、坊や、もう行こうじゃないか」

   羊飼い1は3の背中を叩く。

   羊飼い3は前のめりに倒れ掛かる。

羊飼い1「寝てるじゃねえか!」

   羊飼い1は慌てて、3を抱き抱えて立たせる。

羊飼い3「アレ? 飼葉おけで寝かせてくれないの?」

羊飼い1「完全に寝惚けてやがる!」

   羊飼い1は3の腕を肩に回して担ぐ。

羊飼い2「ありがとうよ、奥さん。俺たちは奇跡に出逢ったんだ」

   羊飼いたちは退場する。

   入れ替わり、東方三博士が壇上する。内の一人が宝の箱を携えて。

   東方三博士、飼葉おけにひれ伏して拝む。

ナレーション「東方三博士らもやって来て、イエズス様に拝みます」

   宝の箱を持っている者がその箱を開け、一つ取り出しマリアに差し出す。

ナレーション「彼らは宝の箱を持って来ました。蓋を開き、先ず黄金」

   二つ目を取り出し差し出す。

ナレーション「そして、乳香」

   三つ目を取り出し差し出す。

ナレーション「最後に没薬を献上しました」

   暗転。


ナレーション「それから八日が経ち、割礼の日にマリアの息子はイエスと名付けられました」


○神殿

   マリアはイエスを抱えて壇上。

   ヨセフが寄り添う。

   シメオンがマリアの元に歩いて来る。

ナレーション「この人物はシメオンと言って、イエズス様と出会うまでは死なないと神託を受けていました」

   イエスを抱き抱えるシメオン。

シメオン「主よ、感謝致します。メシヤに漸くお会いする事が出来ました。『この方はすべての国を照らす光、あなたの民イスラエルの光栄です』」

ナレーション「このようにシメオンは賛美します。そして」

シメオン「『イスラエルの多数がこの子を信じませんが、この子によって大きな祝福を受ける人も大勢います』」

ナレーション「シメオンはマリアにそう言って、締め括ります」

   マリアとヨハネ、シメオンは退場。

ナレーション「同じく、神殿には女預言者アンナもいました」

   女預言者アンナと聴衆が壇上。

   アンナが聴衆に語りかける(無言の演技)。

ナレーション「彼女は大勢の人々にメシヤの誕生を語りました」

   暗転。

  (了)

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