03.世界は老人の行方を見守るだけだった。
【6】
少女は寝惚けいた。
意識を取り戻したのは結構であるが、如何にも躯から重みは抜けていなかった。顔は火照り意識がはっきりとしない。この状態が只の寝起きに依るものなのか、風邪の症状に依るものなのかは分からない。
確かな事は躯には熱が籠り、頭には靄が掛かっている事であった。すっきりしない事がはっきりしている事と云う訳で、その思考は単純にも自宅に居るものだと当然の如く思っていた。
布団の暖かさに感けて、再び眠りに落ちたのであった。
少女が寝息を立てている傍ら、何処かで水の音が聞こえて来る。その音の出所は台所だろう。正にその通りで、タオルの水を切っている音だった。しかし、その台所に立っているのは少女の母親――などではなく、あの老人である。土手で惨劇に巻き込まれてしまったあの人物だ。
タオルの水を絞り切り台所を離れ、老人は部屋へと戻って来た。少女が眠っている部屋へ。襖を開けた。そこは常時使用していない部屋だが、物は置いていない。隅に埃がちらりと居座ってはいるが、物置になっていない分綺麗に整っていた。布団は寝室兼居間から老人が運んで来た物だ。運んだと云っても襖を挟んだ隣部屋の為、只でさえ襤褸の躯でも苦にはならない。
布団は老人のものではなく、数年前までは使われていた物だった。今となっては使われる事もなくなったのだが、捨てるに捨てられないで居たのだ。
勿論捨てる機会はあったのだろう。
如何も捨てる気にはなれなかった。形として残しておかないと彼の中で薄れて行くような、握り締めた途端に形が無くなるような、そんな淡い記憶に成り下がってしまう怖さがあった。年齢の所為だと否定は出来ない。忘れたくないのに、忘れてしまう。大切な思い出まで忘却する年老いた脳が時々何を考えているのか、改めて考えると頭痛の種となる。頭痛の種となるものはそれ一つではないのだが――。
開けた襖をすっと閉めた。振り返り、少女が寝息を立てている事を確認した。
お多福の様に頬が赤く膨れ、恰も風邪をひいている様だった。
風邪をひいていないとも言い切れないのも事実である。原因はあの男に他ならなかった。仮令酔っぱらっているとして、あれ程までにも子供に対して暴力を振るえるものだろうか。何か少女に恨みでもあるのだろうか。若しや子供に――否、過去の記憶か。
老人は膝を突いて正座で座った。少女の額に掛かっている前髪を、店の暖簾を潜る仕草で持ち上げた。そこに水で冷やしたタオルを宛がう。
――父と子と聖霊の御名によって。
そう静かに唱え乍ら、額から胸へ右手を下ろし更に左肩から右肩へなぞり、優しく丁寧に十字を描いた。アーメンと呟いて、暫く瞑想に耽っていた。額にタオルとは古典的乍らも早く改善する事を願うばかりである。少女の寝顔に窺うと、気の所為か苦痛を訴える眉間の皺が僅かに緩んだ様に見えた。同様に老人も安堵の溜息と共に肩の力を抜いた。
寝息は物音しないこの部屋に静かに響いている。それは命の伊吹。先日の流さるるが儘に起きた不慮の事故と引き換えに持ち長らえた、未だ幼い芽は幸運にも此処で息衝いていた。
老人は昨日から何も口にしていない。食べる気になれないで居たのだった。少なくとも、少女が目を覚ますまでは荷が下りる気がしなかった。
窓辺へ行きカーテンを開けると太陽が顔を覗かせていた。雪は何時しか止んでいたのだ。室内の豆電球を消すと、窓から差し込む陽射しが温かい。特に何の慰めにもならないのだが――。窓枠から景色を眺めた。眺めているだけで何も考えない事が気持ち良い――と云えようか、心に言葉にならない平静を与えてくれた。心の平静とは云ってみたが、この心理状態は言葉にしようとすると上手く表現出来ない類いだったりする。実に厄介である。
ただ窓に向かって呆けている心情を問い質す事に依って、普段考えていない事を考える訳であった。無意識に立ち上がった理由を立ち上がったその瞬間に考えを巡らせている様なものであろう。思考自体は別段悪い事ではない。
それでは埒が明かなかった。有益か無益かを決めるのでもない。正にこちらも言葉にし難い類いのだ。
※※※
老人は再び台所へ足を運んだ。
薬缶にマグ一杯分の水を注ぎ、IHで沸騰させる。珈琲ドリップの封を切り、マグに掛けた。開けた瞬間に香りを嗅ぐのは何時しか癖になっていた。反射と云っても良かろう。
特に香りに対して拘りを持ってはいない。何時からだったのだろう、気が付けばそうする様になっていた。偶には豆を挽く時もある。手間ではあるが、それはそれ――その分が美味しく感じられるのだ。
ドリップのパック式の方を良く飲むのは矢張り開封の瞬間に香りを嗅ぐのが良いのである。その刹那に味わえる香りを楽しむ。そうして沸騰した湯をパックに流す。一回目の湯を注いだ分が流れ落ちると三十秒待つ――らしい。裏面の説明書通りだ。一応その通りにするのだった。
従う場合と従わぬ場合での差異が如何にも分からないで居た。それを分かりかねている間は、通への道は閉ざされているのであろう。
幸か不幸か、それは老人にとっては全く別問題であった。悪く云えば如何でも良かったのだ。
ただ夜鍋するだけの眠気が抑えられていれば、珈琲でなくても何でも構わなかった。強いて挙げるとすれば、珈琲を飲んでいる所以は矢張り開封時の香りなのだろう。
湯を注ぎ切った直後の珈琲は熱い。水面に息を吹き掛けながら、啜れる程度に冷まして行く。一口喉を通し一息吐いた。老人自身も休息を要する躯であったに違いなかったが、少女を放っておいて床に就く事は出来なかったと云う訳である。
何故老人が看病をしているのか、親は如何して居るのか――。
無論連絡は入れた、少女の携帯電話で。あれはスマートフォンと云う奴だったか。
繋がらなかった。連絡先にあった「内」にも掛けてみたのだったが、こちらも繋がらなかった次第だ。
少女の名前は「蛇草閖」だと云う事が分かった。
救急車を呼ぶのも考慮に入れた。それ以上にあの様な状況で呼んでも後になって、勝手に呼んだのだとこちらに料金を請求されては敵わないと思ってしまったのだ。物凄く消極的な思考ではあろうが、その可能性が無きにしも非ず。物悲しい世の中である。時間を置いて再度連絡してみるつもりでいた。少女は目覚めず、時間だけが過ぎ去るのみ。
一応老人は少女の為を思い、風邪薬を手元に用意しておいたが、果たして飲ませても良いものやら判断は下せずにいたのだった。
タオルを冷やして甲斐甲斐しく絞って居た。
この部屋は二階建てのアパートにある。吹き曝しの階段を登った通路の一番奥に位置した部屋だ。二棟は連なり、挟まれた空間の奥にも階段はある。その階段を使えば登った手前の部屋が老人の部屋だ。奥の階段は部屋には近いが、誰の足跡も付いていない雪の厚い絨毯がその階段を使うのを邪魔していた。手前の階段は道路に面しており、使い勝手が良い。おまけに均されていたお蔭でよろける事も無かった。
この場所には一年前に引っ越して来た。独り身になったからだ。手間は掛からなかった。荷物が少ないからだ。死に別れてからは物への執着が恐ろしい程に無くなった。だから処分した。ゴミとして捨てたのではない。手渡したと云って良い。それで金銭は生み出さなかったが構わなかった。
以前住んでいた所は独りで暮らすには広過ぎた。その広さこそが心の平静を掻き乱した。耐えられなかったのだ。思い出に浸るのも良いが、それ以上に部屋の広さ故の淋しさに押し潰されそうでならなかった。斯くして、引っ越しは果たされた。
茫洋と外を眺めている格好ではあったが、実の所意識はうとうとと持って行かれそうになっていた。珈琲を飲んでいたマグは既に空である。マグの底には茶色の液が薄い膜を張っていた。
――何杯飲んだのだったか。
取っ手付近の淵には垂れ跡や斑模様が微かに付着していた。そのマグでもう一杯と入れてしまえば、口当たりが可成り不快である。不快であると云う不満を漏らすだけで実際は洗いもしない。要するに大儀いのだ。
一杯を飲み干す度に、マグを洗う爽快さを知らない訳でもない。マグを滑る様に流れる珈琲は実に軽やか。淵も綺麗なのだから口当たりも滑らか。
残念乍ら、理想を語る内は虚しいものだ。飲み終わった底に張り付く汚れは其の儘にしておくべきではない。火を見るより明瞭な事である。その上に落す珈琲など塵や砂利が沈殿した泥水でしかない。旨さなど微塵も感じない。香りを楽しめないどころか、その一杯に萎えて仕舞う。
何だかんだ云おうが結局は洗えば良い。
その一手間こそが胆となるのである。
早朝の冷え込みと日の出の遅延の為に、外出する者も少ないのだろう。
静寂の主張が激しく、耳がおかしくなりそうだ。時折風が吹いては雪の表面を攫って行った。二桁を優に超えたタオル交換の後も、矢張り襤褸襤褸の躯では何をする気にもなれずに居た。患者は苦しそうな表情を浮かべてはいるが、呼吸は緩やかだった。大事には至っていないだろうと、一応は安心した。
静かに細く響く音が聞こえて来た。それは鐘の音だった。一度放った音が程良く消えかかると更に鐘を打つ。それを五分ぐらい掛けて十回鳴らす。抑揚の無い音を無意識に只管耳に這入るが儘に聞いているだけだから、実際には今が何回目なのだと断言は出来ない。この鐘の音を何度聞いた事だろうか。
冷蔵庫を開けて覗き込んだ。何も入っていなかった。ならば、買い出しに行かねばなるまい。億劫だが仕方の無い事だった。食べて栄養を摂らねば治るものも治らない。体調であったり、鬱屈したこの気分であったり――。
余りの静けさに、今もあの鐘の音が鳴り続けている様な錯覚に陥っていた。頭の中ではずうっと響いて止まないのだ。
止まぬ音――、
体内でポンプしている音も止まぬ音か――。
外の空気を吸っても晴れるはずもなかった。重い足取りで、老人は近所に買い出しへと出掛けて行った。
【7】
手入した目撃情報のお蔭で、漸く捜査が動いた。目撃情報が無い状態での訊き込みは闇を掴む程に徒労に終わるものだ。何れにしても、容疑者の氏名は都合が悪く知らないと云った。情報提供者に依ると、日曜日に教会で行われているミサの参加者の一人らしい。その情報提供者も参加している様で、容疑者と何度か会話した事があると云う事であった。
件の教会堂は聖誠院とは何も関連がなく、同じカトリックではあるものの町の片隅に溶け込んでいると云った体であるらしい。
「こんにちは――」
稔は入口の扉を開いて中を覗き込んだ。
この建物には神父様が滞在していると云う。然し乍らフロアには誰も居なかった。最も目に付く所には、キリストと動物が描かれた色とりどりのステンドグラスがはめ込まれている。子供が書いたと思われるクレヨンの絵が壁一面に飾られてあった。
外からの日差しがそのステンドグラスに艶を与えている。
玄関まで踏み込み、左奥まで続く通路に目線は這わせた。
「何方かいらっしゃいますか――」
ひょっこりと見せたその顔は日本人のものではなかった。北欧系か如何か断定は出来ないが、口角を上げ人懐っこい表情が特徴的だ。灰色の口髭と顎鬚がふさふさと優しい印象を与えるお爺さんだ。顔の横に掌を掲げ、陽気な雰囲気が正に距離感の近いアメリカ人でないかと思わせる。ゆらりと玄関にやって来た。
「コンニチハ、イラッシャイマセ?」
この老人の服装が彼は聖職者だと誇示している。赤紫色のスータンを身に纏い、高身長の賜物で肢の裾が物凄く長いのである。
「高倉警察署の道祖尾と申します。実はお聞きしたい事がありまして――」
――Sano? Whachu said? Do you speak English?
(サノ? 何と言いましたか? 英語は喋れますか?)
神父は眉間に皺を寄せ、困惑の表情をした。
――I do.
(私が喋れます)
桜依は挙手して身を乗り出してきた。
その行動に神父の表情は和らいだ。
――Yes?
(何でしょうか?)
――Umm, we’re the police and we came here to ask you something.
(えっと、私達は警察官でして聴き込みの為に来ました)
――So, what can I do for you?
(それでは如何致しましょう?)
――I need your name. May I ask?
(お名前を窺っても宜しいでしょうか?)
――My name? Alan Robson. I’m a bishop.
(私の名前ですか? アラン・ロブロン、神父です。)
――OK, bishop. I beg your pardon, are you married?
(うん、神父ですね。失礼ですが、ご結婚はされていますか?)
――No, I’m not. Well, bishops remain single all their lives.
(否、してません。良いですか、神父は一生独身の身なのです)
――I see, I don’t know that. By the way, we’re looking for this person.
(そうですか、知りませんでした。ところで、この人物を探していまして)
桜依は懐からモンタージュを取り出して、アラン神父に手渡した。
――We've got information to him from a witness. He's a suspect of a kidnapping that happened yesterday. Did you watch TV-news in this morning or yesterday’s night? Is his face familiar to you?
(この人物についての目撃情報がありまして。この人物は昨日起こった誘拐事件の容疑者です。今朝か昨日の夜にニュースを観ませんでしたか? 見覚えはありませんか?)
――Kidnapping!? Oh my, I can’t believe it!
(誘拐事件だと!? おやまあ、信じられない)
神父は額に手を当てて溜息を吐き、顔を軽く振るった。片方の腕で軽く壁に寄り掛かる。
――I know him, Amane, a good person far to a criminal. NO way! Oh, excuse me.
(彼なら知っています。周、犯罪者とは遠い良き人物です。有り得ません! 嗚呼、済みません)
――Please sit down, bishop.
(どうぞ座って下さい、神父様)
桜依はフロアのソファを勧めた。
玄関で立ち話をしているのだ。神父に立ち話など無粋であろう。
それに手短に済む話でもないので腰を下ろすのが賢明だ。
――Yeah, let’s do that. Please come in.
(ええ、そうしましょう。どうぞお入り下さい)
屋内は外履きの儘で這入る事が出来る。フロアに移動して、聞き込みを再開した。
――Excuse me, ah, so, what’s his first name?
(済みません、えーっと、下の名前は何でしょうか?)
――No,no,his first name is Amane, and his sir name is Kikuichi.
(否否、周は彼の下の名前で、苗字が菊一です)
きくいちあまね、と桜依は手帳に書き殴った。
――What is he like?
(彼はどの様な人ですか?)
――Like I said, he’s not the one who would commit a crime. He is pious, attends morning service every day, and prays devoutly. He's a model of worshipers.
(先程言ったように、罪を犯すような人物ではありません。敬虔で、毎朝の礼拝は欠かさずに参加し、切に祈りを捧げる。彼こそが信者の鑑です)
――So, he is honest.
(なるほど、彼は熱心と)
――Exactly.
(確かに)
――See.
(左様ですか)
――He came to church in the yesterday's morning too.
(先日の朝も協会に来ました)
――Really?
(本当ですか?)
「先輩」
星は昨日も礼拝に来ていたそうですよ、桜依は稔に云った。
「その様だね。聴いていたら段々聞き取れる様になってきた」
――Ah, what’s the deference between morning service and Mass? This is my question, however. Oh, by the way, you can speak Japanese, can't you?
(ああ、礼拝とミサにはどの様な違いがありますか? 個人的な質問で済みません。ところで、貴方は日本語を喋れますよね?)
――Yes, I can.
(喋れますね)
牧師はニヤリと表情を変えた。
――Shall we speak Japanese?
(日本語で喋りませんか?)
――Why, see. I think I would.
(ええ、そう出来なくもありませんが)
――Why did you speak English?
(何故英語を喋ったのですか?)
――NO reason, I think. You could speak English, maybe. Just kidding.
(思うに理由はありません、貴女が英語を喋れると思いまして。軽い冗談です)
桜依は座っている状態から前のめりになり、膝に肘を突いて両手の掌で顔を覆った。
隙間から漏れ出したのは溜息だった。疲労したのだろうか、蹲っている。
「日本語は喋れるのですか?」
「チョットシタオ茶目デス。エエ、礼拝トミサノ違イハ簡単ニ言エバ言葉ノ違イデショウカ。キリスト教ノ大キナ宗派デ、カトリック、プロテスタント、東方正教会ガアリマス。ゴ存知ノ通リ日曜日ニ行ワレル教会デノ集会ヲ、プロテスタント、デハ礼拝ト言イマス。ソシテ、カトリックデハ典礼ト言イマス。ミサハソノ典礼ノ儀式デノ一部ノ事ヲ差シマス。一般的ニハキリスト教ノ儀式ヲ纏メテ言テイルヨウデスガ、ソレハ違イマス」
「では、ミサとは一体?」
「ミサハパンヲ供え物トシタ一連ノ儀式ノ事ナノデス。ソレハ典礼ノ一部デ、中心的ナ儀式デモアリマス」
桜依は突如身を起こして、メモに徹底した。
「はあ、そうなのですか」
ミサとはその様な狭義があるのだと初めて知った。各カトリック教会のホームページを見てみると、ミサと一纏めに記しているのもまた事実であろう。その点は寺なら俗世を遮断する事は出来るが、矢張りキリスト教は世間との関わりを絶てないと云う妥協もあって然るものだ。
「菊一さんが先日も来ていたと言うのは如何いう事でしょう? 何か催しが行われていたのですか?」
「日曜日ダケデナク、平日モ教会ハ開放シテイマス」
「なるほど」
教会は解放状態であり、誰であろうとも立ち入る事を許す。毎日早朝には礼拝をし、聖務をこなすのだ。日曜日にはミサを執り行う。
「菊一さんとはどのようなお話をされていましたか?」
「特ニ変ワッタ事ハ――世間話程度デスガ、毎日欠カサズニ礼拝ニ足ヲ運バレル敬虔ナ御方デス。シカシ、今朝ハイラッシャイマセンデシタ」
「流石に今朝は来ないでしょう。何せ事件を起こした後ですからね。来るとしても、懺悔ですか。まあ、教会で懺悔して赦されるなら警察なんて要らないでしょう」
「洗礼ヲ施サレタ者ハ赦サレマス」
「はい?」
――赦サレルノデス。
神父は凛とした声で答えた。
稔の脳内ではその言葉が木霊している。
それはまるで警察など要らない、人間をよく見よと云っているかの様であった。
「平日はどの様な催しが?」
「実ハ平日モミサヲ執リ行ッテイマス。七時カラデス」
「夜の?」
「イイエ、朝ノ」
「早いですね! はあ、早寝早起きだ」
――Mens sana in corpore sano.
聞き慣れない言葉に何と云われたのか全く分からなかった。流暢な響きだ。逆に何だか耳心地が良かった。今聴いたばかりのそのフレーズを唱える事が如何しても出来ないのは、何とも言えない微かな気持ちを誘う。日本語でも英語でも無い。イタリア語か――そう考えていたが、実際にイタリア語の単語で一つでも思い浮かぶものなどは無かった。
「健康ナ身体ニ宿ル健康ナ精神ニ願ウ」
閃く言葉があった。矢張り日本語で喋って貰わなければ何も分かるまい。
その思考に賛同するものの、同時に感じる不甲斐無さに落胆した。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る――ですね。嗚呼、慣用語だ。漸く掴めました。因みに何語ですか?」
「ラテン語デス」
「はあ」
ラテン語と来たか。全くお手上げである。何と返答すれば良いのか皆目見当が付かずに、傍からしてみれば間抜けな事に溜息しか出なかった。其れは肯定でもなく否定でもないので、案の定次に繋がる手助けにはならなかった。そこで改めてフロアを見渡してみる。
「この壁一面の絵は素晴らしいのです。お父さんやお母さん、家族ですか」
右手を一周させると、アラン神父もその軌跡を追う様にして目線を向けた。
「子供達ノ絵デス。小学校ガ終ワッテモ親御サンガ居ナクテ独リボッチニナッテシマウ子供達ガ、此処デ過ゴセルヨウニ開放シテイマス。オ友達ト遊ンダリ、勉強シタリシテ過ゴシマス」
「なるほど、慈善事業ですか」
妙に納得した。協会ならば行っていそうだ。
「慈善事業ノ様ニ大層ナ事デハアリマセン。最近ハ特ニ治安ガ悪イデスカラ――アア、スミマセン。警察ノ方ノ前デ」
「否、仰る通りなので謝らないで下さい。寧ろ、こちらが申し訳ないと云う気持ちです」
神父は一呼吸置いて云った。
「ドチラモ悪クナイト思イマスノデ、コノ話題ハモウ止メマショウ」
「はあ、そうですね」
話は途切れてしまった。
さて、聞き込みに来たのだから色々と訊いてみなければいけない。
単純な事であった。
「そう云えば、ミサは何処で行うのでしょう? 一見、此処は教会のような大きいスペースなどは、無いように見受けられますが」
「此処デハアリマセン」
「では?」
「直グ裏手二教会堂ハアリマスヨ」
「良ければ、是非拝見させて頂けると有り難いのですが」
「良イデスヨ。ソレデハ、案内致シマショウ」
お言葉に甘えて、稔と桜依は神父に付いて集会所を出た。
「それにしても、日本語がお上手ですね」
「エエ、長期滞在シテイマスノデ」
「何年目なのですか?」
「カレコレモウ10年ニナルデショウ」
「それは長い。言語は独学ですか?」
「正ニソノ通リデス」
「アニメですか?」
見事に切り返しは早かった。トイウノハ冗談デスと続けて云った。
「矢っ張り冗談なんて言うんですね。神父様って厳格な人かと思っていました、先程までは」
桜依は背後から躍り出て軽く毒を吐いた。嫌味にも聞こえるのは仕方の無い事だが。
「アニメじゃないとすると――何でしょう、先輩」
「何だろう、僕にも分からない」
神父は表情を崩して微笑んだ。
「絵画ガ好キナノデス。日本ノモノダト古イモノモ好キナノデスガ、現代ハイラストレーターガ凄ク持テ囃サレテイルノヲゴ存知デショウカ。ソノ点ハ問題デハアリマセン。シカシ、私ワ現代ノ絵モ好キナノデス」
「絵画の事はお手上げだ」
その言葉通り、稔は両の手を挙げた。
何か思う事があるのだろう桜依が云った。
「失礼ですが、ひょっとしてそれは萌絵ではありませんか?」
萌絵だと?
嗚呼、オタクの――。
「ゴ名答デス」
「矢っ張り!」
「おい!君はもしかして“負”女子とかいう奴じゃないだろうな」
稔は勘弁してくれと呆れた顔をした。
「ち、違います。勘弁して下さいよ、あはは」
「はあ」
“ふじょし”――稔は詳しく知らない。特段知りたいとも思っていない。その単語が負の意味である事は頭の片隅に残っていた。確かに聞き齧っただけであったが、話の流れが途切れないように上手く働いてくれた。今はそれだけで十分である。
「若イ事ハ良イ事デスネ。今ノヤリ取リハ非常ニ面白カッタデスヨ」
「神父様、訊いて下さい。この人は仕事中でもふざけるんです」
「密告なら僕の居ない所でしてくれ」
神父への内部告発だ。説教などは御免である。
――Tous pour un, un pour tous.
又もや呪文が飛び出して来た。先のラテン語の文句とは違う音調なのは気のせいだろうか。此方は何語なのだろう。稔は何語かさえも解答を出せなかった。
――All for one, one for all.
直訳デスケド、と神父は補足した。
「1人はみんなの為に、みんなは1人の為に!」
稔と桜依は同時に云った。
「アナタ方ニハコノ言葉ガ似合イマショウ――サア、到着致シマシタヨ。此方ガ私ノ管轄シテイル教会デス」
稔は警察や葡萄、そして水の事がぼんやりと思い浮かんだ。
取り止めのない思案は次第に霧散した。
――Nel nome del Padre e del Figlio e dello Spirito Santo. Amen.
(父と子と聖霊との 御名によって。アーメン)
神父は噛み締める様に唱えると同時に、丁寧な動作で十字を切った。
稔は教会堂に到着すると、神父から聞き出した情報を足羽へ報告した。遅れて、教会堂へ踏み入れる。神父と桜依に合流した。
「お恥ずかしながら、実は教会に入るのは今回が初めてでして」
稔の気分は確実に昂っていた。
「初体験ですね、先輩」
「五月蠅い」
卑猥な言い方で茶々を入れられるのは迷惑である。即座に一蹴した。
「如何デスカ?」
「開放的で恰もこの空間だけが澄んでいるような、何と言って良いのやら。神聖な場所だとは頷けます。安易に言葉を並べると威厳を損ねかねませんので、矢張りその場を感じると云うのが一番良いように思えます」
稔は反芻している。
「しかし一部の仕様が、意外にも少々悪趣味に壮大で吃驚しています」
「あ、それは私も思いました」
桜依も同調した。
神父は優しい口調で解説する。
「矢張リ何度モ参拝サレル殆ドノ方々ガ聞カレマスネ。何故アノヨウナ気持チ悪イ模様ヲ採用シタノカト。私モ子供乍ラ初メテ見タ時ハ、ソノ異質サヤ歪サヲ感ジサセラレタ程デス。本場デシタカラ、夜ニナルト思イ出シテ母親ニ泣キ付イタ事ガアリマシタ」
冗談交じりに言葉を重ねていく。
桜依がクスッと笑った。
「何ト言ウノデショウ。メデゥーサーノ様ナ――」
「おどろおどろしさ」
「ソウ、ソレデス。畏怖ノ対象ト言イマショウカ。兎ニ角、圧倒サレマシタ。装飾ガ豪華デスカラネ。アレハ、バロックの精神ヲ取リ入レテイルノデス」
特に反応が無いので、アラン神父はそのまま話を進める事にした。
「バロックトハポルトガル語ガ元ニナッテ出来タフランス語ラシイノデス。語源ハ歪ナ真珠デ、英語ニモ綴リヲ同ジクシタ単語ガアリマス。十七世紀辺リマデ遡ル事ガ出来ルノデ、ソレナリニ古イノデス。ルネサンスト対ヲ成スバロックノ特徴ハ、動乱性ヤ過剰ナコントラストデス。協会ハ勿論城ナドノ建築物ニ見ラレ、噴水ヤ階段、壁画ヤ彫刻デ施サレマス。実ニ誇張デ訴エル特性ガアルノデス――」
「はあ」
稔は相槌を打った。生返事である。理解など手に届く範囲には無かった。
桜依も要領を得ていないだろうと、稔は視界の端で盗み見ると、案の定相槌など打つはずも無く、呆けた顔で見渡していた。
「絵画デ言エバ、ルネサンスならレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ・ブオナローティ、ソシテ、ラファエロ・サンツィオが三大巨匠。バロックは、レンブラント・ファン・レインやヨハネス・フェルメール、デショウネ。軽ク挙ゲレバ。前者はイタリア、後者がオランダです。キリストシリーズで有名なレンブラントの『ヨアン・デイマン博士の解剖学講義』ハ腹部ト頭部ガ切開サレテイル場面ニ畏怖サエ感ジマスガ、逆ニ其レガ良イノデスヨ! ソシテ、中流階級ノ生活ヲ多数描いたフェルメールの『牛乳を注ぐ女』ハ余リニモ有名ナ作品デス。『真珠の耳飾りの少女』モ有名。私ハ『真珠の耳飾りの少女』ノ方ガ好ミデスガ、ソレト構図ヲ同ジクシタ、グイド・レーニ作『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』モ放ッテハオケマセン。因ミニ、女性ノ肖像画デ最モ美シイ作品ハ『真珠の耳飾りの少女』ラシイノデス。ソノ次ガ『ジョコンド』、ソシテ『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』ト連ナリマス。何処カデ投票ノ末、順位付ケラレタ様デス。真珠ノ耳飾リナンテ、正しくバロック其ノ儘デショウ。ソノ投票デ挙ガッタ、クロード・モネの『散歩、日傘をさす女性』ノ風感ジル爽ヤカサとソノ瞬間ヲ切リ取ッタ妻カミーユの表情の淡サが合ワサッタ神秘のコントラストが実ニ堪リマセン! 嗚呼、堪ラナイ」
アラン神父は聴衆を置き去りにして話を進める。
聴衆は口を挟む気力さえ最早残っていなかった。話を合わせるのが知識的に困難だと云う事も確かに原因ではあるが、それ以上に演説者の熱に中てられて何かが吸い取られたかの様な、得体の知れない脱力感に襲われていたからである。
要は神父の自己満足であった。知識量の自慢と云うよりも、その作品を思い浮かべた上で好き過ぎるが余りの自慰行為とでも判断出来ようか。
夢中に為れるのは悪い事ではない。それは分かる。
やり取りの無い会話程不毛なものは無いのだ。
盲目の神父はそれでも喋る事を止めない。その衝動は未だ治まりを見せなかった。
「更ニ、今挙ゲタ作品ヨリモ遥ニ衝撃ノ強サヲ誇ルノガ、バルデス・レアール作『世の栄光の終わり』ト云うバロック作品デス! ソノ中デ描カレテイル均衡ヲ保ッタ天秤と横タワル死骸のインパクトは半端ジャアリマセンヨ! 嗚呼、ロマンを感ジテ止ミマセン」
云いたい事だけ云って終りであった。理解して貰いたいが故の強制的な知識の押し付けは、得てして拒絶されてしまうものだ。
勿論アラン神父の態度も例外ではないが、実の所それが只の自慰行為であったかなど確かめる事を、稔は敢えてしなかった。野暮であろう。
かくして、神父の興奮ブレーカーは無事に落ちた。
一通り教会堂内を見学した稔と桜依は、神父を連れ添って再び集会所へ引き返したのだった。集会所に近付くと、玄関入口先に二人の人物が見えた。如何やら、神父が言及していたフロアを使う小学生達の様である。
集会所を離れた為に、当然戸締りは施してあった。そうでなければ不用心だ。故に這入れないので待ち惚けを喰らったと云う事だろう。幾ら晴天の空の下、雪解けが捗っているとは云えども、その寒さは容易く和らぐものではなかった。
三人は集会所の入口へと真っ直ぐに向かった。
可哀想にも寒さに震え乍ら、小学生の二人組みは神父の戻りを待っていたのだ。
「寒イ中待タセテシマイ、許シテオクレ」
神父がその小学生らに謝罪をして玄関を開錠している間に、稔がその二人の顔を覗いてみると、何と内の一人には見覚えがあった。
「オ入リナサイ。サア、暖ヲ取ロウ。ココアも淹レテアゲヨウ」
アラン神父は元気の無い二人の頭を撫でて、優しく背中を押して入室を促した。
気が付かないはずはなかった、何せ先日会ったばかりなのだから。
その人物こそ――、
――湯谷涼なのだ。
先日と異なる点は、聖誠院専用の制服を纏っている点と眼鏡を掛けている点であった。明らかに気落ちしているのが見て取れる。
もう一人はそんな涼を励ます様に何かと喋り掛けていた。本当は友達の方も悲しくて、気丈に振舞うのに無理をしているのかもしれない。それが彼女なりの優しさだとしたら、見守る事も優しさの内だといつ悟る事が出来るのだろうか――。
稔はそんな事を考え乍ら、彼女達の後に付いて集会所に足を踏み入れた。
女の子二人は長机のパイプ椅子に横並びで座った。
稔と桜依は向かいの椅子に腰を下ろした。
「こんにちは」
稔達は愛想良く笑顔で声を掛ける。
「オジサン達は誰です?」
凉では無い方の女の子から稔への質問である。警戒されていた。
「オジサンじゃないよ、お兄さんだよ。こう見えても未だ二十代だからね」
稔は片方の口角しか上がらず、上手く笑えなかった。
「一寸先輩、何真面目に答えているんですか? 相手は小学生ですよ」
「何を言っているのだ、桜依ちゃん! 彼女達にしてみれば君こそオバサンじゃないか。君に言えた口じゃあない」
「今のは年齢プライバシーに対するハラスメントです!」
桜依も負けじと言い張る。
「何をごちゃごちゃと」
話が逸れている事に気が付かない愚か者にはオジサンでもオバサンでも呼ばれていれば良いのだ。
「あの――」
おずおずと、涼は愚か者達に声を掛けた。
愚か者達は凉に注目した。
「あの、昨日家に来た警察の方々ですよね」
「えっ、警察?」
右側に座る女の子がその言葉に反応した。
「うん、都波ちゃん」
目の前の二人が警察と分かると否や、都波は鋭い眼光で睨み付けた。
「警察なら、早く閖ちゃんを見付けてよ! 何でここでのんびりしている訳! ねえ、如何して、如何して閖ちゃんを見捨てるのよ!」
その瞳は潤んでいた。歯を喰いしばり顔を歪ませてまでも泣くものかと云わんばかりであるが、薄く瞼に溜まった涙は徐々に溢れ出して頬を伝った。それを皮切りに、感情が決壊した。
都波は声を上げて泣き出してしまったのだ。
隣に居る凉は慌てて宥め様とするも、増々都波の鳴き声は大きくなるばかりであった。
「神父様! 神父様、来てください――!」
凉は声を張り上げて、アラン神父を呼んだ。先日の俯いた態度とは全く別のものを見せていた。そして、明らかにその表情も違うのである。これは正に土壇場に強い女性の顔であった。若干小学四年生と云う若さだが、確実に精神は大人への階段を歩み始めているのだ。
その片鱗を見た稔は椅子から腰を少し浮かせた状態で動けずにいた。
桜依は駆け付けて、凉と共に宥めていた。
「如何シマシタ」
アラン神父が驚きを隠せない表情で現れた。両手には二つのマグが握られている。早足で近付き、マグをそっと机に置いた。都波の横で腰を下ろし、目線の高さを同じにした。
「嗚呼、如何シマシタ」
優しく頭を撫でつつ、愛で包み込む様に都波の肩を抱いた。
良シ良シ良シ――。
アラン神父の腕の中で泣いている都波は抵抗しなかった。振り払おうともせず、受け入れた。
一方、凉は屹立した儘に目の前の光景をまじまじと見詰めていた。開いた口が塞がらぬのは驚いて呆れている為であるが、凉のそれは放心状態の為であった。何も考えていなかった。否、考えられなかったのだ。
都波が泣いているのは蛇草閖が行方不明だからであり、その事実を突き付けられ、実感しているのが正に今の状態なのであった。
脱力して倒れそうになった凉の躯を、稔は後ろから支えてやった。
都波は未だ泣き止んでいない。
アラン神父も継続して背中を摩り乍ら、宥めている。
稔は凉を椅子に座らせ、机にあるマグを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「如何致しまして」
稔も凉の隣に腰を掛けた。
何故かその手にはもう一つのマグが握られていた。
「飲んで落ち着こう。それからまた話を訊かせて貰っても良いかな」
「はい」
凉は項垂れて、ぼそっと返事をした。マグを口元に当て、少しずつ啜っていく。
稔もそれに倣い、ココアを飲んだ。
「何で先輩が都波ちゃんのココアを飲むんですか!」
いつもより歩幅を大きめに取り、桜依は稔を見下ろす。
「まあ、君も落ち着くんだ」
「落ち着いて居られません!」
「何故だ?」
「何故って、都波ちゃんが取り乱しているんですよ? 私達が早く閖ちゃんを見付けられないが為に。責任感じないんですか!」
「責任は十分に感じている。寧ろ、負う覚悟で臨んでいる」
「なら――」
「今はその時じゃない。只それだけなのだ」
「それだけって」
桜依は黙り込んだ。
稔はココアを啜り乍ら、片眉を吊り上げて眼を飛ばした。
「それでは、桜依ちゃんもココアを貰うと良い。嗚呼、未だ神父様は手が離せないようだから、断りを入れて自分で淹れて来なさい。勿論、都波ちゃんの分も含めて」
「はい」
桜依はふうと息を吐き脱力した。肩を落とし、アラン神父に尋ねて調理場へ向かって行く。
稔はその後ろ姿が消えるのを確認して、
「ココアは温まる」
凉に云ったが、彼女からの返事は無かった。やがて、凉は口を開いて静かに語り出した。
「閖ちゃんは私の大切な友達です。閖ちゃんとは初めて同じクラスになって、クラスの中では独りぼっちでした。私も友達は少ないけど、傷を舐め合うみたいなことはしたくなかった。でも、この前にケンカしちゃいました――」
凉はココアを啜った。冷静に喋ろうと努めているのだろう。彼女の顔の血色は決して良くはなかった。無理もない。昨日の今日で精神的に整理を付けるなど、大の大人でも困難だろう。況して小学生に望めるはずもなかった。
「喧嘩の原因は何だったの?」
稔は出来る限りの優しい声で云った。
「実は前から閖ちゃんの家の悪いウワサは町中で言われていました。どこかのオバサンが立ち話をしているのを聞いちゃいました。でも私は信じませんでした」
「それはどんな噂だろう?」
「閖ちゃんのお母さんは人殺しだって――」
凉は稔だけが聞こえる声でぼそっと云った。
稔は如何反応して良いのか迷い寡黙を貫いた。
「でも、そんなことは関係なくって、だって閖ちゃんは長い黒髪がキレイで顔が整ってて冷めているけど、でも喋ってみると声が可愛くて、冷めてるって見えるのもそれは感情表現が苦手なだけでした。基本的に淋しがり屋で恥かしがり屋なんです、彼女」
「そうか」
稔は邪魔しない程度で軽く相槌を打った。
これは先日の失敗した訊き込みの続きであるとして、口を噤まれては元も子も無かった。会話上手は聞き手上手の精神で臨む稔であった。
「はい、それで彼女の家に遊びに行った時の話です。ビックリしました。それはウワサ通り凄く広いんですよ、でもその中には誰もいませんでした。お婆さんもお爺さんももうこの世にはいないって言っていました。じゃあ、お母さんとお父さんはって聞いたら、お母さんは仕事で帰るのが遅くてお父さんは最初からいない、家政婦さんがいるから大丈夫って。淋しくなりましたけど、でもそれじゃあこれからは私たちが友達だから平気だねって都波ちゃんと話していました」
凉は冷めない内に残りのココアを飲み干した。空になったマグを指で弄っている。
稔は桜依が両手にマグを持って、戻って来るのを見ていた。
如何やら都波の嗚咽は弱まっている様だ。
都波にマグを手渡し、神父と共に桜依が都波を囲って座るその一連の動作を眺めていた。
「それで閖ちゃんをこの集会所に誘って、放課後の時間を一緒に宿題したり遊んでいました。一週間前までは」
稔はこの情報に飛び付いた。これが真実なら聞き流して、話を先に進める事は出来ない。何故なら、それは神父が蛇草閖を知っていたと云う事だからだ。そして、容疑者である“きくいちあまね”はクリスチャンであり、神父が受け持つ教会堂の参拝者でもあるからだ。
この関係性には何かがある、と刑事の感がそう云っていた。
「それは本当かい?この集会所に通っていたのだと」
「はい、日曜日のミサにも一緒に参加していました」
「なるほど、続けて?」
「クラスの男子の何人かが、閖ちゃんを人殺しの子供は学校に来るなってイジメました。それから閖ちゃんは私たちを避け始めました。ここにも来なくなりました。思い切って、理由を聞いてみたら、『私の味方のつもり? お前らもどうせあいつらと同じで、心の中では私のことをバカしてんだろ! 同情すんな、お前らのことなんか大っ嫌いだよ!』と叫ばれて、何も言えませんでした」
「それで?」
「それで昨日仲直りしたくて、ここに一緒に来ていました。ウワサなんて信じません。私は閖ちゃんの無事を祈っています。ただそれだけです」
そうして、凉の語りは終わった。
稔はまるで罪の告白でも聴いている様な心境にあった。仮に精神科医やアラン神父であれば、真面な助言も励ましも出来よう。然し乍ら、稔は只疑うだけの公僕に過ぎなかった。情けない事だが、話してくれて有難うとだけお礼を述べた。
その瞬間に、稔の携帯電話の着信音がなった。取り出して表示画面を確認すると、足羽からの着信であった。凉に一言云って、玄関口を出た。
――おう、菊一周の身許が割れたぜ。今は何してる?
「教会堂から戻ったら蛇草閖の友達と遭遇しましたので、先日出来なかった訊き込みが丁度終わった所です。友達が行方不明となると、矢張り不安なのです。僕らが警察だと分かると早く見付けろと罵られました。それからその子取り乱してしまい、今はアラン神父と桜依が宥めています」
――当たり前だろうが、そんなこたあ! お前、もっと神経質になれよ。友達が行方不明しかも誘拐されただなんて、相当の事だ。おおっと、今はそれじゃねえ。本題に入るぜ。
「お願いします」
――実はもう菊一の自宅に向かっている。ガサ入れする準備も整った。そっちの件が済み次第、今から送る住所に来てくれ。良いな。
「了解です」
電話を切り、稔は集会所での訊き込みもこれ以上は必要無いと判断した。間髪入れずに、Eメールが届いた。そこには星の住所が記されていた。
そして、桜依を呼んで足羽からの情報を漏れなく伝えた。
アラン神父は未だ都波を介抱していた。都波の声に真摯に耳を傾け、心を整理させ平静を取り戻そうと云う事であろう。
邪魔をしては駄目だと思い、稔は神父様にお礼を云い、桜依を引き連れて集会所を後にした。
桜依の運転で稔は、足羽からの送られて来たメールの住所へと向かった。
黄昏時に差し掛かる空模様を漫然と見上げ乍ら、稔は疲弊した躯と心を背凭れに任せていた。
「おい、菊一周が居ねえぞ。何処だよ!」
勢い良く突破され、玄関は簡単に侵入を許した。鍵が掛かって居なかったのだ。
騒々しく目の前の襖が開けた。
先頭の足羽は荒げた。隣を仕切る襖を開け、布団で寝ている女の子を発見した。
彼女が捜索されていた被害者、蛇草閖である。頬は火照り、魘されている様子だ。
足羽は一先ず安堵の溜息を吐いた。
「おい、タンカーでこの子を運んでくれ。患者だ、鄭重に扱えよ」
後ろから付いて来た者達に指示を飛ばす。
「足羽さん、星は」
「居ねえよ、だが蛇草閖は無事だ」
「良かった、先ずは一安心だ」
「良かねえよ、本来は病院へ行かすべきだったんだ。それなのに行かせやしねえで――良くなる訳がねえんだよ。菊一周、糞野郎だぜ」
足羽は稔を一喝した。
「菊一は何処へ行きやがった。早く見付けねえと」
落ち着き無くして云った。妙に焦って見える。
「周りで訊き込みましょう」
「否、菊一は戻ってくるはずだ。甲斐甲斐しくも自分で看病してたみてえだしな、犯罪者が――否、人を思いやるのに犯罪者も糞もねえか。まあ菊一のみならずも、この時間帯だと精々夕飯の買い出しだろうぜ。要はスーパーか? 周辺の聞き込みを徹底しろ。良いな、追い詰めるんだ」
「了解ですが、人手不足ですよ」
足羽は嗚呼と相槌を打ち、部屋の状態を確認した。
この部屋は厭に淋しい。
「直ぐに応援を呼ぶ」
塵袋が随分と溜まっている。回収日に出す手間を惜しんでいるのだ。全く以てずぼらである。台所の床にも、口が開いた儘一杯に満たされ乍ら放置されているものまであった。
「それにしても、菊一は大層な面倒臭がり屋ですね。こんなにも塵を溜めていらっしゃる。人が見ればガラクタだと云う物でも、他の人が見ればそれは宝だと重宝される。正にその実例だと況や体現しているかのように――」
塵出しの規則を守らない輩が多いらしく、注意文章を貼り出しても効果が得られない様であった。そして漸く新たな規則が作られた。最近になり、塵袋には部屋番と氏名を明示したシールを貼らなければならなくなったのだ。しかも、週一度の回収で塵袋は二つまでらしい。そのシールを貼ると云う僅かな手間を疎んだ為に、この様な部屋の惨事に繋がったのだと結論付けられる。
稔は部屋をぐるりと見渡しては冷静に分析していた。思い至った様にすんすんと鼻を鳴らした。
「おんやあ、こんなに塵山だと云うのに変な臭いがしない。臭くない」
「おい稔、何関心してやがる、近所のスーパーへ走れよ!」
足羽が稔に玄関を指して怒鳴った。
「最悪の事態にならなくて本当に良かった。移動手段は?」
「菊一は車を持ってねえから、自転車か徒歩に違いない。どちらにしろ短時間でそんな遠くには行けねえよ。応援は呼ぶ。お前は何処でも良いから、手当たり次第当たってくれ。虱潰しだぜ」
稔は確りと返事をして飛び出した。
足羽は携帯電話を懐から取り出し、
「信者だろうが何だろうが、犯罪者は結局の所罪を償わねえといけねえんだ。菊一よ」
操作を施し、耳元に宛がった。
※※※
マリア様の微笑む教会、イエズスの愛――そして神父。
受けた恩を与えた者に返すのは当たり前の行為である。特別に褒められた事ではない。
イエズスが唱える愛と云うのは受けた恩を求めはしない。寧ろ弱い立場の者に対して施されるものだ。
病人、物乞い、金貸し、娼婦――。
縋る者を拒んで如何すると云うのだ。
惨い仕打ちが御望みか。
――何も考えられなくなる。
空である。
正に虚ろであった――。
周は何かに憑り付かれている。鍵は掛けずにアパートから離れた。見下ろした雪の積もった中庭は誰一人として足跡を付けてはいなかった。二階の廊下を直進する。その足取りに力は篭っていなくとも前には進んでいた。老朽化の進んだ廊下はその歩みで軋み、錆びた鉄屑が降り落ちる。足音も響く。奥にある階段を下り、表に出た。
雪は止んでいた。
嗚呼、降っていないのかと呟き、無意識の内に手にしていた傘を何処に捨てる訳もなく弄んでいた。
アパート沿いの道路は車が擦れ違う程の幅がない小道である。普段から少ない交通量は雪の日など尚更であった。抜け道になる事など地元の住民しか知るまい。余所者なら知る由もない。
雪道を身震いし乍ら歩いてゆく。
対向して来る車はなかった。人も居ない。誰も老人に気を留めることもなかった。
永遠の静寂。
世界は老人の行方を見守るだけだった。この静寂を破る程の力は無いが、唯一鳴っているのは矢張り雪である。木の枝に枝垂れるまでに積もった雪であり、老人に傘で突き刺される雪なのだ。それと蹴り上げられる雪も。
小道を出ると交通量は比較的に多くなるのだろう。タイヤの跡に沿って、コンクリートが露出していた。その二本の線の両脇には雪が盛られている。
足元ばかり見詰めて歩く。目線ばかりか頭すらも垂れる始末だ。
部屋に籠った空気と違い、野外の空気は清々しいはずであった。そして、直に老人の意識も冷ましてくれるはずであった。前方を常に確認しなくとも、車が来ればエンジン音で気付く。雪も鳴る。そんな気配はまるで感じなかった。仮に車が目の前に迫って来たとしても通行の邪魔であるのなら、最悪クラクションを鳴らすはずである。まさか轢き逃げはするまい。
その安心からだろうか、老人は注意する素振りを一向に見せなかった。最早頭では何も考えていないのだろう。真っ白である。雪のように、白く。
白に赤は能く目立つ。
視界に入ったのは血塗れの男――、
ではなく、ポストだった。郵便ポストである。教会の脇。
意識は揺さ振られ刺激された。
顔を上げ、目を見開いた。その瞳には驚愕と同時に一瞬の後悔とが混ざっている。全身の皮膚は張りを取り戻し、不気力の背筋には芯が通った。
正に豹変の変貌であった。
見据える先にはマリア様の微笑む教会。イエズスの愛と――そして神父。
受けた恩を与えた者に返すのは誰もが出来る。否、行うのだろう。
イエズスが唱える愛と云うのは弱い立場の者達に対して施されるものではなかったか。
周に与えられる愛も亦その様なものなのだ。
※※※
この事件は如何幕引きするのか――不如意な捜査で霞みがかっている。思えば発端は母親からの捜索願であった。目撃情報は乏しかったが、件の蛇草閖が巻き込まれたと思われる暴力事件の現場を足羽の息子が見たと云う事から、単なる人探しではなくなり誘拐の可能性が浮上した。そして総出で事件現場の雪掻きが始まり、程無くして切断遺体が発見された。
その遺体は藤間操と云う人物であるらしいかった。
藤間はクリスチャンであり、教会堂でボランティアをしていた様だった。
その教会堂はアラン神父の管轄であり、お互い顔見知りだったと云う。意外にもそこに菊一周が一枚噛んでいた。菊一周もクリスチャンで毎日の如くその教会堂に通っていたのだ。
その事実関係は驚くべきものであった。
藤間は酒癖が悪かった。暴力を振るうとも云った。神父の協力を買って出て集会所を任されていたものの、事件当日は何を考えたのか酒を飲み出した。そして、見る見る呑まれて行った。顔は赤面しすっかり酩酊したのだった。
生意気な閖が前々から気に喰わなかったらしい。
藤間は子供嫌いでは無かった様だ。寧ろ好意的であった――と云うのも、集会所は親の帰りが遅い小学生の為に解放されている場所だからである。
好意的と云っても女児愛好の類いではない。最も敬うべき存在として見做していた節があったようだ。端的に崇拝と云っても良い。無知故の無垢さに魅了されていたのだそうな。成長して社会の空気に汚染された雌犬は只の卑しい存在でしかなかった訳だ。
化粧をして素顔を偽る。女と云う性に甘んじて、小遣い欲しさで簡単に股を開く。女の癖にと云われれば、差別するなと指弾し此見よがしに女性の権利を主張しやがる。
その矛盾を無視し、その性を意図して利用する女に虫唾が走る。
それは藤間の勘違いだったのかもしれないが、閖はあからさまに彼を避ける仕草を繰り返した。普段は遠方で見ているだけであるにも関わらず、彼女から如何してその露骨な態度が出て来るのか苦悶した。
そして、閖は性を売りにした水商売か売春婦の娘に違いないと結論付けた。その様な親から生まれた子供なのだから、それを買う男の存在を忌み嫌っている。そう思った。
雌犬の娘なのだから同じ様に所詮は雌犬に育つ存在だと云う偏見に憑り付かれた。その思考は都合が良かった。躊躇いなく閖を度外視する根拠になったからだ。
依然として、閖の存在が目障りな事に変わりはなかった。視界の端にさえ映るのが堪らなく嫌で仕様がなかった。藤間にとっては異物でしかなかった。それは何時しか閖への憎悪に豹変していった。その激情は嵐の如く精神を掻き乱し、閑散とした荒れ地に身包み剥されて放り出された絶望感をも生み出した。そこから光を求めるには、閖への憎悪を何とかしなければならなかった。排除しなければ治まらない。存在自体が強烈な猛毒物質であった。近付くだけで死さえも引き寄せてしまう――それは正しく死神であった。否、サタンである可能性も否めないのだが、頚元に突き付けられた鎌の刃先は余りにも鋭く、表面は端正に磨かれ藤間の表情を映し出す鏡にもなっていた。何時でも刈れる事を示唆しているのだった。
物理的に閖を取り除く事は出来ない。閖が現れる度に恰も蹂躙される思いに駆られた。
悶々とした日々を過ごしていた。
――イエズス様ならば如何説教して下さるのだろう。
改めて新約聖書を開いてみた。
隣人愛を説き自ら体現したイエズス様――。
藤間は子羊であった。偏狂と健常の境目をふらふらと彷徨うも、そのどちらにも足を付ける事も出来ず精神は擦り切れていった。
――もう駄目だ。
精神的に可成り参っていた。鬱憤を晴らすのはいつも酒頼みだった。飲酒は禁止されていないので問題は無いのだが、藤間の場合はつい飲み過ぎてしまう癖があった。そして例外なく悪酔いして暴れるのだった。
必然的にも当日に事は起こった。狂乱に火照り、吹雪の天候もお構いなく閖を追い立て回した。歪む世界を確かめつつ覚束ない足元は心許なかった。
大の大人が小学生の女児に撒かれるのだった。
宛ても無く歩を進めていると、知らないアドレスからメールを受信した。
――蛇草閖は天神川の河川敷に居る。海側から数えて二つ目の橋の下だ。
本文には入力してあったらしい。指定された場所へ向かうと、正にその通りであった。纏まらぬ思考で躯の赴くままに委ねた。
気が付けばうつ伏せで倒れていた。意識は朦朧としていた。
後頭部に痛みが走り手を宛がってみると――掌には大量の血液が付着した。殴られたのだと察した瞬間、更に後頭部に激しい衝撃を喰らった。混濁する意識の儘に手放す他なかった。
その後、藤間操の切断死体は発見された。その表情は何処か安らかで、とても人に危害を加える人相には見えなかったらしい。
一方で、菊一周は保護した閖を自宅に残して逃走した。
足羽と稔が押し入った際には既に姿を晦ましていたと云う間抜けを晒した。被害者の身柄確保を経て、菊一は全国に向けて指名手配された――のだが、行方は一向に掴めていない。
誘拐事件並びに殺人事件の被害者である蛇草閖は一週間の入院を終え、漸く身体的には登校出来る程に恢復したらしかった。
第一章:捜索編(道祖尾稔の周辺)【了】