02.お前『L. s. R.』を知ってるか?
【4】
現場を任された道祖尾稔は実際に事務処理を終えていた。嘘は吐いていなかった。如何せん、稔は口が軽い。嘘は云わぬ質である。口が軽いと云うもの、乗りでもあった。流れと云っても良い。
稔は間が苦手である。
例えば、一日に熟すべきリストを作成する。項目が挙がる。一つずつ潰していくのだが、項目の間が如何にも長い。一息吐いてしまう。煙草を吸うのではない。稔は煙草を吸わない。達成感が邪魔をする。安心してしまう。
脳で考える調子と実際に躯が動く様の差異に問題があるのだ。苛立ちを覚える。
――効率の悪さよ。
会話にしても矢張り同じ間が駄目である。その間を避けるべく、ぺらぺらと喋る。故に軽いと見なされる事になる。それは弱点だ。
逆に、取っ付き易さになる。稔はそれを長所だと思っている。
卑屈にならない。楽観的である。嫌な事は睡眠が解決してくれる。起きれば実際にそうなのだから否定しようがない。健一からよく悩みが無くて羨ましいと皮肉を云われるが、稔は皮肉を真に受けない。嗚呼これは皮肉を云われていると分かっても、その事実を把握するのみでそこに一切の感想を抱きはしない。先天的に鈍感であった。
稔は開いている全ファイルと閉じた。デスクトップのスタートメニューを開きシャットダウンを押した――咄嗟にキャンセルを押す。コンピューターのアイコンからCドライブのプロパティーを開き、ディスクをクリーンナップした。序で更新プログラムも確認しておいた。真逆とは思ったが矢張りだった。複数の更新項目があった。更新するのが面倒だとしてシャットダウンしても結局自動更新が始まる為、手動で選択した。
緑色の表示がゲージを左から右へと移動する。
左から右へ、左から右へ。
其れを呆然と眺めていた。何も考えていなかった。
テレビでは久し振りに東京に雪が降ったと報道が流れていた。交通面は阿鼻叫喚に対応を迫られている模様だった。早朝に出勤する人々の転ぶ姿が繰り返し流された。ハイヒールは滑り易いようだ。スニーカーも同様だった。複数人が怪我をしたと表示されている。
不慣れな事態に時間を取られる。良くある事だった。
窓際に移動した。外を窺うと何時の間にか雪は止んでいた。思い立った様に窓を開け放った。肌寒い風が吹き込まれる。何処かで小さく悲鳴が上がったが、稔の耳には這入っていないようだった。身震いする寒さだった。一瞬にして躯は震えた。
窓を閉めた。
稔は現場も止んでいれば良いと思った。
雪で現場が覆い被さってしまえば痕跡は消える。暴力事件だとしても軽視出来ない。検証した上で場合に依り訊き込みが必要になる。人気が無いなら尚更だ。
「おい、この木偶の坊が!」
背後で声は云った。
どすの利いた声だ。
稔はひいと奇声を発した。機敏に振り返る。刹那の恐怖を感じたのだ。
「済みません」
この女性を志磨桜依と云う。
この謝りの早さと云い、何と云う掌返しだ
「でもですねえ、突拍子もなく窓を開けるなんて有り得ないですから。先輩のお蔭で資料が、重要な資料が、散らばりました。床に! 一緒に拾って下さい、貰いますからね」
桜依は顎を上げて云った。眉間には皺が寄っている。
その表情を見た稔は、
「おいおい、いつまでそんな不細工な顔をしているつもりだ、桜依ちゃん――」
おどけた。続けて、
「僕はその表情が嫌いなんだ、嗚呼、嫌いだよ。早くその眉間に寄った皺を解いてはくれまいか、見るに堪えない」
ぺらぺらと喋った。滑る様に口から出て来た。
「先輩、饒舌になっているのは動揺している証拠ですよ。丸分かりです」
桜依は眉毛をハの字にして口角を上げてみせた。
良い笑顔だった。
口元の歯は白かった。肌も白い。
欠点が無いと、丸くなる。尖っている所が無い。故に特徴が現れないのだ。
「否否――これは僕が喋るスタイルだ。指摘される所は目立つ所だ。だからこれが僕の特徴なんだよ。だがしかし、君には特徴が無いんだなあ、桜依ちゃん。尖っていないと――綺麗は特徴じゃあないのだなあ、これが」
「何言っているんですか、先輩。綺麗だって立派な特徴ですよ。汚い部屋よりも綺麗な部屋の方が良いでしょう? 分かってないですよ」
「分かっていない? 何処が? 何故今に部屋の状況を引っ張り出すんだい? しかも綺麗な部屋と云うのは特徴よりも利点を謳う方が賢い、と僕は思う。綺麗だけじゃあ、どれにしても詰らないじゃあないか」
桜依は稔との口論に勝てない。
勝負を付ける前に舌が付いて行かないのだ。
桜依は舌足らずだった。
「と云う事で、僕は足羽さんの指示で外回りに行って来る。グッバイ、桜依ちゃん。大切な、大切な資料を吹き飛ばしてしまって本当に済まなかった、反省しているから、許しておくんなせえ」
「ぺらぺらとしゃらくせえ! 心から謝らないと本当に謝れなくなりますからね。自覚して下さい!」
振動音が響いた。
携帯電話だ。左右に小さく暴れている。
桜依はぴくりと反応した。音がする方向から彼女の携帯電話だと思ったのだろう。振り返り席へと戻る。手に取って画面を見た。
志摩です、お疲れ様ですと応対した。
目線を稔に移した。
目が合った。
「おっと、電源電源」
稔は視線を外した。
更新は終わっていたようだ。最新の状態ですと表示されている。先程と同様の手順を踏んだ。画面は暗くなり電源が切れた。元電源もオフにする。
最近は節電節電と五月蠅い。誰かが云う訳でなかった。電気会社が云う。身近には気にする者は誰も居なかった。尚更だった。気が向けばする――周りはその程度だった。
稔は気が向いていた。
気にする質だった。
まめであったのだ。
紙の擦れる音が何処となく聞こえて来た。小刻みな足音もした。
念の為の懐中電灯を忍ばせたバッグを握った。席外しますと空に伝えた。
「待って下さい、私も行きます!」
桜依が身を乗り出して云った。荷物を急いで纏めている。
稔は手を振って扉へと向かった。ノブに手を掛けた瞬間、背後に迫って来る音が響いた。
肩をぐいと掴まれ引き戻された。
「何!?」
稔は眉間に皺を寄せて、苦言を呈した。他人には指摘しておいて、自分ではやってしまうのだった。ちぐはぐである。それもまた稔の特徴だった。
「私も、行きますから」
桜依は凄んだ。
稔は諄いと思った。先程の電話が原因なのだろう。
桜依は何だか悔しそうな表情だった。
別に勝負をしている訳でもあるまいに――。
外に出ると室内との温度差を嫌な程に実感した。稔は暖房が利き過ぎだと思った。指摘した方が良いだろう。帰ったらそうする事に決めた。
吐息は白く消えた。
雪は止んでいるが、また降って来る可能性はあるだろう。何れ降ってくるだろう。夕方にも真っ暗な空の下、苦虫を噛み潰したような表情をした。如何も嫌だった。寒いのは嫌だし、冬は特別に嫌だった。気が滅入る。雪の降る土地に住んで居ながら、雪が嫌いだと愚痴を零す程滑稽な事はなかった。自嘲した。
通路を挟んだ向こうの通りには貸出兼販売店が賑やかだった。隣接して焼肉店も並んでいる。腹が減った。腹部を摩って思った。同行する後輩を車内で待っていた。助手席に納まり、窓枠に肘を掛ける。額に手を当てて小突いていた。
運転席の扉が開き、桜依が乗り込んできた。
「お待たせして済みません。さあ、行きましょう」
「そう云えば、桜依ちゃん」
「何でしょうか?」
桜依はバックミラー、サイドミラー、座席とハンドルとの距離、後方確認を手早く済ませた。稔はその様子を窺い乍ら、
「嗚呼、免許取り立てだったけ、そうだっけ? 僕も車校通っていた頃は良く怒られた。マニュアルだったのだけど、オートマにしろってんだよ」
「そうなんですか、もう一年経ちましたよ。呆けているんですか」
「そうだ、でもね。慣れだったんだよ、慣れ。慣れれば何ら問題無かったんだなあ」
「あれ、聞こえませんでした? まあ、私も慣れでしたねえ。出ます」
桜依はエンジンを掛けた。首を捻って辺りを見回す。ゆっくりとアクセルを踏んだ。前進して行く。警察署の敷地内は車が通れるだけは整備されていた。レールが敷かれている。沿って行けば道路に繋がっている。
「先輩、ベルトして下さいよ。ベルト」
桜依は指摘したが、稔を見ていなかった。歩道の前で左右を確認し、道路に出る前に右を確認した。
「はい、はい――」
「はいと言うのは一回だけにして下さい。聞いている側まで気怠くなります」
パトカーは直進した。署から出る道路は左折しか出来ない。二車線である。向かい側にも二車線ある。間は煉瓦で作られた花壇で区切られている。
「だから、道路に出たら出たでまた五月蠅いんだ。やれ黄色でも進むなだの、やれ擦れ擦れで曲がるなだのと気に病む事ばかりで、気兼ねなく運転なんて出来やしない。邪魔でしかなかった、本当に。アレでは良い者も駄目になる」
「否、黄色は止まった方が良いです。それに慣れると赤にならなければ良いと勘違いしちゃいますからね。危険です。自転車感覚と混同しちゃうんですよね、分かります」
「だらあ、そうなんだよ。だから僕は実を言うと自転車の方が好きなんだよ、小回りが利くから凄く良い。更に風を感じられる。これも良い」
「擦れ擦れの件は?」
「嗚呼、道路と歩道を分けている石に擦り付けそうな程、近くで曲がるから。当たらないのに、喚き散らす。それが五月蠅くてねえ」
「まあ、実際は危なかったから注意したんでしょう。納得ですよ。これからも安全な運転を心掛けて下さい。先輩自身の為にも、私の為にも」
「待つんだ。如何して、僕が桜依ちゃんの為を想って運転に臨まなければいけない?」
信号に差し掛かった。赤色が点灯している。
右折のウィンカーを出した。徐々に減速し、停車させる。
「それはそうと、雪が止んで良かったですね。現場――埋もれてないでしょう」
「どうだろう、犯罪とは関係ないのだろうから隠蔽されていなければ、埋もれていないだろうよ。雪に埋もれる埋もれないは別として」
「幼い女の子に暴行――だなんて、穏やかではありませんね」
歩行者用の信号が青から赤に変わった。
車用の方も直に変わるだろう。
「そうだ、どうせ性的倒錯者の仕出かし」
「予断ですね、偏見にも程があります」
桜依は冷静に云った。
順番通りに目の前の信号は青になった。
桜依はアクセルペダルを徐々に踏み込んだ。
「――または、過去に親か誰かに暴行を受けたトラウマに囚われている強迫観念者」
交差点中央まで滑るように前進し、右後方を素早く確認した。対向車無し。歩行者無し。
「それも予断ですが、その線は無きにしも非ずです」
桜依は右折させながら云った。
「どちらにしろ、正常じゃないのは確か。真面じゃない」
「暴力は癖って云う話です。所構わず無節操では家庭内暴力なんて言えません。家庭内なので文字通りです。内は内、外は外。口出し辛いんです、しかも分かり辛いと言う」
稔は黙っていた。聞き役に徹している様だった。外を向いている。聞き流しているかもしれぬ。若しや振りなのかもしれぬ。
直進すると橋に差し掛かった。橋の端には信号がある。信号は青だった。渡り終える頃には赤に変わるだろう。
「近所では悲鳴が聞こえたとか、物が壊れる音が聞こえたとか、聞き込みすれば分かります。でも、110番はしない。矢張りそれは余所の家庭の問題だから。変に口を挟んで巻き込まれたら堪らないと口を揃えて言います――」
桜依は、
「それは淋しい事です」
と続けた。
信号は果たして赤に変わった。この通りも右折する。
速度を落とし、停車した。
「淋しい」
稔は復唱した。
「はい、淋しいんです。何と言うか言葉で言い表すと要領を得ませんが、人が居て町と云う集合帯とか括りが出来ます。そして町は人が居ないと機能しませんし存在しません。町が在るから人が集まるのではなく、人が集まる――」
「嗚呼」
信号は青に変わった。
回りを確認し、右折した。
「集まっている所をそう呼んでいるだけです。勿論遊牧民ではないのでほいほいと居住を移せませんが、それは人が住んでいる、暮らしているからなんです」
稔は唸った。
「仮令家が隣接していたとしても、お節介ではありませんが、こう、支え合っていかないと。それが暮らしってもんでしょう。それなのに厭にその関係性を持ちたがらない。勝手にどうぞって妙に冷めている。そこにぽっかりと大きな底の見えない穴が開いている、と私は思えてなりません」
束の間の沈黙。
車が風を切る音だ。すれ違いで切れる風が窓を叩いた。
二キロ程直進すると、また信号に止められた。
稔は口を開いた。
「ふん、君は病んでいるのか」
「え?」
稔は外を眺めていた。左手には寺がある。墓地もあった。門は閉められていたので、這入る事は出来ないようだ。否、この天候で墓参りもないだろう。室内で大人しくして居るのが良い。この辺りは寧ろ人気が在る方が稀だった。
「思い悩む事はない。人なんてそんな者だ」
「はあ」
「期待する方が間違っている――とは一概に言えないのだけれど、別に夢を見るなとも言わない。僕は寝るのが好きだからねえ」
桜依は稔が何を言いたいのか分からなかった。稔の様子からして只ぼやいているようにも聞こえる。浮かんだ儘口にするような何も生み出さない感じがした。
「桜依ちゃん、君の家族は何人だい?」
「はい?」
桜依は質問を理解したが、その真意までは掴み切れなかった。
それから少し戸惑い、言い淀み、
「父と母を合わせた3人家族ですけど」
「そうか、ご両親のお2人ね。そうしたら、さぞかし可愛がられて育てられたのだろうね――うん、うん」
稔は頷いた。納得していると云うよりは調子を整えている様である。
信号が青に変わった。再び直進する。
「僕の家族は両親の2人、上に2人、そしてお爺ちゃんとお婆ちゃんの7人家族だ」
「そうなんですか、多いです。羨ましいです、お爺さんとお婆さんが居て」
「その2人は専ら地元だからね。近所の人達が幼馴染みだったりする訳だ。凄いよ、50年以上の付き合いって事になる、相当だ」
「その方々が近所付き合いを続けてくれているんですね」
「嗚呼、それが町の眼になるから、例えば不審者が出ると忽ち噂になる。その不審者はおちおち留まってなんか居られない。そうなれば夕食で家族が集まっている時に注意するんだ、不審者が出たぞってね」
「警察よりも早くてタイムリーな情報ですね、身内がそう言うんだから真偽の程はさて置いて――少なくとも耳には這入ります。一寸でも意識すると思います」
「でも結局、何もしないのが相場だ。彼らは何もしない。動くのは警察なんだよ」
桜依は喋らない為に稔が続けて、
「よくある話だ、分からないかな。いざ事件が起こっても、何故それを防ぐことが出来なかったのか。ニュースのインタビューでの証言なんて鉄板だ。何かの割れる音が聞こえた、夜中に叫び声や笑い声が聞こえたとか」
稔は窓枠を過ぎ去る景色を眺めていた。細い視線。目を細めている。難しい表情である。
「通報はしない。それは何故か、警察は何かが起こってからしか動かないからだ。でも、その異変に気付いている隣人は犯罪性の証拠なんか持っていないから、仮に通報しようにも如何説明して良いのか分からないのだろう。110番を軽々しく押せない、そうして思い止まり考える、こちらに聞こえるのならば反対側にも聞こえるはずだと。その間に近所付き合いがあれば、直ぐに確認は取れるのだけれど、其々が島となっている今の町では、それも叶わない。愚図愚図する――で、事件は結局起こってしまう。さて、如何しよう。そう思っていると、テレビ局が話を聞かせて欲しいと来る訳だ。さあ、答えないといけない。何かの割れる音が聞こえた、夜中に叫び声や笑い声が聞こえたと答えるんだ。隣人と確認さえ取れていれば、独りで考えずに誰かに相談出来ていれば、その事件を未然に防げたかもしれない、と思う。近所付き合いが大切だと実感する。でも、実際はかもしれないばかりで動きやしない、一向に。呆れる程に」
又もや、天使がやって来た。
「嗚呼、この先の北野神社で一旦止めよう」
「分かりました」
土手沿いの団地を過ぎ、水質観測所を通り過ぎた。その先には北野神社がある。これまでの道路は土手沿いな事もあり、除雪が余り施されていなかった。その点、北野神社の周りは矢張り整っていた。
土手から降りる道の状況から判断して、この一帯には除雪車は来ていないようだった。それどころか、車を走らせた跡が見えなかった。この周辺は高齢者が多い。一様にして車を運転出来ない。自転車の利用が多数なのだ。
桜依は車を北野神社の足元に停止させた。石階段の脇だ。流石にその空地には雪が溜まっていたので、車は突っ込む形で停車させる羽目となった。
「やっぱり、このスペースまでは除雪していないですね」
「文句言うなよ、神主の身にもなって考えてみろ。寧ろ労わるべきだ」
そうですね、と桜依はシートベルトを外し乍ら云った。
稔もベルトを外し、ドアを開けた。冷気が這入ってくる。躯は寒さに強張った。
「ひゃあ、どこ行っても寒いですね」
桜依は侵入してきた冷気を感じた。稔がドアを開けるまでの一連の動作を見ていた。溜息を漏らすのは仕方の無い事だった。桜依も稔と同様に冬の寒さが苦手なのだ。
この土手沿いは風が強かった。吹き付ける風が肌を切る。寒さを煽った。
「嗚呼、寒い」
稔の口からはその言葉しか発せられなかった。その表情は恰も梅干しを口に含んだ様に窄められている。
土手を見回した。一面の白銀世界。矢張りこれ程寒いのだ。屋内に引き籠っている事だろう。子供も遊んではいない。雪遊びもない。それは一目瞭然だった。何せ足跡が無いのだから。
桜依もドアを開き、外に出て来た。雪の未開拓地帯を見渡した。
「う~、寒いです」
口を半開きにして、白い息を吐いている。腕を組んで二の腕を摩った。
「こちらも雪が止んでますね、良かったです。これなら現場も跡形残っているでしょう。早速降りて視てみましょうか、暗くなりますし」
「そうだね、もう暗いけどさ。雪明りがある分はマシか」
桜依は車から離れる前にドアを後ろ手で閉めて、ロックを掛けた。
土手の舗道を降りると、そこは広場になっている。遊具の類は何もないが、砂利が敷いてある所はゲートゴルフだろうか、グランドゴルフだろうか、高齢者たちが昼時に嗜んでいる場面を、稔は外回りで橋の上から垣間見た事があった。
「よし、行こう」
道路を渡ろうとしたが、一応左右を確認しておいた。通行車などあるはずもなく、悠々に横切る事となった。車道の雪は端に盛られ、泥で黒ずんでいた。
土手に降りる舗道は少なからず均されていた。
「おい、此れは――」
「この舗道、少なくとも数人はこの土手に降りていますね」
「嗚呼、この辺りは平時でも人通りが少ない。おまけに雪だ。足羽さんが言っていた暴力事件関連の足跡だろう。埋まっていないって事は現場もそのまま残っているはず。よし、よし」
稔は小さく頷いた。土手を下っていく。足跡を辿った。土手に降りると、橋の下に突き当たる。そこから足跡は左に逸れて、裏手に繋がっていた。辿ってみたら、一段下がった所に酷く荒れた場所が目に付いた。
「此処だろう」
「そうでしょうね」
一瞥のみで済む程調査が簡単なら楽であろう。少なくとも、殺人事件には発展していないようだった。
「血痕はありません。あっ、人型がある」
遊んでいたかのように、誰も足の踏み入れてない雪の絨毯に跡を残していた。くっきりと残っているので分かった。高身長で細身であろう。
「暴力事件で人型か。投げ飛ばされたか、殴り飛ばされたか」
「あっ! もう1つ降りた所にもありますよ――」
桜依は指を差して、
「あそこに! 降りて視ましょう」
と云い飛んで降りた。
稔も後に続いた。
「川で乱闘? こんなに寒いのに。入ろうとは思えない。引き吊り込まれた? 如何だろう?」
桜依はぶつぶつ呟いた。雪跡を辿っているのだろう。寒いのだろうか、考える時の仕草なのだろうか、左手の拳を口元に添えて、目線は忙しなく移動していた。
「この1つ降りた所はあの柱を覗き込まないと見えない。近くに来ないと、この現場は捉えられない。だから、橋の上から聞こえた声を頼りにして土手を降りて来た。しかし何も見えないから探す。如何やら川岸付近からだと分かる。そして柱から覗いた。で、タレこみか」
稔も違う視点で推理していた。前提を確かめている。
「目を探してくれないか? 他にもいるかもしれない」
桜依はスマートフォンを弄り始めた。
「如何した、ツテでもあるのか?」
「否、違いますよ。SNSです」
稔は近寄った。画面を覗く。
「若しかして、コレ知らないんですか?」
桜依は頚を支点に顎を捻った。
「真逆! 知っているけど、使わないだけだ」
「そりゃあ、そうでしょうよ。コレは殆どが主婦ですもん。騒音おばさんに端を発して、地域選択に、ジャンル別と」
「騒音おばさん、だと」
稔は苦笑した。
「主婦御用達の憩いの場になっているんですよ」
「憩いの場ねえ――最近の奥様方は鬱憤が溜まっていらっしゃるのでしょうか」
稔は明後日の方向に目線をやった。
「溜まっているのではありませんか、よく存じませんが」
「あの、投げやりな事を言うものじゃない。誰だって苦労しているのだよ」
「そんな事よりも、視て下さい。コレ」
稔は画面に目線を落とす。桜依は件についての箇所にスクロールし、画面を下ろしていく。
※※※
――雪、ガンガン降って来てるわねえ(´○`; ポカーン。
――雪掻き大変になりそうね。
――夫にやって貰えば?(笑)
――否、帰ってくるの遅いし(。>0<。)ビェェン。
――浮気?(/▽\)きゃー♪
――止めてよ!そういうの、縁起でもない。
――そういうアナタこそドウなのよ(σ´Д`)σ?
――何その顔文字、イラッと来るんだけど。私の夫は定時上がりよ。優秀なのよ。アナタのダメ夫とは一緒にしないでくれる?
――はあ?(#`皿´)激おこぷんぷん丸だし!それ違うから。リストラされて、時間を見て帰宅してるからに決まってるでしょ!ああ、分かんないかなあ。
――分かる訳がないでしょう?所詮妻は引き籠りですよーだ((o(>皿<)o))。
――何拗ねてるの?パートでもすれば良いでしょ
――いや、リストラされたって決まった訳じゃねえし!あんたの夫だって、遅いのはどうせキャバクラとかでしょ。呆れるわあ┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~。
※※※
稔は眉間を人差し指で揉んだ。
「桜依ちゃん、今は奥様方の愚痴を見て楽しむ時間じゃない」
桜依を諌めた。
「先輩、辛抱が足りませんね。これからですよ、時間経過と言うものがあるんですよ」
桜依は画面から目線を逸らそうとはしなかった。その口元からは笑みが零れている。実に楽しそうではないか。
稔はその表情を横目で捉えた。
「偏見だったけれど、女性はゴシップが好きと云うは本当だった訳だ。君の表情が切実に物語っている。痛々しい」
稔は桜依の横顔に喋りかけた。言葉をただ浴びせていると云っても良かった。画面を見てはいない。
桜依は気にも留めなかった。笑顔が綻ぶ。掌に乗せたスマホを人差し指で擦る。
「早く視て下さい。ここからが重要なんですから」
野次馬根性である。実にお見事だ。
桜依の様に他人の発言を楽しんで観ている者がいる。個人のアカウントは特に持つ必要がない。登録すれば他人の発言を横流しにする事も出来る。その様にする事で楽しむ者もいる。
稔は其処に楽しさを感じる事はなかった。寧ろ不快感にも似た感情が湧いた。
職業柄にしても耳疾しだろう、野次馬だろう、耳年増だろうになっても良かろうが、なり切れない役を演じられないのが稔である。冷めているのではない。白けているでもない。
それは何か――果たして何なのだろうか。
抗いに近い何かだろう。焦りと云っても良い。可能かもしれぬ他人と自己との差別化なのかもしれない。その意識は表層に表れないものだ。故に無意識である。稔がそれを自覚した時こそが彼の職を辞する時であり、社会との距離感を変える時でもある。
溜息を吐いて、再び画面に目線を落とした。もう好い加減にして欲しいと思ったが、用件が済まないと桜依の人差し指は止まる事が無いのだろうし、この立ち往生も永遠の儘なのだ。
※※※
――そう云えば、不審者よ!(≧ω≦)b
――何よ、なんで楽しそうなの?阿呆なの?で?
――不審者は、不審者じゃない。
――まさかアナタ、ストーカーされてるとか?笑えるわ( ̄w ̄)。
――笑いごとじゃないでしょ!( ̄Σ ̄;)って、違うわよ。ストーカーじゃないってば。
――じゃあ、何よ?
――うめき声が聞こえたんだってさ(σ≧▽)σ。
――だから、その顔文字止めろ。どこから?
――あの橋の下からよ。
――なんで?
――なんでって、私が知るわけがないでしょ。噂なんだから・・・(゜_゜i)タラー・・・
――いつ?
――夜\(^▽^)/。
――(イラッ)見たの?
――見れるはずないでしょ。あの橋の下には街灯が無いの、分かるでしょ。
――まあ、そうね。
――素っ気ないわね。
――そりゃあ、素っ気なくもなるわ。噂でしょ。何も信憑性が無いもの。
――でも、私の知人よ<o( ̄^ ̄)o> エッヘン!!
――はあ?それが何?自慢になってないからね。
――別に。
――時間の無駄だったわね。
――でも全くのウソじゃないのよ。橋の下に光が動いていたって。
――もしかして、火の玉とか?
――何?ビビってんの?でも不正解www
――違うんだ。
――勿論。ありえないでしょ。懐中電灯よ、懐中電灯Σ^)/アホーアホー☆ミ。
――ああ。
――ああってwww
――人が呻いていたってのも強ち間違いでもないと。
――そう、なるでしょうね。
――でも、なんで夜に。それって何時頃なの?
――11時頃だから23時頃。良い時間だよ、全く┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~。
――全くね。そんな時間に徘徊しているアナタの知人さんは不良さんか、はたまた無不病患者様でしょうか?
――何を言っているの?コンビニよ。
――コンビニね。出来た話だ事~。
――この話だけだと詰まんない噂に過ぎないけど、違う所で聞いた話を合わせると、どうやらヤバいのよ。
――何が?
――事件よ、事件!<(T◇T)>うぉぉぉぉぉ!!!その橋の下で乱闘事件があったって話よ。
――物騒ね。
――だからね、その乱闘の最中にヤッちゃった死体を片付けていたのよ!
――まさか!
――骨が折れる音が聞こえたって((((;゜Д゜)))!
――全部知ってるわよ。アナタの作り話だって。
――))))))))))))))))))))∑ヾ( ̄ω ̄;)ノギク!!
※※※
稔は顔を上げて、もう良いよと云った。
桜依は止めなかった。続きが気になるのだろう。
稔は逆に全く気にならなかった。寧ろ今居る場所こそがその現場なのだから、そこを視ずして何処を見よと云うのだ。訴える表情だった。
一望しても勿論、死体などは転がっていなかった。血痕もなかった。故にデマであると誰でも分かるのだった。辺りを歩いて、見回った。依然として何も無かった。桜依の元に戻って、その頭を小突いた。
「あイタッ!? 何するんですか!」
「いつまで遊んでいるつもりだ。好い加減にしろ。お遊びじゃないんだよ」
「暴力です! 暴力。ぶうぶう」
「五月蠅いなあ」
「これも捜査の一環ですよ」
「何処が」
「この情報化社会。靴の踵をすり減らせば良いってもんじゃないと思うんです。使えるモノは使いましょう! 其れが此れなのです。手段は色々。無限大です。柔軟に対応しなくちゃです」
「はいはい、そうですね」
稔は桜依を相手にするのに費やす労力を減らす事にした。無駄とは云わない。最小限なのだ。
桜依は渋々スマートフォンをポケットに仕舞った――かの様に見えたのだが、思い付いた様に再び取り出した。
「先輩、この人達に直接会って話を訊いてみるのはどうでしょう?」
「嗚呼、そう云えばそんな事も出来るんだね」
「ええ、一寸連絡入れてみます」
便利になったものだ、と稔は思った。視線を遠くに移して、天神川を見渡した。雪の所為で中洲が陸続きになっていた。元々その間の水路は浅く、足首程度の深さしかない一帯もあった。容易く雪で塞がれるのだ。移動して中洲に渡ってみた。雪は均されていた。水辺に向かって足跡が続いている。この辺りも現場だな――。
中洲の淵を回って歩いた。土手側に壁を作る様にして草むらがある。足跡はもう続いていなかった。如何も手持無沙汰になってしまった。来た道を戻る。
「連絡は取れたのかい?」
稔は桜依の様子を窺った。
桜依は渋い顔をしていた。
「取りました。でも、繋がりませんでした」
桜依は目線を画面から逸らし、稔に向けた。
「如何いう意味だ?」
「これ、DMが使えるんです。それでメアド交換して、電話番号も教えて貰いました」
桜依は段階を踏んで説明してはいるが、たどたどしい。
何を迷っている――。
「その電話番号に掛けました。でも、その人は出ませんでした、何回コールしても。一向に、留守電にもなりませんでした。コールは続き――私は切らずに待っていました。嗚呼、何回目だったんでしょう。遂にコールは止んで、電話に出てくれたんだって思いました。でも、聞こえてくる音が何か変で、奇妙でした。言い得て妙かもしれませんが、骨が折れる様な音、ですか。否、実際に聞いた事がない音を分かると言うのも違いますが、そんな連想をさせる感じの音でした。ああ」
桜依は話を結んだ。
「未だ繋がっている?」
稔は左手を差し出した。
「いいえ、もう切りました。聞き続けるのが嫌だったので」
桜依は苦笑した。
「もう一度掛けてみよう。今度は僕が聴く」
稔は提案した。怯える事もなく、只の悪戯に過ぎないだろう。
オカルトに真偽を持ち込んでしまえば、忽ちそのヴェールは剥されるのだ。そのヴェールとは人の心の曇り。曇りが晴れれば悩む事など有りはない。
桜依は履歴からリダイヤルした。
コールが一度も鳴る事は無かった。
手渡されそうになったスマホは稔の手先で止まった。
お掛けになった――
「えっ?」
桜依は声を漏らした。
スピーカーから聞こえてくる。
――電話番号への通話は現在お取扱いしておりません。恐れ入りますが、再度番号を確認してお掛け下さい。
その後も同じ文句が繰り返し流された。
「ど、如何いう事でしょう、先輩」
「知らないよ」
桜依は動揺していた。何も喋らない。此れは沈黙だ。
「よし」
稔は口を開き、その沈黙を破った。
「結局噂はデマだ。一連のやり取りも悪戯だった。そう云う事にしよう」
そうだ、そう云う事にしておけ――。
考えなくても良い事は世の中にある。考えても答えが出ない事もある。
此れは考えなくても良い事で、関係の無い事だったのだ。
「そうですね」
桜依は弱々しくそう云うと、この件はお仕舞と蹴りを付ける様に両膝を両手で叩いた。気にしなくても良い靴を縁取っている雪を、靴底を地面から一寸持ち上げ左右に小刻みに激しく揺さ振り、振り落した。片方ずつ行った。
そんな事をする必要は全く無い。気を紛らわせているのだ。
得体の知れないモノに囚われない様に――。
云い得ない不安に駆られない様に――。
着信音が響いた。不意に桜依は懐に仕舞ったスマートフォンを手探ったが、音が遠い事に気が付いた。着信音は同一の音だ。当然その着信音の発生源が近い程、その持ち主は素早く反応する。
稔は携帯電話を取り出した。画面を確認する。「足羽さん」と表示されていた。電話に出るボタンを押して、耳に宛がう。
「はい、道祖尾です。ご苦労様です」
――俺だ。
無愛想な物言いである。
何かの詐欺だと云われても仕方がない。
「足羽さん、如何されました?」
――疲れてねえよ。
「はあ」
――ついさっきだが、捜索願の110番があった様だ。
「応援ですか、行きます」
稔は早口で答えた。
――逸るなよ。で、現場は如何だったよ?
「ええ、それが特に何も変わった事はありませんでした。ここで乱闘があったと言われて来ましたから、雪が均されている所を確認しました。ええ、周辺を調べてみても、殺しに発展する様な凶器も落ちていませんでしたし、雪に足跡が付いていない所は、まあ」
足羽はその後に続く言葉を察した様だ。
稔もそれを見越して、そこで止めた。
――そうなのか。
足羽が顎と目線を上げている素振りを、稔はその声色と口調で思い浮かべた。
思案しているのだろう。
「署の方から連絡は来ていないので、関連の通報も無かったのでしょう。捜索願の件を伺っても宜しいでしょうか?」
――稔、お前、今日は言葉使いが馬鹿丁寧だな。皮肉ってんのか?
「ははっ、そんなつもりはありません。いつも通りです」
――気分屋だからなあ。
「ええ、正に」
――捜索願の件はこうだ。
母親からの通報だったらしい。子供の捜索願だ。未だ帰宅していないとの事。
名前は蛇草閖。年齢は十二歳。所属は聖誠院小学校、カトリック系の私立校。黒髪で長髪。癖毛の無い直毛。髪は結っていない。カチューシャなどの装飾も一切付けてはいない。ジャンパーの色は白。ロングコート仕様で、ウエストベルト付き。フードにはファーが付いている。ランドセルの色は赤。
「蛇草閖ちゃんですね」
稔は復唱した。
――蛇草って云ったら大阪か?
「如何でしょう」
苗字の事は詳しく知らない。それが何処の出など知る由も無かった。
――兎に角、早速訊き込みを宜しく頼む。暴力事件の件は一先ず保留だ。
「分かりました。聖誠院小学校なら近辺です」
――嗚呼、そう云えばそうだなあ。
「当たるのなら、勿論登下校の通路でしょう。嗚呼、校長先生にもお話をお聴きしたい」
――まあ、動転した母親の110番だったって事もある。手違いでしたってな。
「その可能性は如何でしょうか。ですが予断は目を曇らせますから、心して掛かります」
――粋が良いじゃねえか。初動捜査になるかもしれんからな。
「そうです」
初動捜査の基本は現場だ。初動に限った事ではないが、現場在りきである。署内の椅子に座っていては解決する術がない。ある筈がない。推理とは現場検証からの産物なのだ。自分の眼で視ずして感づく事はない。
少なくとも稔はそうだった。
否、大体がそうなのだろうが。
――実はなあ、少々厄介な事がある。
足羽は気まずそうに云った。
「何でしょう?」
躊躇っている様だ。
――実は先の暴力事件にその蛇草閖が巻き込まれている可能性がある。そのネタ元に確証が無かったから云わなんだ。
漸く足羽は口を開いた。
「はい」
――だが、その母親から捜索願が出たもんだから、繋がっちまった。誤算だ、予想外では済まされんが、繋がっちまったもんは仕方がねえ。畜生だよ、嗚呼畜生。
稔は一気に頭に血が上った。
「そんな大事な事を、如何して始めから言わなかったのですか!」
――そうじゃねえ、証拠が無かったんだ。現場を視ないで何が言える!
怒鳴り合う。
「僕が言いたいのはその事ではありません! 何故、先程母親の勘違いなどとはぐらかしたのですか?! 隠蔽ですか、捜査の撹乱だ」
――息子の証言だった。鵜呑みに出来る事では無かったんだ。
冷静な口調ではあるが早口だ。心中が穏やかではないのは間違いなかった。抑揚の無い、単調な物言いがその様に醸していた。
「そうだとしても、初動捜査に必要なのは迅速さ。それを欠いては――」
稔は言葉に詰まった。続けるべきか、べきではないのか。崖の端から底を覗き込む想いであった。底からの風が前髪を吹き上げる錯覚。姿の見えない何かが息衝いている様だった。
――もう良い、云うな。
「後の祭り」
云ってしまった。
口から勝手に漏れ出したのだ。
全ては言い訳だ。
その栓を緩めたのは勿論稔本人だった。
――未だ分からんよ。現場には応援を呼んでおく。雪掻きだ。お前達は訊き込みに当たってくれ、以上。
「了解しました」
稔はぽつりと返事をした。感情は篭っていなかった。
通話の途切れる音が耳元で響く――。
行き場の無い怒りが煮え滾っていた。
両肘を抱えて振るえる躯は凍えているのではない。況してや武者震いでも無かった。稔は平静を取り戻さんが為に、無言で繰り返し深呼吸に努めた。その鼻息は荒い。
桜依が無言でその後ろ姿を見詰めていた。
足羽の判断は矢張り冷静では無かった様だ。
稔と桜依が車に戻り座席に腰を掛けた時に、連絡が入った。直ぐ署に戻るようにと。このまま行動を継続しても、指示系統が無いと埒が明かない事は明白だった。それに何から始めれば良いのかさえ判断をしかねていた所だ。足羽の判断に頼れない今となっては、どの道一旦署に戻らなければ何かと不具合が生じる一方だった。
落ち着かなければならない。其れは本人が一番分かっていた。他人に言われるまでもない。
桜依も例外ではなかった。気遣う事は出来るが、無下に扱われるのは流れがそう云っていた。桜依は空気を読んでいる。この時ばかりは何も言うまいと口を噤んでいた。
何が、応援だ!
何が、雪掻きだ!
何が、訊き込みだ!
足羽さん、アンタは何故そんなに冷静さを欠いている。いつもペアで行動していたはずだ。今回の行動は独りだった。何が目的だ、何を嗅ぎ回っているんだ。緊急の度合いで測れば、此方の女児捜索を優先すべきだろう。足羽さんは、今夜は戻らないと云っていたが、有無を言わさず戻る事になるはずだ。
事実、稔の考えは当たっていた。
特別捜査本部が設けられた。『蛇草閖ちゃん行方不明事件』と銘打たれた。
署へ戻る車内で稔の表情からは神妙さが窺えた。
赤信号で待機している時に、
「先輩、オカルトはお好きでしたね?」
と、桜依が訊いた。
稔は前を向いたままだった。首を捻りもしなかった。
苦し紛れに話の種を蒔いた。稔が興味を引く話題なのだ。
「嗚呼」
「そう言えば、西郷池のあの廃墟ホテル――何十年も放置されていたのに、この前解体されましたね。現場を一寸見て来ましたけど、スッカリ片付いて綺麗になっていました。何故今になってなんでしょうねえ」
「はあ」
稔は溜息とも区別が付かない声を漏らした。
西郷池とは温泉街がある事で有名である。毎年の春と秋には地域の人々が挙って、一斉清掃に繰り出す。非常に住民に愛されている池なのだ。
信号は青に変わった。
「警察を名乗って、その辺りの事情を聞き出しても良かったのですが、流石にそこまで突っ込む必要は無いかと思って止めましたね。矢張り、真偽は確かめない方が良いかもです」
「飽くまで娯楽って訳か」
「そんなに落とす訳じゃありませんよ。触らぬ神に祟りなし、と言いますか」
触らぬ神に祟りは無いのであろう。瘡も触らねば移らぬのだ。
職業柄そうも行くまい。犯人逮捕の為、社会の秩序を保つ為には、義を見てせざるは勇無きなりの精神であらねばならない。最悪の場合でも、藪をつついて蛇を出す覚悟を持っておかねばならぬのだ。
信号に差し掛かったが、青だった。そのまま通過する。
「まあ、何か起こるかもしれないそのホラー宛らのスリル感が堪らないんだと、思いますよ」
その語りからは実体験の匂いがしなかった。
「何だ、大学とかで心霊スポットや廃墟巡りとかしなかったのか?」
「内輪で話には上がった事はありますが」
「何だ」
次の信号も青だった。戻りは如何も流れが良い。
「私、オカルトに対しては極度の怖がりでして」
桜依はそれが恥ずべき事なのか、へらへらと笑っていた。言葉を続けた。
「でも、結局は怖いもの見たさですね。刺激が欲しいと言うか何と言いますか、普通に生活を送っていては見られないその裏側と言いますか」
「そうかい」
桜依は間が持ったと、胸を撫で下ろした。
警察署が見えて来た。
その安堵とは裏腹に、今夜は長くなりそうだと覚悟した。何せ行方不明者が出たのだ。小学生となれば社会的な影響も大きい。更に時季も悪い。冬であり、尚且つ日は完全に落ちている。人気は失せる一方なのだった。
左折で署内に這入り、駐車場に停車させた。
「よし、運転ご苦労さん」
シートベルトを外した稔はドアを開けて、素早く車外に躯を投げ出した。
桜依はエンジンを切り、キーとシートベルトを外した。車から降りて、稔の後を追う――。
稔は意気揚々と足を運ぶ。署の入り口に差し掛かり、背後の見えない稔が桜依を指摘した。施錠の二文字をぴしゃりと発し、左手の人差し指で恰好を決めた。
鍵の無線ロック式ボタンが押されたのは、桜依が車から三歩踏み出した時だった。
入口の自動ドアを潜り、特別捜査本部が設置してある三階まで稔は駆け上がった。二段飛ばしだ。桜依は必死にその背中を追った。
三階に辿り着くと、看板を発見した。その部屋に飛び込んだ。
「ぬあっ、驚かせんな。心臓に悪いわ、あと廊下走んなよ」
稔が衝突しそうになった人物は足羽健一であった。入口付近に立っていたのだ。署長と話していたのだろう。桜依も室内に這入ってきた。
「おい、お前ら――席に着きな。始めるぜ」
足羽は顎を使った。言葉通り席に着けと指示していた。
稔は移動し、渋々腰を下ろした。桜依も付いて隣に座る。
「よし。早速だが足羽、説明を頼む。因みに詳細は各自に配布した資料で確認して欲しい。要点を摘まんで頼む」
署長が指揮を執る。
足羽は起立した。
「はい。資料にも勿論記載してありますが――私の息子である翔が下校時に蛇草閖ちゃんの暴行被害現場を偶然にも目撃しております。その場には男性が二人居た模様。1人は30代くらい、もう1人は老人。息子はどちらにも見覚えがないとの事。覗きがばれる事を恐れ、顛末は確認しておりません。以上」
足羽は音を立てて座った。
「足羽の息子には人相の証言をして貰う必要があるな。今回の行方不明事件は、母親からの捜索願と今説明して貰った証言の繋がりで判明した事だ。行方不明なのか、誘拐なのか未だ確証が得られない為に、便宜上の行方不明と表現しているに過ぎない。しかし、これは限りなく誘拐に近い行方不明事件の線が濃い。暴力事件に関わっていた二人の男を中心に初動捜査を進めていく。そして、最悪の事態を想定し――雪掻きを並行し、暴力事件の現場を捜索に当たる。良いな、飽くまで最悪の事態だ。決して被害者の命を諦めるな――では、手分けをする。足羽は息子から容疑者2名のモンタージュを作成する事、道祖尾と志摩は聖誠院小学校の校長と接触し保護者に連絡。その後は徹底して訊き込みだ。被害者の目撃情報を集めよ」
この場合における最悪の事態とは――殺人事件であった。
可能性として、蛇草閖が既に死亡していると考える。その上で捜索するのだが、署長が云う通り飽くまで最悪の事態として扱うのであり、現場検証は必要である。雪の中に何か手掛かりになる物が埋まっている可能性は無いと決めつけてはいけない。少しでも可能性が見出せるのなら小突いてみるものであり、可能性を虱潰しにしていく他にないのだ。
署長は次々と指示を飛ばし、捜査の方向性が確定した。
「宜しく頼む。以上、解散」
署長の喝に一斉に起立し背筋を正す。其々が行動に移った。
【5】
指示通り、稔は桜依を引き連れて聖誠院小学校へ向かう。再度車に乗り込み、署を離れた。
「聖誠院小学校の電話番号は?」
稔は桜依に訊いた。
「私のスマホで検索して下さい」
桜依はポケットからすっと取り出した。稔に手渡す。
「音声認識も可能なので、通話孔に向かって喋って下さい」
稔は受け取ったスマートフォンを掌に乗せ、口元に寄せた。
「聖誠院小学校」
――先生イン小学校。
稔の発音が悪かったのだろう。抑々、機械が悪いのだろうか。
「あれ? 上手く変換出来ないぞ」
「じゃあ、手打ちして下さい」
「徒労じゃないか!」
「そんなの苦労じゃないですって」
聖誠院と打ち直して、検索した。表示画面の最初にあるのがそうだ。クリックする。ホームページが表示された。パッと見どの項目を見れば良いのか、稔には分からなかった。少し考えた末に、アクセスをクリックした。交通案内で地図が出た。未だ下に続いている。人差し指で画面を擦り、スクロールダウンさせた。
住所と共に電話番号が掲載されているのを確認した。しめたとばかりに携帯電話を取り出し、その表示されている番号を打ち込んだ。即座に発信させる。
果たして繋がるだろうかと、微かに不安が過った。腕時計は十九時半を回っていた。
――はい、こちら聖誠院小学校です。
「こんばんわ――私、高倉警察署の者です。緊急です、校長先生にお繋ぎして頂けますか」
――け、警察の方。何か問題でも。
動揺が窺えた。
「はい、そちらの生徒の親御さんから捜索願が出されました。その件で校長先生にご用件が御座います」
稔は冷静に説明した。
――畏まりました。少々お待ち下さいませ。
保留音が鳴る。
何処かで聞いた事のある曲だった。
――はい、お電話変わりました。校長の森内です。
「高倉警察署の道祖尾と申します。捜索願が出たと、先程の方からお聞きしたかと思します。その件で、今そちらに向かっています」
――はい、伺っております。どの生徒の親御様から。
「蛇草閖さんです」
――蛇草閖さん。
「何か?」
――否、蛇草さんの事は担任の先生や他の先生方からも聞いておりました。問題児程では御座いませんが、少々家庭環境が特殊なもので。
「その辺りもそちらに着いてから、お伺いさせて頂きます」
桜依のスマートフォンを片手で弄っている。
――畏まりました。
ホームページの項目にあるセキュリティーをクリックした。その表示された頁を見乍ら、
「何々、ICタグで登下校のお知らせメールを自動送信可能、らしいじゃないですか。素晴らしいですね」
――ええ、お褒めに与かりまして。
「それでは、校長先生。この件に就きまして、その連絡網で全生徒の親御さんに連絡を入れて下さい。時間を争いますので、体裁等は気にせずに用件だけをお伝え下さい。そして些細な事は何でも良いので、情報も頂けるように促して下さい」
――はい、その通りに手配致します。
「宜しくお願いします。では一度この通話は切らせて頂きます。失礼します」
稔は弱い返事が聴いて、電話を切った。
「ふう、事前連絡は完了。有難う」
桜依にスマートフォンを返した。
稔の携帯電話も仕舞う。
「如何でした?」
「問題無し、しかし本当に時間との勝負だ」
「ええ、本当に」
聖誠院小学校に向かっている。道路の表面に直接スクルールゾーンと印字されている通路に這入った。この通路は脇道になる。対向車をやり過ごす間隔は開いている。途中に通用門を見付けたが、閉まっていた。直進するしかなかった。
「入口って何処なんでしょう?」
「さあ」
正直、入口が分からないと云う状況を想定していなかった。通学路だと思わしい所を辿って行けば校門は見えると踏んでいた。
敷地は木々で覆われ、外からは中を覗けないようだ。これも防犯対策の一環なのであろう。結局、学校の敷地外を半周して正門を見付けた。警備員に警察手帳を見せ、敷地内へと車を進めた。教師用の駐車場らしき所もあったが、律儀に駐車場に止めようとする桜依を云い聞かせ、稔は校舎に近付ける所まで走らせるよう指示した。
校舎の前に人影を認めた。その距離が縮まると性別が分かった――女性だ。その女性の前に停車させた。稔は車から降りて、警察手帳を示した。
「高倉警察署の道祖尾です」
女性はお辞儀をした。
「お待ちしておりました。校長室までご案内します」
「宜しくお願いします」
桜依も車から降りて、ドアにロックを掛けた。稔と案内人の後を追った。
案内人の女性は校長室の前に着くと、一度立ち止まった。ノックを四回手早く済ませ、ドア越しの返事と同時にドアを開いた。廊下側からの押し扉だ。女性は先に中へ這入り、稔と桜依に入室の合図で招き入れた。
稔達が入るや否や、丁度電話を済ませた様に校長は受話器を置いた。この学校の長だけはある。高級な机だ。手前には客席用のソファーがあった。如何にも整った風貌の部屋であった。
案内人は扉を閉め、室内に留まっていた。
校長は立ち上がり、稔の方向に足を進める。
稔も一歩前へ出た。
「先程はお電話で失礼しました。高倉警察署の道祖尾です」
懐から出した警察手帳を見せる。
「同じく高倉警察署の志摩です」
桜依も同様に警察手帳を示した。
「校長の森内です」
案内人が校長の横に移動した。
「名乗り遅れました。蛇草閖さんのクラス担任をしております神蔵と申します」
先程と変わらぬ恭しくお辞儀をした。お辞儀の作法に稔は詳しくないが、作法云々は兎にも角にも抜きにして、彼女の其れは綺麗だった。気品が感じられた。桜依と比べるまでもない。否、確かに桜依は美人の部類に入るが、作法を心得ぬから無粋である。喋らなければ綺麗なお人形さんと云うべきであろうか。静止美人と動作美人の差は歴然なのだ。
「嗚呼、ご案内ありがとうございました、神蔵先生」
稔は頚だけ動かす仕草で不器用にお礼を述べた。
「いいえ、とんでもない事で御座います」
「早く話を進めて下さい。照れている場合じゃないんですよ!」
桜依から喝が上がった。
「分かっている、書記を頼む」
ひらひらと手を振って云った。
「お任せ下さい、お茶の子さいさいです」
桜依はこれ見よがしにスマートフォンを押し出した。
「どうせ取り込んだアプリのヴォイスレコーダーを使うのだろう。止めてくれ、手書きにしてくれ。聞き返す手間が惜しいし、桜依ちゃんの頭で整理した情報が役に立つのだ」
「そこまで言われたら、手書きせざるを得ませんね」
桜依の仕草は渋々であったが、何処となく気分は悪くなさそうであった。手にしていたスマートフォンは仕舞い、手帳とボールペンを握った。
「さて何から始めましょうか」
ぼそっと呟いて、稔は音量を上げた。くるりと振り返り、森内と向き直った。
「では、校長先生」
「はい」
稔と桜依のやり取りを眺めていたので、漸くと云う体で返事をした。
皮肉ではないが、二人の会話は如何も流れが悪い。テンポが悪いとも云える。漫才ではないので追及は致すまい。森内はそう感じていたのだ。故に、森内の返事は純粋に呼びかけに対しての様に聞こえるが、実は不意打ちの確認であった。
「電話越しにお願いしました件――例の連絡網で親御さん達にはご伝達頂けましたね? もうお済でしょう」
「ええ、打ち合わせ通りに致しました。既に連絡は行き届いているはずです。一斉送信でそのアドレスには直接返信が出来ませんが、本文には情報提供は本校の電話番号までお願いしますと、注意書きを入れるよう指示してあります」
「それでは、その電話を受け取るのは先生方なのですね。彼らは職員室に?」
「ええ、職員室は丁度この真上に御座います」
神蔵が答え、
「ご案内致しましょうか?」
「否、その必要は無いでしょう。彼らにはSNSを使って、提供された目撃情報を入力して頂きましょう」
「しかし、全ての先生方がSNSを使いこなせるとは――」
「限りませんね。それならば、別にそれぞれに必要は無いでしょう。何、1つあれば十分です。その機体で順々に打ち込んで貰えば良いのです。誰か持っているはずでしょう?その人の機体で、誰でも打ち込めるようにしておけば――後は、こちらが情報の取捨選択を行います」
「私の物で宜しいでしょうか?」
神蔵は控えめに提案した。
それに反応を示したのは桜依だった。
「神蔵先生はスマホの人なんですね。意外です、番号教えて下さい。繋ぎますので」
神蔵は桜依に近付いてIDを伝えた。それから何やら細かい事は桜依に任せて、稔は森内と向き合った。森内の表情は厳しさ其の物だった。
「怖い顔をなさっていますね、おまけに肩にも力が入っているようです。凝りますよ」
「緊張しているんですよ。生徒が行方知らずというのに、おいそれと落ち着けるはずが無い」
森内は深呼吸し乍ら、顔面全体を撫でた。室内をうろつき始めた。
稔は振り返った。
「神蔵先生、お手数ですが職員室で手筈をお願いします」
桜依と盛り上がっている所に釘を刺した。彼女らの年齢が近い所為か、余計な事にまで話が及んでいた様だった。
稔の鋭い視線に神蔵は委縮した。
「は、はい。分かりました、他の先生方に伝えて来ます」
神蔵はおずおずと校長室から退出した。
その背中を見送った桜依は稔に反抗した。
「脅さなくても良くないですか!」
「君達が遊んでいるからだろう。もっと緊張感を持つべきだ」
「先輩、まさか――小学生みたいな事してるんじゃないでしょうね」
「小学生って如何いう事だ」
「アレですよ、好きな子には強く当たっちゃうとか」
「ふんっ、馬鹿な!」
「神蔵先生って美人ですもんねえ」
桜依は稔の表情を読み取った。
「ウブい」
「ふざけるな」
稔は桜依の頭に拳を落とした。
「あいたあ!!」
痛む箇所を押さえている姿は滑稽だ。涙目であった。
「先輩、これが教師と生徒だったら体罰問題でマスコミを騒がせていましたよ。この問題は超繊細なんですから」
「生憎だが、そうはならない。僕は警察官で――」
稔は自身に人差し指を向けた。その指先を桜依は目線で追っている。今度は桜依に向けられた。
「君も警察官だからだ。仮の話なんて無駄な事は止めて、目撃情報は如何なっているのだ?」
「話を逸らさないで下さい! こっちは必死で――」
稔は桜依からスマートフォンを取り上げた。案の定、神蔵のアカウントが表示されていた。
如何云う事であろう。一向に目撃情報が入力されなかった。
「何故、何も入力しない――まさか入力の仕方が分からないって事は無いだろうなあ。否、そんな事は無いだろう。彼女自身が承知の上だ、指導する事だって出来る」
「それじゃあ、単に情報が集まっていないんでしょうね」
「そうだ――って、豪い悠長だなあ」
「焦って如何にかなる問題でもありませんよ」
「そういう事ではなくて、僕は君が疑問視していた靴底を擦り減らす行為に繰り出さなくてはならないと考えているんだ。スマホがあれば順次上がってくるだろう目撃情報は出先でも確認可能だし、今待っている情報は親限定。寧ろ登下校の民家に訊き込みをすべきだ。特にあの現場界隈は徹底すべきだろう」
稔は振り返り、森内を見た。
森内は依然として何をする訳でも無く室内をうろうろ歩き回っていた。腕を組んでいるが、特に何を考えているのではなく、只不安に駆られているのだろう。稔はそう思った。
「森内校長」
稔は軽く咳払いをして近付いた。
「な、何かね」
「蛇草閖が通る登下校の道則を教えて頂けませんか?」
「そんな事よりも、目撃情報は如何なっているんだね? S何チャラとやらの使い方など私にはさっぱりだ」
森内は早口で喋った。投げやりにも聞こえかねない。不安感よりも苛立ちに近いのだろうか。
「何チャラではなく、『下線』と云うソーシャルネットワークサービス。つまり、SNSの類いです」
「ソーシャンが如何のこうのと私には如何でも良い事よ。早く生徒を保護して下さい。貴方方の仕事でしょう!」
森内は語気を荒げている。これでは情緒不安定と判断しても過剰ではないだろう。
「その通り、私どもの務めで御座います。しかし、早期解決には民間の手を借りざるを得ません。一致団結、協力関係を結ぶのは必要な事です」
「勿論、協力は惜しみませんよ。私は早期解決を望んでいる。それは生徒の為でもあり、地域的な治安を回復する為でもあるのですからね。勿論、そう勿論だとも」
独りで森内は頷いた。勝手に納得している様だった。
何に森内が納得しているのかを稔は分からなった。彼が話す際の仕草かもしれないし、癖かもしれない。
「先程、私は蛇草閖の登下校のルートを教えて頂きたいと願い出ました。しかし、それを遮ったのは他でもない、森内校長ではありませんか」
「私? 私が――!? 遮った、君の発言を。うん、そうだったかな。否、如何だろう――」
森内は恍けている。怪訝そうな顔を見せた。
演技か――?
稔はそう考えたが、時間が惜しい為に話を進める事にした。森内の肩を掴んで、立派な机まで移動させた。
「おほほ、何だね、何だね」
森内は愉快な調子だった。
「兎に角、地図を出して下さい。登下校のルートを、示して下さい」
驚く程に森内の動作は機敏だった。地図を取り出して、定規と赤ペンで線を引いて行く。一方、稔は机のPCで神蔵のアカウントを表示させた。数件程打ち込まれていたが、目ぼしい情報は無かった。その後、覆い被さるようにして地図を見下ろした。
「赤ペン、薄いですね。マジックは持ってないのですか――まあ、良いでしょう。この地図は頂いても宜しいですね」
「否、貸し出します」
森内は何故か強気だった。
「そうですか、分かりました。では、このパソコンの画面でも眺めていて下さい」
そう言って稔は席を譲った。地図を握り締めた。
「おいおい、その地図皺皺にしないでおくれよ」
森内はむっと表情を変えた。
「はい」
稔は笑顔で答えた。地図は既に皺が付いていたが、苦し紛れに手で伸ばしてみせた。
「分かれば良いんだよ、分かれば――」
森内の表情は直ぐに和らいだ。関心が移ろい、椅子に腰を下ろす。PCの画面を見るや否や感心した声を漏らした。
「ほほう、これが『下線』と云う奴かね。むう。で、私のアカウントとやらは如何作るのだろうね」
森内はぶつぶつと呟いている。自分のアカウントを取得しているのだろう。背筋を丸めて、キーボードを叩いていた。
PCを扱える老人は少ない。学校の校長と云う立場が助けになったのだろう。森内はマシな方だったが、若者の話題には疎いと分かる。『呟き』を『不満』と間違えるのもその証拠である。否、呆けか――。稔はそれに構って居られない。桜依に声を掛けた。
「桜依ちゃん、行こう行こう!」
稔は手をひらひらと、早足でドアに向かう。背筋は伸びている。桜依の肩をポンと叩いて催促した。ドアを開ける。
遅れを取らず、桜依は確りと付いて来た。廊下を渡る。桜依は肩を並べた。
「職員室はこの真上と言っていたね」
「そうです」
「先ず、神蔵先生に会おう。訊きたい事があるのだ」
「何です?」
突き当りの階段を二段飛ばしで登る。稔は何ともない。
桜依は勢いがないと駄目だった。
「蛇草閖の交友関係だ。一緒に下校している友達が居るのなら、その子に訊けば良い。親しい友達なら普段の行動も知っているだろう。そこからも何か分かる事だってある」
「成程」
桜依は階段を登りながら、
「――良い案ですね」
階段を登り終えると、直ぐに職員室の扉を見付けた。がらりと開く。
「神蔵先生」
稔は室内には這入らず、神蔵を手招きで呼んだ。
神蔵は稔の姿を認め、駆け足で廊下に向かった。
「如何か致しましたか?」
神蔵は少し首を傾げた。
「蛇草閖の交友関係について訊きたいのです。登下校を共にする生徒や親しい間柄の生徒が居れば、是非その名前と住所を」
神蔵は口元に手を添えた。躊躇っている様だ。
「湯谷涼ちゃんと布江都波ちゃんです。よく一緒にお弁当を食べています。親友――とまで言える関係か如何かは分かり兼ねますが、少なくとも他の生徒達とあんなに仲良く喋っている姿を見掛けません」
「つまり、閖ちゃんは交友関係の余り広くない生徒だと」
桜依は会話に割って入った。
「そうだと思います。基本的に大人しい性格なようですし、目立ちたがらないのでしょう。それに家庭の事情も影響しているのか、少々気難しい性格で独特な雰囲気もありまして」
「嗚呼、その家庭の事情――森内校長も仰っていましたよ、何なのです?」
「私も興味あります」
桜依は興奮気味だった。一歩踏み出して、聴く気満々だ。
「醜い野次馬根性だ。女とは皆こんな者なのかと思うと、泣けてくる」
稔は一歩退いた。
桜依の鼻息は荒くなっている。
「何と言いますか、閖ちゃんは古い家柄らしく、何でも家訓が」
「家訓?」
「家訓のある一族ですか」
「変な言い方をするな」
「謎ですね」
「謎ではない」
桜依は顎に手を添えて、安い探偵の真似をして黙る。
「全く謎であるものか。家訓など何処にでもある。例えば部屋に上がる時は靴を脱げだとか、テレビゲームは一時間までだとかだねえ」
「それは家訓じゃなくて、只の習慣や約束事でしょう」
稔は呆けたつもりだったが、受けは良くなかった。センスの問題なので、仕方が無い。
桜依は白けずに場を崩さない心掛けだった。
神蔵に至っては、笑みの仮面を被っていた。
「厳しい家庭で育っていると考えても?」
「まあ」
「煮え切りませんね」
「実は未だ家庭訪問を行っていませんので」
「それは関係無いでしょう。しかし、その裏に何かしらの事情が絡んでいるのは確か。その線で探る必要も否めません。そして、話が逸れたとは言い難いのですが、彼女の友人の住所をこちらに――」
稔は神蔵に地図とボールペンを手渡した。
「拝借致します」
受け取った神蔵は廊下の壁を台にして、二ヶ所に印をさっと付けた。
「どうぞ、お返し致します」
「神蔵先生、お手数ですが、こちらにもその友人の氏名と電話番号をお願いしても?あっ、氏名は漢字で振り仮名もお願いします」
「畏まりました」
桜依は手帳を渡して書いて貰った。その字を見て一言、
「ああ、随分とお綺麗な字ですね」
と感嘆の声を漏らした。
「有難うございます」
「見て下さいよ、私の字なんてこんなに汚い」
桜依は神蔵の横に擦り寄り、自分の字を指さして誇示した。
「そんなに汚い字を見せびらかして如何する。神蔵先生が困っているじゃあないか」
桜依は神蔵の表情を確認する。
神蔵は依然として仮面を被っていた。
「ほうら。神蔵先生、どうも有難うございました。済みませんが、引き続き情報の窓口を宜しくお願いします。どうぞ、お戻り下さい。有難うございました」
軽くお辞儀して、稔は桜依に行くぞと仕草した。登った階段に戻る。
桜依もそそくさとお辞儀をして、その場を後にした。
二人は軽快に階段を下って行く。
「悪いけど、靴底を減らすのに付き合ってもらうよ」
「別に悪い事じゃありませんよ、何言ってるんですか。私の体力は並じゃないですから」
「粋がるねえ、勇ましい事だ」
「女の子に勇ましいとは褒め言葉になってませんよ。嬉しくないし」
「褒めるつもりは毛頭ないのだけど、茶化しただけだ」
「それにしても、あの校長先生は大丈夫ですか? 言動が一寸おかしくありませんでした?」
桜依は苦笑いした。
「まあ、歳なのだろう」
「ふふっ、お爺ちゃんの相手をしているみたいでしたよ」
「事実、お爺ちゃんだろうよ。だけど、SNSを学ぶのは悪い事じゃない。健忘症予防にでもなれば、それはそれで良い事だと思うけどね。老人は大事にするものだ」
「そう云えば、私の家にも家訓がありました」
「へえ」
「聴く気がありませんね」
「言ってごらん」
「『美人は達筆から』と言うのが家訓です」
「それ、今考えただろう」
稔は桜依が持っている手帳を取り上げて、その執筆にさっと目を通した。
「これは本当に達筆だ、傑作だ! ミミズが走っているぞ、全く読めない」
けらけらと笑い乍ら、稔は手帳を投げ返した。
校舎から出て、稔と桜依は車に乗り込んだ。シートベルトを締める。
「はい出た、出た。ハイヨー、桜依ちゃん!」
席に着いた稔は桜依を急かせた。
「分かってますから、騒がないで下さい。あと、私は馬じゃありません!」
蠅を払う様に手を振って、稔の言葉を流した。
五月蠅い事程この上ない。何に浮かれているのか知る由もないが、桜依にとってはいい迷惑だった。
車は聖誠院小学校を離れ、大通りに出ようとしていた。
「先ずは、何々――」
稔は桜依が蚯蚓の様に這った字で書いたメモを左右反転させていた。如何しても読めなかった。左から右へ文字を綴っているのは分かる。主語や述語は何処にある。
「一体これは何なんだ!? 読めないぞ。如何したら読める。上下左右、基準は何処にあるいのだろうか。習字でも習ったら如何だ? 否、習うべきだ。習え」
「私、実は習字七段です」
「成程七段! 七段でこれか。習字とやらの意義は何処にあるのだ」
「残念ながら、硬筆はべらぼうに駄目でして――どちらに向かいますか?」
「嗚呼、蛇草閖の通学路に沿ってくれ。この地図の赤線通りに頼む」
稔は頭上の照明を点けた。
桜依はその地図をちらりと横目で見た。
「有難うございます、確認しました」
稔は照明を消した。
「ぬのえとなみ、ゆたにすず」
「ええ、親友とまでは確信できない生徒達ですね」
「否、今はその彼女達が蛇草閖の親友か如何かなどは差した問題じゃない。有力な情報を持っているなら、誰でも構わない」
布江都波と湯谷涼の自宅は蛇草閖の通学路の中間にあった。通学路を把握した事で、蛇草閖が巻き込まれた暴力事件の現場はその通学路から逸れている事も判明した。僥倖だ。そこで、稔は現場界隈の訊き込み後に布江都波と湯谷涼を訪ねる事に決めた。
暴力事件の現場に関して集まった情報は以下の様なものだった。
※※※
――天候の所為もあり、外出はしたが現場付近は通っていない。
――悲鳴? 聞こえませんでしたね。それにあそこは這入り込まないと踏み入れない場所でもあるでしょ。わざわざ行こうとは思わないけど、行こうとしないと行かない所よね。
――あそこは土手で普段でも人気は余りない。しかも、今日もお生憎様な天気だろう。暴力事件が起こったって? あそこで? しかも少女が行方不明。穏やかじゃないね。
――済みません、一寸分からないです。ごめんなさい。
――あそこは不良の溜まり場と云う訳じゃないから、珍しい。しかも雪も結構降っていたと思うんですけど。少女の行方を捜してるって? 一寸力になれそうにありませんね。因みにどのお宅の子供さんが? 蛇草閖ちゃん? あの閖ちゃん? あの家系は曰くつきだから。どんな曰くかって? 私の口からはちょっと。
※※※
十数件の訊き込みを終えたが、実りのある情報は得られなかった。
見えてくる事もあった。先ず、現場は不良の溜まり場ではないと云う事。そして、普段から人の通りは少なく、目に付く場所ではないとの事。更に、蛇草の名は周囲に何かしらの影響を与えると云う事。悪い意味で。
「中々、面白い」
「面白がっている場合じゃないんですが」
「こんな時間にお邪魔しても大丈夫だろうか。遅くなってしまった。今の小学生って何時頃に寝ているのだろう」
「先ず九時には寝ませんよ。十時頃じゃないでしょうか」
「寝ないで何しているのだろう」
「ドラマでも観てるんじゃないですか」
「投げやりだねえ」
「分かりませんよ。疲れてんですから、無駄口叩かせないで下さい」
「それは君だけじゃない。理由にならない。やる気を削ぐような事を言うな」
「済みません、口が過ぎました」
「その素直さが、僕は桜依ちゃんの良い所だと思っている」
「ありがとうございます、照れ臭いですけど」
湯谷涼の自宅の外装は真新しく、デザインもスタイリッシュだった。布江都波の家も奥の方にあると地図が示している。この地域は近年開拓が進んでいる一帯である。如何云う理由なのか田圃を埋めて新築が建つ。宛らニュータウンの風貌だ。田圃を売って欲しいと話を持ち掛けられた人も少なくない様であった。
ほんの数年前までは、この一帯は見渡す限りの田圃が広がっていた。稔の祖父と祖母は農業を営んでいたので、子供の頃は駆り出される事もあった。暑いと云うのに長袖を着て、泥を踏むから長靴を履かされ、あの頃は良い思いはしなかった。今となってはその田圃が無くなっていると云う現状に少し淋しさを感じていた。
車から降りた稔は躊躇わずに、呼び鈴を押した。
――はい。
マイク部分から声が云った。
最近は不必要に顔を出さない。防犯対策である。
稔はマイクの位置に屈み込んだ。
「高倉警察署の道祖尾と申します。小学校からのメールでご存知かと思いますが、蛇草閖さんの件で伺いたい事があります」
――はあ。
「済みませんが、お子さんは未だ起きていらっしゃいますか?」
――少々お待ちください。
マイクの回線は一度切られた様だった。
「湯谷涼は君に任せる。警戒されて喋らないのは不味いからね」
「わかりました。では、今日の学校での態度や交友関係に関して訊いてみます」
稔は軽く数回頷いた。
マイクからお入りくださいと聞こえ、玄関に通された。
母親はスーツを着ていたが、湯谷凉は寝間着だった。
稔と桜依はさっと挨拶を済ませた。
「さっそくですが、涼さんにお話を伺っても?」
「はい、涼――」
母親は背中に隠れている凉を前に出した。
観念した様に、母親の横に座った。俯いて黙っている。
桜依が涼と同じ目線まで腰を下ろした。
「涼さんで良いんだよね? こんばんは」
涼は頷いて肯定した。
「今日の蛇草閖さんってどんな様子だったのかな? 普段と変わらなかった?」
凉は簡単に口を開かなかった。単に人見知りかもしれないが、桜依が警察官と云うだけで怯えているのかもしれない。
前髪で顔が隠れ、表情を読み取れなかった。
「ふ、普段と変わりませんでした」
漸く口を利いてくれたと、桜依は一安心した。
「閖ちゃんはクラスではどういう感じなのかな?」
「わ、私と都波ちゃんとでお弁当を食べてまいす。もちろん――、他の休憩時間もおしゃべりとかします。閖ちゃん、他の子と一緒にいたがらないから」
「如何して、他の子と一緒に居たがらないの?」
「そ、それは閖ちゃんとかみ合わない、からです」
「噛み合わない?」
「閖ちゃんが大人びてるから。別に見下してるとかじゃないけど。あ、相手にしたくないと言っていたことがあります」
「じゃあ、凉ちゃんとは何故一緒にいるのかな?」
「邪魔しないからだって。そう言われたことがありました。でも、私は閖ちゃん好きだし、友達だと思っているから」
「虐めとかは流石に無いよね?」
「無いと思います」
その問いに涼の母親が動いた。
「不快です」
「はい?」
「不快ですと申しました。警察には協力すべきだと考えて玄関にお通し致しましたが、これ以上は十分でしょう。済みませんが、お引き取り下さい。お願いします」
深くお辞儀をされてしまった。有無を言わせぬ気迫であった。子を守る母親の強さを垣間見た様な気がした。
「行こう」
稔は桜依の肩を優しく叩いた。
圧倒されていた桜依ははっとして腰を上げた。
「――ご協力ありがあとうございました」
稔は扉をそっと閉めた。
とぼとぼと、桜依は稔の後に付いて車へと戻った。
「はあ~」
桜依の溜息だ。
「あれは不味かった」
「済みません」
桜依は珍しく落ち込んでいた。
「如何して虐めだと思った?」
「この場合、虐めと言っても閖ちゃんが虐めている側と言いますか。教師達に独りで居る所を見せない、見せたがらないと思いました。カモフラージュですね」
「カモフラージュだと?」
「はい、クラスには何個かグループがあって、場合によっては衝突する事もあります。要は仲良しグループですね。先輩の時にもあったと思いますよ。その何処にも属さない少数派も勿論います。今回はその少数派がグループになった例だと踏みました」
「成程ね」
稔は良く飲み込めなかったが、納得する事にした。彼が小学生の時にも同様な事があったのだろう。しかし、如何やら身に覚えが無いようだった。少数派に属していたとしても、どちらにしても幸せな事だ。稔は鈍感である。
同地域にある布江都波の自宅に伺ったが、門前払いであった。湯谷凉の母親が警告を発したのだろう。その証拠が無いのも事実だが流れが示していた。八方塞になってしまった。捜査に役立つ情報は一切得られなかったようなものだ。渋々、特別捜査本部へ戻る他なかった。室内は閑古鳥が鳴いていた。
「おう、訊き込みは如何だったよ」
足羽は自分の役割を終えた様だった。
「芳しくなかったです。情報が少な過ぎます」
「星のモンタージュは出来てるぜ。持って行きな」
足羽はモンタージュのコピーを手渡した。
稔はそれに目を落とす。
一見優しそうな老人である。目元も垂れて、口髭が柔らかい印象を与えていた。こんな人が犯罪を行うなど考えられないと世間では云った風だろう。逆に、もう一人の男は目元のクマが特徴的である。パーマの様な癖のある髪型で、顎を中心に無精髭が生えている。眼光が鋭い。一般人から見れば、絶対に近寄りたくない人相であろう。警察官の立場であれば放ってはおけぬ雰囲気を纏っている。叩けば、埃が大層出て来そうである。
「何だか、如何にもって顔が出て来ました」
「お前には見覚えねえだろうが、こいつは藤間操っていう糞野郎だ。幾ら獄にぶち込んでも更生しやしねえ。とんだ屑だぜ。女の所をのらりくらりと転々とし乍ら生きてやがる寄生虫だ。生きる意志はイッチョ前にあるようだが、働く意思は全く持ち合わせちゃあいねえのよ。残念だが今の生息地は掴めてねえよ」
人は見掛けに依ると思った。前者は善人であり、後者が罪人である。予断で物を見てはいけないが、この場合は紛れもない事であった。事実、後者は前科を持っていて真人間ではない。善良な市民が如何いう訳かこの暴力事件に巻き込まれてしまったと結論付けられる。
蛇草閖の行方が不明な今となっては藤間操を追うべきであった。
「こちらの如何にも善良な市民の、人相の方の身元は割れましたか?」
「未だだ」
意外と時間が掛かっている様だった。
「お前ら、ちと仮眠を取れや。顔色が悪いし、覇気がねえんだよ覇気が!」
「でも」
「デモもシュプレヒコールもねえよ。一寸寝たくれえで現状が打破出来るか! 命令だ。おらっ、とっとと行け行け」
稔は足羽の言い付け通り、一寸だけ仮眠する事にした。言い訳ではないが、先日も帰宅出来ず余り睡眠を取っていなかった、と云う事を此処に記しておきたい。
※※※
目覚まし時計は常備していない。序で、机の上にも置いていない。
稔は携帯電話のアラーム機能を使用している。仮眠という体で、三時間くらい寝ても良いと思った。そうでなければ、究極的には過労死の結果を導き出す事になり兼ねない。目が霞むと云う表現が適切だろう。酷くなれば本当に眠れなくなる。
緊張の途切れなのか、立っているとふら付いた。
「桜依ちゃん、仮眠室へ行こう」
勿論、仮眠室などありはしない。刑事課の倉庫にある古いソファーで横になる。
倉庫は底冷えする寒さなので、縦長のストーブが有り難い。点けないと寝るに寝られない。このストーブがまた年季の入っている代物だ。点け始めは我慢を強いられるが、その後の暖かさと云ったら芯まで滲み渡る程だ。結構気に入っていたりする。
ドアノブを引っ張り、倉庫の扉を開けた。付け根の金具が軋む音が細く響く。刑事部の室内は理想的に暖かいが、倉庫は外に居るのと変わりない寒さだった。肩も縮こまる。稔は瞬時に震え上がった。
「早く、早くストーブを点けておくれ」
ジャケットをハンガーに掛けた。毛布に包まり、ソファーに躯を預ける。
「これは点けないと凍死レヴェル!」
ドアの枠から差し込む光が丁度ストーブを照らしていた。桜依はストーブの頭をぱっくりと開き、火を点けて閉じた。そして、炎が青くなる様に調節した。上着をハンガーに掛け、毛布を取りソファーに横になった。
「これで何とか」
稔は上半身を起こし、上着から携帯を取り出した。アラームを設定し、背凭れに垂れ乍ら机の上に置く。
室内には段ボールの塔が乱立している。その段ボールには数多の捜査関連資料が埋もれている。唯一の窓はその向こう側にある。町明かりすら入って来ない室内は薄暗く、寝るのに最適だった。但し、体感している寒さは別である。
「足羽さんは仮眠って言ったけれど、アラームを今から六時間後に設定しておいた。訊き込みにしても早朝だと人様に失礼だし動けない。ぐっすり寝てくれ。僕も眠い」
欠伸が漏れる。
「分かりました、お休みなさい」
「はいはい、お休み」
稔は目を閉じる。次第に意識は彼方へと持って行かれた。稔の意志に関係なく、一瞬で気を失い、脳内の映像は現実を織り交ぜて儚く再生し始めた。
夢が現実だと錯覚して仕舞う時がある。語弊があるかもしれない。正確には長年同じ夢を見続けているからこそ、その残像が定着して恰も過去に体験した記憶として刷り込まれると云う具合だ。動作は異様に鈍い癖に、感覚だけは自棄に確りとしている。物語もなく、只その一場面のみを切り取ったように印象は強く残る。
酷く綺麗な青い海だった。否、湖だったかもしれない。洞窟の奥に広がる、秘境宛らの神秘さを放っていた。感嘆の声も出せず、只管に圧倒された。そこには見た事も無い色鮮やかな魚達が泳いでいて、その中でも黄色い気持ち悪い魚がこちらを狙っていた。
声なき声が教えてくれた。そこに住んでいる人々からは神聖な場所だと見做されている様だった。近付いてはいけないらしかった。
「おい稔――」
不意に後ろから肩を掴まれた。はっとして飛び起きる様に上体を起こした。
「起きろや」
稔の寝惚け眼に映り込んだのは足羽だった。如何やら起こされたに違いなかった。
洞窟の暗さと倉庫のそれとは闇と影との差異がある。間違えるはずもなかった。
「さっさと起きろ」
稔は寝惚けていた。上手く言葉を喋る事が出来なかった。もしかしたら、その結果的に譫言みたいな事を漏らしたのかもしれない。
「シャキッとしやがれ」
足羽は机に何かを置いた。これでも飲んで出て来いと云って、扉の前で立ち止まった。
「志摩も起こして来いよ」
弱く泣く扉を閉めた。
稔は寝起きの気怠さを覚え乍ら、足羽が机に置いた物を手に取った。
掌の上に立てて、瓶を回転させてラベルを確認した。栄養ドリンクの様だ。カチッと栓を開け、一気に飲み干した。一息吐く。視線を桜依に移して、未だ寝ている事を確認した。微かに寝息が聞こえる。机に置いた携帯電話を、腕を伸ばして掴んだ。アラーム設定を確認したら、予定より三時間も早く起こされていた。結局、三時間しか寝る事を許されなかったのだ。
ハンガーに掛けた上着を羽織り、襟を正した。
「桜依ちゃん、起きなさい」
腹を抱えて丸めている肩を揺する。
桜依は起きなかった。寝返りを打って、寝顔を露出させた。
稔はその顔を覗き込む。
整った顔の寝顔は矢張り整っていた。寝る前の化粧を落とした様な素振りは見られなかったので、元々薄化粧なのだろうかと思った。誰でも化粧に頼れば綺麗にはなれるが、素材が良くないとそうはいかない。桜依は決してすっぴんではないにしても、殆ど化粧をしていないのと同様であった。寝顔くらい崩れても良いのではと、稔は肩を竦めた。直ぐに起きない桜依を見兼ねて、親指を支えにして中指に力を込めた。凸ピンをお見舞いしてやろうと云う魂胆だ。発射する前から桜依の反応が目に見える様で、声を殺した笑いが漏れ出した。
「痛あぁい――」
その口からは鈍い声が出た。いつもの反応よりも数段芳しくなかったので余り面白くなかったものの、その悪戯自体は傑作なのだ。
稔はしたり顔で見下ろしている。
「悪いけど、さっさと起きてくれないか」
堪え切れない欠伸をし乍ら、桜依は愚図愚図と起き上がった。
「これ、足羽さんからの差し入れ。栄養ドリンク」
稔は桜依に手渡した。
「はあ先輩、おはようございます。ええっと、何か凄く寝足りませんけど、予定と違いますよね?」
「お早うの文字通りだね。実は三時間くらいしか寝てない」
「マジですか、凄く体が怠いです」
「その栄養ドリンクで補えって事だろう」
「酷い」
正にその通りである。この調子で捜査を進めれば、確実に過労死へと逝き着くであろう。立っているだけでふら付くのは最早警告であった。
桜依に手早く身支度を済ませて貰い、稔は特別捜査本部へ向かった。
「お早うございます」
稔は覇気の無い挨拶をして這入った。
「おい、元気出せよ!」
足羽が早々に喝を飛ばした。一寸来いと云い手招きで誘う。
「志摩は如何した?」
「もう少しで来ます」
おうと返事をし、足羽は捜査に話題を変えた。
「星らしきモンタージュは警務課に託してある。藤間操は顔出しだ。容赦はしねえ」
「と云う事は、テレビに新聞――各メディアに渡ったのですね」
「応とも」
「藤間操の素性は割れていますけれど、もう1枚の老人の方は未だですね?」
「ああ、この事件お前は如何見る?」
「如何にもこうにも、蛇草の家を知らぬ間は難しいでしょう。訊き込みから分かりましたが、何か良い感じはしませんでした。それに蛇草閖はクラスで浮いているらしいです。性格の問題でしょうか、考え方が大人びている様な、それが鼻に付いて避けられているのでしょうか」
「稔、お前『L. s. R.』を知ってるか?」
「何ですか、其れは?」
「――まあ、秘密結社と云うか犯罪組織みたいなもんだ。それよりも、お前らが訊き込みに出ている間に会見があった。そこでその2人の容疑者はニュースで流れている。否が応にも情報は垂れ込んでくるだろうよ。害者の捜索は早朝から再開だ。予報では降らないらしいが、可成り冷え込むらしいぞ」
「それは辛くなりましょう」
「ああ、日の入りは七時前らしい。その三十分後にでも捜索再開って所だ」
「そして、藤間操と蛇草紀里の関係は――」
「愛人と云う安い関係じゃねえよ、勘ぐるな。会議で配布した資料にあっただろう、宗教関係だよ。如何にも下宿してたらしい。藤間の野郎、何考えてるか分からねえ。住み込みなら何処でも良いのかよ」
足羽は呆れてぼやく。
「済みませんが、自分のデスクに戻ります。志摩にも用事があるのですか?途中顔を合わせたら伝えておきます」
「おう、宜しく頼む」
予想通り鉢合わせたので、桜依に足羽へ顔を見せる様に伝えておいた。
稔は刑事課へ戻り、自分の机の椅子に腰を下ろした。室内には稔しか居ない。喋り相手が居ないのも好都合で、集中がし易い。
――草木の眠る丑三つ時とはよく云ったものだ。
微かに聞こえるエアコンの作動音と絞るように唸る腹の蟲が静寂を拒んでいるものの、一切音がしない状態と云うのも聊か不憫である。文字の如く、しーんと耳に張る音は逆に意識を掻き乱す。その音の正体が血管を血液が流れる音だとしたら、余計に狂おしい。心臓の音が響けば尚更だ。
稔は蛇草の名を知らなかった。警察のデータベースにその名前が引っ掛かるかと思ったが、検索出来たのは今回の捜索願だけであった。藤間操の前科を調べつつ、この失踪事件を整理し直す事にした。
午前五時を過ぎた所で、桜依がひょっこりと這入って来た。
「おはよーございます」
気怠そうに桜依は挨拶した。
「嗚呼、お早う。何処に行っていた?」
「色々やってました」
「それはお疲れさん」
「先輩、お腹減りません? 向こうの牛丼食べに行きませんか?」
「実は可成り減ってる。是非とも行こう」
稔と桜依は共に生気を感じられない足取りで、刑事課を後にした。
満腹感を与えては眠気に負けてしまう。腹八分、否腹七分に収めた稔達は刑事課へと戻った。
「如何した、ちったあ顔色が良くなったじゃねえか」
足羽が嬉しそうに云った。
「ええ、向かいの牛丼を平らげて来ました」
「良いねえ、精が付くじゃねえの」
「足羽さんは何か摂りましたか?」
「朝はいつもパンと牛乳よ」
「手軽ですね。多分牛丼と同じ値段でしょう」
「そうだなあ、最近は安くなけりゃあ牛丼じゃねえみてえだからな」
「まあ、確かに安いに越した事は無いのですけれど、牛丼だと思い込んでいた物がそうでなかった時が一番怖いです」
「偽装問題か。それも怖いが、消費期限が切れた食材を出される程怖いとは思わんか?」
「客は調理の裏が見えませんからねえ。信用するしかないのです」
「そんな事よりもだ。蛇草について分かったのか?」
「いいえ、殆ど出て来ませんでした。まあ、蛇草那岐さんと云う方が学者だったとか」
「その人は蛇草閖の曾祖母だ」
「と云うと、学者の家系ですか?」
「否、全くそうじゃねえな。蛇草那岐だけだったか。その夫は貿易商だったらしい。財はあったもんだから、敷地は広くあんな屋敷が建てられたって話だ。おまけに地主でもある。金だけは腐る程あるってえ訳よ」
「検索しても引っ掛からなかったのに、如何してそんなに詳しく」
「資料にならねえ事の方が多いからなあ」
足羽には独自の捏ねがあるようだ。人物照会にも勝るだろう。それを問い質しても答えてはくれないだろうし、譲る気も毛頭ないのだろう。そう思い、稔は情報源を訊かなかった。
「蛇草紀里はバツイチだ」
「はあ」
その点に何か疑問があるのだろうか、足羽は指摘した。
「だがなあ、職が自由業で執筆と言うんだ。如何思う?」
「フリーライターって奴じゃないのでしょうか」
「そうかもしれんが、俺が言いたいのはそうじゃねえ。臭わねえか?」
稔は答えに窮していた。
「コイツも何かくせえぞ。まあ、今は娘の閖を見付けるのが先だ。藤間操を取っ捕まえて、何もかも吐かせてやらあ」
早朝のニュースで、蛇草閖の行方不明が報じられているのを稔自身の目で確認した。先日の夕方に暴力事件に巻き込まれ、母親の捜索願でこの行方不明事件が発覚したと云う流れが明かされた。
容疑者からは身代金の要求もなく、その行方の手掛かりが未だ掴めていない事と捜索再開の旨が、現場のレポーターの口から伝えられた。
時刻が午前七時半を回った所で、森内に一報を入れ稔と桜依は聖誠院小学校へ向かった。
天気予報では積雪の可能性は低いが、逆に朝方は冷え込むと云う。事実、体感温度は先日より下がっていた。昼頃に掛けて太陽が顔を出し徐々に雪も溶けるのだ、とどのチャンネルの天気予報士が云っていた。聖誠院小学校に着くと、神蔵が出迎えていた。
「お早うございます」
三人はお互いに挨拶を交わした。手短に済ませると、寒さに耐えかねる様に校舎へと向かった。
神蔵は職員室へと迎え入れた。
稔の姿を捉えた森内はそそくさ駆け寄った。
「ああ、道祖尾くん、おはよう。捜査の進捗は如何だね?」
稔は苦虫を噛み潰した顔で答える。
第一声は神蔵にした様に挨拶から始めようと決めていた。勿論、嘘や誤魔化しも必要ないので、仮令難航していても包み隠さず報告するのが誠意である。
「お早うございます。捜査状況はニュースで報道されている通り、芳しくありません。もう捜索は再開されている頃合いでしょう」
「そうか、うむ。そうだね、確かにそうだ。私も先程流れたニュースを見ていたよ」
「森内校長は容疑者の二人に何か見覚えはありませんでしたか?」
「無いと言えば無いような、あると言えばあるような――」
「どちらなのですか、おふざけは止めて頂きたい」
「モンタージュなどはそんなものよ」
「まあ、そうかもしれませんが――」
実物写真と比べ、モンタージュは結局記憶の寄せ集めだ。しかも、その記憶の拠り所が子供の物なら確証や如何ほどになるのだろうか。他の目撃証言が無い現状を鑑みても、心許ないのは当然の事である。
「嗚呼!」
稔は突拍子もなく声を上げた。
その声に怖気づいている森内が居た。
「な、何なんだ、いきなり」
「そう云えば、GPS――ランドセルに装着しているICタグにGPSは搭載されていないのですか?」
森内は視線を右下に落として口を噤んだ。そして落ち込んだ表情で、
「付いとらんよ」
と云い、
「残念ながらね」
「そうですか」
矢張り、ICタグにはメール送信用の機能しか無いようだ。GPSで現在地を把握する事が出来ていれば――。まあ、そう簡単には行くまい。もしもそうであれば先日訪れた際に真っ先にその旨を訴えてきたであろう。そうでないのだからGPSの機能は付いていないのだ。
「今後はGPSの機能も追加してみては如何でしょう?」
「んん、検討してみよう」
稔と森内の会話を一通り聞き終えた桜依は振り向いて、神蔵に問い掛けた。
稔と森内も聞こえる様に体の向きを変えた。
「学級閉鎖にはならないんですね」
「はい、致しません。ニュースで拝見し通り魔の犯行ではないと云う事ですので、森内が平常運行と決定しました」
「でも、特にクラスメイトは授業に集中なんて出来ないでしょう?友達が行方不明なんですよ。穏やかで居られるはずありません。私なら戸惑って授業どころじゃあないですよ、確実に」
「そうですね、その様に不安に陥る生徒が大半だと考えまして、協議の末、逆に教室でその不安を共有し道徳の授業に宛てようと云う方針になりました」
「なるほど、そう云う事でしたか」
桜依は手帳に走り書きした。ボールペンを小刻みに振っていた。
「流石に全校朝会とか開かないと不味いでしょう」
桜依が指摘した。
「旨い不味いの話では御座いませんが、全生徒が登校を完了する八時二十分に予鈴が鳴りますのでその後に体育館へ移動させ、朝会を開く予定となっております」
「なるほど」
桜依と稔の声が重なった。二人の息が合う事は滅多に無い。お互いに自分の台詞を取るなと云わんばかりの表情だ。
桜依は肩越しに稔の様子を窺いつつ、襟を正した。腕時計をさっと見た。喉を鳴らして云う。
「あと二十分足らずですね。変に不安を煽るよりは事実を受け止めてもらうのが現実的でしょう。教育上どの様にそれが影響を及ぼすのかは、私には分かり兼ねますが――」
「これも道徳の一環だと私共は捉えました。影響され易い年頃ですから尚更確りと教育が必要ですし、親御さん方も望んでいる事でしょう。この事件で影を落とすような事は致しません」
「殊勝な心掛けだ。正に教育の鑑ではないでしょうか」
稔は自棄に感心した。手振りを加えて強調する。
「素晴らしい。僕が通った小学校は伸び伸びした自由な校風でした。でもそれは逆に放任主義的な面もあったので、教育の徹底など無かったようなものです」
森内が口を挟んだ。
「仰る通り、良い意味でも悪い意味でも学校教育の姿勢は変化したのだよ。女性が活躍する機会が増えると共働きとなり、学校では座学以外の教育も求められるようになった。それに伴ってか如何かは分からんが、不審者や犯行予告など子供の命にまで関わる脅威が増して行った。寧ろ、放任的で悠長に構えていられなくなったと言うべきか――」
由々しき時代でもあると付け加え、締め括った。
稔は同意し乍ら、森内の演説に耳を傾けていた。
――巷は物騒である。皆が不安の渦に呑まれている。
――社会を覆う霧が晴れない。集団催眠に掛かっている。世間は同じ方向を向き、同じ方向へ進んで行く。自らの選択を譲歩し、団体で行動する。
異端分子は排除されるのだ。
「この行方不明事件も世間を揺るがす事は間違いない」
「否、既に報道されていますから、進行形で揺るがしています」
稔は修正した。
「誰が悪い、何が悪い。何処に非難が飛ぶ? 私が悪いのか!」
森内は忙しなく云った。恐怖に怯えている。
――目に見えぬ恐怖。
其れは世間の目ではないのか。
悲鳴を上げ乍ら、回転し始めた。
正常な行動とは思えなかった。
「校長先生、落ち着いて下さい!」
両手でぐっと肩を掴み、森内を静止させた。
隣にいる稔が宥めた。
「落ち着いて。我々がいますから、その為の我々です。落ち着いて下さい」
稔に抑えられている森内は空に訴えた。その躯は尚震えている。
「下校時に大人の目が無かったのが悪いのか、そもそも治安自体が悪いのか。私に罪はあるのか――否、無いね。無い無い無い。校内で起きた事ならセキュリティーを見直さなくてはならないが、しかし校外での事に完全に対処出来るだろうか」
森内の震えはぴたりと止まった。
「ええい、放してくれい! 何時まで抑え付けている」
躯をばたつかせ、稔からの拘束を振り解く。
「神蔵先生、朝会の放送をお願いしますよ。そろそろ準備をせねば――」
森内は会話の輪から離脱した。夜通し各方面への対応に追われていたのだろう。疲労が窺える。睡眠不足は判断力を鈍らせる。すやすやと寝ていられる状態で無いにしても、矢張り睡眠は必要だ。稔は身を以って知っている。
「神蔵先生は大丈夫ですか?」
桜依が気遣った。
「ええ、何とかお蔭様で――」
神蔵は愛想良く返事をし、
「それでは放送など朝会の準備がありますので、失礼します」
軽くお辞儀をした。緩やかに、その場から離れる。
八時二十分になると、神蔵の言う通り鐘が鳴った。彼女の落ち着いた声で校内放送が流れる。
――全校生徒は速やかに礼拝堂に移動して下さい。
聖誠院には礼拝堂もあるが、隣接して公に開放している講堂がある。舞台があり、演劇なども出来よう。座席は千シート超もある。
事態の重大さを敏感に感じている全学年の生徒達は滞りなく講堂へ集まった。朝会は黙想から始まり、聖歌斉唱と朝の祈りに粛々と続いた。
蛇草閖が無事であるようにと――。
通常授業は取り止めとなった。午前中は道徳の授業に変更され、午後を待たずして閉校する事に決まった。その最中、稔の携帯電話に足羽から思いも依らぬ一報が這入り込んだ。
「はい、道祖尾です。ご苦労様です」
――おう、今何処だ?
ご苦労様の労いを否定しないのはお互いの疲弊を認めているからだ。
素直に受け入れる。手短に済ませたい。
「聖誠院小学校です」
――よし、署に戻って来い。
「何か問題でも生じましたか?」
――人体の一部が発見された。
稔は言葉に詰まった。誰の物だと嫌な予感がする。想像が逞しいのも時には厄介なのだ。
――見た目からして子供の物じゃねえよ。蛇草閖の生存は未だ可能性がある。
誘拐事件で真っ先に思い浮かぶのは身代金目的だ。最低でも人質の命を保障する手間がある。故に時間を掛ける必要はない。対象の捕獲に成功したのなら、即座に次の段階に移行すれば良い。保護者に電話でも繋げて身代金を要求しさえすれば良いのだ。
それ以外の犯行動機となると格段に趣旨が異なる。特に今回の場合は小学四年生の女子が被害者である。これは如何云う事か。詰まり、性犯罪を示唆しているのだ。犯人は幼児愛好家の可能性がある。これは予断としては充分だ。
「この行方不明事件――」
――既に殺人事件だ。
「現場の状況は如何でしょう?」
――何、昼前からお天道さんが顔出したから雪が溶け始めた。序でに、こいつもひょっこり出て来たって訳よ。
「部位は?」
――右腕だ、丸々な。肩からざっくりよ。切り口は歪なもんだから、素人だな。
「五体に切断されていると?」
――如何だろうなあ。胴体に頚が付いていれば良いんだがなあ。
最悪、頚だけがレジ袋に包まれて天神川を流れているかもしれない。
「その右腕はどちら様の物でしょうか」
――取り急ぎ調べて貰っている最中だ。それにしても、こんな田舎でバラバラ殺人たあ、全国へ報道もんだ。
「不味いですね」
――暢気に味わってる暇なんかねえぞ。俺達、デカの権威が落ちても笑えねえ。初動は行方不明だが、蓋を開ければバラバラ殺人だ。治まるどころか悪化した。俺の監督責任を問われても仕方ねえなあ。
「それは」
――頚が飛ばされるかもしれねえ。その手下のお前もお仕舞だ。
よくもまあ、さらりと言えるものだ。職を失っては如何しようもないが、今はそんな事は些末な事であった。人命が掛かっている事件を目の前にして、己の保身のみを第一に考える程落ちぶれてはいない。断じて、そうあってはならないのだ。
「僕は如何なっても構いません。絶対に蛇草閖を救い出します!」
大義親を滅す覚悟を胸に宿した。血に塗れやしない。
その決意で心の奥底から勇気が湧いてくる気がした。
――頼もしいじゃねえか。土壇場で一皮剥けたな。
足羽は電話越しに大笑した。
「幼い女の子を連れ去るなんて極悪非道。藤間が犯人だとは言い切れませんが、このホンボシは疑いようもない屑中の屑。御上は確実に許すはずありません。誰よりも僕が」
――まあ、兎に角署に戻れ。何も始められやしねえぜ。
「了解です。直ぐに戻ります」
稔は桜依を呼んで、署へ車を走らせた。
車道の雪は大方太陽の熱で溶けていた。この様子なら先日積もった雪が消えるのもそう長くは掛からないだろう。屋外の気温は天候に反して、相変わらず吐息を白く染めた。署に着くや否や、捜査本部へ這入った。案の定、足羽がお待ち兼ねであった。
「よう、粋ガエル君。待ってたぜ」
何ですか粋ガエルって、と桜依が耳打ちして来た。
稔はその問いを無視して、
「足羽さん、早速話を進めて頂いても宜しいでしょうか?」
珍しく強気である。虚勢と云っても間違いではない。盾に出来るものは精々その程度のものであった。失う物が何も無い人間など、無理にでも虚勢を張っていないとやって居られない。
「よおし、じゃあ進めるぜ?例のモンタージュの男と思しき目撃情報が複数件上がって来ている。有り難い。だがよ、引き続き靴底を擦り減らして虱潰しと言う事には変わりない。根気と時間との勝負に負けんじゃねえぞ、こらあ。よおし、耳かっぽじってよく聴きやがれ、無職内定者ども!」
背負う物など何も無かった。本当に只の意地であった。そうだとしても、目の前の事件だけは解決して、跡を濁さずこの職を辞すると心に決めた。