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皮膚を剥ぐ  作者: 永見拓也
第一章:捜索編(道祖尾稔の周辺)
2/10

01.少女は糸が切れたガラクタ人形。

 【1】


 男は地に這い(つくば)りぐったりと動かない。否、じりじりと微かに(からだ)は震えていた。握り締めた拳に込められるのは振り絞った生命力である。藁にも縋る思いであろう。その生への執着は生きる力、正にそのものであった。

 何気ない日常では生きていると云う実感が湧いて来ない。それ故に自覚する事は無かった。皮肉な事にも生命の危機に晒されたその時にこそ、変哲もない日常を愛おしく思い改めて心から感謝するのだ。

 傍らの老人は放心していた。漸く立ち上がり、足に力を込めるが入らない。千鳥足でよろよろと近寄り――、殴られた熱だろうか、如何にも躯は火照っていた。

 力んでみる――、矢張(やは)り気怠い。老人の躯は依然として重く感じられた。

 風を纏う雪はいみじく降り乱吹く。頬を打つ雪は只の熱冷ましであった。風が雪を巻き上げる音こそが世界の音であり、老人が聞こえる唯一の音だ。それ以外には何も聞こえなかった。況してや聴く気にもならなかった。

 足元にある歪な岩を徐に抱きかかえた。這い蹲る男の許までのそりと歩を進める。

 狂気に身を任せてしまえば簡単な作業になるのだろうが、老人は信者にあるまじき男の乱酒っぷりや女児嗜好を脳裏に過らせていた。そして、その岩を頭上に振り上げて、

 何度も――、

 何度も――、

 男の後頭部が陥没するまで打ち付けた。打ち付ける度に男が低い声で唸る。

 その間も風が切る音しか聞かなかった。

 老人はその唸り声を風に乗せて、敢えて聞かぬ振りをした。

 その表情は不快さに歪んでいる。

 砂利と混じり黒々とした血液が男の後頭部に滲む。老人はまじまじと残る感触に震え(なが)ら男を一瞥すると、吐き気が一気に込み上げて来た。その陥没した患部は余りに悲惨過ぎて直視出来るものではなかったのだ。堪らずに吐いてしまった。

 男は死体となった。

 骸である。

 息吹はなく、生命もない。

 微動だにせず何も云わぬ。

 それは最早物体であった。

 器の役割を終えた後は只朽ちるのみ――。

 魂は解放された。精神は漸くこの世界から離脱し、本来の在るべき場所へと帰って行くのであろう。それは喜ばしい事である。

 男の魂が赴く場所は天国であろうか、地獄であろうか。

 ――否、天国であるはずはない。

 地獄であろう。

 為らば――、

 堕ちろ!

 堕ちてしまえ!

 二度と這い上がれぬよう、深く堕ちるのだ。

 よもや魂まで吐かんとする勢いで吐き切り、老人は項垂れていた。しかし、事後処理を済ませぬ訳にも行かず、鞭を打って奮い立たせた。

 仰向けであれば、これを死体には見間違えないだろう。何せ安らかな表情をしているのだから。不思議なものである。殴られて苦痛を感じなかったのだろうか。

 目の前に生気は無い。

 抜け殻が転がっているだけだった。

 死んでいる。

 その事実を老人は重く受け止めた。

 こんなにも容易く人は死ぬ――。

 衝撃も受けていた。

 況してや男の外見を鑑みても、老人の半分の年齢くらいだろうか。

 死にゆくだけの老い()れではなく、曲がりなりにも中年に差し掛かろうとしていた男を殺めた。未来を摘み取ったのだ。

 此れは紛う事なき殺人であり、疑いようの無い罪である。議論するまでもない事だった。幼稚園児でさえそれは犯罪だと分かる。悪い事だと道徳観が訴えるからだ。

 老人は悟った。

 修行僧云々の話ではないので、その老人は修行の何をしている訳ではない。勿論僧侶でもない。悟ったと云うよりは寧ろ理解したと云う方が表現として正しいだろう。

 少女の未来の為に犠牲になろう――。

 使命を果たさんとする覚悟であった。

 この(まま)に死体を放っておく事は出来ない。ならば、隠さなくてはならぬ。

 必死であった。

 老人は男の足を掴み、思い出したかの様に辺りを不器用に見回した。人影は無い。掌に力を込める。一歩ずつ確実に引き摺って行く構えだった。

 死体と云う物はこんなにも、

 重い――。

 老人は命無き亡骸の重さを実感していた。

 一方で戸惑っていた。見られてしまう可能性も捨てきれない。装うのだ。男の腕を取り老人は担いだ。矢張り重い。この荷物は襤褸(ぼろ)襤褸(ぼろ)の老人にとってトンもの重さを感じさせた。


 【2】


 独りになれる場所を探すのは小学生の仕事ではない。考えぬ内に河川敷に足を運んでしまうのは、人目を避ける為に他ならなかった。

 一粒一粒が捉え切れない程の吹雪が視界を激しく悪化させる。海が目と鼻の先に広がる橋の上ではその猛威は顕著に現れるが、その反面河川敷に降り立ちその橋の下まで行くと、心底穏やかで身を隠す事も容易いのだ。

 如何せんそれでも寒いと云わずしてその場に止まるには、防寒着は必須であろう。幾ら子供は風の子と(はや)し立てようとも風邪を引く時には引くし、寒いと云う体感を何故我慢する必要があるのだろうか。

 そんな物憂い天候の下、一人の少女が身を隠す様に忍んでいた。その後ろ姿は装飾の無い可愛らしい雪達磨で、存在の小ささから雪に埋もれても怪訝(おか)しくはなかった。周りに人気は無い。それ故に選んだ場所なのだから。

 在るのは静寂と広がる雪景色のみで、佇んでいる少女の純白は儚くもその景色に溶け込んでいよう。

 夕暮れ時の時刻になろうとしているが、雲に覆われた空では日が暮れた事すら分からない。日中常に吹雪いていたのだから、太陽は顔を出さず仕舞いであった。しかし、意外にも明日の天候は恢復(かいふく)し、おまけに太陽まで拝められると云うのだ。雲の行く末も気儘なものである。

 恐竜が絶滅後の世界の様な太陽の暖かさも感じられないそんな世界に、彼女は遊ぶ訳でもなく只そこに居た。視界に映る世界が意識レヴェルでの世界なら、少なくとも人が近辺に居ない時点で“世界にたった一人”となるのであろう。その世界に浸りたくて、河川敷に足を運ぶ。

 少女の背後で雪が鳴った。

 (あしおと)である。踏み付ける足で雪がぐすぐすと鳴いているのだ。

 その音に反応して、咄嗟に少女は振り返った。上目遣いに眼球を巡らせ、鋭い視線で睨み付ける。近付いて来る侵入者を確実に射抜いた。

「お嬢ちゃん、やっと見付けた――」

 老人は荒げた息を整え乍ら云った。

 ひょろっとした細身の丈で、老いが滲む長髭(ながひげ)を口元に蓄えていた。垂れた眉と目尻からは柔和な印象を受ける。中々整わないその吐息と頬を伝う汗からは必死さが拭い切れない。

 何とか呼吸を整えて、

 ――父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

 唱え乍ら、右手でゆっくりと丁寧に十字を切った。

「――如何して此処に? お気に入りな場所だったりするのかい?」

「1人になれば、どこだって構わない」

 その問い掛けに答え、少女は頭を振った。

「そうかい、でも此処(ここ)は隠れる場所に丁度良いだろう。雨宿り――嗚呼、今は雪避けだがね。穴場って奴かい」

 老人はそう云って距離を詰めると、少女の横に腰を下ろした。

「ヨッコラセっと。何だね、そんな露骨に嫌な顔をせんでも良かろう。老人は嫌いかね? 私にとっては嫌われる(いわ)れは無いのだが――」

 はあと白くなる吐息を眺め、遠方に視線を送る。向こうの河川敷は吹雪で霞む様に見渡す事が出来ない。

 無我夢中で走っていると案外出ないものだが、一旦足が止まると汗は一気に吹き出して来る。躯が火照っている間はそれを心地良く感じるものの、冬が故に冷えてくると容赦無く体温は奪われてしまう。

「加齢臭かい? なるほど、確かに男性の大人にとっては実に由々しき問題ではあるが、私とて対策を怠っていない訳ではないぞ。まあしかし、それよりも今重要なのはこの冷えだがね。()いた汗が如何にも私を凍死させたいらしいよ」

 老人は少女の顔を覗き込む。

 その表情はご機嫌斜めの様で、ぷいと顔を背けられてしまった。

「アイツ、酒くさかったんだけど!」

 老人は少女が漸く喋ってくれて安心した。何よりも少女の不安を取り除いてあげないといけない。知り合いであるとは云っても、結局の所親子ではないのでそこまで親しくはなれないが、気軽に相談出来る大人でありたかった。

「そうだね、彼奴は酒臭かった。おまけにあの調子だと酩酊(めいてい)しているのだろう、悪酔いだね。迷惑な奴だ。キリスト者だと云うのに酒に溺れて――最悪にも飲むと豹変すると来た。他人に迷惑を掛けるなってね、言ってやるんだよ彼奴には」

 やれやれと老人は肩を(すく)める。

「神父様と私とで諌めるのさ。酒を飲んじゃあ駄目な事は無ねえ、しかし呑まれちゃいけねえってな。禁止までされてはいないんだ、私だって酒は飲む。でも何事にも節度ってもんが大事でねえ。彼奴はそれがなってねえ」

 老人はおお寒い寒いと云って、両肩を抱く様に二の腕を摩った。

「しかもアレだ、30になっても定職に就かずその日暮らし。収入は僅かしかなく、乏しい独身生活。しかも料理が出来ないらしく、焼きそばにソースを垂らして絡めるだけ。野菜も肉も買えないんだと。腹が膨れりゃ良いっつっても、毎日それでよくも飽きないものだ。シフトが入っていない時は神父様のお手伝いを買って出るらしく、そこだけは見上げたものよ。私も教会堂に入り浸っているが、彼奴の仕事振りには関心せざるを得ない。ああやって見せ付けられちゃあなあ」

 老人は手持無沙汰を紛らわす様に髭を摘まんで摩った。

「病院にでも行ってろ」

 少女が呟いた声を微かに拾った。危うく風で掻き消される所であった。

「お嬢ちゃん、君も大概だね。まあ、私の年齢にもなると朝から病院通いになる人も居るだろうが、あんな所に一日中居たら気が狂っちまう。死に近付くようなものよ。でも、私はこの様にして元気でね。しかも老人の朝は早いもんだから、裸で乾布摩擦など洒落込んでいる。それが日課となっているが、あれは良いぞ。儀式みてえなもんだ、ミサと同じだ」

 老人は両腕を動かして、背中を擦る動作をしてみせた。

「ミサをそんな愚鈍な行為と一緒にすんな。キリスト者が言うことじゃないし、愚直な奴程嫌いなんだけど――」

 少女はぴしゃりと早口で捲し立てた。反論は許さないと云う雰囲気が伝わって来る。

 老人は口が滑ったとばかりにばつが悪く頬を掻いたが、しかしその実、少女の遠慮の無い物言いに圧倒されていた。それでも、相も変わらず彼女の表情は暗かった。

「ねえ、もう集会所に戻るってのは如何だい? 教会堂に駆け付けて来てくれた娘――お嬢ちゃんのお友達だろう。良いねえ、友達思いだよねえ。あの頃が懐かしいぜ」

 少女は無視する様に雪で球を作り、目の前の天神川に向かって放った。雪球はぽちゃんと水面下に潜っては、押さえ付けが弱かったのだろうか半分に割れて浮かび上がって来た。

「今じゃあ、あの頃の友人らは殆どあっちに逝っちまった……」

 老人は吹雪で霞む向こう側を指差した。

「私も直に逝くのだろうよ、あちら側に。仮にこの天神川が三途の川だとしたら、今の私は渡り切れるだろうか……。船は無いから泳いでいかないとなあ。しかしこの寒さだ、水に浸かるのさえ難易度は高い。私は勢い良く飛び込んで行くだろうが、直ぐに震え上がり、泣きべそをかいて必死に戻って来る破目になるだろうね……。嗚呼情けなや、未だこの世に未練があるみたいじゃないか!」

 老人は声では笑ってみせたが、その表情は決して笑っていなかった。

 少女は無感情に淡々と云う、まるで老人の気持ちを無視するかの様に。

「逝きたければ、勝手に逝けば良い。ジジ臭い事聞かせないでくれる? それに小学生にそんな事をもらすなんてよっぽどでしょ、ご愁傷様~。言っておくけど、その三途の川には渡り方があって仏教の因果応報が決めてらしい。私たちに言わせれば――」

 老人は少女の言葉を引き継いで、

「――そうだなあ敢えて挙げるのなら、ギリシャ神話で云うテリュクスかい? 支流もあるらしいが、詳しくは知らぬよ」

「もう一つ忘れている場所がある、私たちには『煉獄(れんごく)』があるし、まあ、他は『辺獄(へんごく)』がほとんどでしょうけれど。何も信じていない奴らにはお似合いだ。さて、小父様はどこへ落ちるのでしょう」

 少女は何が面白いのだろうかクスクスと笑った。

「小父様ねえ……、怖いじゃないか。いやはや(なる)(ほど)、私はこのやり取りを通して、ある意味で目から鱗だよ、全く有り難い!」

 少女が心を開いたか如何かは定かではないが、一先ず老人は胸を撫で下ろした。

「それにしても、ご愁傷様とはちょいと手厳しいんだがなあ……」

「別に、からかって言ったつもりじゃないんだけど」

 少女はぼそぼそと呟いたので、老人の耳には届いていない。寧ろ風が消した。

「それじゃあ……、こちとら言わせて貰うがそんな口調で愛想も悪いんじゃあ、学校に居づらいじゃねえのかい?」

 老人の吐き捨てたその指摘に、少女はぐうの音も出なかった。如何やら核心を突かれて閉口しているのだろう。足をくの字に折り抱え乍ら顔を埋めた。

「嗚呼悪い、悪いかったな。大人げなかった」

 老人は謝罪を口にして視線を泳がせた。

「――否、最近色々とニュースが五月蠅(うるさ)いじゃねえかい。教師の体罰だの、生徒間同士の虐めだのと大人が堂々と物を言えない時代となったかと思えば、今度は声を掛けただけで通報しやがる。子供からの逆襲かい、全くよお!」

 世の中は生き辛くなったのかもしれない。

 一度TVを点けると、嫌なニュースばかり流れて来やがると老人は心の中で悪態を吐きつつ、そんな不快な世の中を押し込めた雪玉を捏ねて、天神川に叩き付けた。姿を現した雪球は割れずに球の形の儘であった。

「さあて、集会所に戻ろうか……お嬢ちゃん」

 老人は膝に手を突いて立ち上がる。その時、老年の所為なのか軽い立ち眩みに襲われた。気分が悪くなり耐え切れなくなって、その場にしゃがみ込んだ。

「だ、大丈夫!?」

 少女は心配して老人の背中を優しく摩ってやった。彼女の雰囲気は一瞬にして様変わりしていた。それは敢えて例えられるものなら、聖母に為り切れぬモナリザの表情であった。

 何故少女にその様な仮面が与えられたのだろうか。天はニ物を与えたとでも云うのか。事実、少女自身は自分にこの様な一面がある事など自覚する由もなかった。それ程までに目の前の事で必死になれる姿だけがあった。生意気な言葉を吐く態度からは全く考えられない姿勢であった。

 それは僅かながら彼女の隣人愛への芽生えでもあったが、仮面は所詮仮面である事を忘れてはいけない。老人の背を摩っていると、少女は橋の柱からぬうと現れる影を捉えた。

「餓鬼、見い付けたぞ!」

 叫び声が辺りに響いた。酒混じりの千鳥足で、男は少女を指差し乍ら迫って来る。

 眼が据わっている。

 これはヤバい――。

 少女は直感した。

 面倒臭い事になる。

 早く逃げなければ――。

「見付けたぞ。手間取らせやがって、餓鬼があ」

 近付いてくる。

 酔いが回っているのだろう、男の顔は赤い。

「立てますか!」

 少女は必死に呼び掛けた。

 老人は手を弱く振るばかりで声を出す事は(おろ)か、身動きすら出来ない様子であった。眉間に皺を寄せ、苦しむ表情は蒼褪めている。

 少女の目の前に立つと、男は徐に少女の長髪を鷲掴んだ。

「痛いっ!」

 少女は反射的に苦痛を訴えた。

 男は掴んだ儘、無慈悲にも少女を引き摺っていく。

「痛ッたいだろ――離せ!」

 少女は叫び続けた。

 その叫び声は男には届かない。

「嗚呼、最近の餓鬼あは調子に乗りやあってよお。躾けが必要だあなあ。先公はPTAに怯えて何も言えねえだあの、逆に餓鬼あはそこに付け込んで脅しやあってよお。良い気なもんだあなあ、おい」

 男はぼやき乍ら進んで行った。引き摺られた少女の跡が後ろに伸びる。少女は男のズボンの裾にしがみ付いて、頭部の痛みに歯を喰い縛って耐え、何とかして足掻く。

 その進路方向に天神川がある事は既に明らかにしてある。さあ、冬の冷水に浸かる凍て付く寒さはどの様なものだったろうか――。

「いやあああああぁぁぁあ!!」

「五月蠅えんだあよお、お前は。おらあ、黙れや」

 男は少女の頭を水面に押し付けた。その力の入れ様には、子供に対してであっても容赦が皆無であった。少女は息継ぎが出来ない。

 冬の寒さが神経を突き刺す。彼女の顔面は強張った。皮膚が引き裂かれんばかりに痛いのを生々しい程に感じている。

 震える躯は上手く息を吐けない。体内に居座る二酸化炭素が肺をど突いて来る。

 ――息が!

 男は少女を(なぶ)蹂躙(じゅうりん)する事を止めようとはしない。

 老人は漸く立ち眩みから恢復した。振り向き様に開けた視界では突如展開する動乱を理解出来ずに居た。頭脳の理解が追い付くと、

「この野郎、お嬢ちゃんを放しやがれ!」

 弱々しい声で呟いた。老人は力を振り絞り川岸へと駆け寄る。

 雪は一向に止む気配を感じさせなかった。辺り一面は穢れを知らないホワイトキャンバス。この騒がしさを余所(よそ)に、只管(ひたすら)地面に層を重ねてゆく。

 その自然現象が機械作業の如く、老人は酷く憎らしいと思った。彼の足は震えていた。勿論寒さの所為などでは無く、信じられなかったのだ。

 目の前の光景を、そしてその男の行為自体を――。

 足元は覚束なかった。おまけに均されていない雪道を走るのは、老人には酷である。日頃の運動不足も祟り雪に足を取られてしまう。そして、ホワイトキャンバスに人型を作る始末。

「糞! 何をしているんだ私は、糞糞!」

 その間にも男は少女を虐待し続けていると云うのに――。

 躯を起き上げると再び駆けた。

「止めんかあ!」

 老人は吠えた。天神川へと勢い良く這入り、全身全霊を持って男に体当たりを喰らわせた。

 ――如何だ!

 男は少しも動じていなかった。

「何だあジジイ、邪魔してんじゃねえよ」

 男は老人の鳩尾(みぞおち)に蹴りを入れた。

 予想だにしない衝撃が老人を襲い、蹲るしかなかった。

「引っ込んでえや、老いぼれがあ!」

 男は老人に唾を吹きかけた。

「けっ、興醒めだあ。それに勢いで川に入ったが――こりゃあ失敗だ。寒いぜ」

 男はずるずる川岸へと戻る。

 引き摺られている少女は抵抗しなかった。意識はある様だったが、顔面蒼白の状態だ。絶望感にも似た、抗っても変わらない未来を見ている様だった。

 男は川から上がると少女を地面に投げ付けた。そして、靴の甲を使って仰向けに引っくり返した。

 少女は虚ろだ――。

 眼は開いているが半目状態であり、意識の有無を判断出来ない。

 男は少女に馬乗り、事もあろう事か少女の顔面を殴り始めたのだ。

 止めろと老人は叫んだつもりが、声になっていなかった。

 少女には既に感覚など無かった。奪われたと云っても過言ではない。真冬の冷水に肌の神経は麻痺させられ、暴力により精神さえも蹂躙されていた。そして、畳み掛ける男の執拗な虐待には為す術が無かった。

 「あっひゃひゃあ、神の奴隷は俺の物。お前は俺のオモチャでしかねえんだよ!」

 男は半狂乱にけたたましく叫んだ。

「もう、や――止めなさい」

 老人は男の腕を掴んで凄んだ。しかし、その手に力は込められていなかった。

 出来るはずもなかった。彼は既に体力の限界なのだ。

「放せよ」

 男は老人を睨んだ。凄む。

 老人も引くまい。

 目下の少女からは生気が感じられなかった。

「放しはしない。お前はやり過ぎた。警察を呼ぶぞ」

 脅しだ。出来れば穏便に済ませたい。老人はそう思っていた。

 それでは解決しない事も明白であった。

「ポリ公だあ?したけりゃ、すりゃあ良いだろ。だあら放っとけえ」

 男はお構いなしに腕を振り下ろそうとしたが、老人の腕はピクリとも動じなかった。それは老人の願いだろうか、火事場の糞力だろうか。

「ちゃっ、うぜえなあ」

 男は逆の拳で老人を殴った。老人の頬に入り、掴まれていた男の腕は放された。捻った胴を戻し拳を振り上げた瞬間、男の顔は酷く歪む。苦悶の表情を浮かべ斜め横に倒れた。

 少女は(おぼろ)げな視界を頼りに、現状を把握しようとした。目の前には老人が幽霊を見たかの様な形相で棒立ちとなり、その両腕には重量感のある岩が抱えられている。

 低く唸る声のする方へ力無き(くび)を傾げた。

 生へとしがみ付く男は地に這い蹲り、身を(よじ)り宛てもなく離れて行く。荒い息遣いが聞こえて来る。

 老人も同様の息遣いで、仁王立ちしていた。乱れた呼吸とは裏腹に、腹を括ったその決意を胸に秘め重く一歩を踏み出した。少女を(また)いで――。

 少女は無気力に放心している。何が悪いと云う原因を追及する事は最早野暮であろう。少女の視界には一点の曇り無く、只管に降り落ちる雪を映し出していた。頬を撫でる雪は冷たく、火照った頬を鎮めるようで心地良い。思考すら儘ならないこの状態が何処までも続けばいい――と、そう思えたら酷く肩が軽くなるのを感じた。

 誰が見ても被害者に違いなかった。

 少女は糸が切れたガラクタの操り人形である。

 ――嗚呼、私の何がいけなかったのでしょうか。

 躯は動かなかった。指先でさえ動かせる気がしない。

 ――私は雪になりたい。何も考えず只降り落ちるだけの存在で居たい。

 ――白く、どこまでも一途に純真無垢で、

 ――時には今の私が癒されているように誰かを癒すことが出来るのなら、

 ――私も共に溶けよう、無事に春が迎えられるように。

 こんな願いは聞き届けられなくても良い。只降り積もる様に自然で在りたかった。一体化して居たかった。顔に積もる雪が慰めてくれる。それは人間には出来ない所業だった。

 ――喋らない、笑わない、気を使わない。

 この時ばかりはその事を知りつつ、弱った少女に寄り添っているように感じられた。それは都合の良い考えかもしれない。そう考える事で自分を慰め、雪が慰めてくれていると錯覚させてくれたから。

 ――それで良い。

 この慰めを感じている間は少なくとも躯を動かせる気がしなかった。少女は目を開けている事さえ辛くなり、眠る様に目を閉じた。


 【3】


 虫の報せとは、得てしてその時に感じた何気ない不安に依るものであり、思い返してみればあの時のがそうかと合点が行く後付けの名称でしか無いのである。嫌な感じや()しやと云う根拠無き思考の過りなのだ。それは勘と云えよう。

 信じられなかったらしい。

 息子である(しょう)は父親にそう漏らした。電話越しに先日橋の下で起こったあの惨劇を。父親の名前を足羽健一と云った。

 電話が掛かって来たのは健一が手を放せないその時であった。故に翔は留守番電話に伝言を託した。

 気が付いたら、早く折り返して欲しい。殺人事件なんだ――。

 この時、実は百十番の方が良かったのかもしれぬ。事実そうであろうし、そうすべきであったのだが、そうしなかったのは何よりも父親への尊敬に他ならなかった。

 翔は健一が警察官だと云う事を尊敬し誇りに思っている。子供が親を誇りに思える事程、素晴らしい事は無い。子は親の背を見て育つと云うが、正にその通りで翔は正義感の強い少年に育っていた。

 健一もその成長を見守っていた。彼の職業柄、親子の時間が十分に取れていない事も事実であるのだが、翔は不貞腐(ふてくさ)れず健一の背を見ていたのだ。

 今回ばかりは好奇心が猫を殺した。

 健一は携帯電話のランプが点滅しているのに気付いた直後に、折り返し電話を掛けた。

 テレフォンコールが一回、二回と鳴り、翔に繋がる。

 ――父さん!

「翔、時間が空いて済まなんだ。殺人事件だと言ったなあ?」

 唾を飲み込む様な間が空いた。

「見たのか」

 ――見た。あ、あれは。

「おい、大丈夫なのか、確りしろ。兎に角、落ち着いて深呼吸だ」

 ――父さん。

「良し、良い子だ。じゃあ出来る限りに詳細に、見た事そのまんまを聞かせてくれ」

 ――そのつもりだよ。

 翔は語り始めた。


 ※※※


 ――その日は倶楽部活動がある日だった。

 その帰り道、土手を渡る橋に差し掛かると吹雪いていた。

 海に近い土手で風が強かった。

 傘を差していたが根こそぎ()し折られそうだったので、堪らず閉じたんだそうな。

 矢張(やは)り打ち付ける雪で視界は悪かったらしい。

 そんな吹雪の中、微かな悲鳴を耳の端で捉えた。

 錯覚だろうかと気になった。(いや)に気になって来た。抑えられなかった。

 好奇心が翔を殺すのだ。

 橋を渡ると土手へと降りる階段がある。その位置からは橋の下が覘ける。

 悲鳴が上がった所――のはずだ。

 脳では思考にもならない情報が渦巻いていた。

 端まで走った。渡り切った直後、勢い良く直角に右折した。

 踏ん張った足元の雪は足跡を歪ませた。

 そこが手っ取り早く土手を一望出来る位置だ。

 荒く息を吐き乍ら呼吸を整えつつ、そこから橋の下を見下ろした。

 人影は――無い。

 如何して?

 若しやあの柱の裏か!

 あの柱とは橋の支柱である。横長な為に奥が見えないのだ。

 回り込む必要がある。直感的にそう思った。

 好奇心が刺激しているに違いない。

 ワクワクしていた。鼓動が高鳴る。興奮しているのだ。

 さあ如何しよう――最早坂を転がるおむすびを追うが如く、止まらぬ足先よ。滑りそうになりつつ、前のめりの体勢は崩せない。そうと云っても段差に足を取られる事は避けねばなるまい。慎重になる。

 悠長は許されない。

 気持ちだけが先走る。(からだ)が追い付かない。

 雪で覆われた段差を確認し乍ら、目下の階段を下った。

 整え様としても、息は荒れた。

 (やま)しい事をしているはずがないのに、後ろを振り向いて人気を確認する。

 翔は独りだった。何故か安心した。その真意は彼自身にも掴めなかった。

 足取りは音を立てない様に足早に。興奮した鼓動が攻め立てる。

 如何にか辿り着いた。

 雪で思わぬ様に走れなかった所為なのか、心臓は爆発寸前だった。

 呼吸が乱れているのは興奮しているからなのだと認める他なかった。

 翔は只感じる儘に居た。

 この支柱の裏側に何か待っているのか。

 深呼吸――、

 深呼吸――、

 深呼吸――。

 唾を飲んだ。喉が痛むのを感じ乍ら、

 ――覗いた。そろり。

 息は殺していた。

 視線の先には――。

 こんなにも寒いと云うのに、川に這入っている人を捉えた。

 何をしているのか確認したら、一人ではなかった。

 老人、青年、子供だ。

 子供に関しては多分同じくらいの学年の女の子だと思った。

 髪が長かったから女の子だと思った。

 閖ちゃん――?

 あゝ、あれは閖ちゃんに違いない。

 校内であんなに長い髪を持った女子は数人しか居ないから――幼馴染みだったから。見間違えるはずがなかった。最近は遊ぶ機会が無くなったけど。

 見た通りなのに、その眼が信じられなかった。

 川に這入っている男はその女の子の髪を掴んで引き摺り回していた。

 躯が震えて云う事を聞いて呉れない。

 正義が彷徨(さまよ)っている。

 この吹雪の中の幻想だと思いたかった。

 映画の撮影だと云って欲しかった。

 川の淵には老人がいる。ふらりと立ち上がると、その老人も川へと這入り先の男と揉み合いになった。老人はその場で動かなくなり、先の男が川から出た。

 男は女の子を投げ飛ばし、馬乗りなって殴り始めた。

 その行為に気が付いた老人も岸へ上がり、男を止めに掛かった。

 何故だ?

 男が急に動かなくなった。

 老人の動作はぎこちなかった。

 男を担いだ際に、辺りを窺った。その表情は必死そのものだった。

 翔は見付かったら不味(まず)いと、顔を引っ込めた。

 唸り声が聞こえて来た。

 老人のものだろうか、青年のものだろうか、区別が付かない。

 引き摺る音も同時に耳に這入った。

 右手にある草むらへと連れて行かれるのだろう。見えないからよく分からない。

 翔は必死にその場から立ち去った。

 一目散に。

 足を踏み出した時には、後ろで女の子がピクリともせず倒れている事など霧散した。

 兎に角、此処(ここ)から離れなければと云う思いが脳内を駆け巡っていた。

 ――駆けあぐねていた。


 ※※※


 翔の声は震えている。

 ――ぼ、僕は、僕は。

「分かった、よく説明してくれた。偉いぞ」

 ――僕以外に見ている人は居ない、かもしれない。

「心配するな、後は任せろ。今は家か?」

 ――未だ外。

「じゃあ早く帰りなさい、気を付けてな」

 翔の返事を聞き、健一は電話を切った。そして間髪入れずに、

 ――お疲れ様です、足羽さん。

 繋がった。部下の()(いの)()(みのる)だ。

「おう、お疲れさん。今何処だ?」

 ――署です、一応報告書を書いてます。

「そうか。たった今暴力事件のタレこみがあった。現場を回って欲しいんだが、行けるか?」

 仮令息子の証言だとしても、確証が無かった。無下に殺人などとは云えなかったのだった。

 ――はい勿論、行けます。丁度暇だったんでぶっ飛ばして行ってきます。

「雪降ってんだから安全運転な。あと口が軽いからって暇とか言ってんじゃあねえよ」

 ――否、暇なのは事実なんですが。まあ、現場が雪で隠されている可能性大ですかね。

「嗚呼そうだな。兎に角頼んだ、報告もくれよ」

 ――分かりました、署には戻りますか?

「悪いが、戻れそうにない。今は手が空かんし、頼むぞ」

 ――一寸(ちょっと)待って下さい。少しは状況を説明して下さいよ。雪が邪魔して分からないかもしれませんし、証拠品が隠れてしまっているかもしれません。規模も未だおっしゃっていませんし、現場だけ見て来いと云うのも闇を掴むようでやり様がありません。

「泣き言言ってんじゃあねえ。まあ、現場見ろだけだなんて雑な事もないわなあ。よし、耳穿ってよく聞けや――男が二人乱闘して、少女一人が巻き込まれた模様である」

 ――それだけですか?

「それだけだ」

 ――雑過ぎますよ、もう一寸ねえ。

「宜しく頼む」


 ※※※


 通話は途切れた。

 丸投げである。

 稔は呆れた。

「はああぁ」

 稔は溜息を深く吐いた。

 兎に角、現場に赴かなければ何も分かるまい。

 深呼吸。

 溜まった空気を歯の隙間から音を立てて押し出す。

 腹が凹むのを意識して。

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