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皮膚を剥ぐ  作者: 永見拓也
序章:依頼編(蛇草閖の動機)
1/10

01.骸骨を抱く女は妖女。

 お詫び:この世界は僕が創った物ではないのだけれど、この物語は僕が伝えようとしている物なので、誰かに伝わらないのは彼らの所為ではなく、他ならない僕の所為です。ボアがゾウを消化している絵は帽子に見える様に、本当に伝えたい事が僕の文章では伝え切れないのかもしれません。それでも、どうかナイフで皮膚を引き裂かないで下さい。真っ赤な液体が溢れ、痛覚が叫び声を上げるだけです。僕が伝えたい事はそんな事ではありません。彼らも生きています。確かに分かり合う事は難しいのかもしれませんが、僕はその機会を少しでも多く作れる存在になりたいです。

 蝉の鳴き声は五月蠅い程にその存在を主張していた。短い一生を全うしようと全身全霊で体現している最も身近な実例である。

 体感温度四十度を越さんばかりの猛暑を感じる。そう云えば、先日の気温は今月の最高気温を更新したとTVニュースで態々と報道していた。その原因はフェーン現象が如何だかこうだかと云っていたか。余計な事だが、本日の気温も覚悟が必要だと警告を鳴らしていた。

 そんな夏の陽気を余所に、道路の壁が作る影を頼りに何処かへと進んでいく女が居た。その女に目を向けて先ず目を見張るのは、黒い日傘の元から覗く透き通る項だ。すっきりとした首筋に風が良く滑る。そして、群青と純白色を基調としたシフォンのワンピースが何とも清々しいではないか。軽く涼し気な印象を受けるその出で立ちはある意味で夏服とでも云えよう。

 とある一角で、女は空き室が目立つ赤煉瓦のビルを見上げた。四階建てである。その三階の窓には“足羽探偵社”と達筆に習字書きされた看板が窺える。このビルを利用している唯一のテナントだと見受けられた。


 女はその場所を認め、右脇の階段から登って行く。

 三階出入口のガラス扉を押し開けると、涼しい風が漏れ出して来た。それと同時に呼び鈴がちりんと響く。屋外は尋常でない灼熱地獄。冷房が利いていると云うのが誠に有り難い事である。

「んん、快適快適――」

 女の着ている夏服は余程風通しが良いのだろう。

「否、一寸肌寒いか?」

 考え直してみる。

 項の次に特徴的なのは彼女のこの声だ。天性のハスキーヴォイスは彼女の個性をより刺激的且つ魅惑的に仕立て上げている。

 女は愚痴を云い乍ら、奥へと進んだ。

「おはよう、閖ちゃん」

 青年よりも年上で中年には未だ至らない年齢――三十前半に見えるその声の主は頚だけ捻り、閖の姿をちらりと見た。机を掃除し乍ら、背中を向けているのを直さずそのまま作業を進めている。

「おはようございます、殺さん。今日も猛暑ですよ、猛暑!」

「そうなんだよ、事務所に来るだけでも結構汗掻いたでしょう。さあ、座って座って」

 “さいさん”と呼ばれた男は閖にソファーを勧める。

 閖はふうと一息吐いて腰を下ろした。殺さんに視線を送る。

 殺さんは冷蔵庫を開けて何かを取り出した。顔を上げて、こちらに向く。

 冷蔵庫の扉を閉めた逆手にはペットボトルが握られていた。

「アイスコーヒーで良いよね。シロップ要る?」

「否、ブラックで」

「嗚呼、そうだったね」

「ちょっと真逆それ」

 閖は殺さんの持つボトルを指さして、

「この前の無駄に苦くて不味い奴じゃないでしょうね!」

 突っ掛った。

 いええ、違いますよと殺さんは無表情で答えた。

「好い加減にラベルを千切るのは止めて下さい――あゝ、麺汁」

「それは確実にナンセンス!」

 殺さんは表情を変えて見栄を切る。

「如何して?」

 業とらしくふてぶてしく笑い、殺さんは右手を掲げた。

「これが証拠です!」

 何を持っていたかと云うと、ボトルキャップである。

「何か書いてある――?」

 閖は目を細めて注視した。

 “コ”と書かれている事が分かった。

「コ、何?」

「何かと云えば」

 素直にその意味を明かさないその態度に、閖は苛立ちを覚えた。

 反射的に舌打ちを繰り出した。

「舌打ち!? 閖ちゃん、怒らないで」

 殺さんはどうどうと宥めて、コと云えば珈琲だと断言した。

「それ、ダウト! ダウトったらダウト。“コーラ”かもしれでしょ」

「嗚呼、その手があったか」

 視線を泳がした。

 それじゃあ振ってみようか、と殺さんは試す様に提案した。軽く仕草を取る。

「泡立った珈琲なんて飲みたくない!」

 閖は不満を漏らし乍らも、

「はあ、もう良いです。妥協しますよ、早急にお願いします」

 眉間に掌を当てた。

 ――はあ、頭が痛いわ。

 今のやり取りを消去する様に、殺さんは頭を右に一回左に一回と傾けた。

 視線を逸らして、閖は机の上に置かれていたTV用のリモコンを手にした。

「ここの冷房は利き過ぎじゃないんです、逆に寒いんですけど?」

 朝のニュース番組を放送しているTVから、閖は目を逸らさい。

「嗚呼、ごめんね。じゃあ少しだけ上げよう」

 ピッ、ピッ、ピッと音が鳴るのを聞いた。ボタンを三回押した事は確実である。設定温度を三℃上げたに違いない。

「三℃上げておいたよ」

「何度だったんですか、設定温度は」

「んん、二十三℃だった」

 その発言を閖は信じられなかった。立ち上がって振り向く。

「低過ぎ。それでも二十六℃ですから、あと二℃は上げて下さい!」

「我が儘だ」

「否否、ニュース観ましょうよ。ウンザリする程言ってますよ、猛暑猛暑って――それに、その気温差で夏バテになるんですから!」

TV画面を、後ろ手を伸ばして指差した。

「ほほう」

 殺さんは閖の肩越しに覗いた。そしてペットボトルを冷蔵庫に仕舞い、“珈琲だろう飲み物”が入ったグラスを握り調理場を離れ、閖の待つ机にそのグラスをすっと差し出した。

 駅で人身事故が起こったと云う報道を耳に入れつつ、閖はグラスに目線を落とした。

「さあ、ご賞味あれ」

 ふんと鼻で笑う。


 憎らし気にグラスを睨み、右手でがっと掴み上げ、ぐいっと一口目を喉に通した。グラスに口を付けたその瞬間に確信していたが、後戻りは出来ないとばかりに其の儘二口目、三口目と――ごくっ、ごくっと喉を鳴らし、遂には飲み干してしまった。あゝと声を上げ、机に叩き付ける様にグラスを置く。

 その飲みっぷりをまじまじと殺さんは見詰めていた、笑みさえ浮かべ乍ら。

「何コレ、うぎぇえ、炭酸抜きコーラだ。甘い甘い甘あぁい!」

 閖は脱力して座り、ソファに凭れた。そして、二人の呵々大笑が響く。先に笑い出したのは殺さんの方であるが、閖も負けじと笑い声を張り上げた。何が可笑しい訳では無いだろう。これはその場の誤魔化しに他ならない。

「全く面白くないですし……うっぷ……私の勝ちです。殺さん、今後は絶対にラベルを剥さない事、容器を移し替えない事、良いですね!」

 云うべき事をはっきりと云う。念を押した。

 殺さんは反省している様だった。そうであればこれ以上は何も云うまいと、閖は話題を変えようと決めた。その前に冷えを感じたので、兎に角上乗せ二℃上げる様に言い放った。

「桜依さんはどちらに?」

「買い出しに」

「未だパシリに遣ってるんですか?幾ら後輩だからだと言っても、行き過ぎるとパワハラですから」

「僕は圧力が嫌いで御座候」

「はぐらかさないで下さい」

「まあ、その内帰ってきますよ」

「秘密なんですか?」

「違うよ、只の飲み物とお菓子の補充だね。閖ちゃんもタイミングが悪い、お菓子が無い時に来るから、出せない」

「兎に角最低ラベルだけは剥さないで下さいね、くれぐれも」

「はい、あひ」

 殺さんは冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いだ。

 閖の表情は鬼に変貌する。

 相手は蛙だ。躯はピクリとも動けなくなったが、口だけは達者である。

「僕も喉乾いたんだ。コーラじゃ潤わないでしょ」

「ほら、お姉さんが気温の事を言ってます。よく聴いて下さい」

 殺さんはTV画面に視線を移した。

 天気予報で先日の気温と大差ないでしょう、とお天気お姉さんが注意を呼び掛けていた。水分を十分に補給し熱中症に気を付けましょう、とそのコーナーを閉めるのは最早夏の常套句である。耳には既に胼胝が出来ていた。


 出入り口の方でチリンと鈴が鳴り、志摩桜依が買い物袋を手下げて這入って来た。

 閖は反射的に振り返った。

 桜依はパンツタイプのスーツを着ていた。髪型はショートで、中性的な顔付きが印象的。長く伸びた脚から繰り出されるフットワークは軽快で快活だ。

「あっ、おはよう!」

「おはようございます、桜依さん。暑くなかったですか?」

 閖はソファから腰を持ち上げて駆け寄った。

「焦熱地獄から舞い戻って来たぜ。蒸発して消えちゃうんじゃないかってくらいに、外は別世界よ」

 両手の買い物袋を握ったまま頭上に掲げて、その程度を表現してみせた。手を振り上げる時に背伸びをした所為ではないが、こうして並ぶと桜依の方が五センチ位高い事が分かる。

「はは、何でそんなに朝からテンションが高いんです?」

「えっ、いけない事?」

「何かあったんですか?」

「別に?」

 誤魔化す桜依に対して、閖は脇をこちょこちょと擽った。堪え切れずにげらげらと笑う桜依――尚擽り続ける閖。そして、二人でさえ姦しいその光景をあっけらかんとして見ている殺さん。

 諄い閖に桜依は買い物袋を振り回して応戦するも、手が滑り中身をぶちまけて殺さんに降り掛けてしまう。菓子の山である。一瞬にしてその場は凍て付いた。

「ご、御免なさい。先輩」

 謝ったのは勿論桜依であり、誤魔化しに作った笑顔は痙攣して見るに堪えない。殺さんは彼女の先輩でもあるのだ。

 好い加減にしろと、殺さんが一喝した事は想像に難くないだろう。彼女たちを正座させ、凄み乍らも叱った。

 二人はあからさまにしょんぼりと項垂れている。聞き分けが良い様に見えるのは嵐をやり過ごす為の対策だからである。

 殺さんは体の良い母親代わりでもあり、弁えない大人への教育係りなのだ。決して他人を指導出来る程優れた人材ではないかもしれないが、彼女らのブレーキにならざるを得ないのだろう。その年齢は事実年上であるし、揃いも揃って甘えん坊気質な二人に祟られているのである。

「――自制を心掛けるように」

「それはそうと」

 懲りずに軽口を叩く閖に、殺さんはピクリと反応した。

「もう直ぐで来ると思いますので、準備をお願いします」

「誰が?」

 もう厄介事は御免だと云わんばかりに、殺さんの表情は苦痛を訴えている。

「依頼主です」

 如何しても相談に乗って欲しい事があるようです、と閖は続けた。

 其れならば仕方あるまいと閉口し、殺さんは奥へと消えた。

 桜依は散らかした菓子袋やペットボトルを諸所に仕舞った。

 閖は冷え性も相まって悪寒が奔った。あゝ、風邪でもひいたのかしらと訝ったが、些末な事よとさらりと気にも留めなかった。虫の知らせとはその時点では得てして不確実な不安なのである。


 暫くすると、黒と赤を基調とした絢爛な和服を纏った女性が来訪した。どうぞこちらへ――と、殺さんは誘導した。

 和服の雰囲気が邪魔してよく見ないと分からないが、彼女は若い。下手すると閖と同い年ではないだろうか。閖が幼稚だと知っているからこそ見落とす点であった。

「初めまして、どうも足羽と云う者だ。この探偵社の主をやっている」

 中年の男は机越しに名刺を女に手渡した。どうぞお掛け下さい、と着席を勧める。

「この度はこの様な機会を頂き、誠に有り難く存じ上げます。奥村椛と申します」

 奥村椛と自己紹介した女は慇懃な挨拶をした。

「何を言ってんだ。依頼有っての成り立つ職だよ。そんなに畏まらなくても結構だ。早速その相談とやらを聞かせてくれねえか」

 椛は語らなければならない。唇を噛んだ。躊躇っているのか中々口に出さない。

「如何してえ?」

 足羽は促した。閖と他二人は固唾を呑んで、女が語るその時を待っている。

 何を思い止まる事があろうか。その為に此処へ来たのではないのか。それならば、疾うに腹を据えて然るべきである。

「はい」

 椛は一呼吸して、

「――私はもしかしたら途轍もない過ちを犯して来たのやもしれません」

 静かに喋り出した。そして、提包みから何やら取り出して机にごろんと置いた。

 それは、骨――か?

 土が所々に付いている。

 ――随分と古臭せえなあ。

 椛の目線の先は骨に非ず。情報を整理しているのか、過去を思い起こす様に目を細めて望洋としている。

「言い訳をしていました。何かに憑りつかれていたのやも知れません。それは私の秘め事であり、誰にも打ち明けられる事では御座いませんでした」

 足羽は表情を引き締めて、

「一寸待ちな。念を押しておくが、此処は精神科じゃあない。況してや懺悔室でもねえぞ。その点は認識して貰わんと困る」

 左肘を突き、身を乗り出して凄んだ。

「勿論、承知致しております」

「前置きは済んだ。でだ、その骨みてえなもんは如何したんだ?」

「私が殺てきた人々の、肋骨です」

 これは椛が明かす過去であり、罪でもある。しかし、それは彼女自身がそう語っているに過ぎず、確証や証拠の類いは現時点では皆無なのだ。

 この奥村椛と云う人物は行き成り何を言い出すのだろうか。突拍子もないが、殺したと云う事は勿論殺人であり、それは犯罪である。無論、同時に自分は犯罪者なのだと告白しているのだ。彼女は矢張り本当に此処は懺悔室か何かだと勘違いしているのだろうと、足羽はその様な思案を巡らせて居た。

 椛は少なくともそう思っているに違いない。

「調べて頂きました、それは私のものではありませんでした。医学的にも私の体内の肋骨は一本も欠けていないとの事です。私は自分の物ではないと確証を得たのです。そうでしたら、その肋骨は何なのか何処から入手したのか何故所持する必要があるのかと、私は瞬時に答えを出す事は出来ませんでした。正にそれは困惑でした」

 椛は心中全てを吐露するつもりなのだろうか、饒舌になって行く。

「そして、いつまでも悶々と悩む訳にも行きませんので、私はこの様に蹴りを付けに参りました。この肋は抜き取った物なのだと」

「抜き取った……何処から?」

「胸から」

「何の?」

「人の」

「馬鹿な!」

 足羽は呆れた。そんな訳ないだろうと思った。如何してその結論に至るのか皆目検討も付かなかったのだ。

 椛は語気を荒げて云う。

「如何して有り得ない事だと切り捨てるのです! 可能性としては十分に有り得ましょう」

「どっかの動物のかもしれねえじゃねえか。それに人のだと固執する理由がない」

 確かにその通りである。本当に人を殺していようものなら、警察が動いていよう。警察も馬鹿ではないはずだ。

 それに人が居なくなれば、必ず誰かが気が付くだろうし訝しむ。そして通報しない可能性が無いなどと誰が考えようか。この点が抜けている。反論としては有効のはずだ。

「まあ、一応こっちでも調べさせては貰うが」

 足羽は渋い表情を浮かべた。まさか骨が出て来るとは思いも依らなかったのだろう。

 考えてもみよ。本当に人骨であろうか――その可能性は無い訳では無い。それと同時に動物の骨である可能性も十分に有り得る。仮にその骨が人骨であると云う予断は許そう。しかし、早合点しては愚の骨頂である。飽くまで予断でしかない。それを念頭に置かずして事は何処へも進まぬであろう。

「この骨は必ず人のものです。何故なら私には殺人衝動があります。夜な夜な吐き気を催す程に叩き起こされる事すらあります。人を殺すと云う行為をまるでついさっき犯して来たかのような感覚に苛まれることすらあるのです。殺人を犯したに違いありません」

 ――夢遊病か。足羽は思案を巡らせた。

 狂気は確実に潜んでいる。それ自体が意志を持っているかの様に、心の奥底に眠っていた。何時か目覚めるその時の為に。

 酷く醜いものである。

 其れはトラウマと云うのではないだろうか。直視出来る強い人間ならば問題は無かったはずだ。目を背けたとしても誰が責められようか。

「殺人の証拠がその肋だってえのか」

「その通りです。少なくとも私にはそう思えてなりません」

「成程な、お前さんの言い分は能く分かった」

 椛はそうですかと云い嬉々としている様子が見て取れる。

「しかしなあ、もしその殺人衝動を取り除いて欲しいって依頼なら場違いじゃねえか。俺にはそんな知識は持ち合わせてねえし、そんな依頼も受け付けてねえ。まあ、その伝手が居ねえこともねえが――」

 足羽は頭を垂れて悶える様に抱えた。悩んでいるのだろう。そして右手の人差し指で机を小突きだした。

 その様子を閖たちは見詰めている。彼らの心境を表わす様にその表情は気難しく歪んでいた。

 椛は閖の一つ上の“姉”であった。況や今回の依頼者でもある。彼女には真面に相談出来る家族が居なかった。両親さえ既に亡くなってしまったと閖に語っていた。悩み事が特殊なだけに気軽に打ち明けられる事でもなかったのだろう。

 久し振りに顔を合わせた椛からは口調や佇まいと共に昔の面影が払拭されていたと云っても良い。生まれ変わったと云う表現は過剰ではあろうが、否定はし兼ねる。昔の振る舞いは何かと愛想も面倒見も良い“姉”であった。閖が不慮の事故で入院した際はいち早くも駆け付け、愚痴を零しては弄くり倒した。結局の所その身を案じていたのだった。

 交友が急に途絶えてしまったのは中等学校に上がってからだと云う。最近になり漸く面接の機会を得た閖だったが、見るからに疲れ切った椛の表情に驚きを隠せなかったらしい。事情を簡単に聞くと悪夢や殺人衝動だの尋常でない単語が飛び出て来るものだから、如何にも自分の手には余る。足羽と引き合わせてみる事にしたのだった。

「悪い、取り乱しちまったまあ」

 足羽は伏せていた面を上げた。眉間には深い皺が刻まれている。一息吐いてから云う。

「で、何だ。未だ依頼を訊いてなかったなあ」

 足羽が黙っていた間、椛は窓から見える遠くの景色を眺めていた。山が見える。緑を瞳に映して只々受け入れていた。

「それでは改めまして」

 静かに口にする。

「私は記憶喪失なのです」

「記憶喪失だと?」

「はい、その通りで御座います」

「話が見えねえな」

「私は過去を悪魔に喰われた女なのです」

 椛は宣言する様に言い放った。

 その発言を聞いた聴衆は一斉に眉を顰めた。悪魔と云う単語に反応したのではない。その女のさも疑いも無い態度に事の異様さを感じ取ったのだ。

「増々以て分からねえ。殺人衝動の次は何だ――悪魔だと、そして記憶喪失と来やがる。嗚呼、殺人衝動に悪魔、記憶喪失……何だかなあ、現代に相応しくない表現で言うなれば魔女って奴かい」

 足羽は自分で云って笑えた。馬鹿馬鹿しい。科学が存分に発達した現代にその様な話があるはずがない。

 目の前の女の貌を見よ。確り見開いて視線を逸らすな。

 その長い睫には憂いが帯びていた。その儚げな視線が何ともいじらしく艶美である。

 閖には閖だけの魅力が、桜依には桜依だけの魅力が勿論兼ね備わっている。椛の魅力と云えば此れであると指示し得るものではない。故に為人であり身に纏う雰囲気がそれである。部外者から見れば、それは悪魔的魅惑に憑り付かれる思いであろう。将に呑まれると云う表現だ。

 淫靡であり淫奔な様は女の性から滲み出たもの。和服の所為ではなく、況してや豊満な胸部の膨らみの所為でもない。椛自身が纏う神秘的なそれに他ならない。彼女の息遣いや間の取り方、喋り方にしろ視線のやり場にしろ、その動作が絶妙に噛み合わさる事で奏でられる一種の音が彼女の魅力の正体である。

 何度でも云おう。

 悔しい程に悪魔的である。七つの大罪を司る悪魔達が彼のマグダラのマリアが孕んでいた罪であるのならば、宛ら現代の女性に内包されていても怪訝おかしくはなかろう。キリストに蹴散らされる悪魔は得てして何回も人に憑り付いては、その度にキリストに追い払われたのだから。


 足羽は椛の持ち出した依頼に相当頭を抱えている様子だ。悪魔祓いで済む事なのだろうか、将又精神科医を紹介した方が賢い選択なのではなかろうか、などと足羽には他力本願の知恵しか湧いて来なかった。

 閖はそれを本意としない。椛は親友であり、数少ない大切な“家族”である。

 記憶喪失の原因を探り、蝕む悪夢から解放させる。重荷は背負わず下ろすべきもの。身に余る物は徐々にその身を押し潰してしまう。

 これ以上は見て居られなかった――。

 閖自身の問題も解決していないのだが、椛の件を優先すべきと踏んだのだ。

 不幸や幸の度合いは他人と比較してこそ、その物差しは尺度を得る。椛が置かれている事態は苦の渦中にあり、自己で済む問題ではない。不幸と云えば簡単に言い表せるものの、それは他人の評価である。自覚無しには助けを乞えない。声を上げる事が証明なのだ。事実、椛は救済を求め願っている。

 閖はその手を差し伸べる。見捨てる事など出来るはずはなかった。

 良きサマリア人とは誰だ。隣人愛とは何だ。キリストが教義や儀式に縛られず、その先の真意を只管に見詰めたのは何故だったのか。その答えは人の心にある。掬い上げて呑み込み、そして行動で示す。

 もう椛の歪んだ貌は見たくない――。偽りの無い本心であった。突き動かされたその心は正に衝動である。

 困惑が拭えない足羽の表情を窺い、閖は自身の意見を口にする。

「足羽さん、この依頼を引き受けて下さい。少なくともこの探偵社で請け負うと云う形にして欲しいんです。宜しくお願いします」

 深々と頭を下げた。飽くまでも丁寧に、その場を治める様に。

 足羽は下げられた頭の深さに負けず劣らずの溜めに溜めた息を漏らした。

「良いだろう、先ずは一旦引き受ける事でこの場はお開きにするぜ。それから如何動くかは改めて考える」

 唯諾の返答を述べた足羽は左手の親指人差し指中指の三本で蟀谷を揉み込んだ。唸る。問題は山積みとなるだろう。

 閖は一層に身が引き締まる思いであった。此処には桜依が居るし、殺さんも居る。共に力になってくれるはずである。何故なら子供の頃に起こった誘拐事件を解決し、その上救ってくれたのだから。

 閖は過去を懐かしんでいた。淡い記憶である。過去は美化され正確性を欠くが、自分の存在を認められる連続した記憶であれば、美化される事など然したる問題ではないのだ。

 要は現在此処に居られる心の支えになれば充分だと云えよう。その連続性を欠く精神の揺らぎとなれば相当に不安なはずだ。記憶喪失であるのなら、再び獲得し直せば良いのではと云う思案は愚直であろうか。

 分からない。それが本音であり、口には出せぬ事だった。

 思慮深くなる必要がある。考え抜けば自ずと光は射す。そう信じて閖は椛に視線を寄せていた。


 序章:依頼編(蛇草閖の動機)【了】

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