桜の初恋
私にやり残したことはもうない。
少年時代は野球に没頭し、普通の青春を過ごす。普通の大学を出て、普通の企業で働き。女性と恋愛をして、普通に結婚をする。長女、長男を立派に育てて、子供たちも結婚をして。かわいい孫がたくさんいる。
私は自分の人生に満足している。
私は今70歳である。あとは淡々と日々を過ごし、残り少ない人生を楽しみたい。
残念な事に妻は先に逝ってしまったが、私もあともう少しで貴女の元に逝くだろう。私にはもうやり残すことはない。が妻よ、もうしばらく天国で待っていてほしい。
春の訪れを桜の花びらが知らせている。遠くにある一本桜を、老人ホームから私は眺めた。
あの桜の木には思い出がある。私の青春時代の象徴といってもいいだろう。昔あの桜の木
の下で、初めて好きになった女性に愛の告白をしたのである。そして、告白した彼女は頷いてくれた。それから、私は上京し、彼女も上京したら、一緒になろうと決めていた相手であった。
しかし、彼女は上京してこなかった。
それから、私は亡き妻と恋愛をして、普通の人生を過ごしてきた。
桜の花は風になびかれ散っている。桜吹雪と名付けたのは誰だろうか、確かに桜の花びらが
淡々と散っている。こんなに美しいものを見れるのは、老人の私にとって幸せである。私の死
に際はあの花びらのように美しくありたいものだ。そして、私の人生はこの小さな老人ホーム
で終わるのだろう。
今日もまた一人の女性がここ老人ホームに入居する。この小さな場所で仲良く暮らせるといいが大丈夫だろうか。皆が集まる広場から、私は入居してくる女性がどんな人物だろう、と気になっていた。
老人ホームの玄関が開いた。入居する女性だろうか。
春風になびかれて、白い服を着た小柄な女性が、玄関から入ってきた。服には桜の花びらが付いている。その女性は、どこかで見たことのある面影だ。遠い昔、私は彼女を見たことがあるのだが思い出せない。いったい誰だろうか?
白い服を着た女性はヘルパーに引き連れられて部屋に案内された。やはりあの女性が入居する人みたいだ。私はとても気になった。何故だか彼女が他人とは思えないからだ。しかし、彼女が誰であるかは、この後自己紹介をしてくれるからわかるだろう。だから、広間で桜の花びらを見ながら、私は彼女の自己紹介を待つことにした。
白い服を着た小柄な女性がヘルパーと一緒に広間に入ってきた。
彼女は軽くお辞儀をすると、自分の名前も告げずに去っていった。どうやら痴呆症で、自分の名前もわからないらしい。ここではよくある事だ。去っていった彼女に驚いたヘルパーは、彼女を追いかけていった。そして、私も彼女を追いかけた。
自室で窓の外の一本の桜を彼女は眺めていた。ヘルパーは彼女の元に駆け寄って「また明日自己紹介しましょうね」と囁くと部屋を出て行った。ヘルパーと入れ替わるように、私は白い服の彼女に駆け寄った。そして、私も彼女の耳元でささやいた。
「はじめまして。どちらから来たんですか?」そう囁くと彼女は答えた。
「ええ、あそこのね一本桜から来たんですよ」彼女はポツリとつぶやいた。
「あそこの、一本桜からですか?」
「はい、そうなんですよ。さっき好きな人からあそこで告白されましてね」
痴呆症によくあることで、昔感じた強烈な思い出がフラッシュバックして。今と昔を混同してしまうのである。昔あそこの木の下で、彼女は告白されたらしい。偶然にも、あそこで昔、私は告白したのである。色々と気になるので、しばらく私は彼女と会話をすることにした。
「そうなんですか。それでお相手は今どちらにいるんですか?」
「それがねえ。上京してしまうらしいんです。私も上京しなければ……」
「そうでしたか、あなたも上京したら、ご結婚するのですか?」
「そうですねえ、さっきそう約束しました。彼は待ってくれるでしょうか……」
「今でもまっていますよ」
私と彼女は一本桜を見直した。私はやさしく彼女の手を取って、強く握り絞めた。
おわり