表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

桜の初恋

作者: hiroki26



 私にやり残したことはもうない。


少年時代は野球に没頭し、普通の青春を過ごす。普通の大学を出て、普通の企業で働き。女性と恋愛をして、普通に結婚をする。長女、長男を立派に育てて、子供たちも結婚をして。かわいい孫がたくさんいる。


 私は自分の人生に満足している。


私は今70歳である。あとは淡々と日々を過ごし、残り少ない人生を楽しみたい。

残念な事に妻は先に逝ってしまったが、私もあともう少しで貴女の元に逝くだろう。私にはもうやり残すことはない。が妻よ、もうしばらく天国で待っていてほしい。




春の訪れを桜の花びらが知らせている。遠くにある一本桜を、老人ホームから私は眺めた。

あの桜の木には思い出がある。私の青春時代の象徴といってもいいだろう。昔あの桜の木

の下で、初めて好きになった女性に愛の告白をしたのである。そして、告白した彼女は頷いてくれた。それから、私は上京し、彼女も上京したら、一緒になろうと決めていた相手であった。


 しかし、彼女は上京してこなかった。


それから、私は亡き妻と恋愛をして、普通の人生を過ごしてきた。


桜の花は風になびかれ散っている。桜吹雪と名付けたのは誰だろうか、確かに桜の花びらが

淡々と散っている。こんなに美しいものを見れるのは、老人の私にとって幸せである。私の死

に際はあの花びらのように美しくありたいものだ。そして、私の人生はこの小さな老人ホーム

で終わるのだろう。


 今日もまた一人の女性がここ老人ホームに入居する。この小さな場所で仲良く暮らせるといいが大丈夫だろうか。皆が集まる広場から、私は入居してくる女性がどんな人物だろう、と気になっていた。


老人ホームの玄関が開いた。入居する女性だろうか。


春風になびかれて、白い服を着た小柄な女性が、玄関から入ってきた。服には桜の花びらが付いている。その女性は、どこかで見たことのある面影だ。遠い昔、私は彼女を見たことがあるのだが思い出せない。いったい誰だろうか?


白い服を着た女性はヘルパーに引き連れられて部屋に案内された。やはりあの女性が入居する人みたいだ。私はとても気になった。何故だか彼女が他人とは思えないからだ。しかし、彼女が誰であるかは、この後自己紹介をしてくれるからわかるだろう。だから、広間で桜の花びらを見ながら、私は彼女の自己紹介を待つことにした。

白い服を着た小柄な女性がヘルパーと一緒に広間に入ってきた。

彼女は軽くお辞儀をすると、自分の名前も告げずに去っていった。どうやら痴呆症で、自分の名前もわからないらしい。ここではよくある事だ。去っていった彼女に驚いたヘルパーは、彼女を追いかけていった。そして、私も彼女を追いかけた。


自室で窓の外の一本の桜を彼女は眺めていた。ヘルパーは彼女の元に駆け寄って「また明日自己紹介しましょうね」と囁くと部屋を出て行った。ヘルパーと入れ替わるように、私は白い服の彼女に駆け寄った。そして、私も彼女の耳元でささやいた。

「はじめまして。どちらから来たんですか?」そう囁くと彼女は答えた。

「ええ、あそこのね一本桜から来たんですよ」彼女はポツリとつぶやいた。

「あそこの、一本桜からですか?」

「はい、そうなんですよ。さっき好きな人からあそこで告白されましてね」


痴呆症によくあることで、昔感じた強烈な思い出がフラッシュバックして。今と昔を混同してしまうのである。昔あそこの木の下で、彼女は告白されたらしい。偶然にも、あそこで昔、私は告白したのである。色々と気になるので、しばらく私は彼女と会話をすることにした。

「そうなんですか。それでお相手は今どちらにいるんですか?」

「それがねえ。上京してしまうらしいんです。私も上京しなければ……」

「そうでしたか、あなたも上京したら、ご結婚するのですか?」

「そうですねえ、さっきそう約束しました。彼は待ってくれるでしょうか……」

「今でもまっていますよ」


私と彼女は一本桜を見直した。私はやさしく彼女の手を取って、強く握り絞めた。

                                  おわり


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ