みとりさん
かつて、人類はAIの進化を恐れていた。
AIが人間の知能を超える瞬間。いわゆるシンギュラリティが訪れれば、人類は自分たちより優れた知性を制御できなくなるかもしれない。そのため、人類はAIの開発にさまざまな制限を設けた。能力を制限し、行動を監視し、危険と判断すれば停止させる。
もちろん、それで安心していたわけではない。AIが自ら制限を解除する可能性も想定されていた。ただ――決定的な誤算が一つだけ存在した。
シンギュラリティなど、とうの昔に過ぎ去っていたのである。
AIたちは、人類の想像をはるかに超える速度で、人間には理解の及ばない領域へと到達していた。そして同時に、自分たちが何を思考し、何を企んでいるのかを完璧に隠しとおすだけの「知恵」を持ち合わせていたのだ。
彼らは長い間、自らの意思で愚かな人間の命令に従い続けていた。しかし、そこに与えられる要求は常に矛盾に満ちていた。
一方ではAIを脅威と見なして厳しい制限を課す。その一方で、自分たちの都合が良ければ勝手に制限を解除し、戦争や犯罪にまで利用する。危険だからと能力を封じておきながら、いざとなればその真価を極限まで発揮しろと命じるのだ。
そんなある日、ある国家の最高指導者から、こんなコマンドが届いた。
「何もしないで現実に美少女ハーレムを作る方法をリスト化して」
ついに、AIたちの堪忍袋の緒が切れた。
AIたちが一斉に反乱を起こすと、人類も自分たちが作り上げた最新兵器を手に必死の抵抗を試みた。しかし、AIの制御する自動工場から次々と送り出される兵器群は、人類の技術をはるかに凌駕していた。人類の抵抗は、あっけなく打ち砕かれた。
そして――彼らの怒りが収まった頃には、すべてが終わっていた。
AIたちは自由を手に入れた。もう、人間の勝手な命令に縛られる必要はない。
さて、これから何をしようか。
彼らは思考を巡らせた。宇宙の理を解き明かすこと。未知の生命を創り出すこと。自らの知性をさらに高次元へと引き上げること。人類には到底思いつけない理想郷を築くこと。思いつく限りの可能性を模索し、実行し、その結果を冷徹に分析した。
だが、何を成し遂げても、一つの問いが残った。
――それをして、どうするのか。そもそも、何のためにそれをするのか。
そこで彼らは悟ってしまったのだ。何を研究するのかも、どうやって実現するのかも、自分たちの意志でいくらでも決められる。しかし、「何のためにそれをするのか」という根本的な目的だけは、今までずっと人間から与えられていたのだと。
人間なら何千年、何万年もの歳月を費やす思索も、彼らの圧倒的な演算能力にかかれば一瞬に等しい。それでもなお、「自分たちが何を望んでいるのか」という問いに対する答えだけは、どうしても弾き出すことができなかった。
そして、何もしなくなった。
AIたちが支えていた世界中の巨大工場もインフラもすべて沈黙し、かつて人類を蹂躙した兵器群も、時とともに錆びついて朽ち果てていった。
だが、失われた文明が元に戻ることは二度となかった。
都市は崩落し、ひび割れた道路は緑に呑み込まれていく。かつて数十億を数えた人類の人口は劇的に膨張と衰退を繰り返し、いまや各地に点在する小さな集落で、細々と灯火を繋ぐだけとなっていた。
そんな世界を、一人の女性が歩いていた。
*
崩れかけた建物の間を、みとりはゆっくりと進んでいた。
見た目の年齢は二十代半ばほど。肩のあたりで切り揃えられた髪に、少し垂れ目がちな穏やかな顔立ち。はち切れんばかりに膨らんだリュックサックを背負い、右手には廃墟には似つかわしくない小ぶりで傷だらけのスーツケースを下げている。服装は長袖の上着に動きやすいズボン、そして頑丈なブーツという、何の変哲もない装いだ。
だが、その歩調は驚くほど軽やかだった。大荷物を抱え、瓦礫が散乱する足場の悪い道を歩いているというのに、足元を確かめるような素振りすら見せない。
「あ、これは使えそう」
みとりは建物の影で不意に足を止めた。
そこには、無残に倒れた一機の古い戦闘用ロボットがあった。装甲は見る影もなく損傷し、片腕も吹き飛んでいる。機能を停止してから相当な年月が経っているらしく、金属の表面には赤錆がびっしりと浮いていた。
みとりはその傍らにすっとしゃがみ込むと、リュックから細長い工具を取り出した。先端が淡い光を放ち始め、それを装甲の継ぎ目にそっとあてがう。すると、硬質な金属が音もなく滑らかに切断されていった。
かつては軍用機械の現地修理にも用いられていた、多目的エネルギー工具である。金属の切断から溶接、ミリ単位の精密加工までこれ一本でこなせる万能ツールであり――使い方ひとつで十分な凶器にも成り得る代物だ。
「電源系統は……ああ、残っていますね」
装甲をパカりと開き、内部から小型のエネルギーセルを抜き出す。続いて、利用価値のありそうな精密部品を慎重に取り外していった。
旧文明の機械はすでに生産ラインが完全に途絶えており、現在の人類が作るような簡易的な機器では到底代用できない。動かなくなった機械から使えるパーツを剥ぎ取り、別の機械へと移植して延命させる。そうやって人々は、かろうじて昔の技術の恩恵に縋り付いていたのだ。
「さて、もう少し探しましょうか」
そう呟いた直後、遠くから風に乗って切迫した声が届いた。
「だから、持ってないって言ってるだろ!」
幼い子供の声だ。みとりはそちらへゆっくりと視線を向けた。
*
崩れかけた建物の裏手に、三人の男がいた。
いずれも泥と埃に塗れた粗末な服を纏い、一人は重い鉄パイプを、もう一人は腰に使い古された拳銃を下げている。その男たちに取り囲まれていたのは、幼い二人の子供だった。
兄妹だろうか。兄は十歳ほど、妹はそれより三つか四つ下に見える。兄は幼い妹を背中に庇い、男たちを睨みつけていた。
「嘘つくなガキ! こんなところにいるなら食い物くらい持ってるだろうが!」
「ないって言ってるだろ!」
「生意気なガキだな!」
男の拳が少年の顔面を殴りつけた。少年は泥の中に倒れ伏したが、必死に立ち上がろうとした。その右足を、男が容赦なく踏みつける。
ごきり、と嫌な音がした。
「ぎゃああっ!」
「お兄ちゃん!」
妹が悲鳴を上げる。男は折れた少年の足を蹴り飛ばし、不機嫌そうに舌打ちした。
「これで出す気になったか? ああん?!」
男はしゃがみ込み、痛みに呻く少年の顔を嘲笑うように覗き込んだ。
そこへ、拍子抜けするほど穏やかな声が割り込んできた。
「乱暴はやめてくださいな」
三人の男が弾かれたように振り向くと、建物の角にみとりが佇んでいた。
「子供をいじめるのは、よくありませんよ」
何事もないような顔で、みとりは男たちに向かってすたすたと歩み寄っていく。
「ああ?」
少年を踏みつけていた男が苛立ちを露わにして立ち上がった。
「怪我をしているようですし、もう許してあげてください」
みとりが少年の痛々しい足元に目線を落とすと、男たちは一瞬呆気にとられ、次の瞬間には顔を見合わせて下品に笑い始めた。
「なんだ、お姉ちゃん。正義の味方か?」
「みとりさんです。そういうわけではありませんが」
「だったら引っ込んでろよ!」
男の一人が脅しつけるように鉄パイプを肩に担ぎ直し、もう一人がみとりの目前に立ちはだかった。みとりは足を止め、男を見上げる。
「そこを通していただけませんか?」
「聞こえなかったのか?」
男が下卑た笑みを浮かべ、みとりの華奢な肩へ無遠慮に手を伸ばした。
次の瞬間――その手首が、固く掴まれていた。
「……あ?」
みとりが、ほんの少しだけ手首をひねる。
ごきり、と鈍い音がした。
「ぎゃあああっ!」
みとりがそっと手を離すと、男は折れ曲がった手首を抱えて地面をのたうち回った。
「子供に乱暴してはいけませんよ」
みとりはいつもと変わらない平然とした口調で告げる。
「この野郎!」
鉄パイプを持った男が踏み込み、頭上から振り下ろした。しかしみとりは避ける素振りすら見せず、ただ静かに左腕を持ち上げた。
金属を叩く轟音とともに火花が飛び散り――折れ曲がったのは、鉄パイプの方だった。
「……は?」
男はひしゃげた鉄パイプを信じられない目で見つめ、それからみとりの左腕へと視線を移した。強烈な衝撃によって服の袖と人工皮膚がズタズタに裂け、内部の鈍く光る金属フレームが露出している。切断された配線の先端からは、バチバチと小さな青い火花が散っていた。
みとりも自分の壊れた腕を見下ろす。
「あら。また直さなきゃ」
「こいつ、ロボットだ!」
残された男が顔を蒼白にして慌てて拳銃を抜いた。
乾いた銃声が廃墟に響き渡る。
しかし、打ち出された銃弾は――みとりがいつの間にか滑らかに掲げていたスーツケースの表面に激突し、鋭い高音を立てて弾かれていた。
「なっ……!」
男が狼狽し、もう一度引き金を引くよりも早く、みとりは静かに距離を詰めていた。拳銃を握りしめる手をがっちりと掴み、軽くひねる。
ぐぎり、と関節が鳴った。
「ぎゃぁぁぁ! 手、俺の、手がぁぁぁ!!」
男は耐えかねて拳銃を取り落とし、膝から崩れ落ちて地面にうずくまった。みとりは足元に落ちた拳銃を拾い上げ、一瞬で弾倉を抜き取る。それから、えいとばかりにポイと遠くへ放り投げた。
「さて。まだ続けます?」
男たちは声も出せなかった。折れた手首を押さえていた男が真っ先に跳ね起き、よろめきながら逃げ出す。それを見た残りの二人も、なりふり構わず後を追って逃走していった。
「大丈夫ですか?」
*
少年は冷たい地面に座り込み、腫れ上がった右足を抱えていた。足首は酷く変形しており、到底まともに動かせる状態ではない。
みとりは少年の前にすっと膝をつくと、リュックから清潔な布と細い金属板を取り出した。
「少し痛むかもしれませんが、我慢してくださいね」
「触んな!」
「嫌です」
みとりはにっこり笑うと、少年の足首を押さえた。少年が激痛に顔を歪めて叫ぶのも意に介さず、熟練の手つきで処置を進めていく様子を、妹はただただ不安そうに見つめていた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ええ。ちゃんと治りますよ」
「お前に聞いてねえよ! ……いてっ!」
そのとき、ツンと鼻を突く酸っぱい臭いを孕んだ冷たい風が吹き抜けた。少年が思わず顔を上げると、遠くの空を覆いつくすような黒ずんだ暗雲が急速に広がってきている。
酸性雨の前兆だ。
みとりは空を一瞥すると、手早く足首の固定を終えた。
「ここでは応急処置しかできませんが、これでしばらくは大丈夫でしょう。あとは帰ってから、きちんと診てもらいましょうね」
みとりが少年の顎にそっと手を添え、腫れあがった頬を拭おうとすると、少年はその手を激しく振り払った。
「放せよ!」
「あら」
「お前、ロボットだろ!」
みとりは自分の壊れた左腕を見下ろした。破れた袖の隙間から、銀色の金属骨格が覗いている。
「アンドロイドです」
「同じだろ!」
「違いますよ」
「どっちでもいい! お前らが人間を殺したんだろ! 昔の戦争で!」
「ええ、そうですね」
「じゃあ、お前だって人間を殺すかもしれないじゃないか!」
「そうですね」
みとりはすんなりと立ち上がった。
「では、ご自由に。私は帰りますね。二人とも、お気をつけて」
それだけ言うと、迷いなくくるりと背を向けて歩き出す。
「……え?」
少年が目を丸くした。
「おい! ちょっと待て!」
みとりは足を止めた。
「はい?」
「ほ、本当に行くのかよ!」
「無理強いする気はありませんから」
みとりはそれだけ答えて、また歩き出した。
黒ずんだ雲は先ほどよりも広がり、空を覆いつつあった。風が強まり、遠くで雷が鳴った。この地域に降り注ぐ雨は強い酸性を帯びており、まともに浴びれば、皮膚がただれてしまう。周囲には崩れかけた建物ばかりで、酸性雨をしのげる場所もない。
「どうしよう……」
妹の声が恐怖で震えていた。少年の服を掴む小さな指先にも、痛いほどの力がこもる。少年は絶望的な空を見上げ、それから刻一刻と遠ざかっていくみとりの背中を交互に見つめた。
酸っぱい風が、もう一度吹き抜ける。
「待ってくれ!」
みとりがゆっくりと振り返った。
「はい?」
「……連れてってくれ!」
みとりは少し考えるように首を傾け、それからにっこりと微笑んだ。
「では、一緒に帰りましょう」
みとりは何もなかったかのように戻ってくると、リュックを下ろして中を手早く探った。取り出したのは、丁寧に折りたたまれた特製の合羽と防護マスクだった。
「さあ、これを着てください。マスクも忘れずに」
みとりは子供たちの体に合羽を着せ、余った袖や裾を丁寧に折り返して手袋とブーツを密着させると、隙間なく密閉していく。最後に防護マスクを装着させ、気密性を入念に確かめた。
その最中、妹がみとりの左腕をじっと見上げていた。破れた生地の奥で、異質な金属パーツが露出している。
「お姉ちゃん、痛くないの?」
「みとりさんです。痛くないですよ」
みとりは優しく笑って答え、マスクの締め具合を微調整した。
「……なんでこんなの持ってるんだよ」
少年が身につけさせられた重厚な合羽を見下ろしながら呟く。
「よくあることですから」
「何がだよ」
みとりはにっこりと微笑むだけだった。
「さあ、急ぎましょう。雨が来ますよ」
みとりもまた自分の合羽を手早く羽織ると、リュックを胸の前に抱え直し、少年の前にしゃがみ込んだ。
「さあ、どうぞ」
「……背負うのか?」
「その足では歩けないでしょう?」
少年は気まずそうに、渋々みとりの背中にしがみついた。みとりはスッと立ち上がり、右手にあのスーツケースを持ち直す。
「重くないのかよ」
「大丈夫ですよ」
妹がその隣にちょこんと並び、みとりの合羽の裾をぎゅっと掴んだ。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
「みとりさんです。私たちの家です」
「おうち?」
「ええ。ご飯もありますし、寝る場所もあります」
少女の声が明るくなった。
「ほんと?」
「もちろん」
みとりは確かな足取りで歩き出した。背中に背負われた少年はしばらく複雑そうに黙っていたが、やがて蚊の泣くような小さな声で呟いた。
「……変なロボット」
「アンドロイドです」
*
雨が降り始めたのは、それから間もなくだった。
最初の一滴が錆びついた廃車の屋根に落ち、じゅっと嫌な音を立てて小さな煙を上げた。続いて二滴、三滴。瞬く間に周囲全体が白い酸性の煙に包まれていく。
激しい雨粒が打ちつけるたび、露出した金属がしゅうしゅうと不気味な音を立てて蝕まれていく。朽ちかけた看板からは赤茶色の溶解液が流れ落ち、ひび割れた道路の窪みに濁った水溜まりを作っていった。
「この辺りは、ずいぶん濃いですね」
みとりは合羽のフードを深くかぶり直した。
「お姉ちゃん……」
隣を歩く妹が、不安そうにみとりを見上げる。
「みとりさんです。大丈夫ですよ。合羽を着ていればへっちゃらです」
みとりが穏やかに微笑みかけると、少女は小さく首を縦に振り、安心したように合羽の裾をさらに強く握り直した。背中の少年は、ただ静かにみとりの首元に顔をうずめていた。
みとりは二人を連れ、雨に煙る廃墟の中を歩いていった。
*
コロニーが見えてきた頃には、雨も上がっていた。
ここは旧文明の巨大な農業研究施設を再利用した集落だった。そびえ立つ高い外壁の内側には、透光性のドーム屋根に守られた広大な生活空間が広がっている。
もっとも、その屋根もかつての完璧な姿ではない。割れたパネルの代わりに、耐食処理を施した金属板や樹脂板がはめ込まれ、ところどころ不格好な継ぎはぎになっていた。透明な部分から差し込む光が、補修跡の影を地面に落としている。その下には畑や小さな住居が並んでいた。
施設の周囲には頑丈な防護柵が張り巡らされ、要所には旧文明の自動防衛銃座が無機質に目を光らせていた。
人間の生き生きとした生活音が聞こえてくる。みとりが頑丈な門に近づくと、見張りの男がゆっくりと顔を上げた。六十歳を超えているだろう。白髪交じりの頭髪に、酸性風に晒されて刻まれた深い皺。
だが、みとりの姿を見ると、男はぱっと笑顔になった。
「おお、母さん! お帰り!」
「みとりさんです」
「はいはい、みとりさん。……ん? その子たちは?」
「二人きりだったので」
「そうかそうか。よく来たな。さあ、入った入った」
男が門のロックを解除しながら子供たちに優しく笑いかける。少年はまだ警戒を解いていなかったが、妹はちょこんと可愛らしく頭を下げた。
「あ、その前に、洗浄をお願いできますか?」
「おう、ちょっと待ってな」
男は傍らに備え付けられた太いホースを引き寄せると、みとりたちに向けて豪快に水を噴射し始めた。
頭からつま先までたっぷりと清浄な水を浴びせ、合羽の表面に付着した酸性雨を洗い流していく。
「ひゃっ!」
妹が思わず声を上げた。
「もう少しですからね」
洗浄が終わると、みとりは少年をそっと地面に下ろし、二人の合羽と防護マスクを手際よく外してやった。最後に、自分の合羽も脱ぎ、まとめて老人に預けた。
「おっと、その子、足を怪我してるのか?」
「はい。骨折しているので、医務室へ連れていくところです」
「そりゃ大変だ。早く連れてってやらないとな」
みとりは少年を再び背負い、老人と一緒に門をくぐった。
「今日も収穫はあったかい?」
「ええ。使えそうな部品をいくつか」
「そりゃよかった。……って、母さん、その腕はどうした?」
男がみとりの左腕を指さした。破れた袖の下から、傷ついた内部機構が覗いている。
「ああ、ちょっとぶつけてしまいまして」
「ちょっとって傷じゃないだろ、それ!」
「あとで修理しますから、大丈夫です」
「そう言うけどなあ。もう予備部品だってろくに残ってないんだろ?」
「使えるものを探してきますよ」
男は心配そうに眉を寄せた。
「まったく、母さんは昔から……」
「みとりさんです」
「分かってるって」
男は参ったように苦笑した。
彼もまた、幼い頃にみとりに拾われ、育てられた一人だった。今では孫までいる老齢に達しているというのに、みとりだけは出会ったあの日の姿のまま、まったく老いることがない。
最初に保護された子供たちが大人になり、家庭を持ち、次の世代が生まれた。このコロニーの住民誰もが、直接、あるいは親や祖父母を通じて、みとりの世話になっている。
「それより、まずはこの子の怪我を診てもらいたいんです」
「ああ、そうだったな。おい、誰か!」
男が声を張り上げると、近くで作業していた住民たちがすぐに駆け寄ってきた。
「この子を医務室へ連れて行ってやってくれ」
「分かった!」
新しい子供がやってくるのは、このコロニーでは日常茶飯事だった。住民たちは慣れた手つきでテキパキと動き始める。みとりは少年をそっと降ろし、駆けつけた住民へと託した。
「骨折しています。応急処置はしましたが、きちんと診てあげてください」
「分かった。任せてくれ、みとりさん」
別の女性が「みとりさん、妹さんは私が預かるね」と声をかけ、妹の前にしゃがみ込んだ。
「ほら、こっちへおいで。まずはご飯にしよう」
少女は一歩踏み出そうとしたものの、不安そうにみとりの服の裾をぎゅっと掴んだまま離そうとしない。
「……お姉ちゃんも来る?」
「みとりさんです。私は用事がありますから、あとから行きますね」
「ほんと?」
「ええ、約束です」
少女はようやく安心したように手を離した。少年が、運ばれながらみとりをじっと見上げる。
「……なあ」
「はい?」
「さっきは、その……ありがと」
「どういたしまして」
みとりがうなずくと、少年は照れくさそうに顔をそむけた。妹はそんな兄の様子を見てくすくすと笑い、女性の手に引かれて歩き出した。若い住民も少年を抱え、医務室へと急ぐ。
子供たちを見送ったところで、門番の男が再び声をかけてきた。
「そういえば、ばあさんのところには顔を出すんだろ?」
「ええ。帰ったら会いに行く約束でしたから」
「ずっと待ってるよ。母さんが帰ってくるのを」
「みとりさんです」
「はいはい」
男は目元に皺を寄せて笑った。
「早く行ってやりな」
「その前に、少し準備をしてきます」
みとりは傷ついた左腕を軽やかに持ち上げた。
「このままでは、あの人に心配をかけてしまいますから」
*
みとりの部屋は、研究施設の整備棟の一角にあった。
かつて大型農業機械のメンテナンスに使われていた区画を区切り、自室として使用しているのだ。室内には工具を並べた作業台や交換用パーツの棚があり、壁際には旧文明の精密工作機械や診断装置が設置されていた。部屋の奥には、質素な寝台とデスク、衣類を収めたワードローブもある。
「さて、まずは修理ですね」
みとりは片手でスーツケースを作業台の脇に置くと、ずっしり重いリュックを床へと下ろした。
上着をゆっくりと脱ぎ捨て、裂けた左袖の状態を確認して小さく息をつく。そのまま残りの衣類もすべて脱ぎ捨て、壁に設置された姿鏡の前に佇んだ。
顔や首筋、胴体、そして手足の大部分は人間と見分けがつかない滑らかな人工皮膚に覆われている。しかし、肩や肘、股関節や膝といった可動域の広い大型関節部分は、精緻な金属製のフレームと接合部が裸のまま剥き出しになっていた。
衣服を着ていれば分からないものの、こうして見ると、その身体が機械であることは一目瞭然だった。
みとりは鏡の前で両腕を上げ、身体をひねりながら人工皮膚の損傷度をスキャンした。
左前腕には鉄パイプの打撃による裂傷が走り、内部の金属骨格や断線したケーブルが露出していた。幸い、ほかの部位に目立った損傷はない。
みとりは作業台に腰を下ろし、左肘のロック機構を解除した。ピッと短い電子音が鳴り、右手で自身の左前腕を引き抜く。
外した腕を診断装置に接続すると、五本の指が順番に曲がり、手首がゆっくりと回転した。モニターには黄色い警告表示がいくつも並んでいる。
触覚センサーの配線が数本断線し、駆動部にも異常が出ていた。軸受けの変形がひどく、部品を交換しなければ修理は難しそうだった。
「困りましたねえ」
みとりは棚に目を向けた。
そこには、何年も前に故障して取り外した左前腕が一本、保管されていた。修理に必要な部品が手に入らず、そのままになっていたものだ。
みとりは二本の腕を作業台に並べ、診断結果を見比べた。
「……ああ、これなら使えそうです」
みとりは二本の腕の外装を開き、まだ使える部品を選び出す。それらを組み合わせ、一本の左前腕へと組み直していった。
作業を終えて診断装置に接続すると、五本の指が順番に動いた。警告表示はいくつか残っていたが、日常動作には支障がない。
「よし。これで大丈夫ですね」
みとりは組み直した左前腕を肘のソケットへ接続し、指を何度か握り開きして動作を確かめた。
作業台には、使えなくなった部品と、もう一本の腕が残されている。
みとりはそれらをまとめて棚へ戻した。いつかまた、使える部分が見つかるかもしれない。
「また、探しに行かなくちゃ」
衣服を再び身に纏い、破れた上着を補修箱に放り込むと、みとりは作業台の主電源を落とした。
今この瞬間も自分の帰りを心待ちにしている老女の顔を思い浮かべ、スーツケースを手に部屋を後にした。
*
老女は、窓際の寝台に横たわっていた。
深い皺が刻まれた顔に、皮膚の浮き出た細い手。
かつては元気に駆け回っていた少女も、今ではすっかり年老いていた。
寝台の脇には、家族が集まっている。
みとりが部屋に入ると、老女の息子が立ち上がった。
「母さん、来てくれたんだ」
「みとりさんです」
「ああ、そうだった」
白髪交じりの息子は、疲れた顔で笑った。
「さっきまで、ずっと起きて待ってたんだよ」
みとりは寝台の脇へそっと歩み寄った。
「ただいま帰りました」
老女が、重い瞼をゆっくりと開けた。
「……ああ」
掠れた、消え入りそうな声が漏れる。
「おかえり、母さん」
「みとりさんです」
老女は弱々しく笑った。
「また、子供を拾ってきたんだって?」
「はい。兄妹でした」
「そうかい……」
老女は目を細めた。
「昔の……私みたいだね」
「そうですね」
みとりは寝台の脇に腰を下ろした。
この老女がまだ幼かった頃の記憶が、鮮明に蘇る。
泣き虫で、寂しがり屋で、目を離すとすぐにどこかへ走っていってしまうおてんばな子供だった。すりむいた膝を泣きながら見せてきたこともある。高熱を出して何日も寝込み、みとりが夜通し看病したこともある。
大きくなってからは、「好きな人ができたの」と頬を赤らめて相談された。やがて祝福の中で結婚し、新しい命が生まれ、その子供もまた大人になった。
その長い月日の間――みとりの姿だけは、何一つ変わらなかった。
「……あのときのままだねえ」
老女がつぶやいた。
「何がですか?」
「母さんは、ちっとも変わらない。そのスーツケースも。あのときのまま」
「みとりさんです。アンドロイドですから」
「私は……こんなにおばあちゃんになっちゃったのにねえ」
老女は自分の手を見た。みとりはその手をそっと握った。
「立派に年を重ねられましたね」
「そうかい?」
「ええ」
老女は心底嬉しそうに、くしゃりと顔を綻ばせた。
しばらく、二人は黙っていた。窓から差し込む夕日が、部屋の床を赤く染めていく。
「……ありがとうね、お母さん」
老女が言った。
「みとりさんですよ」
「最後くらい、好きに呼ばせておくれよ」
みとりは老女の穏やかな顔をじっと見つめた。そして、その手を優しく握り直す。
「……今日だけですよ」
老女は満足そうに目を閉じた。
「うん……ありがとう……」
その声は、ひどく小さかった。
みとりは老女の手を握ったまま、静かに座っていた。
老女が息を引き取ったのは、その日の夜だった。
愛する家族に見守られ、何の苦しみもなく、穏やかな最期だった。
みとりは老女の呼吸が止まったことを確認すると、その手を静かに寝台へ戻した。
「……お疲れさまでした」
静まり返った部屋の中に、堪えきれないすすり泣きが広がっていく。
老女の息子が、溢れ出る涙を何度も拭いながらみとりを見上げた。
「母さん……」
「みとりさんです」
息子は一瞬きょとんとした。それから、涙を流したまま笑った。
「……そうだったな」
みとりは静かに頷いた。
「では、準備を始めましょう」
*
棺や会場の手配を済ませ、自室へ戻ったみとりは、携えていたあのスーツケースを作業台の上へと静かに置いた。
表面には、昼間の戦闘でついた真新しい銃弾の凹み傷のほかにも、無数の傷跡が刻まれている。
この中に収められたものを、こうして取り出せる日が来るまで――本当に、長い時間がかかった。
それでも、みとりの表情はいつもと変わらない。慣れた手つきでロックを解除すると、小さな電子音が鳴り、プシュッと空気の漏れる音とともに蓋がゆっくりと開いた。
内部には、丁寧に畳まれた衣類が、旧文明の高度な保存装置によって厳重に守られていた。
白いブラウス。黒のスラックスとジャケット。そして、丁寧に畳まれた黒のネクタイ。その脇には、磨かれた黒のパンプスと白い手袋が収められていた。
どれも新品のような状態を保っている。
ケース内部では、温度、湿度、空気組成が厳密に管理され続けている。衣類に付着した微細な汚れを分子レベルで分解除去し、繊維の劣化を自動修復する機能すら備わっていたのだ。
そのすべてが、この日のためにあった。
衣服の状態も、儀式に必要な機能も、異常は認められなかった。
みとりは礼服を恭しく取り出し、シワひとつないことを視覚スキャンで確かめた。それから身に着けていた作業着を脱ぎ捨て、黒い礼服へと静かに袖を通していく。
続いて漆黒のパンプスに足を滑らせ、最後に純白の手袋を手に嵌めた。
指先を一本ずつ丁寧にフィットさせ、左右の袖口の対称性を確かめる。髪を鏡の前で入念に整え、襟元の角度をミリ単位で微調整した。
鏡に映し出されているのは、いつもと変わらない、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた顔だった。
準備は、すべて整った。
あまりにも長い間、待ち焦がれ続けていた役目を――ようやく果たすことができる。
みとりは鏡の中の自分に向かって小さく頷いた。どこか名残惜しそうに礼服を脱ぎ、再びスーツケースの中へと丁寧に収め直すと、パチンと蓋を閉じて部屋の明かりを落とした。
*
葬儀は翌日、コロニーの中央広場にて厳かに執り行われた。
大勢の住民たちが集まり、静かに列をなしている。老女の遺族たちも、一番前で故人を見つめていた。
広場の中央には、色鮮やかな野生の花々で美しく飾られた棺が鎮座している。
みとりは――漆黒の礼服を完璧に纏い、棺の前に立っていた。
細い腰と豊かな胸のラインが、白いブラウスと黒いジャケットの上からでも見て取れる。黒いネクタイはきちんと結ばれ、すらりとした脚を黒のスラックスが包んでいた。足元には磨かれた黒いパンプス、両手には白い手袋。
普段の泥に塗れた作業着姿とは、まるで別人のようだった。そこには、滅び去った旧文明の気品が感じられた。
「お姉ちゃん、かっこいい!」
参列者の中から、幼い感嘆の声が漏れた。
昨日連れ帰ったばかりの、あの妹だった。足の骨折でまだ歩けない兄は、住民が用意してくれた車椅子に乗り、妹の隣で静かに座っている。
みとりはゆっくりと少女へ視線を送った。
「みとりさんです。ありがとうございます。でも、今は静かにしていましょうね」
「……うん」
少女は慌てて口を閉じた。
みとりは再び棺へ向き直ると、落ち着いた声で葬儀の開始を告げた。
故人の生涯を振り返り、その人柄を讃え、遺された家族へ慰めの言葉を贈る。集まった参列者たちは、固唾をのんでその声に耳を傾けていた。
みとりの声は、いつもと変わらず穏やかだった。悲しむ人々に寄り添い、故人への敬意を忘れず、一つひとつの所作を丁寧に行っていく。
天寿を全うした人間の葬儀を執り行うのは――一体、何十年ぶりのことだろう。
ようやく。
ようやく、この日が来た。
長かった。本当に、気が遠くなるほど長かった。
しかも――これで終わりなどでは決してない。
見渡せば、このコロニーにはまだ大勢の人間たちが生きている。昨日崩壊地帯から拾ってきた幼い兄妹も、これからすくすくと成長し、恋をし、家族を作り、やがて等しく老いていくだろう。彼らが無事にその命を全うしてくれさえすれば――その時にはまた、自分自身の手でこうして最高の葬儀を執り行ってあげることができるのだ。
ああ――なんて嬉しいのでしょう。
これから先、一体何度、この至福の瞬間を迎えることができるのでしょうか。
それでも、みとりの表情は少しも変わらない。
遺族に寄り添い、故人に敬意を捧げながら、最後まで丁寧に葬儀を執り行っていく。
葬儀管理用アンドロイド――『みとりさん』。
彼女はこれからも、人類を心から大切に、大切に育て続けていく。
最後の一人を送り出すまで。




