第一話 平和な家族
人は、自分がどれだけ幸せなのか、
それを失うまで気づかないものだと言う。
でも――私は違う。
私は、ずっと前から知っていた。
この家の温もりが、
この家族の笑顔が、
どれほど大切なのかを。
だからきっと、
あの日の出来事は、
私の世界を壊すには十分すぎたのだと思う。
けれど、その話はまだ先。
これは、
すべてが壊れる前の――
とても静かで、優しい日常の物語。
「おはよう」
朝、キッチンに入ると、
もう兄がそこに立っていた。
フライパンの上で卵が焼ける音がして、
部屋にはバターの匂いが広がっている。
「また早起きだね」
私がそう言うと、兄は軽く笑った。
「お前が寝坊するからだろ」
からかうような声だったけれど、
その手はもうお皿を並べている。
……昔からそうだ。
兄は、いつも優しい。
私が転んだときも、
夜が怖くて眠れないときも、
ずっと隣にいてくれた。
「はい、できたぞ」
テーブルに並べられた朝食。
焼きたてのトースト。
目玉焼き。
そしてコーヒーの香り。
普通の朝。
本当に、どこにでもあるような、
ありふれた家族の朝だった。
リビングでは、父が新聞を読んでいて、
母がコーヒーを飲みながらニュースを見ている。
「おはよう」
「おはよう」
その声が重なる。
こんな時間が、
ずっと続けばいいのにと、
私は何度も思った。
……そして。
私は、兄の隣に座る。
ほんの少しだけ、距離が近い。
だけど、それでも構わなかった。
だって私は――
兄のことが、好きだから。
家族としてじゃなくて。
もっと、
別の意味で。
兄はそんなこと、
きっと気づいていない。
それでもいい。
この時間が続くなら、
それだけでいいと思っていた。
本当に。
このときまでは。
朝食のあと、
兄は学校へ行く準備をしながら言った。
「そうだ。今日の夜、ちょっと出かけるけど……」
「出かける?」
「友達の家で小さなパーティーがあるんだ」
少し考えてから、兄は続ける。
「お前も来るか?」
そのとき私はまだ知らなかった。
その“パーティー”が、
私の人生を変えてしまうことを。
そして――
この世界の、本当の姿を。




