桜の下で夜と月が交わる
桜の花びらが、私の銀髪にからまって、するりと肩へ落ちていく。
春なのに、風はまだ少し冷たくて、頬を撫でるたびに体温を奪っていく。
でも、つないだ手を美香が握り直すたび、その冷たさは簡単に溶けてしまう。
「……綾、またここに来たね」
美香の声は、いつもより少しかすれていた。
黒いスーツの襟元からのぞく白い喉が、かすかに震えているのがわかる。
私は視線を落とした。
まっすぐ見つめ返したら、胸がきゅっと苦しくなりそうで。
「あなたが連れてきてくれるから」
そう答えると、美香は小さく笑った。
笑うと、目尻がふわっと下がる。
その表情が、本当にずるい。可愛くて、愛しくて、目をそらしたくてもそらせない。
石段を登りきった先に、私たちだけの場所がある。
人通りのない、桜の木の下の小さな祠。
そこまで来ると、いつものように美香が腰を下ろして、私の隣にぴったりとくっついてくる。
肩が触れ合う。体温が伝わる。
美香の匂いが、桜の香りと混ざり合って、ふわりと胸の奥まで入り込んでくる。
「覚えてる? 初めてここに来た日」
ぽつりとこぼされた声に、私は静かに頷く。
「忘れる方が難しいよ」
あの日も、桜は満開だった。
私はぐちゃぐちゃに泣いていて、何もかも終わりだと思っていて。
家族に知られたら終わりだと勝手に思い込んで、あなたと会うことすら怖くなって。
それでも、あなたはそんな私を迎えに来てくれた。
誰にも見つからないように、この場所まで連れてきてくれた。
「綾は泣き虫だったよね」
「泣き虫になったのは、美香が悪いんだよ」
私はバツが悪そうにそう答えて少しだけ笑う。
私はそのまま美香の胸に顔を押し当てた。
布越しに伝わる鼓動が、耳のすぐ近くで響いている。
早い。私の心臓と同じくらい、落ち着きなく鳴っている。
美香の手が、私の髪をやさしく撫でてくれる。
長い銀髪を、いつものように、ゆっくりと、丁寧に。
指が通るたびに、背筋をくすぐられるような震えと、電流が走ったみたいな歓喜がじんわり広がっていく。
すごく満たされる。
今、この瞬間が、たまらなく幸せで泣きたくなってくる。
布越しに伝わる鼓動が、耳に近い。
早い。私の心臓と同じくらい、落ち着きなく鳴っている。
「綺麗だよ、綾の髪。月みたい」
「なら美香は夜みたい」
思わずそう返して、私は顔を上げた。
黒髪に縁取られた瞳が、まっすぐに私だけを映している。
その視線に耐えきれなくて、またすぐに目を伏せる。
「ねえ、綾」耳元で名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ震えていた。
「なに」美香の柔らかい胸に押し当てながら返事をしてみたけど、すごくくぐもってるけど聞こえたかな。
「ずっと、こうしていたい」その一言に、胸の奥がじわりと熱くなる。
私も同じことを考えていた。
さっきから胸の奥で、同じ願いだけがぐるぐる回っている。
ずっと、こうして触れていたい。
肩が触れ合う距離で、同じ風を感じて、同じ景色を見ていたい。
桜の花びらがひらひら落ちてきて、髪や袖にそっと積もっていく。
そのたびに、美香の指が「ついてるよ」って言いながら払ってくれて、またすぐに私の手を握り直してくる。
桜が散っても、季節が変わっても、夏の熱い空気の中でも、秋の冷たい風の中でも、冬の白い息の中でも。
隣にいるのがこの人なら、どんな空気も悪くないなって、本気で思ってしまう。
そのまま、美香の唇がそっと近づいてくる。
最初は頬に触れるだけのキス。 それから、目尻に。 乾きかけていた涙の跡をなぞるように、優しく触れてくる。
そして、目を閉じて、唇が重なった瞬間、世界が本当に音を失った。
触れた場所だけ時間が止まったみたいに、頭の中が一瞬で真っ白になる。
柔らかくて、熱くて、かすかに震えている感触が、唇から喉の奥、胸の真ん中までじわじわ流れ込んでいく。
息をすることも忘れて、私はただその熱にしがみついた。
今日のあなたの唇は、いつもより少しだけ熱い。
そのぬくもりごと、全部この腕の中に抱きしめてしまいたくなる。
私はそのまま、あなたの首に腕を回した。
もっと近くに。もっと深く。
触れ合うだけじゃ全然足りなくて、落ちてしまいそうな不安を消すみたいに、強く抱き寄せる。
舌がそっと触れる。
びくんと肩が震えて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
甘い吐息が混ざり合って、どっちの息なのか分からなくなっていく。
鼻先をかすめるあなたの匂いと、唇の熱さだけがどんどんはっきりして、世界の輪郭がぼやけていく。
桜の花びらが、私たちの周りを静かに舞い落ちていく。
時々、髪や肩に落ちて、そのたびにあなたの指がかすかに動いて、もっと強く抱きしめられる。
離れたくない。
このまま時間が止まってくれたらいいのに、と本気で思う。
あなたの腕の中に閉じ込められたまま、春の終わりまで、ずっとキスをしていたい。
でも、いつかは終わりが来る。
この時間にも、ちゃんと終わりが決められている。
分かってるからこそ、指先ひとつ動かすたびに、今がどんどん愛しくなっていく。
だからこそ、今この瞬間を全部、迷いなく、あなたに捧げたい。
「綾……大好きだよ」
耳元で囁かれた声は、やっぱり少し嗄れていて、それでも芯だけはぶれずにまっすぐで。
胸の奥にそのまま突き刺さって、息が詰まりそうになる。
涙でにじんだ視界のまま、私は必死にうなずいた。
声にしたら震えてしまいそうで、でも黙っているなんてもっと無理で。
「私も……あなたが、世界で一番愛してる」
やっとの思いで搾り出した言葉と一緒に、堪えきれなかった涙が、頬を伝ってこぼれ落ちる。
熱い雫が、ひとすじ、ふたすじと流れ落ちていく。
その雫さえ、あなたの唇がそっとすくってくれた。
なめるようなキスじゃなくて、「泣かないで」って言われているみたいな、やさしい触れ方で。
涙も不安も、全部まとめて受け止めてくれているみたいで、また新しい涙がこぼれそうになる。
桜の下で、私たちは息をするのも忘れるみたいに、何度もキスを重ねた。
唇が離れても、すぐにまた引き寄せられてしまう。
肩や髪に桜の花びらがぱらぱらと降り積もっていって、ふたりの境目がどんどん曖昧になっていく。
白と黒の衣が絡まり合い、銀と黒の髪が混ざって、一つの影みたいになる。
どこまでが私で、どこからがあなただろう。
そんなこと、もうどうでもよくなるくらい、心も体も近づいていた。
この春が終わっても。
この桜が散ってしまっても。
風の匂いが変わって、木の色が変わって、街の景色が変わっていっても。
あなたがいる限り、私はきっとここに戻ってくる。
この場所で、同じ空を見上げて、同じように笑いたいから。
だって、私は、あなたのものだから。
世界がどれだけ変わっても、そのことだけは変わらない。
胸の奥にそっと刻み込むみたいに、私は心の中で何度も何度も繰り返す。
ずっと、ずっと、あなただけの綾でありますように。
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