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短編集

桜の下で夜と月が交わる

作者:
掲載日:2025/12/05

 桜の花びらが、私の銀髪にからまって、するりと肩へ落ちていく。

春なのに、風はまだ少し冷たくて、頬を撫でるたびに体温を奪っていく。

でも、つないだ手を美香が握り直すたび、その冷たさは簡単に溶けてしまう。


「……綾、またここに来たね」


 美香の声は、いつもより少しかすれていた。

黒いスーツの襟元からのぞく白い喉が、かすかに震えているのがわかる。


私は視線を落とした。

まっすぐ見つめ返したら、胸がきゅっと苦しくなりそうで。


「あなたが連れてきてくれるから」


そう答えると、美香は小さく笑った。

笑うと、目尻がふわっと下がる。

その表情が、本当にずるい。可愛くて、愛しくて、目をそらしたくてもそらせない。


石段を登りきった先に、私たちだけの場所がある。

人通りのない、桜の木の下の小さな祠。

そこまで来ると、いつものように美香が腰を下ろして、私の隣にぴったりとくっついてくる。


肩が触れ合う。体温が伝わる。

美香の匂いが、桜の香りと混ざり合って、ふわりと胸の奥まで入り込んでくる。


「覚えてる? 初めてここに来た日」


ぽつりとこぼされた声に、私は静かに頷く。


「忘れる方が難しいよ」


 あの日も、桜は満開だった。

私はぐちゃぐちゃに泣いていて、何もかも終わりだと思っていて。

家族に知られたら終わりだと勝手に思い込んで、あなたと会うことすら怖くなって。

それでも、あなたはそんな私を迎えに来てくれた。

誰にも見つからないように、この場所まで連れてきてくれた。


「綾は泣き虫だったよね」


「泣き虫になったのは、美香が悪いんだよ」

私はバツが悪そうにそう答えて少しだけ笑う。

 

 私はそのまま美香の胸に顔を押し当てた。

布越しに伝わる鼓動が、耳のすぐ近くで響いている。

早い。私の心臓と同じくらい、落ち着きなく鳴っている。


 美香の手が、私の髪をやさしく撫でてくれる。

長い銀髪を、いつものように、ゆっくりと、丁寧に。

指が通るたびに、背筋をくすぐられるような震えと、電流が走ったみたいな歓喜がじんわり広がっていく。


 すごく満たされる。

今、この瞬間が、たまらなく幸せで泣きたくなってくる。


 布越しに伝わる鼓動が、耳に近い。

早い。私の心臓と同じくらい、落ち着きなく鳴っている。


「綺麗だよ、綾の髪。月みたい」


「なら美香は夜みたい」


 思わずそう返して、私は顔を上げた。

黒髪に縁取られた瞳が、まっすぐに私だけを映している。

その視線に耐えきれなくて、またすぐに目を伏せる。


「ねえ、綾」耳元で名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ震えていた。


「なに」美香の柔らかい胸に押し当てながら返事をしてみたけど、すごくくぐもってるけど聞こえたかな。


「ずっと、こうしていたい」その一言に、胸の奥がじわりと熱くなる。


 私も同じことを考えていた。

さっきから胸の奥で、同じ願いだけがぐるぐる回っている。

ずっと、こうして触れていたい。

肩が触れ合う距離で、同じ風を感じて、同じ景色を見ていたい。

桜の花びらがひらひら落ちてきて、髪や袖にそっと積もっていく。

そのたびに、美香の指が「ついてるよ」って言いながら払ってくれて、またすぐに私の手を握り直してくる。


 桜が散っても、季節が変わっても、夏の熱い空気の中でも、秋の冷たい風の中でも、冬の白い息の中でも。

隣にいるのがこの人なら、どんな空気も悪くないなって、本気で思ってしまう。


 そのまま、美香の唇がそっと近づいてくる。

最初は頬に触れるだけのキス。 それから、目尻に。 乾きかけていた涙の跡をなぞるように、優しく触れてくる。


 そして、目を閉じて、唇が重なった瞬間、世界が本当に音を失った。

触れた場所だけ時間が止まったみたいに、頭の中が一瞬で真っ白になる。

柔らかくて、熱くて、かすかに震えている感触が、唇から喉の奥、胸の真ん中までじわじわ流れ込んでいく。

息をすることも忘れて、私はただその熱にしがみついた。

今日のあなたの唇は、いつもより少しだけ熱い。

そのぬくもりごと、全部この腕の中に抱きしめてしまいたくなる。


 私はそのまま、あなたの首に腕を回した。

もっと近くに。もっと深く。

触れ合うだけじゃ全然足りなくて、落ちてしまいそうな不安を消すみたいに、強く抱き寄せる。


 舌がそっと触れる。

びくんと肩が震えて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

甘い吐息が混ざり合って、どっちの息なのか分からなくなっていく。

鼻先をかすめるあなたの匂いと、唇の熱さだけがどんどんはっきりして、世界の輪郭がぼやけていく。


 桜の花びらが、私たちの周りを静かに舞い落ちていく。

時々、髪や肩に落ちて、そのたびにあなたの指がかすかに動いて、もっと強く抱きしめられる。


 離れたくない。

このまま時間が止まってくれたらいいのに、と本気で思う。

あなたの腕の中に閉じ込められたまま、春の終わりまで、ずっとキスをしていたい。


 でも、いつかは終わりが来る。

この時間にも、ちゃんと終わりが決められている。

分かってるからこそ、指先ひとつ動かすたびに、今がどんどん愛しくなっていく。

だからこそ、今この瞬間を全部、迷いなく、あなたに捧げたい。


「綾……大好きだよ」


 耳元で囁かれた声は、やっぱり少し嗄れていて、それでも芯だけはぶれずにまっすぐで。

胸の奥にそのまま突き刺さって、息が詰まりそうになる。

涙でにじんだ視界のまま、私は必死にうなずいた。

声にしたら震えてしまいそうで、でも黙っているなんてもっと無理で。


「私も……あなたが、世界で一番愛してる」


 やっとの思いで搾り出した言葉と一緒に、堪えきれなかった涙が、頬を伝ってこぼれ落ちる。

熱い雫が、ひとすじ、ふたすじと流れ落ちていく。

その雫さえ、あなたの唇がそっとすくってくれた。

なめるようなキスじゃなくて、「泣かないで」って言われているみたいな、やさしい触れ方で。

涙も不安も、全部まとめて受け止めてくれているみたいで、また新しい涙がこぼれそうになる。


 桜の下で、私たちは息をするのも忘れるみたいに、何度もキスを重ねた。

唇が離れても、すぐにまた引き寄せられてしまう。

肩や髪に桜の花びらがぱらぱらと降り積もっていって、ふたりの境目がどんどん曖昧になっていく。


 白と黒の衣が絡まり合い、銀と黒の髪が混ざって、一つの影みたいになる。

どこまでが私で、どこからがあなただろう。

そんなこと、もうどうでもよくなるくらい、心も体も近づいていた。


 この春が終わっても。

この桜が散ってしまっても。


 風の匂いが変わって、木の色が変わって、街の景色が変わっていっても。

あなたがいる限り、私はきっとここに戻ってくる。

この場所で、同じ空を見上げて、同じように笑いたいから。


だって、私は、あなたのものだから。


 世界がどれだけ変わっても、そのことだけは変わらない。

胸の奥にそっと刻み込むみたいに、私は心の中で何度も何度も繰り返す。

ずっと、ずっと、あなただけの綾でありますように。


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綾の長編シリーズ!
【2部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~
短編集で気に入ってくれたら、こっちの本格冒険記でどっぷり浸かってね~!
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