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第5章 『 結婚 』(2)

これは、ただ恥ずかしいだけでなく、だんだん腹立たしくもなってきた。


麗華は僕を祭壇の前に残したまま、両親の座っている席へと歩み寄った。

そして、言い争いが始まった。

距離があって声は聞こえなかったが、身振りや麗華の表情からして、かなり激しいやり取りであることは明らかだった。


もうお気づきかもしれないが、僕はもともと人の顔をまともに見られない性分だ。

けれども、麗華だけは例外だった。

初めて会った時、彼女の瞳を見つめ返すことができたし、なぜか彼女を見ていたいという衝動のほうが、人に対する生来の恐れよりも強かった。

……いや、うまく説明できない。ただ、そういうことだと思う。


しばらくして、今度は僕の母までその話し合いに加わった。


ため息をつく。

もうこの問題は洒落にならない、と自覚していた。

心の一部は、いっそ逃げ出したいと思っていた。

麗華が議論に勝ち、結果的に結婚が取り消されれば、それでいいと。

だがもう一方の、より臆病な自分は、彼女に「やめてくれ」と懇願していた。

僕のように流されてくれれば、これ以上ややこしくならないのに――と。


背後で裁判官がぼそりとつぶやいた。

「はぁ……こういう家族はほんと苦手だ。」


僕は引きつった笑みを浮かべ、強く指を握りしめた。

返す言葉はなかった。

というのも、内心では僕もまったく同じことを思っていたからだ。


父と優一も加わり、麗華を取り囲む。

それでも彼女の表情は崩れない。

やがて、彼女は僕を指さした。おそらく、年齢を理由に持ち出そうとしたのだろう。


だが、その仕草に僕は苛立ちを覚えた。

――頼むから、やめてくれ、麗華。


それは理不尽な怒りだった。

まるで知らない人たちの集まりに連れてこられ、母親が急に自分の話をし始め、何度もこちらを指さすような――

最初は恥ずかしくて、やがてどうしようもなく腹が立ってくる。


臆病で、しかも偽善的。

この自分の一面を、いつか変えられる日が来るのだろうか。


                *********


居間の時計が七時を少し回った頃、麗華が再び僕の隣に立った。

視線の端で彼女の顔をうかがうと、どこか疲れたような表情をしている。

どうやら話し合いはまとまらなかったらしい。

もしかすると、この婚約は本当に取り消されるのかもしれない。


麗華は式の立会人である裁判官に向かって口を開いた。


「このたびは、私と家族の非礼を深くお詫び申し上げます。お見苦しい場面をお見せしましたこと、心より反省しております。必ずや、それに見合う償いをいたします。ですが――」


僕は長い溜息をついた。

もし本当にこの婚約が破談になったら、家でどれだけの問題が待っているか――考えただけで胃が痛くなる。

麗華もまた、同じように溜息をついて言葉を続けた。


「式を続けてください。」


……え?


驚きのあまり、思わず顔を上げて彼女を見つめた。

その表情は複雑で、一言では言い表せなかった。

いくつもの感情が、絡まり合っているようだった。


僕の頭がその言葉を理解するより早く、沈黙を守っていた裁判官が苛立ちを隠さぬ声で言った。


「お嬢さんね、あんたの事情なんてどうでもいいが、こっちにも時間ってもんがあるんだ。八時から別の予定がある。あと一時間しかないんだよ。お父上との付き合いがなけりゃ、とっくに式なんざ中止にしてたさ。――お見苦しい? まったく、これほど見苦しいものもない。」


とうとう本音が出た。

無理もない。

誰だってこれだけ振り回されれば怒るだろう。

麗華は無表情のまま、その叱責を静かに受け止めていた。


そして、少し深く頭を下げて言った。

「私の責任です。改めて、申し訳ありませんでした。」


裁判官は疲れたようにため息をつき、やがて折れた。

「いいだろう。ただし、途中でまた止まるようなら、今度こそ帰らせてもらう。誰に頼もうが勝手だ。」


麗華がこちらを向く。

反射的に背筋を伸ばした。

目を合わせるのが気まずくて視線を逸らす。

だが、その沈黙のほうがもっと息苦しかった。


――なにか言えよ、僕。


拳を握り、無理やり声を絞り出す。

今日という日はもう十分すぎるほど長い。早く終わらせたかった。


「か、海斗……です。」


「え?」


麗華が聞き返したようだったので、今度は少し大きな声で言った。


「ぼ、僕の名前は……海斗……藤村です。ど、どうぞよろしく。」


沈黙が落ちた。

一秒、二秒、三秒――永遠にも思える間のあと、麗華は静かに口を開いた。


「黒田麗華。難しいかもしれませんが、できるだけ仲良くしましょう。それと……こちらこそ、ごめんなさい。」


彼女は軽く頭を下げた。

先ほどのような深い礼ではない。けれど、その一礼には確かな誠意が感じられた。

僕もぎこちなく頭を下げて返した。

――結局、僕たちは互いをほとんど知らないままの赤の他人だった。


式の細かなやり取りや退屈な段取りを、いちいち語る必要はないだろう。

興味がある人のために言っておくと、麗華はその後一言も発さなかった。

ただ、どこかを見つめながら腕を組み、その大きな胸をさらに際立たせていた。


僕もまた黙り込んだ。

心の中ではひたすら「早く終われ」と祈っていた。

もう心身ともに限界だった。

家に帰って、一週間ぐらい眠り続けたい。

……帰れるよな? 本当に?


ついに婚姻届に署名する時間が来た。

ペンが麗華の指先で震えた。だが最終的には書き終えた。

僕の手も同じように震えた。理由は、彼女とは違って、ただの緊張だったけれど。


こうして正式に、僕と麗華は夫婦になった。

年齢の差を思えば、この先うまくやっていけるかどうか――正直、自信はなかった。


判子を押す書類を覗き込んだとき、麗華の生年月日が目に入った。

二〇〇〇年九月十四日生まれ。

つまり、彼女は二十九歳。あと二ヶ月で三十になるということだ。


思わず安堵の息をついた。

これでようやく帰れる――そう思った矢先、運命はまたしても僕を試そうとしていた。


お察しの通り、最後の関門が残っていたのだ。

――キス。


                *********


「それでは……新郎は花嫁に口づけを。」


裁判官のその一言を聞いた瞬間、情けないほどの息が漏れた。

頭が命令を拒否する。

体が固まる。


隣で麗華が言った。

「申し訳ありませんが、それは必要ありません。」


しかし裁判官がすぐに遮った。

「何を言ってるんだ、必要に決まってるだろう。――これがなけりゃ結婚は成立しない。」


――そんなわけあるか!

あの男も、この結婚の事情を知っているはずだ。

たぶん、ここまで引っ張られた腹いせだ。


「キスがなければ、式は無効だ。」


麗華がわずかに身じろぎした。

視線の端で彼女の顔をうかがうと、その目に怒りが宿っていた。


「私は八時から予定があるんだよ。……黒田麗華さん、いや、今は藤村麗華さん、か。あと二分だけ待つ。」


そう言って時計を見やる。

その瞬間、背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。

――たぶん、母さんだ。


もう限界だった。

僕、なにか言え、なにか!


だが勇気を出す前に、麗華が息を吐き、目を閉じてこちらを向いた。


「え……?」


間抜けな声しか出なかった。

彼女の瞳は冷たく、そして、どこか軽い軽蔑が滲んでいた。


「どうしました、藤村さん?」


裁判官が急かす。

まさか――本当にやる気なのか?


顔を逸らし、言葉を探すが、そのとき麗華が小さく言った。


「ごめんなさい。」


「え――」


次の瞬間、彼女は僕のシャツを掴み、もう片方の手で顎を持ち上げた。

そして、冷たい唇が触れた。


あまりに唐突で、体が完全に固まった。

気を失ったわけではない。ただ、どう反応すればいいのかわからなかった。


麗華はすぐに身を引き、低く呟いた。

「……くそっ。」


顎のあたりと唇の端が、わずかに濡れている。


きっと麗華は失敗したのだろう。

本当は形だけの口づけを演じるつもりだった。

だが、僕が驚いて動いたせいで、唇の下のほうが触れてしまったのだ。


冷たくて、乱暴なキスだった。

それでも――神に誓って言える。

美しかった。


頭に血が上り、心臓が激しく打ち始める。

視線があちこちにさまよい、口が開いたり閉じたりを繰り返すばかり。

言葉なんて出てこない。


麗華がなにか言った気がする。

けれど、もう耳には届かなかった。

見るべきものが多すぎて、どこを見ればいいのかわからなかった。

彼女か、裁判官か、あるいは――

遠くから親指を立てて見せる兄か。


ちなみに言っておくと、麗華の唇には、たばことわずかなアルコールの味がした。

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