第4章 『僕には「重すぎる」女』(2)
午後六時四十分。
僕は式を執り行う裁判官の前に立っていた。
「……帰りたい。」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
静かに、浅く呼吸を整える。
誰が会場に入ってきたのかも見なかった。
花嫁が父親に手を引かれて歩いているのかも、見なかった。
何も見ようとしなかった。――もう、何にも興味がなかったのだ。
俯いたまま、ただ時間が過ぎていく。
だが、その沈黙を破るように――コツン、と一歩の音が響いた。
乾いた、凛とした音。
顔を上げると、足元から視線が自然と上へと滑っていった。
そこにいたのは、これから僕の妻になるはずの女だった。
黒いヒール。
その一歩一歩が、会場の空気を震わせる。
脚は長く、太腿は豊かに張っている。
黒いストッキングが、その厚みでわずかに透け、内側の白い肌がちらりと覗いていた。
歩き方は洗練され、計算されたように整っている。
まるでランウェイを歩くモデルのようで、
揺れる腰のラインに合わせて、僕の心臓がひとつ跳ねた。
彼女は黒のスカートを履いていた。
短く、そして体の曲線をそのままに締めつけるほどぴったりしている。
自然な丸みを帯びた腰と尻の形が、その布地の上にくっきりと浮かび上がっていた。
腰は細く、胸は大きい。
――いや、「大きい」なんて言葉では足りないかもしれない。
その胸のせいで、シャツの上の二つのボタンは外されたままだ。
あるいは、最初から閉められなかったのかもしれない。
覗く肌の白さに、目を逸らそうとしても逸らせなかった。
彼女は迷うことなく僕の方へ歩いてくる。
そして、いつの間にか僕は、彼女の顔を真正面から見ていた。
誰の顔もまともに見られない僕が。
――それほどに、彼女の姿には引き寄せられる力があった。
髪は短く、黒。
大人の女性らしい艶があった。
唇は淡い紅色で、白い肌によく映えている。
目は鋭く、冷たい光を帯びていた。
細い金の鎖が、眼鏡のフレームの両端から首の後ろへと伸びている。
まるで「厳しい女教師」のような顔立ちだった。
ただし――口には一本の煙草が咥えられていた。
……そう、彼女は喫煙していた。
視線が絡んだまま、時間が止まる。
言わざるを得なかった。
――この人は、僕には“過ぎた”女だ。
そして、
……なぜだ。
なぜスーツ姿なんだ?!
あまりにも突拍子のない光景に、頭の中が真っ白になった。
「な、なに……これ……?」
ウェディングドレスを着ていないのは覚悟していた。
だが、よりによってオフィススーツだなんて!
まさか仕事帰りにそのまま来たのか?!
――いや、それよりも、この状況そのものがやばい。
本当にやばい。
この人……年上にもほどがある。
いや、決して「年老いて」いるわけじゃない。
むしろ、美しく、成熟していて、目を離せないほど魅力的だ。
でも、どう見ても僕の先生と同じくらいの歳だ。
しかも……その、スタイルは、僕の先生なんかよりずっと――いや、何を考えてるんだ僕は!
彼女は僕の隣まで歩み寄ると、裁判官にも僕の鼓動にも構わず、
煙草を静かに口から外し、床に落として、ヒールで踏み消した。
その瞬間、僕の口から思わず漏れた。
「……でかい。」
彼女は女性としては背が高い。
多くの男がそう感じるだろう。
片手を腰に当て、会場を見渡す。
吐き出した煙がゆっくりと空気に溶けていった。
「できるだけ早く始めましょう。」
その声も、低く澄んでいて美しかった。
冷たいが、耳に残る声だった。
彼女の視線が会場を横切り、優一で止まった。
優一が僕を指さすと、ようやく彼女は僕に目を向けた。
少し身をかがめ、指で眼鏡を下げ、
その上から僕を真っすぐ見つめる。
そして――彼女の口から出たのは、
僕以外の誰でもなく、まるで僕の代わりに呟いたような、か細い声。
「……え?」
それを聞いた瞬間、僕は悟った。
――知らない女と結婚するなんて、やっぱりこうなる運命だったんだ。




