表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/35

第4章 『僕には「重すぎる」女』(1)

午後五時を少し過ぎた頃、ようやく長い支度が終わった。


着替え、食事、散髪――そのすべてを終えた時、体の奥からじわじわとした疲労がこみ上げてきた。


何度もガラス扉の方をちらりと見ては、心の中で願っていた。


何か起これ、と。


奇跡でもいいし、世界の終わりでもいい。


とにかく、この結婚式が中止になるような出来事を――。


……馬鹿げてるよな。


会場の飾りつけは終わっていた。だが広い式場にはわずか四つのテーブルしかなく、どこか空虚で、侘しい印象を与えた。


この急な結婚に招待客などいるはずもなく、両家のごく近しい者だけが出席するという。


僕の側は両親と優一。


そして新婦側は、両親と叔母が一人――と優一が教えてくれた。


                *********


式の四十五分前。


会場からスタッフたちが姿を消した。


残っているのは僕と、書類に目を落とした中年の男一人。


彼が式を執り行う裁判官だった。


家族? どこにいるのか見当もつかない。


僕はできるだけ目立たぬよう、隅の椅子に腰を下ろしていた。


真っ白なテーブルクロスを見つめ、震える指を組み合わせて、逃げ出したい衝動を押さえ込む。


その時、扉が開き、数人の人影が入ってきた。


母と優一、それに上品な中年夫婦――言うまでもなく、新婦の両親だった。


二人ともきちんとした服装で、夫人は深い赤に黒を混ぜたようなドレスを着ていた。


男性の方は黒いスーツに、茶色の艶やかな革靴。


……今思えば、あの靴は輸入品だったのかもしれない。


妙に独特な鱗模様のようなデザインで、見ていると落ち着かない気分になった。


顔? いや、顔は見ないほうがいい。


母が彼らを僕の方へ案内した。


最初に口を開いたのは、黒田夫人だった。


「まあ、あなたが海斗くんね。」


驚いた。


誰もが決まり文句のように言っていた「若すぎる」という言葉が、彼女の口からは出なかった。


どうやら、僕の事情をすでに知っているようだ。


「え、あ……ど、どうも。」


声がどんどん小さくなっていく。


黒田夫人は口元に手を当てて「ふうん」と短く呟いた。


すぐに母が助け舟を出す。


「少し人見知りですが、いい子なんですよ。」


「本当に?」


「もちろんですとも。子どもにはそれぞれ個性がありますから。」


この言葉に黒田夫人は大きくうなずいた。


「そうね、本当にその通りだわ。」


――その後の会話は、正直、息が詰まるほどぎこちなかった。


僕は「はい」「えっと」「あの」「いいえ」ばかり。


やがて黒田氏――新婦の父親――もやってきたが、彼は妻と違ってほとんど何も聞かず、


年齢の割に落ち着いた笑みを浮かべながらただ一言だけ言った。


「麗華をよろしく頼む。」


……麗華?


それが、彼女の名前か。悪くない響きだ。


黒田氏が離れていくと、ふと視界の端で、母と黒田夫人が楽しげに談笑しているのが見えた。


――いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?


少しして、優一と父が現れた。


正直、父に何か言われるのではと身構えたが、彼は僕のそばに寄り、ただ一言だけ。


「後で話そう。」


……それだけで充分だった。


想像がつくだろう?


父は、滅多に怒らない人だ。


だが同時に、僕の十六年の人生の中で、一度も楽しそうな顔を見たことがない。


                *********


午後六時まで、あと十分。


式場の空気がざわつき始めた。


優一の姿は見えず、黒田夫人は携帯を手に慌ただしく歩き回っている。


その間、僕の両親と黒田氏は、テーブル越しに激しく言い争っていた。


普段は穏やかな黒田氏の顔が、不安と焦燥にゆがんでいた。


たとえ世界の終わりを告げられても動じなさそうな人なのに。


当然、僕も落ち着かなくなった。


何が起きているのかまったくわからない。


立ち上がって聞きに行くのが普通なのだろうが――僕はそういう人間じゃない。


だから、情けないことに、その場で爪を噛みながら座っていた。


その時、優一が戻ってきた。


僕は彼のスーツの袖をつかんで、小声で尋ねた。


「優一……な、何が起きてるの?」


「ああ……えっと……」


珍しく、優一の声が震えていた。


彼は僕の耳元に顔を寄せて、囁くように言った。


「どうも、新婦がまだ来てないらしい。電話にも出ない。」


――は?


頭が真っ白になった。


冗談だと思いたかった。


けれど、優一がそんな嘘をつく人間じゃないことくらい知っている。


そう、つまり――新婦は現れていない。


やっと、その事実が脳に染み込んだ。


恥ずかしい話だが、ようやくその時になって僕は気づいたのだ。


他の誰もがすでに理解していたことを。


言い訳をするなら、緊張と不安とストレスのせいだ。


それでも、正直に言うなら――僕がただの大馬鹿者だからだ。


じゃあ、なぜ彼女は来ない?


誰かと駆け落ちでもしたのか?


まるでドラマのように、最後の瞬間に恋人が現れて、


「一緒に逃げよう」と手を取って、そのまま消えてしまう――そんな展開か?


……つまり。


親指を噛みながら、視線を床に落とした。


震える脚が、床を小刻みに叩く音を立てる。


そう――つまり、僕は置き去りにされたのだ。


祭壇の前で。


恥ずかしい? もちろんだ。


けれどその一方で、胸の奥を通り抜けたのは、奇妙な安堵の風だった。


                *********


さらに三十分が過ぎても、花嫁の消息はなかった。


優一も何も言いに来ない。


しかも、僕の両親も黒田夫妻もいつの間にか会場を出て行き、残されたのは僕と判事だけだった。


その判事は、明らかに苛立っていた。


机を指先でとんとん叩く音が、がらんとした式場に小さく響く。


僕も同じように落ち着かなかった。


胸の奥では、相反する感情がぐるぐると渦を巻いていた。


一瞬の喜びが湧き上がる。


──これでいいじゃないか。


結婚しなくて済む。見知らぬ女と暮らすという悪夢から逃れられる。


「頼む、どうか本当に逃げてくれ!」


心のどこかでそう叫んでいた。


けれど、その喜びはすぐに不安に塗りつぶされる。


もしこれで家族に迷惑がかかったら?


もし両親が僕に怒ったら?


もしかすると、花嫁は僕の顔を見て怖くなったのかもしれない。


そんなふうに、希望と恐怖のあいだを何度も往復していると、優一が戻ってきた。


今度ばかりは黙っていられず、僕は立ち上がった。


「ど、どうしたんだ、優一!」


「えっ……い、いや、ぼ、僕のせいじゃ……ま、まさか怒ってないよね? お母さんたち……」


最初に出た言葉は、花嫁の安否ではなく、自分の責任を恐れる弱々しい弁解だった。


だが優一は僕の肩を掴み、顎を軽く持ち上げて、まっすぐ目を合わせた。


「海斗。」


「ひっ……は、はいっ!」


「花嫁が来た。前に出て待っていろ。俺は判事と話してくる。」


……。


その言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。


口から出たのは笑いともため息ともつかない音だった。


「……へっ。」


なんでだよ。


なんで逃げてくれなかったんだ。


心の底から叫びたかった。


はぁ……本当に僕は、どうしようもない偽善者だ。


胃の奥がきりきり痛む。吐き気さえ覚える。


頭もふらふらしてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
裁判官?判事? 進行役、司会者、神父、牧師、神主辺りでは?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ