第4章 『僕には「重すぎる」女』(1)
午後五時を少し過ぎた頃、ようやく長い支度が終わった。
着替え、食事、散髪――そのすべてを終えた時、体の奥からじわじわとした疲労がこみ上げてきた。
何度もガラス扉の方をちらりと見ては、心の中で願っていた。
何か起これ、と。
奇跡でもいいし、世界の終わりでもいい。
とにかく、この結婚式が中止になるような出来事を――。
……馬鹿げてるよな。
会場の飾りつけは終わっていた。だが広い式場にはわずか四つのテーブルしかなく、どこか空虚で、侘しい印象を与えた。
この急な結婚に招待客などいるはずもなく、両家のごく近しい者だけが出席するという。
僕の側は両親と優一。
そして新婦側は、両親と叔母が一人――と優一が教えてくれた。
*********
式の四十五分前。
会場からスタッフたちが姿を消した。
残っているのは僕と、書類に目を落とした中年の男一人。
彼が式を執り行う裁判官だった。
家族? どこにいるのか見当もつかない。
僕はできるだけ目立たぬよう、隅の椅子に腰を下ろしていた。
真っ白なテーブルクロスを見つめ、震える指を組み合わせて、逃げ出したい衝動を押さえ込む。
その時、扉が開き、数人の人影が入ってきた。
母と優一、それに上品な中年夫婦――言うまでもなく、新婦の両親だった。
二人ともきちんとした服装で、夫人は深い赤に黒を混ぜたようなドレスを着ていた。
男性の方は黒いスーツに、茶色の艶やかな革靴。
……今思えば、あの靴は輸入品だったのかもしれない。
妙に独特な鱗模様のようなデザインで、見ていると落ち着かない気分になった。
顔? いや、顔は見ないほうがいい。
母が彼らを僕の方へ案内した。
最初に口を開いたのは、黒田夫人だった。
「まあ、あなたが海斗くんね。」
驚いた。
誰もが決まり文句のように言っていた「若すぎる」という言葉が、彼女の口からは出なかった。
どうやら、僕の事情をすでに知っているようだ。
「え、あ……ど、どうも。」
声がどんどん小さくなっていく。
黒田夫人は口元に手を当てて「ふうん」と短く呟いた。
すぐに母が助け舟を出す。
「少し人見知りですが、いい子なんですよ。」
「本当に?」
「もちろんですとも。子どもにはそれぞれ個性がありますから。」
この言葉に黒田夫人は大きくうなずいた。
「そうね、本当にその通りだわ。」
――その後の会話は、正直、息が詰まるほどぎこちなかった。
僕は「はい」「えっと」「あの」「いいえ」ばかり。
やがて黒田氏――新婦の父親――もやってきたが、彼は妻と違ってほとんど何も聞かず、
年齢の割に落ち着いた笑みを浮かべながらただ一言だけ言った。
「麗華をよろしく頼む。」
……麗華?
それが、彼女の名前か。悪くない響きだ。
黒田氏が離れていくと、ふと視界の端で、母と黒田夫人が楽しげに談笑しているのが見えた。
――いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?
少しして、優一と父が現れた。
正直、父に何か言われるのではと身構えたが、彼は僕のそばに寄り、ただ一言だけ。
「後で話そう。」
……それだけで充分だった。
想像がつくだろう?
父は、滅多に怒らない人だ。
だが同時に、僕の十六年の人生の中で、一度も楽しそうな顔を見たことがない。
*********
午後六時まで、あと十分。
式場の空気がざわつき始めた。
優一の姿は見えず、黒田夫人は携帯を手に慌ただしく歩き回っている。
その間、僕の両親と黒田氏は、テーブル越しに激しく言い争っていた。
普段は穏やかな黒田氏の顔が、不安と焦燥にゆがんでいた。
たとえ世界の終わりを告げられても動じなさそうな人なのに。
当然、僕も落ち着かなくなった。
何が起きているのかまったくわからない。
立ち上がって聞きに行くのが普通なのだろうが――僕はそういう人間じゃない。
だから、情けないことに、その場で爪を噛みながら座っていた。
その時、優一が戻ってきた。
僕は彼のスーツの袖をつかんで、小声で尋ねた。
「優一……な、何が起きてるの?」
「ああ……えっと……」
珍しく、優一の声が震えていた。
彼は僕の耳元に顔を寄せて、囁くように言った。
「どうも、新婦がまだ来てないらしい。電話にも出ない。」
――は?
頭が真っ白になった。
冗談だと思いたかった。
けれど、優一がそんな嘘をつく人間じゃないことくらい知っている。
そう、つまり――新婦は現れていない。
やっと、その事実が脳に染み込んだ。
恥ずかしい話だが、ようやくその時になって僕は気づいたのだ。
他の誰もがすでに理解していたことを。
言い訳をするなら、緊張と不安とストレスのせいだ。
それでも、正直に言うなら――僕がただの大馬鹿者だからだ。
じゃあ、なぜ彼女は来ない?
誰かと駆け落ちでもしたのか?
まるでドラマのように、最後の瞬間に恋人が現れて、
「一緒に逃げよう」と手を取って、そのまま消えてしまう――そんな展開か?
……つまり。
親指を噛みながら、視線を床に落とした。
震える脚が、床を小刻みに叩く音を立てる。
そう――つまり、僕は置き去りにされたのだ。
祭壇の前で。
恥ずかしい? もちろんだ。
けれどその一方で、胸の奥を通り抜けたのは、奇妙な安堵の風だった。
*********
さらに三十分が過ぎても、花嫁の消息はなかった。
優一も何も言いに来ない。
しかも、僕の両親も黒田夫妻もいつの間にか会場を出て行き、残されたのは僕と判事だけだった。
その判事は、明らかに苛立っていた。
机を指先でとんとん叩く音が、がらんとした式場に小さく響く。
僕も同じように落ち着かなかった。
胸の奥では、相反する感情がぐるぐると渦を巻いていた。
一瞬の喜びが湧き上がる。
──これでいいじゃないか。
結婚しなくて済む。見知らぬ女と暮らすという悪夢から逃れられる。
「頼む、どうか本当に逃げてくれ!」
心のどこかでそう叫んでいた。
けれど、その喜びはすぐに不安に塗りつぶされる。
もしこれで家族に迷惑がかかったら?
もし両親が僕に怒ったら?
もしかすると、花嫁は僕の顔を見て怖くなったのかもしれない。
そんなふうに、希望と恐怖のあいだを何度も往復していると、優一が戻ってきた。
今度ばかりは黙っていられず、僕は立ち上がった。
「ど、どうしたんだ、優一!」
「えっ……い、いや、ぼ、僕のせいじゃ……ま、まさか怒ってないよね? お母さんたち……」
最初に出た言葉は、花嫁の安否ではなく、自分の責任を恐れる弱々しい弁解だった。
だが優一は僕の肩を掴み、顎を軽く持ち上げて、まっすぐ目を合わせた。
「海斗。」
「ひっ……は、はいっ!」
「花嫁が来た。前に出て待っていろ。俺は判事と話してくる。」
……。
その言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。
口から出たのは笑いともため息ともつかない音だった。
「……へっ。」
なんでだよ。
なんで逃げてくれなかったんだ。
心の底から叫びたかった。
はぁ……本当に僕は、どうしようもない偽善者だ。
胃の奥がきりきり痛む。吐き気さえ覚える。
頭もふらふらしてきた。




