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第38章『 越えてはならない一線 』

優一の視点


その日はもう、海斗の病室へ戻る気にはなれなかった。

第一に、あまりにも疲れていて、椅子に腰を下ろしたらそのまま眠ってしまいそうだったし、第二に、備品庫を出たところで麗華の友人・飛鳥が廊下を歩いているのを見かけてしまったからだ。


二人同時の癇癪など、御免こうむる。

そう思って踵を返し、そのまま姿を消した。


今日のところは、完敗だ。


だが翌朝は、そんな努力を労ってくれたかのように静かだった。

父からの呼び出しは一度もなく、母とも軽く話しただけで、あとは営業担当としての溜まった仕事を片づけることに専念できた。


平穏な一日……少なくとも、夕方まではそう思っていた。

問題は、その後また病院へ向かい、愛すべき義妹の相手をしなければならない時間が来てしまったことだ。


病室には妙な重さがあった。どう表現すればいいのか、自分でもうまく言葉にできない。

消毒液の匂い、血の気配、薬品の匂い……そして病の気配。

ここにいるのはどうにも落ち着かない。


しかも、静寂は不気味なほど深かった。


そもそも、どうして麗華は毎日欠かさず、夕方六時から八時まで通い続けるのだろう。

ここにいたところで、彼女にできることなど何もないはずなのに。


ふと、彼女に直接尋ねてみようかと思った。

海斗を案じる理由は何なのか、そして、そんな面倒ごとはすべて自分に任せればいい、と。


結局のところ、僕がここへ来る理由も麗華のためだ。

もし僕がいない時に、彼女だけがいる状況で海斗が目を覚ましたら――そんな最悪の運が自分に降ってくる可能性は否定できない。


目を覚ました彼に、入院について余計なことを言われては困る。

その点については、僕のほうが十分に時間をかけて理解させる必要があった。


さらに十分が過ぎた。息苦しいほど退屈で、病室に響くのは心拍を刻む機械音だけだった。


麗華は、海斗のベッドの前から動かずに座っていた。


「……はぁ」


耐えられず、小さくため息を漏らした。


静寂が堪えきれず、横目で麗華をうかがった。

だが、彼女は僕の存在など初めからいないかのように、何一つ意識を向けてこない。


疲れているようだった。悲しいとか、沈んでいるというのとは少し違う。ただ……そう、何と言えばいいのか。

罪悪感とも諦念ともつかない、曖昧な気配が漂っていた。


十五分が、そんな表情のまま過ぎた。

二度目のため息は、わざと大きく吐いたつもりだ。


それでも、麗華は微動だにしなかった。

僕の不快そうな態度すら、耳に入らないらしい。


限界が近い。


あと一時間もこの機械音だけを聞かされ続けたら、本気でおかしくなる。


だから、望み薄なのを承知で声をかけた。


「麗華さん……コーヒー、飲みますか。買ってきますよ」


返事はない。

くそ、いつまでこうしているつもりなんだ。いつまで僕を無視し続ける気だ。

くそ。


「……はぁ、いつまで子どもみたいに意地を張ってるんですか」


思わず口をついて出た。

抑えた声だったが、ほとんど吐き捨てるような響きになった。


しかし――麗華の目が、わずかに動いた気がした。

いや、気がしただけかもしれない。

だが、次の瞬間。


驚くほど鋭い視線で睨まれた。


「……今、何て言いました?」


声の調子から、怒っているのは明らかだった。

だが僕にとっては、その反応――いや、彼女が口をきいてくれたという事実そのものが、胸の奥をじわりと温かくした。


三日近く、二時間ずつ無視され続けた末の一言。

本当に、像でも喋ったのかと錯覚しそうなほどだ。

思わず、海斗のベッド脇の椅子から立ち上がっていた。


「コーヒーが欲しいかどうか、聞いただけですよ」


まだ実感が追いつかないまま返す。


本当に、ようやく話したのだ。


「何それ……」

彼女はぼそりと呟き、首を振った。


その声が小さすぎて、思わず身を乗り出してしまう。


「……包帯のことよ」


独り言のように聞こえたが、気になって口を挟んだ。


「外してほしいんですか」


麗華は大きく息を吐き、額に手を当ててうなずいた。

答えるというより、僕をもう放っておいてという仕草に近かったが――そんなことはどうでもよかった。

嬉しさのあまり、気付けば彼女の頭越しに手を伸ばし、ぽん、ぽん、ぽんと軽く叩いていた。


「任せてください。担当医と話をつけます」


驚いたように目を見開き、何が起きているのかわからないとでも言いたげな表情になったが――


「……何してるのよ!」


次の瞬間、強く振り払われた。

顔には困惑、疑念、そして最後に露骨な嫌悪が浮かび、ぞっとするほど冷たい目で睨まれた。


……ああ、やったな。完全に地雷を踏んだ。


何か言おうとしたその直前、勢いよく病室の扉が開いた。


「麗華ちゃん、戻ったよ!」


飛鳥だった。


「き、君……」

「ま、待ってくれ。誤解だ、別に――」

「ちょっと、また言い争い?」


飛鳥は僕の横をすり抜け、麗華の前に立ちふさがり、まるで庇うように両腕を広げた。


……ああ、もうこの部屋で何があったか説明する気力はない。


家に帰り着いたのは七時半頃だった。

怒りと、昨日よりも深い疲労が混ざり合い、靴も脱がずベッドに倒れ込んだ。


本当に、誰か僕に少しくらい同情してくれてもいいんじゃないか。

僕が何をしたというんだ。

周りが勝手に騒ぎ立て、尻拭いをさせられているのは、いつも僕だ。


腕で顔を覆いながら、麗華の刺すようなあの視線を思い出し、舌打ちするしかなかった。

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主人公ボコすだけで何したいのかよくわからん
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