第3章 『花嫁は?』
優一は車を二階建ての建物の前で止めた。
低い石の塀に囲まれた敷地の中には、広い中庭があり、建物の正面はほとんどがガラス張りになっていた。
中では、数人の人たちが布のようなものを抱えたり、風船の入った箱を運んだりして走り回っていた。ざっと見て五人ほどだろうか。皆、スーツではなく軽装で、どうやら式場のスタッフらしい。時間に追われながら、急いで飾り付けの準備をしているようだった。
彼らには申し訳ないと思いつつも、ふと頭に浮かんだ。
――この式場を借りるのに、一体いくらかかったんだろう。
ただでさえ結婚式というのは金がかかる。それをこんな急な日取りで開くとなれば、料金は倍にもなるだろう。きっと、式場のオーナーは、短期間での依頼を受けたことで、いい収入を得たに違いない。
僕は入口近くの中庭に立ち、スタッフの邪魔にならないよう気をつけながら、しばらくのあいだ突っ立っていた。
というのも、何をすればいいのか、まるでわからなかったのだ。
優一は車を降りた直後、「ここで待っていろ」とだけ言い残して行ってしまったからである。
別の場所に移ろうかと思ったそのとき、聞き慣れた声が背後から響いた。
「海斗、どうしてまだ入らないの? ああもう、やっと来たのね。心臓に悪いじゃないの。」
お母さんだった。
手で顔をあおぎながら、まるで暑さに耐えかねているかのような仕草をしていたが、実際には少しも暑くなかった。
黒くてまっすぐな長い髪。足首まである淡い青のスーツ。腕には真新しい銀のブレスレット。
けれど、僕はいつものように、彼女の顔をまともに見ることができなかった。
「あ……その……」
言葉を探していると、お母さんは大げさにため息をつき、会話の主導権を握った。
「いいから早く入りなさい。時間がないの。お父さんはまた面倒なことを全部私に押しつけて……まったく、私ばかり苦労してるんだから。」
怒らせたくなかった僕は、慌てて彼女の後を追った。
お母さんはちょっとしたことで怒るし、機嫌を損ねると厄介だ。
それに、彼女のそばにいれば、少しは目立たずに済むかもしれないと思った。
建物の中は白い床と天井が広がる、大きなホールだった。
スタッフたちがテーブルや椅子を運び込み、ところどころに花の飾りを置いて、式の雰囲気を整えていた。
お母さんは僕を脇の扉から長い廊下へと導き、突き当たりの部屋へ入った。
そこにはラフな格好をした男性が二人、待っていた。
「来たわね。さあ、急いで。時間がないの。この子にぴったりのスーツをお願い。うちの息子なんだから、完璧に仕上げてちょうだい。」
「おお、藤村様!」
年上の方がスーツを手に近づいてきたが、僕が母の背後に隠れるように立っているのを見て、小さくつぶやいた。
「ずいぶん若いな……」
「今、何かおっしゃいました?」
もちろん、お母さんの耳は逃さなかった。
――まずい。怒ると、相手だけでなく僕まで巻き込まれる。
「あっ、その……大丈夫です、僕……」
なんとか場を和ませようとしたが、母は僕の言葉を遮った。
「ええ、若いけど、この子が本人よ。間違いなんてないわ。結婚するのはこの子。
そして、今のような失礼な発言をもう一度でも聞かせたら、私はあなたたちの会社――何て名前でもいいけど――に直接連絡して、教育のなってないスタッフを派遣してるって報告するわ。いいわね?」
その声は氷のように冷たく、言葉の一つひとつが鋭く突き刺さった。
僕も二人の男性も、黙るしかなかった。
彼らは慌てて謝り、採寸を始めた。
サイズを測り、チョークで印をつけ終えると、二人はそそくさと部屋を出ていった。
すぐにお母さんが僕の髪を掴み、わしゃわしゃと乱暴にかき回した。
「まったくもう、海斗、髪がひどいわよ。前から言ってるのに全然直さないんだから。息子なんだから、もう少し見た目に気を使いなさい。ああもう、あとで優一に言って散髪に連れて行かせるわ。」
かなりの力で頭を振られ、少し痛かった。
そして、大きく息を吐いたあと、言った。
「いろいろ忙しいけどね、海斗。あなたもわかってるわよね? 絶対に台無しにしちゃだめよ。」
優一にも言われた言葉だった。僕は静かにうなずいた。
お母さんは僕を椅子に座らせ、腰に手を当てて立ったまま、まるで子どもに説教するように見下ろしてきた。
……そう、気づいているだろう。お母さんは話すのが大好きなのだ。
「はぁ……急な話よね。私たちにとっても同じ。でもね、これは大きなチャンスなの。
お父さんのためにも、私のためにも、優一のためにも。わかるでしょ?」
そう言って、僕の頭に手を置き、優しく撫でた。
「ママのために、してくれるわよね?」
――まず、断る選択肢なんてなかった。
それに、受け入れれば、家族の役に立つ。それだけは確かだった。
「優一……も、同じことを言ってた。」
「それで?」
「が、頑張るよ。」
誰だって、家族のためなら少しぐらい犠牲になってもいいと思うものだろう。
お母さんはほっとしたように微笑んだ。
「ああ、なんていい子なの、海斗。ママ、ほんとに助かったわ。学校に行ったときなんて、顔が真っ青だったけど、やっぱり信じてたのよ、あなたのこと。」
そう言いながら腕時計を見て、声を上げた。
「もうお昼じゃない! 何か食べ物持ってくるわ。待っててね、海斗。お腹すいたでしょ? ほんと、私って気が利くお母さんよね!」
内心でため息をついた。どうやら、今日一日は長くなりそうだった。
けれど、僕のため息が聞こえたのか、お母さんは再び僕の名を呼んだ。
「海斗。」
少しだけ視線を上げる。だが、顔は直視しない。
「ねえ、私、いいお母さんでしょ?」
一瞬、何の話か理解できなかったが、とりあえず答えた。
「うん……いいお母さんだよ。」
優一の車の中で浮かべたときのように、笑おうとした。
けれど今回は、笑みがひどくぎこちなかった。
*********
――わかっていた。
この結婚が、簡単にいくはずがないことくらい。
僕はずっと信じている。
急いで成し遂げようとすることに、ろくな結果はないと。
そしてその夜、案の定、僕の予感は的中した。
午後六時半――。
花嫁が、現れなかったのだ。
つまり――
僕は、式の壇上で置き去りにされたのだった。




