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第33章『 隠すべきこと 』

優一の視点


夕方もだいぶ深まった頃、僕は一服するために、物置同然の薄暗い小部屋へ足を運んだ。本当のところ、なぜ人はわざわざ隠れ場所を探してまで煙草を吸わなければならないのか、今でもよく分からない。外気に触れていれば煙だってすぐ散るはずだ――そう思っていたが、外で吸えば罰金だというのだから、世の中は面倒だ。


「はあ……本当に、人間は自分で自分を縛って生きてるよな」


小さな窓を開け、吐き出した煙をゆっくりと外へ逃がした。すると、扉が軋む音を立てて開いた。


「やっぱりここにいましたね、優一さん」


「おう、大輝。何かあったのか?」


大輝は首を横に振りながら、小部屋に足を踏み入れた。年齢は中年に差し掛かっているはずなのに、どこか若々しい雰囲気を残した男だ。きちんと整えられた黒髪、細身のフレームの眼鏡、そして片眉を横切る細い傷跡。着込んだ青い白衣には、乾ききった血の斑点が散っている。


「ここ、禁煙ですよ」


「いやいや、ただの物置だろ?」


「はあ……ここは病院なんですよ。物置だろうと関係ありません」


そう、彼は医者であり、ついでにいえば――僕の数少ない“友人”だ。とはいえ、その関係は一般的な友情とは少し違う。互いに必要なときだけ手を貸し合う、静かな共同体。打ち明け話を交わす間柄ではなく、利害で結びついた関係だ。


小言を言いながらも、大輝は差し出した煙草を無言で受け取った。しばらくのあいだ、部屋には煙草の刺すような匂いと、消毒液と埃の混ざり合った匂いが満ちていく。窓から差す薄い光の下で、煙が細い渦を描くのを見つめながら、僕は煙みたいにこの悩みも消えてくれたら――そんなことを考えていた。


「優一さん……」


「なんだ?」


「この件、どう処理するつもりなんです? 診断書のほうは手伝えますが、こういう場合は当局への報告義務もあります」


返事はしなかった。煙草を吸い切り、床に押しつけて火を消し、それから口を開いた。もし大輝が報告すれば、すべてが厄介になる。海斗に起きた“本当のこと”を知る者は、可能な限り少なくなければならない。


「いくらだ?」


大輝は首を振り、吸いかけの煙草をゆっくりと踏み消した。


「金はいりません。ただの“貸し”にしておきます。大きいほうの」


「いつも貸しを返してるだろ?」


「いえ。“大きい”貸しですよ。分かるでしょう?」


思っていたよりは安い。金で済むと思っていたのだが、ただの貸しでいいなら悪くない。もし後で手に負えないことを要求してきたとしても、そのときは無視すればいい――そう思った瞬間、ふと冷や汗が流れた。


無視したら、こいつが口を割る可能性があるじゃないか。……少し縛っておく必要がある。僕と同じ程度に、いや、それ以上に巻き込んでおくべきだ。


「で、診断書には何て書くつもりだ?」


「車に撥ねられた、ですかね。あなた、医者じゃないですか。もっとまともな案をくださいよ」


大輝はふっと笑った。


「本当にそれでいいんです? 車ですよ? ……棒みたいに殴られた痕なのに」


黙り込むと、彼はそれ以上何も言わず、軽く僕の背中を叩いて部屋を出ようとした。


「まあ、できる範囲でやってみます」


「大輝、どれくらいかかる?」


扉の前で彼は立ち止まり、軽く考える仕草をした。


「三時間ほどでしょうか」


「なら……鎮静剤みたいなの、あるか? 少し落ち着きたい」


「何に使うつもりです?」


スマホを見る。午後三時少し前。三時間後――麗華が仕事を終える頃だ。


僕にとって今いちばん厄介なのは彼女だった。どう伝えるべきか。いや、伝えないという選択も考えた。二、三日ほど誤魔化しの理由を準備する時間を稼ぐ――だが、それは愚かだ。


黒田家には金がある。人脈もある。どこまで情報が及ぶか、僕は知らない。別の手段で知られたら、その瞬間に嘘は崩れる。


ならば――疲れている時間に、すぐ伝える。動揺しているほうが誘導しやすい。地ならしはすでに済ませてある。あとは“演じる”だけだ。


「優一さん、本当に大丈夫ですか?」


返事をせず、しばらくスマホの画面を見つめ、それから大きく息を吐いてしまった。


「考えすぎるな……自然にやれ。不器用で、完璧じゃないほうがいい……失敗しろ。嘘臭く見えないようにな」


                *********


午後六時半。院内の空気に息苦しさを覚え、僕は入口から少し離れた壁にもたれて外の空気を吸った。


小さいが評判の良い私立クリニック。出入りする人々の気配が途切れることはない。疲れた顔の患者、忙しげな医師、薬袋を抱えた家族――その雑踏をぼんやり眺めていると、突然タイヤが路面をこする鋭い音が響いた。


入口前で、車が急停止した。


……おいおい、ずいぶん良いスポーツカーだな。


車から女性が飛び降りた――いや、二人だ。


「れ、麗華さん、待ってください!」


やはり麗華だった。もう一人の女性は慌てて車を停め直している。


僕は深く息を吸い込み、鎮静剤の効果でほんのり重くなった身体を無理に起こし、表情に“心配そうな影”をつくって歩き出した。


麗華は小走り気味に進み、真っ青な顔で僕の横を通り過ぎた。


「麗華さん、ちょっと待って」


「……え?」


僕の顔を見ても、最初は分からなかったらしい。数秒遅れて、はっと目を見開いた。


「海斗……どこですか!? 海斗は!?」


肩を掴まれた。指が食い込む。必死というより、焦燥そのものだった。


「まず落ち着いて――」


聞こえていない。彼女はそのまま院内へ駆け込んだ。


僕も走りたい気持ちを抑え、あくまで“落ち着いているふり”をして追いかける。ヒールの硬い音が廊下に響き、彼女は受付へまっすぐ向かった。


「すみません、藤村海斗くん。ここへ運ばれたと聞きました!」


「ご家族の方でしょうか?」


「はい。家族です」


受付の看護師が一瞬こちらを見る。すでに話は通してある。僕は小さく頷いた。


「担当医がすぐにお話ししたいそうです。三番の待合室でお待ちください」


「……少しでいい、状態を教えてください」


「気持ちは分かりますが、先生がすぐ参りますので」


麗華は唇を噛んだ。納得できていない。それでも、数歩だけ部屋に向かい――そこでふいに思い出したように振り返った。


そうだ、僕は“海斗を連れてきた人間”だ。何か知っているはずだ。


「優一さん……あなた、海斗と一緒に来たんですよね?」


「麗華さん、まずは――」


言い終わる前に胸ぐらを掴まれた。上下に揺さぶられる。


声は低く、凍るほど冷たかった。それが一瞬、父の声と重なる。


だが怒りの奥には、涙の膜が張っていた。


――その表情を前にして、僕は言葉を失った。


海斗との関係を、完全に読み違えていた。

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