第31章『真実 』
どれだけ心のざわつきを押し殺そうとしても、限界があった。僕は校内の医務室にあるベッドの端に腰を下ろし、ただ待つしかなかった。
教室に戻ることも、腫れ上がった顔と破れた服のまま廊下を歩き回ることも、あり得なかった。そんな姿を誰かに見られれば、好奇の目と厄介な質問がつきまとう。ましてや教師に見つかれば、事情を誤解され、また強制的に職員室へ連れて行かれるかもしれない。
だから待つ以外になかった。だが、どれだけ待っても、何の知らせも来ない。その沈黙が僕を追い詰めた。一時的とはいえ、退学処分がどれほど続くのか——考えるだけで、時間が拷問のように伸びていく。
スマホも、リュックも、どこかへ消えていた。正確には……どこに投げ捨てたのか覚えていないだけだ。
何もすることがなく、ただ白い壁を見つめているだけで、胸の奥が軋んだ。落ち着かない呼吸。増していく焦燥。
十五分ほど経った頃だろうか。頭の中で雑音のように、取り留めのない断片が浮かんでは消えた。
結婚のこと。
麗華のこと。
あの息苦しさ。
喧嘩。
父の態度。
——全部。
僕はゆっくり、ゆっくりと息を吐いた。震える膝を無理に押さえ込んだその時、扉がノックされた。
「海斗、大丈夫か?」
優一だった。顔を向けると、思わず口からこぼれた。
「ぼっ、僕のせいじゃない……」
聞こえたかどうかは分からない。彼は僕の様子を深く気にすることもなく、淡々と言った。
「父上がお呼びだ。」
僕は小さく頷いた。
まだ授業中の時間帯だ。廊下に人影はない。だが、僕と龍の喧嘩は、もう全校に広まっているに違いなかった。
三階の職員室まで向かう途中、教科書を山ほど抱えた生徒とすれ違った。彼は僕を見ると、ぴたりと足を止め、小さくつぶやいた。
「……本当だったのか。」
身体が縮み、消えてしまいたくなる。僕は、最も嫌っていたもの——“注目される存在”——に成り下がっていた。
歩けば歩くほど、足が重くなる。やがて僕は優一の歩みに追いつけなくなり、その場で立ち止まった。
窓の外をぼんやり見つめ、つぶやく。
「……もう、嫌だ……」
優一が振り返る。
「海斗?」
「帰りたい……」僕は顔を上げた。「お願いだよ……優一……家に連れて帰ってくれ……」
どの“家”に帰りたいのか、自分でも分からなかった。
優一は小さくため息をつき、僕の前に立った。一瞬だけ迷いを見せたあと、その手を僕の頭に置く。
「……できないよ。」
軽く髪を撫でられただけなのに、打撲が痛み、僕は思わず首をすくめた。
「……なら、ひとつだけ頼みがある。」
「何だ?」
「麗華には……今日のこと、言わないでほしい。」
その日二度目の職員室。優一は中まで入らず、僕が足を踏み入れた瞬間、静かに扉を閉めた。
室内には二人の男がいた。ひとりは父。そしてもうひとりは、父の側近のような人物。校長の姿は見えない。
父は棚から分厚い本を取り出し、僕に目もくれずにページをめくっていた。もう一人の男は、ただ静かに、その様子を眺めている。鍛えられた体つきだが、威圧感はない。ただ大きいだけだ。
室内には、本の紙をめくる音と、僕の心臓の鼓動だけが響いていた。
僕は縮こまる衝動を押し殺し、なんとか声を出した。
「……父さん。」
父は応じない。僕がもう一度呼ぼうとしたその瞬間、ようやく本を閉じ、ため息をついた。
「……分かっているのか。今日は忙しかった。」
その声のまま、ゆっくりと僕の方へ歩いてくる。
「で……?」
問いかけというより、責めるような声音だった。何を求められているかは分かっている。
「すみません。」
僕はか細く答えた。
沈黙。その沈黙の中に、舌打ちが微かに混じったような気がした。
「海斗。」
「……はい。」
「恥をかかせたな。」
「すみません。」
「時間を無駄にした。」
「……本当に、すみません。」
——パシン!
鈍い衝撃が頭に走る。父がその分厚い本の角で、僕のこめかみを叩いたのだ。強くはなかった。けれど、不思議なほど痛かった。
「……謝っているようには見えないな。」
思わず頭へ手をやろうとしたが、腕を父に掴まれた。
「海斗。」
その声音に、身体がびくりと跳ね、僕は喉の奥から無理やり言葉を絞り出した。
「ご、ごめんなさい……」
——パシン。
二度目の衝撃。
「藤村の名に泥を塗った。」
「……すみません。」
——パシン。
声を荒げはしない。だが、その冷たさが怒り以上に恐ろしい。しかも同じ場所ばかりを叩かれるせいで、痛みが蓄積していく。
「どうして謝らない!!」
とうとう怒鳴り声になった。僕はひたすら謝るしかなかった。だが、父は謝罪の言葉など求めていない。ただ……僕を殴りたかったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「謝れ!まだだ!」
「ごめんなさい!!」
もつれた足取りで、僕たちは室内の奥へ押しやられていく。背後の校長机にぶつかり、僕は逃げ場を失った。
その次の一撃が、これまでで最も鋭く響いた。
本能的な怒りが込み上げ、身体が反射的に動いた。
「っ……痛い!!」
恐怖と痛みに突き動かされ、僕は父の手に爪を立て、思い切り引いた。その拍子に手が離れ、僕は後ずさる。
息が荒くなる。
父は、自分の手の甲を見つめ、そして僕に向けて低く言った。
「…何のつもりだ。」
僕は慌てて言葉を並べた。
「ち、違う…僕だって全部が悪いわけじゃ…ただ、取り返したかっただけで……指輪が盗られたらどうするんだ…!」
最初は、父の怒りを鎮めようと必死で早口になった。だが、声に乗った感情が止まらなくなり、そのまま吐き出していた。
「それに……結婚のことが知られたら大変だって……違法じゃなくても大騒ぎになるし……父さん、そんなの嫌だろうし…だから、だからあんなことを! 先生たちも全然いなくて、探してたら絶対奴ら逃げるし」
僕は必死だった。事情を説明しなければ、このまま押し潰される。だが、父は聞く気などない。
「言い訳だ。もっと賢く立ち回れたはずだ。方法はいくらでもある。」
父の指が、僕の額を小突く。
「全部お前の愚かさが招いたことだ。」
その言葉が、胸の奥で何かを切り裂いた。焦燥は、怒りへと変わった。
「……僕のせい?」
僕は自分を指差した。
「違う。」
手を見る。血で汚れ、爪の間に乾きかけた赤が残っていた。ほとんどは僕自身の血だ。
「僕は……できる限りはやった。」
小さくつぶやく。
見知らぬ相手との理不尽な結婚を受け入れ、家を追い出されても逆らわなかった。藤村家と麗華の家の関係を壊さないように気を使い、求められた学問をひたすら続け、大学も、進路も、会社での役割も、すべて、すべて父が決めた通りに従ってきた。
だからこそ、問いがこぼれた。
「どうして……?
僕はずっと……父さんの言う通りにしてきたのに。」
父は首を振った。
「どれも中途半端だ。自分の姿を見ろ。こんな息子を持ったこと自体、情けない。」
息が止まった。
情けない……?
十分じゃない……?
頭が真っ白になり、次の瞬間、熱がこみ上げた。
「中途半端…?」
声が裏返った。
「僕は…全部受け入れたんだ。全部…!」
「声を荒げるな。」
「知らない人と結婚させられて……!」
もう止まらなかった。
「聞いてもくれなかっただろ! 欲しいかどうかなんて……ただ命令されて、僕は……従ったんだ!」
父が近づく。
「これから言うことをよく聞け。黒田家との関係を壊すな。あの娘には——」
「……嫌だ。」
父が固まった。僕を見るその目が、大きく揺れた。
「……何といった。」
「嫌だ、って言ったんだ。」
声は震えていた。
「ずっとずっと……従ってきたのに……」
胸の奥が焼けるようだった。
「話し方も、人間関係も、進路も、全部……全部決められて……! どこが……どう間違っていたのか言ってよ!」
「声を落とせ。」
父の声は冷たさの中に、牙のような苛立ちをにじませた。
「相手を誰だと思っている。」
「知りたいだけだよ。どうして、何をしても認めてくれないのか。」
父は、僕を切り捨てるように言った。
「お前は弱い。泣き言ばかりで、子どもみたいに殴り合いをして……情けない。」
「盗られたからだよ!」
僕は叫んでいた。
「指輪を盗られたんだ! 誰かに結婚のことが知られる前に取り戻したかっただけだ! 全部……父さんのためだったんだよ……!」
「黙れ!」
「なぜ!?僕はもう…父さんの家にいない。責任なんか、ないだろ。追い出したじゃないか。だから、もう命令なんか聞かない。どうせ僕は“中途半端”なんだろ……?」
父の表情に、驚き、困惑、そして怒りが一気に浮かんだ。それは、見たことのないほど濃い感情だった。
「親に向かって」
「父さんこそ、分かってないよ。」
僕は奥歯を噛んだ。
「僕を家から追い出して……知らない女の子に押しつけて……それでまた好き勝手言うんだ。そんな権利、ないよ。」
父が一歩近づく。
「息子である以上、従うのが当然だ。」
その言葉に、いつもの僕ならひれ伏していた。だが今は——違った。
「息子……?」
かすれた笑いがこぼれる。
「都合がいい時だけ、ね。」
「口を慎め、海斗。」
「慎んでも意味ないよ。もう全部終わってる。」
言葉は止まらない。
「未来は決められ、結婚も勝手に決められ……それで、守ろうとしたら殴られて……恥だと言われて……!」
「黙れ!」
「嫌だ!」
怒鳴り返した。
声が震えた。
「僕を……売ったくせに! 黒田家との取引のために、僕を!」
「売ってはいない。」
「売ったんだ!!」
沈黙。
呼吸が乱れ、手が震える。その時初めて——父の目に、はっきりと“憎しみ”が宿った。
そして突然——
——ドンッ!!
衝撃。世界が傾く。身体が横へ流れ、校長机の上の書類や飾りが散らばった。気づけば床に倒れていた。
こめかみの横が熱く痺れ、すぐに鋭い痛みに変わる。
何……?
誰か……殴った……?
なぜ父の手には本が……? その角が……へこんで、血が……
耳がじんじんする。音が歪んで聞こえた。
扉が開いたようだった。声が断片的に飛び込んできた。
「頼んでいた物は?」
「はい。」
優一……?その声が、不思議と安心を呼んだ。優一が来たなら——もう大丈夫だ。彼は、いつも問題を“解決する”。
僕の兄だから。兄なら、僕を——助けてくれる。




