第28章『 問題 (2) 』
本を読んだりドラマを観たりしていると、物語の登場人物たちが肝心な場面で最悪の選択をしてしまい、どうしても苛立ちを覚える――そんな瞬間は珍しくない。だが、なぜそう感じるのか。おそらく「もし自分がその立場なら、もっと理性的に判断できるはずだ」「きっと問題を回避できるはずだ」と信じてしまうからだろう。自分ならもう少しうまくやれる、と。
責めるつもりはない。正直、僕だって同じことを思っていた。
だが信じてほしい。実際にそんな状況に放り込まれると、理性的に振る舞う自由なんてほとんど残されていない。いや、これは言い訳をしたいわけじゃない。
あの狭い隙間の奥へと、僕の指輪がもう二度と戻らない場所へ消えていったと気づいた瞬間、胃の奥底から嫌な感覚がせり上がり、胸を駆け上がり、喉が一気に乾いた。口を開けては閉じ、必死に肺へ空気を送り込もうとした。
頭に浮かんだのは、ただ一つ。
「なんで、僕なんだよ……?」
隣で龍が舌打ちする音が聞こえた。
「はぁ……せっかく良い指輪だったのに」
その声が――ああ、その声が。なぜか本当に惜しんでいるように聞こえた。口呼吸を一度、二度、三度繰り返し、ぎこちない動きで龍の方へ振り返った。
僕が睨みつけると、龍は「……なんだよ?」と呟いた。
情けない笑い声のような「ハッ」が漏れた。それを皮切りに、胸の奥で溜まりに溜まっていた感情が一気に爆発した。次の瞬間――
バンッ!
教室に大きな衝撃音が響いた。僕は龍もろとも机に体当たりし、机ごと倒れ込んだのだ。
龍が息を飲む音が聞こえた。抑えきれない怒りに突き動かされ、落下の痛みも無視して拳を振り上げ、そのまま龍の顔面に叩きつけた。
人生で初めて殴った感触は、まるで硬いゴムでも殴ったかのようだった。
あまりにも突然だったせいか、龍の取り巻きも反応が遅れた。
「龍!」
虎が駆け寄り、僕が二発目を振り下ろすよりも早く、何か硬いものを思い切り僕の顔へ叩きつけた。恐らくリュックだ。
その衝撃で横に吹き飛ばされ、視界がぐらつく。さらに二発目のリュックが襲いかかってきた。腕で防ごうとしたが衝撃を殺しきれず、視界が一瞬ぼやけ、鼻に痺れるような痛みが走る。折れたかもしれない。
虎は三発目を振り上げた。僕は焦り、手探りで横の床を探り、掴んだ物をそのまま投げつけた。それは筆箱だった。筆箱は虎の顔面に直撃し、鉛筆や色鉛筆が四方へ飛び散った。虎はよろめいたが倒れはしなかった。
僕は床を這い、虎の足の一本を掴むと全力で後ろに引いた。虎は体勢を崩し、そのまま床に倒れ、息を詰まらせたように苦しげな声を漏らした。
机を支えにしてなんとか立ち上がると、鼻から何か温かいものが垂れてきた。血だろう。
真っ先に僕が向かったのは――龍だ。別に作戦があったわけじゃない。本能だ。憎悪だ。とにかくぶっ飛ばしたかった。他のことはどうでもよかった。
だが、龍に意識を向ける前に、誰かが背後から僕を羽交い締めにした。腕を首に回し、締め上げてくる。
「てめぇ、誰に向かって――!」
「チッ」
振りほどこうと暴れ、足を振り上げて相手の足首を狙うが、大柄なそいつには全く通じない。前方の方から誰かの怒鳴り声が聞こえた。
「ぶっ殺すぞ!」
龍だ。ようやく立ち上がっていた。顔に血はないが、僕が殴った頬には青黒い痕が広がっていた。
「押さえてる、今のうちに!」
だが龍は友人の声など聞く耳を持たなかった。まるで突進する牛のように、肩から僕めがけて突っ込んできた。衝撃は凄まじく、僕も僕を押さえていたそいつもまとめて後ろに倒れ込んだ。
倒れた机の音が空の教室に響き渡った。いくつか壊れたのは間違いないが、一番の被害者は僕の後ろにいたそいつの方だ。とはいえ、僕も無傷というわけではない。龍の体当たりで息が止まり、呼吸を取り戻す間もなく、やつは僕の上に馬乗りになり、顔へ拳を叩き込んできた。
視界が揺れた。続く二発目で歯が軋み、痛みが脳に響く。幸いだったのは、下敷きになっていたそいつが本能的にもがき、僕を押しのけたことだ。息ができずパニックになっていたのだろう。
そのせいで三発目の龍の拳は僕の鼻ではなく、床へめり込んだ。骨が軋む音がした気がする。龍の表情が痛みに歪んだ。
ほんの一瞬、意識が戻った僕は、手当たり次第に龍の腕を掴み――噛みついた。そう、本気で。
「いってぇ! 離せよ!」
龍は僕の髪を掴んで振りほどこうとしたが、僕は噛みついたまま離れなかった。激しいもみ合いの末、二人同時に半ば立ち上がる形になった。
龍は僕の顔を押しのけ、足を使って僕の体を突き飛ばした。僕は再び倒れてしまい、背後でまだ倒れていたそいつに重なるように落ちてしまった。一方の龍は、運悪く近くに転がっていた机の角に背中を思い切りぶつけ、呻き声をあげて転がりまわった。
本能のままに、ふらつく足で立ち上がり龍へ向かおうとした。とどめを刺すつもりだった。だが二歩ほど踏み出したところで、別の奴に足首を蹴られ、横へ倒れ込んだ。龍の友人の一人だ。
そいつは僕の胸を蹴ろうと足を振り上げたが、間一髪でその脚を掴んだ。
「くそっ、離せ!」
もちろん離すわけがない。僕は引きずられながら頭を何度も蹴られた。そいつは苛立ち、僕の襟を掴んで床に叩きつけようとした。その瞬間の隙をついて、僕は床に転がっていた何かを掴み、そいつの頭に思い切り叩きつけた。それはリュックだった。
そいつはたまらず後ろへ倒れ、目を回しているようだった。僕は追撃しなかった。全身の痛みに耐えながら這うように龍へ向かった。龍はまだ床に転がり、背中の痛みに耐えようともがいていた。
僕は龍の制服を掴み、よろよろしながら拳を振り下ろした。顔面に一発、しっかりと入った。
「ゴホッ」
龍も、床にいながら僕の腹へ拳を入れてきた。とんでもない怪力だ。頭が一瞬真っ白になり、さらに怒りが増した。
気がついたときには、僕は龍の上に馬乗りになり、顔をひたすら殴りつけていた。一度、二度、三度……。僕がようやく拳を止めたのは、誰かが後ろから僕を力づくで引きはがしたからだ。
「海斗、やめろ!」
耳慣れた声だった。それでも僕は暴れ、床に爪を立てて食い下がった。
「やめろ、海斗! 落ち着けって!」
だが言うことなど聞く気はなかった。頭の中に明晰な思考は一つもなく、ただ龍を叩きのめしたいという衝動だけが全身を支配していた。さらに二人がかりで押さえつけられて、ようやく僕は抵抗をやめた。
龍も立ち上がった。焦点の合わない目をしており、鼻から血が垂れ始めていた。
きれいな喧嘩でも、まともな勝負でもなかった。むしろ龍以外は大した怪我をしていなかった。間違いなく一番ボロボロなのは僕だ。それも当然だ。四対一だったんだから、これ以上を望むなんて虫がよすぎる。
龍は床へ唾を吐き、怒りに染まった顔でこちらへ突っ込もうとした。しかし、今度は複数の生徒に肩をつかまれて制止された。僕の学校の制服を着た者もいれば、別の色の制服の者もいる。
「放せよ、クソが!」
龍は暴れ続け、さらに数人が加勢してようやく抑え込まれた。
「いい加減にしろよ、お前ら!」
「ここで何やってんだ!」
怒号が飛び交い、龍も僕も完全に押さえつけられた。鼻血が唇に溜まり、顎を伝って滴り落ちる。僕は片手で鼻をかむようにこすり、その手のひらに広がった血を見て、龍へ向かって投げつけた。
「ぶっ殺してやる!」
当然、龍はさらに激怒した。僕も負けずに叫び返した。
「こっちの台詞だよ! この泥棒野郎!」
互いに罵倒し合い、挙げ句の果てには「殺す」「死ね」まで飛び出した。自分でも驚くほど言葉が出てきた。普段はあれほど臆病なのに。ふと横を見ると、虎と他の二人も押さえ込まれていた。気づかなかったが、あいつらも殴りかかる寸前だったに違いない。そして、唯一参戦していなかった一人は遠巻きに見ており、顔は真っ青だった。口ほどにもないやつで、ある意味助かった。もしそいつまで加わっていたら、僕は間違いなく袋叩きにされていた。いや、正確には――あと少し続いていたら、僕が一方的に叩き潰されていただろう。
他の生徒たちの介入は、結果的に僕を救ったのだ。それでもシャツは破れ、ボタンもいくつか消えている。自分のリュックがどこにあるのかも分からない。アドレナリンで頭が焼けるようだった。
「海斗、もう黙れって!」
僕を押さえていた一人が、口を塞ごうと手を伸ばしてきたが、僕は狂犬のように抵抗した。
「この野郎! クソッ! カスが! ……ッ!」
龍も言い返していた。もはやお互い何を言っているのかすら分からない。僕は、どうしようもなく“品位ある大人らしい判断”として――龍に向かって唾を吐いた。
それは奇跡のようにきれいな弧を描き、龍の口元へ命中した。龍はさらに激しく暴れた。
「殺す! 絶対殺す!」
押さえている生徒が「誰か手伝え!」と叫ばなければ、本当に手から離れていたかもしれない。だが僕はその光景を見て――笑った。腹がよじれるほど笑った。歯に血が滲んでいるにもかかわらず、笑いが止まらなかった。




