第27章『 問題 (1) 』
教室へ戻ったのは、指輪が消えていることに気づいた、その瞬間だった。しかし、辿り着いたときには、あの龍とその取り巻きの姿はもうなかった。胸がざわつき、わずかな望みに縋るように床や机の下まで探し回ったが、指輪はどこにもなかった。むしろ、時間が経つほどに、胸の奥を締めつけるような不安が広がっていった。
近くの教室も手当たり次第に探した。普段の臆病さなど忘れていた。それでも成果はなかった。この時点で、教師に知らせるべきかとも考えた。盗難として扱われてもおかしくない。むしろ、それが最も合理的な選択だろう。だが──こういう状況で合理的に動ける人間など、ほとんどいない。
問題は時間だった。教師たちは全員、どこかで校長と会議中だ。場所を突き止めたところで、中に入れてもらえるはずがないし、どんな問題でも「会議が終わるまで待ちなさい」と言われるのは目に見えている。そうしている間に龍たちが学校を出るか、指輪を隠してしまうかもしれない。勝ち目は薄かった。
だが幸運にも──二年生の教室が並ぶ廊下を再び歩いていたとき、隣の教室から笑い声が聞こえた。あいつらだ。いくつかの机に腰掛けている。つまり、やつらも別の教室をうろついていたということだ。
ためらいなく中へ入った。他に誰がいるかなど目に入らなかった。真っ直ぐに龍のもとへ歩き、目を見据えた。
「返せ。」
龍は仲間と話していた口を止め、こちらを見た。
「は? 何のことだよ。」
その困惑は一見本物のようだったが、僕には嘘だと分かっていた。
「龍、この人、何言ってんの?」
「見ろよ、震えてんぞ。」
樽と、もう一人が口を挟む。しかし龍は表情一つ変えず、互いに視線をぶつけ合ったまま、三度呼吸をするほどの沈黙が流れた。
「僕の指輪だ。返せ。」
声は震えていなかった。恐怖が消えたわけでもないし、突然臆病な自分が消えたわけでもない。ただ焦りが勝っていただけだ。あの指輪を失えば取り返しのつかないことになる。麗華との関係が、せっかく良くなってきたばかりなのに、それを傷つけるのが怖かった。
龍は最初に視線を逸らし、額に手を当てて呆れたように息を吐く。
「……何の指輪だよ。」
「僕の指輪だ。お前が取った。いや、盗んだんだ。返せ。」
きっぱりと言い切った途端、仲間たちが笑い出す。龍は自分を指差し、半ば馬鹿にするような、しかし戸惑いも混じった表情を浮かべた。
「俺が?」
「返せ。」
「……嫌だ。」
龍は首を振り、表情を引き締めた。
「勘違いすんなよ。俺は何も取ってない。」
その声に嘲りはなかった。むしろ怒りに近い色が混じっていた。
「返してくれたら、誰にも言わない。」
一歩踏み込むと、また笑いが起きた。龍は舌で唇を湿らせ、信じられないと言いたげに肩を揺らす。
「……お前、頭おかしいだろ。」
そう言って立ち上がり、出口へ向かう。仲間たちも後ろにつく。だが横を通り過ぎた瞬間、僕は龍の腕を掴んだ。
「……は? 何だよ。」
「繰り返さないぞ。返せ。」
「離せよ、この狂人が!」
龍は振り払おうとしたが、僕は離さなかった。いや、離すつもりは最初からなかった。
「返せって言ってんだ!」
ついには龍の持ち物を力づくで探ろうとした。
「龍、大丈夫かよ!?」
「離れろ!」
互いに揉み合う。僕は龍のポケットに手を突っ込み、中を探ろうとし、龍は僕を引き離そうと腕に爪を立てた。痛みに一瞬たじろいだが、それでも手を放さなかった。
「っ……離せって言ってんだろ!」
龍は僕の顔を押しやり、後ろへ突き飛ばした。しかしその一瞬の隙に、僕は指先でポケットの中の物を引っかけ、かき出すことができた。だが引きずり出せても、掴めるとは限らない。床に落ちた小物が乾いた音を立てて散らばった。硬貨、紐の切れ端、折れた鉛筆のようなもの……。龍は慌てて足でそれらを隠そうとしたが、押しのけた瞬間──あった。ごちゃごちゃの中に、確かに僕の指輪があった。
拾おうとした刹那、龍が叫ぶ。
「虎!」
虎が勢いよく僕を突き飛ばした。そのせいで龍を掴んでいた僕も、一緒に倒れ込んだ。いや、正確には教卓にぶつかった。背中が角に当たり、空気が肺から抜け、肋骨に鋭い痛みが走った。
龍と僕は互いに手を離した。龍が先に起き上がり、僕は少し遅れた。
「ちっ……」
龍は腕を擦っていた。どうやらぶつけたらしい。立ち上がった途端、僕は虎へ飛びかかった。やつの手には、まだ僕の指輪があった。
「返せって言ってんだろ!」
驚いた虎は、指輪を放り投げた。
「受け取れ、ケンギ!」
指輪は弧を描き、ケンギが跳ねるようにして掴んだが、その勢いで机に足をぶつけた。ここは教室だ。当然、机がある。痛みに耐えきれなかったのか、ケンギは指輪を落とした。
「くそっ!」
僕は軌道を変え、床に向かった。しかしケンギが直前で蹴り飛ばす。
「ヒロシ!」
──ふざけているのか、こいつら。ヒロシが指輪を踏んで滑りを止め、拾い上げた。立ち上がる頃には僕もすでに動いていた。ヒロシが投げようとした瞬間、指先でぎりぎり触れた。わずかでも軌道が逸れ、再び龍の手に渡った。
見据える。
「返せ。」
龍は言いかけ、口を閉じた。短く思案し、薄く笑って言う。
「嫌だ。」
飛びかかった。近くにいたおかげで、投げる前に龍の手首を掴めた。固く握られた指をこじ開けようとし、龍は僕の手に爪を立てる。龍は僕より背も高く、力も強い。
「……虎、押さえろ!」
龍が歯を食いしばりながら言うと、虎が腕を僕の首に回し、後ろへ引きずった。息が苦しい。それでも僕は、龍の握った手を離さなかった。
「もうやめろよ!」
龍は僕の顔を押しやりながら後ろに下がり、頬を汗が伝い落ちた。
「なあ、友達。そろそろやめとけよ。」
「嫌だ!」
だが体力の限界が近かった。汗で指が滑り、完全に離れた。僕と虎は後方へ倒れ、龍は足をもつれさせながら机に激突した。よりにもよって、窓際の机だった。衝撃で、龍の握っていた指輪が弾かれるように飛び、窓の外へ──。
二階だ。数メートルの落下なら問題はない。だが問題は、その真下に建物の外壁の“開いた伸縮目地”があることだった。窓に駆け寄るより早く、指輪がその隙間に吸い込まれるように消えるのが見えた。
声が出なかった。
「……おっと。」
龍が横で呟いた。
その瞬間だった。理性が消え、本能だけが残った。
狂った──。




