第25章 『静けさ』
麗華が帰ってきたのは、いつもより早い時間だった。……と言っても、夜の七時前に帰宅したというだけだが。それでも、今回は事前に連絡をくれたおかげで、僕はふたり分の夕食を余裕をもって注文することができた。
正直に言うと、僕がそれを支払ったという事実に、妙な心地よさを覚えていた。
玄関で軽く挨拶を交わし、食卓につくと、僕たちはしばらく無言のまま箸を動かした。
何か話したほうがいいのだろうか。いや、別にいいはずだ。麗華は話しかけても嫌な顔をするような人ではない。むしろ、彼女と話すのは――悪くない。
「……その、仕事は……どうなんですか」
勇気を振り絞って口を開いた。
――責めないでほしい。僕には会話の経験がほとんどない。
麗華は咀嚼を終えると、飲み込み、まっすぐに僕の顔を見ながら答えた。
「まあ、いつも通り、かな」
肩をすくめてみせる。「楽な日もあれば、面倒な日もあるし。どうして急に?」
その声には、わずかばかりの興味が混じっていた。僕は視線を逸らす。
「……今日は、その……早かったから」
途中で言葉を切れば、察してくれると思った。
――正直に言えば、ただ単純に不思議だったのだ。麗華がこんな時間に帰ってくるなんて。
これまでの帰宅時間は、だいたい夜の九時から十時。僕が寝る準備をしているか、もう夕飯を済ませてしまった頃だ。
そして、朝は僕が起きる前にすでに家を出ている。
思い返せば、同じ食卓で食事をした回数など、片手で数えられる程度だった。
そのせいで――僕は考えてしまったのだ。
もしかしたら麗華は、僕と顔を合わせることを避けているのではないか。
だから遅く帰り、早く出るのではないか。
僕がここにいること自体が、彼女にとって負担なのではないか……と。
……しかし、昨夜あれほどきちんと話し合ったのだ。
これ以上、変な疑いを持つべきではない。
「海斗は? 学校はどう?」
麗華の声で、我に返る。気づけば僕は、箸で食べ物を無意味に転がしていた。
「海斗さん?」
「……まあ、普通、です」
「本当に?」
少し考える。
転校生の件もあるし、さらに言えばあの連中との嫌な遭遇もある。
けれど、それを口にしたところで、麗華を余計に心配させるだけだ。どうせすぐに終わる話なのだから。
「……大したことじゃないですよ」
麗華はじっと僕の横顔を見つめ、納得できないというように目を細めたが、僕が再び食べ始めると、諦めたように息をついた。
「ねえ」
穏やかな声で続ける。「もし何か心配ごとがあるなら、ちゃんと言ってくれていいんだよ」
その声は小さかった。でもちゃんと届いた。
僕は思わず動きを止める。
「……僕のこと、心配してくれるんですか」
ほぼ反射で出た言葉だった。
「当たり前でしょ」
まあね、とでもいうように肩を縮める麗華。
笑いかけようとした瞬間、スマホが震えた。
通知音が、言いかけた言葉をさらっていく。
送り主は優一。
長々と「俺って良い兄だろ?」と自慢じみた文章を連ねていたが、要するに、先日の怒りに対する“謝罪金”――四百万円――を送ったという内容だった。
……完全に忘れていた。
「友達?」と麗華。
「……まあ、大した人じゃないです」
“ようやくかよ”と返そうとしたが、途中で思い直し、短く“ありがとう”とだけ送った。
「……あ、そうだ」
横に置いていた小箱を手に取る。
今日の帰りに買った、小さな焼き菓子だ。
「それ……何?」と麗華。
「……えっと、その。デザート、です」
手渡すと、麗華はしばし箱を眺めていた。
「へぇ……誰かに物をもらうなんて、滅多にないから。だって私、基本ひとりでいるし。……変わっていくものね」
「……変わるっていうか、今はもう……お互い、ひとりじゃないから……」
麗華の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「いいね、それ。“もうひとりじゃない”……すごくいい言葉だね」
ふっと小さな笑い声を漏らし、口元を手で隠す。
「麗華さん?」
「ごめん、ごめん。ただ……何年もずっとひとりだったから。そういうの、ちょっと照れくさくて。でも、本当に……嬉しいよ、海斗」
たしかに自分の言葉は少し気恥ずかしい。
思わず頬が熱くなる。
でも、なぜだか麗華に茶化されても嫌じゃなかった。
むしろ――くすぐったくて、心地よかった。
「麗華さん、笑わないでくださいよ。結構真面目なんですから」
「ごめん、ごめんってば」
会話はまだぎこちない。
それでも、もう刺々しくも気まずくもない。
どこか柔らかくて、穏やかで……距離が近くなった気がした。
*********
麗華の視点
やっと肩の荷が下りた――そう思えた。
あの日の朝、海斗ときちんと話し合ってから、ようやくぐっすり眠れるようになった。
それどころか、気持ちまで軽くなったように思う。胸の奥にあった罪悪感も、少しずつほどけていくようで。
どうやら私は、気持ちがすぐ顔に出るタイプらしい。
仕事中に、部下であり友人でもある明日香に指摘された。
「麗華ちゃん、なんかいいことあった?」
「どうしてそう思うの?」
首をかしげながら、明日香はじっと私を観察する。
「んー……なんとなく、だけど。前はいつも、ちょっと遠く見てるみたいな目だったから。別に不機嫌ってわけじゃないんだけど、どこか疲れた感じ?」
自分の頬に手を当てる。
「大げさね」
「ほんのちょっとだよ。ほんの、これくらい」
指でわずかな幅を作ってみせる。
私は苦笑し、ちょうどそのときスマホが鳴った。
「たぶん、仕事が片付いたからよ」
そう言って画面を見た瞬間――動きが止まった。
「誰から?」
つま先立ちになって覗き込もうとする明日香。
「大した人じゃないわ。ちょっと静かにして」
むぅ、と不満げに頬を膨らませるが、それ以上は言ってこない。
「はい、もしもし――」
そして相手の第一声を聞いた瞬間、
思わず情けない声が漏れた。
「……え? ちょ、ちょっと待って」
「麗華ちゃん!? 顔、真っ青だよ!? な、何があったの!?」




