第23章 『 哀れみでしないで 』(2)
麗華は先ほどまでよりも落ち着いた様子を見せていたが、それでもどうしても譲れないことが一つあるようだった。
「でもね、やっぱり昨夜のことは謝りたくて。」
彼女は疲れたようにため息をついた。
「……もう忘れたほうがいいって言っただろ。でも――」
ふとある考えが浮かんだ。
「もしどうしても謝りたいなら、ひとつお願いを聞いてもらえる?」
「言ってみて。」
「……今日の朝ごはん、僕に奢らせてほしい。」
麗華は一瞬だけ困ったように眉を寄せたが、やがて小さく息を吐いた。
「わかったわ。でも、豚肉が食べたい。……ただし、」
真正面から見つめられた。その視線を受け止めながら、なぜか今回は目を逸らす必要を感じなかった。
「代わりに、夜は私が奢る。」
思わず、僕は口元が緩んだ。
「何か食べたいものはある?」
「べ、別に……なんでも食べるよ。」
「いい返事。でもね、“なんでもいい”って一番困るの。もっと具体的に言って。」
少し考えてから答えた。
「うーん……甘いもの以外なら。」
「どうして?」
「嫌いじゃないけど、今日は……なんとなく気分じゃない。」
「なるほど。じゃあ、甘いものはナシね。」
朝の六時半になったころ、麗華は腰を上げた。
「さて、と。もう邪魔しないわ。明日――じゃなくて、今日も仕事があるし。あなたも学校でしょ?」
「……あまり元気そうじゃないけど。」
「ただの二日酔いよ。そのうち治るわ。またね。」
麗華が扉をくぐろうとしたとき、思わず声をかけた。
「えっと……麗華さん。」
「なに?」
「少し、もうちょっとだけ休んだほうがいいと思う。」
何気ない一言だった。深く考えたわけでもない。
それでも、麗華はほんの一瞬だけこちらを見つめて、ふっと柔らかく笑った。
「そうね、今回はあなたの言うとおりにしようかしら。正直、あまり体調がいいわけでもないし。少し遅れて行っても問題ないしね。」
「仕事に遅れても平気なの?」
麗華は胸を張り、少し誇らしげに笑った。
「私、上司なの。」
「おおぉ……。」
なるほど、いろいろ納得した。
「し、仕事をサボる上司ってことか。」とぼそりと呟くと、麗華は肩をすくめた。
「あなたが来てから、よくサボってるかも。あっ、別に悪い意味じゃないわよ。」
僕は首を振った。
「わ、わかってる。僕も最近よく学校休んでるし。」
そう言って笑い合った。たぶん、その点では引き分けだ。
「じゃあ、ごはん楽しみにしてるわ。」
「……そ、その、ごはん、ベッドまで持っていこうか?」
麗華が初めて、ほんの少し驚いた顔をした。
「それ、大人が言うセリフじゃないってもう言わないけど……それって、ちょっと甘やかしすぎじゃない?」
僕は肩をすくめた。
「……たまには、甘やかしてもいいでしょ。」
麗華は声を立てて笑った。
「ふふ、そうね。じゃあ、本当に行くわ。またあとで。」
「麗華さん。」
もう一度、名前を呼んだ。
彼女は扉を出る直前、肩越しに振り返った。
ずっと言いたかったことを、この機会にようやく口にした。
「ありがとう。」
「何に対して?」
「い、いろいろ。僕を家に置いてくれて……優しくしてくれて……話を聞いてくれて。うん、まあ……全部に、かな。」
麗華は軽く手を振って、照れくさそうに笑った。
「はあ、そんなの、ただの人間の欠点みたいなものよ。大人になっても、私はよく間違えるんだから。」
「それなら――」
僕は思わず笑みをこぼした。
「ありがとう、不完全でいてくれて。」
短い沈黙が流れる。居心地の悪さをごまかすように、慌てて言葉を足した。
「そ、その……僕もよく失敗するから、わかる気がするんだ。むしろ、その失敗があったから、こうして素直に話せるようになったのかも。」
もう一度まっすぐに彼女を見つめると、麗華は静かに笑っていた。
「それ、褒め言葉として受け取っておくわ。」
――そして、そのことにも、ありがとう。




