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第23章 『 哀れみでしないで 』(1)

深い眠りの最中、部屋の扉を叩くしつこい音で目を覚ました。布団の中から半ば這い出すようにして体を起こす。まだ意識がぼんやりしていて、扉の向こうから聞こえる声の意味を理解するのに、数秒かかった。


「海斗さん、海斗さん。開けてください。お話、できますか?」


「れ、麗華……?」


こんな時間に、いったい何を――。


手探りでスマートフォンを探し、画面を確認した瞬間、思わず息をのんだ。まだ朝の五時だった。彼女を部屋まで送ってから、たった六時間。ようやく眠りについたのは一時間後だったから、実際には五時間ほどしか経っていない。外ではまだ雨が降り続いており、空気は冷たい。……今日、学校に行く時は傘が必要かもしれない。


「海斗さん、いらっしゃるんですか?」


考えに沈んでいるうちに、彼女の声がいっそう不安げになった。これ以上待たせるわけにもいかない。頬を軽く叩いて眠気を追い払い、部屋の明かりを点け、慌てて身の回りを整えた。なぜか、髪まで手ぐしで整えていた。


「な、何かあったんですか……?」


扉を開けた瞬間、麗華の顔色に息をのんだ。蒼白で、まるで病人のようだった。昨夜と同じスーツ姿のまま。僕の顔を見ると、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに言葉を失った。喉の奥で何かが引っかかったように、声が出ないらしい。


沈黙が重くのしかかる。


「れ、麗華さん……?」


僕の声で、ようやく彼女は我に返ったようだった。軽く頭を振り、乱れた髪を片手で整える。


「海斗さん、お話、してもいいですか?」


彼女の視線が部屋の中をちらりと見た。――中で話したい、という意味だろう。ここは彼女の家だ。断る理由など、ない。


頷いて座布団を差し出す。僕たちは小さな卓を挟んで向かい合った。


「昨夜のこと……本当にごめんなさい。」


深く頭を下げた。やはり、覚えていたのか。


酒の勢いでの出来事なら、今朝には忘れていると思っていた。せいぜい、頭痛に苦しむ程度だと――。


言葉を失ったままの僕に、彼女はまだ頭を下げたまま動かない。きっと、僕が何か言うのを待っているのだろう。


「い、いいですよ……はあ……。」


恥ずかしさを押し殺して頭を振る。もし本当に覚えているなら、このまま曖昧にしておく方がよくない。きちんと話し合うべきだ。


「そ、そんなに気にしないでください。誰にでも……言いたくなること、ありますし。怒ってません。」


けれど、麗華は顔を上げなかった。


「いいえ、海斗さん。本当に、あんなことを言うべきじゃなかった。許されることじゃありません。」


「……でも、あれは本音だったんでしょう?」


なぜ、今さら取り繕おうとするのか。ここまで来たのなら、逃げる必要はないはずだ。


麗華の眉がわずかに寄った。


「そんなつもりじゃ――」


「う、嘘はやめてください。」


声が震えるのを押さえながら言葉を継ぐ。「言葉にした以上、それが全てです。だ、だから……はっきり話しましょう。」


その言葉に、彼女はようやく顔を上げた。痛みを堪えるような表情。それでも黙っている。なら、僕が言うしかない。


「正直に言うと……」息を吐いた。「時々、あなたに迷惑をかけている気がします。ここはあなたの家で、僕はただの厄介者みたいで。」


彼女が何か言おうとしたが、僕は手を上げて制した。


「……まず、聞いてください。そのあとであなたの話を聞きますから。」


「わかりました。」


「よ、よかった。……とにかく、それが一番の問題なんです。僕は、ここにいてはいけないような気がして。あなたの自由を奪ってるような。だって、僕らの結婚は契約に過ぎない。感情なんて、ない。もしあなたが誰かを好きになったとしても、僕がそれを邪魔してしまう。……だから、僕はあなたを縛ってるように感じるんです。」


それが本音だった。僕は、彼女の生活を乱す存在にすぎない。


「そ、それが一つ目。そして二つ目は……僕がここで世話になっている分、何かで返さないといけない気がして。だから、夕食を奢らせてほしいって言ったんです。学生の身分でも、それくらいならできる。少しは役に立ちたいと思って。」


言葉を吐き出すように長い息をつく。こんなに話したのは、いつ以来だろう。


「そして三つ目……」少し間を置いて、続けた。「あなたは、いつも本音を隠している気がします。優しい人だから、きっと何も言わない。でも、もし僕の行動に少しでも不満があるなら、ちゃんと言ってほしい。黙っている方が、僕には辛い。」


言いたいことをようやく形にした。胸の中の重石が少し軽くなる。


麗華は静かに聞いていた。口を開きかけては閉じ、やがて小さく息を吸った。


「わかります。……でも、海斗さん、聞いてください。私が言うことは、憐れみでも義務でもありません。ただの、本当の気持ちです。」


まっすぐ目を見られ、僕は思わず息をのんだ。


「確かに、私たちの結婚は契約でした。最初は、正直あなたが家にいるのが落ち着きませんでした。」


胸の奥が冷たくなる。だが、遮らずに耳を傾けた。


「でも、今は違います。あなたがここにいることが、迷惑だなんて思っていません。むしろ……一緒にいることに慣れてきたんです。けれど、あなたはきっと、この状況に苦しんでいる。知らない女性の家に暮らすのは、きっと辛いでしょう。」


否定できなかった。彼女は続ける。


「それに、あなたが何か返したいと思う気持ちもわかります。でもね、海斗さん、私はすべての費用を負担すべきだと思っています。まず、あなたはまだ若い。働く必要なんてない。次に、私は大人であり、責任を持つべき立場だから。そして……これは私のせいで結婚が決まったからです。償わなければならないと、どうしても思ってしまうんです。」


「……つまり、僕に対して罪悪感を感じている、ということですか?」


麗華は小さく頷いた。


「あなたを巻き込んだこと、結婚のこと、全部。」


「れ、麗華さん、それは――僕の家では普通のことです。政略結婚なんて、珍しくもない。両親もそうでしたし、兄の優一も、もう高校の頃から決められた相手がいます。」


「でも、それは正しいことじゃないわ。」


「そうかもしれません。でも、僕にとっては普通なんです。だから、あなたが自分を責める必要なんてない。」


しかし、彼女は納得しない様子だった。


「僕の未来を奪ったわけでもない。恋人も、友達も、家も……何もなかったんですから。」


自分で言いながら、少し情けなさを覚えた。それでも、それが真実だった。失うものなど、最初からなかったのだ。


「でも……」と、麗華は小さくつぶやいた。


「れ、麗華さん。僕に同情しないでください。それに、あなたも僕から利益を得ている。僕はあなたの経済的な安定を、あなたは僕の姓を。それだけのことです。契約です。」


「……でも、私はあなたを――」


「な、なら、僕ももう甘えるわけにはいきません。」


「海斗さん……これ以上話しても、平行線かもしれませんね。」


確かに。互いに譲れないまま、言葉を重ねているだけだった。


「じゃあ……こうしましょう。」


深呼吸してから言う。「お互いに、譲り合う。僕も少し、あなたも少し。」


「譲り合う……?」


「もし、僕が誰かを好きになったら、その時は正直に言います。誰かと付き合いたいと思ったら、それも。あなたのために止めたりはしません。」


麗華はしばらく黙って、それから静かに尋ねた。


「約束してくれるの?」


「約束します。そして、何か嫌なことがあったら、それもちゃんと伝えます。僕は僕の人生を生きる。あなたのために止まったりしません。」


麗華の表情が少し柔らかくなった。


「……でも、ひとつ条件があります。」


「なにかしら?」


「あなたも同じようにしてください。誰かを好きになったら、何かを望んだら、隠さずに言ってください。僕のせいで止まらないでください。それだけが、僕の願いです。」


「海斗さん……。」


「……お願いします。」


「はあ……わかりました。約束します。」


それで、ようやく一つ目の問題は片づいた。


「それと、お金のことですが」


言葉を続ける。「僕の家も、裕福なんです。だから心配いりません。お金で困ることはありません。」


彼女は少し考え、指で卓を軽く叩いた。


「あなたがそう言うなら……。でも、役に立ちたい気持ちはわかります。」


小さく笑って言う。「じゃあこうしましょう。夕食代だけ、あなたに任せます。それ以外は、だめ。」


抗議しようかと思ったが、僕も譲ることにした。彼女も歩み寄ってくれたのだから。


「それと条件があります。もしお金に困ったら、必ず私に言うこと。隠したらだめ。」


思わず微笑んで頷いた。


残るは最後のお願い。


「……最後に、お願いがあります。」


「なに?」


「この結婚のこと、もう罪に感じないでください。僕に哀れみを感じるのもやめてください。償おうとしなくていい。」


「それは……。」


「難しいのはわかります。でも、これは契約です。あなたのせいじゃない。僕はあなたを恨んでいないし、むしろ感謝してる。」


「……。」


「じゃあ、僕も同じように罪悪感を持つべきですか?あなたの家に居候して、迷惑をかけてる僕が。」


麗華は言葉を失った。


「ね?あなたも、僕にそんな風に思ってほしくないでしょう。だから、あなたも同じです。」


長い溜息が漏れた。これ以上、話せる気力が残っていなかった。今夜だけで、一年分は喋った気がする。


「……わかりました。もう気にしません。努力します。」


目を閉じ、深呼吸を一つ。


「私の方が、子供みたいですね。でも、やってみます。」


「それと……」と僕は続けた。「もし、哀れみや罪悪感から何かをするなら、それはやめてください。そんな気持ちでされたら、つらいだけです。」


彼女の瞳が静かに開いた。


「約束します。もし、私の中にあなたへの気持ちが生まれるなら、それは本物にします。哀れみでも、義務でもなく。」


頷いた瞬間、胸の奥に少しだけ温かいものが灯った。


麗華は顔を上げる。


「海斗さん、実はまだ話していないことがあります。大事なこと。でも……今はまだ言えません。少しだけ、時間をください。」


――もしかして、娘さんのことだろうか。だが、無理に聞くのはやめた。


「わかりました。待ってます。」


彼女はほっとしたように息をついた。


そして、偶然にも、同時に言葉が重なった。


「これからも、仲良くしましょう。」

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