第22章 『 言っていい 』
麗華は立っていることさえできなかった。だから、支えるしかなかった。
僕は彼女の肩の下に腕をまわし、どうにかしてソファまで導いた。重いというほどではない。けれど、うまく歩けないせいで、一歩進むたびに僕まで引きずられるようだった。彼女の体を支えていると、かすかに香水の匂いが漂ってくる。肌から伝わる温もり。息づかい。重み。
年頃の男なら誰もが羨むような状況――そう言えなくもない。だが、そのすべてを打ち消すほどのアルコールの臭いがあった。酔っている本人にはきっと気にならないのだろう。けれど、飲んでいない側にとっては、まるで違う。それに、酒の匂いというのは恐ろしく広がりやすい。閉め切った部屋ならなおさらだ。
そんなことを考えていると、ソファに腰を下ろした麗華が、かすかに口を開いた。
「海斗さん……」
彼女はほとんど目を開けていられない様子だった。よくまあ、この状態で運転して帰ってこられたものだ。……いや、まさか誰かが送ってきたわけでもない。ガレージに車の音がしたのは確かだし、玄関の方から足音も聞こえなかった。
一瞬、彼女のハイヒールを脱がせてやろうかと思った。ここに暮らすようになってから、麗華が帰宅すると必ず室内用のスリッパに履き替えることを僕は知っている。
――でも、勝手に触れるのはどうなんだろう。許可もなく、そんなことをしていいのか。いや、それでもこのまま歩かせるのは危険だ。
「海斗さん」
「……はい、何ですか」
「話があるって、言ってたでしょう……」
麗華は目頭を指でこすりながら、まぶたの重さに抗うように言った。
「……今は、その状態じゃ……話すのは無理ですよ」
「海斗さん」
「……聞いてますよ」
結局、僕は覚悟を決め、いつものスリッパを手に取った。
それにしても、よくあんな高さのヒールで歩けるものだ。――やっぱり、女性って、やろうと思えば何でもできるんだな。
「怒ってるの?」
「……え?」
「怒ってるように見えるの。ううん、違うわね……」
言葉を探すように、彼女は手を宙で動かした。
「がっかり、してる……? そう、がっかりしてる顔に見えるの」
本当に、そう見えるんだろうか。僕は自分の頬に手をあててみた。どんな表情をしているのか、よくわからなかった。けれど、すぐに首を振った。
――彼女は酔っている。ただ、そう見えているだけだ。
できるだけ視線を逸らさず、余計なところを見ないよう注意しながら、片方のヒールを外し、スリッパに履き替えさせた。麗華は動かず、ただ僕の背中を見つめている気配だけがあった。
「海斗さん」
「……はい、どうぞ」
「――嫌いよ」
手が止まった。
今の言葉が現実のものなのか、それとも幻聴なのか、一瞬判断がつかなかった。それとも、酔いすぎて口走っただけなのか。
「……え?」
思わず声が漏れた。
顔を上げると、そこには酔いどれの曖昧さも、眠気の残滓もなかった。
「嫌い」
彼女はもう一度、はっきりとそう言った。どう返せばいいのかわからなかった。酔った相手に、こんな言葉をぶつけられたとき、普通の人ならどうするんだろう。言い返すのか。それとも、怒鳴るのか。いや――何が正しいのかなんて、僕にはわからなかった。だから、僕が口にできたのは、それだけだった。
「……酔いすぎですよ」
もう片方のスリッパを履かせ、立ち上がる。ヒールを片づけようと背を向けたそのとき、背後で小さな声がした。
「海斗さん、待って……」
その声の直後――
「っ……!」
振り返るより早く、崩れ落ちるような音がして、思わず体が反応した。
「危ないっ!」
腕を伸ばしたが、うまく受け止めきれなかった。勢いのまま、僕たちは一緒に床へ倒れ込む。鈍い衝撃が全身を突き抜け、頭の中が揺れた。歯が鳴り、息が詰まる。映画のように美しくなんて、もちろん倒れられない。
ただ痛くて、息苦しくて、みっともないだけの転倒だった。しばらくして、ぼんやりと目を開ける。視界の中、麗華が僕の上に覆いかぶさっていた。その瞳は、鋭く、まるで何かを刺すように僕を見つめていた。
「……嫌いよ」
彼女はもう一度、吐き捨てるように言った。
僕は何も言わなかった。
部屋の中に、静寂だけが落ちた。
「海斗さん……」
窓の方から、かすかな音が聞こえた。
――ぽつ、ぽつ、と。
雨だ。降り出したらしい。
視線をそちらへ向ける。
庭へ続くガラス戸の表面に、小さな水滴がいくつも散らばり、やがて流れ落ちていく。
「海斗さん」
麗華の声が、さっきより少しだけ近くなった。
けれど僕は顔を向けなかった。
――見たくなかったのだ。
彼女の歯がかみしめられる音が、はっきりと聞こえる。
その表情が、怒りに歪んでいるのが想像できてしまうから。
これ以上、彼女の姿を、そんな形で記憶に残したくなかった。それでも、雨音に混じって、彼女の呼吸は途切れず耳に届く。
静寂の中で、その息づかいだけが熱を持っていた。
「……わかりました」
小さくため息をつき、僕は口を開いた。
「言っていいですよ」
「わ、わたし……」
「……」
もう逃げられないと思った。だから、意を決して彼女の顔を見た。そこには、悲しみと怒り、焦りの入り混じった表情があった。その目は冷たく、硬く、僕の姿を映している。
けれど、その唇は震えていて、言葉を押し殺すように歯をかみ締めていた。
「わたし……」
「麗華さん。――言ってください」
麗華の手が僕の頬に触れた。だが、その仕草は優しくはなかった。
震えながらも、力がこもっていた。
「海斗……」
「言ってください」
麗華は大きく息を吸い込んだ。胸の奥に押し込めていた言葉を、もう抑えきれないように。
そして、叫んだ。
「どうして、そんななのよ?! なんで何も言わないの?! どうして認めようとしないの?! どうして、全部抱え込むのよ!」
拳で床を叩く音が響く。
「わたしがどんな気持ちでいるか、わかってる?! 毎日、ずっと、同じことばかり考えてるの!“きっと海斗は、この状況を嫌ってるに違いない。” “本当はどう思ってるんだろう。” “何を考えてるんだろう。” “いつになったら言ってくれるんだろう。” ――その待つ時間が、わたしをあなたのこと、嫌いにさせるの!」
麗華はさらに顔を近づけ、怒りを帯びた声で吐き出した。
「黙ってるあなたが嫌い! 本音を言わないあなたが嫌い! わたしを責めもしないあなたが嫌い! ただうなずいて、何も感じてないふりをするあなたが――大っ嫌い!」
拳を握りしめた手が震えていた。
「何か言ってよ! 何か言って! 全部わたしのせいだって言って! そう言えばいいじゃない! “おまえのせいで人生を壊された”って! “未来を奪われた”って! “こんな家、もう嫌だ”って! “知らない女と暮らすなんて耐えられない”って! “こんなふざけた状況、もううんざりだ”って――!」
彼女の声は次第に掠れ、震えながらもなお続いた。
「お願い……わたしを憎んで。そうしてくれないと、もう耐えられないの。せめて……少しは楽になれるかもしれないから」
その目には涙が滲んでいた。
「わたしを責めて……罰してよ」
僕は、彼女の目から逃げなかった。
あまりに近く、息が触れそうな距離で――それでも、黙って見つめ返した。
彼女の震える声が、静かな部屋に吸い込まれていく。
「どう接していいかわからない……そんな自分が嫌い。だからお願い、海斗……わたしを憎んで。お願い……」
――これが、麗華の本心なのか。
この政略結婚のことを、彼女は自分の罪だと思っているのだろう。確かに、僕は拒めなかった。
十六歳の少年を無理に巻き込んでしまった――そう自分を責めているのかもしれない。でも、それは違う。彼女のせいではない。
それでも、人は「正しさ」よりも「救われる言葉」を求めることがある。
「海斗さん……わたしを憎んで。そして、憎んでくれるなら――」
嗚咽まじりに言葉を継ぐ。
「――許して」
そう言って、彼女はそっと額を僕の額に押し当てた。
「ごめんなさい。海斗、ごめんなさい。わたしが間違ってた。許して」
「……なぜ、謝るんですか」
僕はかすかに呟いた。
「全部……わたしのせいだから。気持ちも、行動も、どうしようもなくて。ごめんなさい。
不公平なの、わかってる。だから余計に、ごめんなさい……」
――不公平なのは、むしろ彼女のほうだ。こんなにも自分を責めながら泣く人に、僕は何を返せばいい?
だから、僕は彼女の望む言葉を選んだ。
「麗華さん……」
彼女は少し顔を上げ、赤く腫れた目で僕を見つめた。
「……僕も、あなたが嫌いです」
その瞬間、麗華の表情がくしゃりと歪んだ。
歯を食いしばり、唇を震わせる。
「……そして、そんなふうに思ってしまう自分を、許してください。
この“嫌い”さえ、不公平だから」
――
麗華をどうにかして部屋まで運んだ。階段を上がるのが、いちばん大変だった。そして――それが僕にとって初めて、彼女の部屋に足を踏み入れた瞬間でもあった。思っていたより、整然としていた。
大きな本棚にはびっしりと本が並び、隣には洋服ダンス。その奥にベッドと、小さなナイトテーブルがあった。不思議なことに、麗華はそのテーブルの上に置かれたある物を、どうしても手放そうとしなかった。ベッドに入るときも、それを胸に抱きしめたままだった。
もちろん、服に手を出したりなどしない。ただ、靴を脱がせ、布団をかけてやるだけ。それでも、しばらくのあいだ、その場を離れられなかった。どう受け止めればいいのか、わからなかったのだ。
――まったく、予想もしていなかった夜だった。
「……溜め込みすぎるのは、よくないですよ」
眠りに落ちた麗華に向かって、そっと呟いた。
「いつか、爆発してしまいます」
そっと、頬にかかった髪を指先で払う。彼女の寝顔は、泣き疲れた子どものように穏やかだった。そして、視線がふと、その手元に向いた。麗華が抱きしめているそれ――写真だった。
「……ああ。あの子が、ユナさん、ですね」
写真の中には、彼女と少女が並んでいた。互いに腕を回し、微笑んでいる。驚くほどよく似ていた。まるで、同じ光を分け合うような笑顔だった。




