第21章 『 話し合いの行方 』
その日、僕はいつもより早く鳳誠学園に着いた。
昨夜、麗華とのいざこざのせいで、なかなか眠れなかったのだ。
布団の中で何度も寝返りを打ちながら、彼女を納得させられるような理屈を必死に考えた。頭の中ではそれなりに筋が通って聞こえる言葉だったが――はぁ、実際に話し合う場面になったら、きっと何の役にも立たないだろう。
というのも、僕のいちばんの問題は、ひどい人見知りだ。
こういう時、僕はただ黙って頭を下げ、相手に譲ることしかできない。それがもう、本能のように染みついていた。そこに、芯の弱さと説得力のなさが加われば、麗華との会話がどう転ぶかは火を見るより明らかだ。
だからこそ、心の準備だけはしておかなければならなかった。
負けるつもりはなかった。
授業の最初の数時間は、どうにも身が入らなかった。
けれど、校内にはどこか浮き立つような空気が漂っていた。今日は、他校の生徒たちが鳳誠学園を見学に来る日なのだ。
午前十時ごろ、ぼんやりと廊下を眺めていると、見慣れない制服の列が、教師の後ろについて整然と歩いていくのが見えた。
――あれが校長の言っていた「交流見学」の生徒たちか。
今日は早く起きたおかげで、朝食も家で済ませることができた。
それに、友達のいない僕は休み時間になると、いつも一人で過ごせる場所を探している。
教室は駄目だ。あそこはグループ同士が集まる場所で、一人でいると却って目立ってしまう。
幸い、この学園で過ごした年月のおかげで、誰も来ない静かな場所を見つけていた。
いつものように、ポケットに忍ばせた飴やお菓子を片手に、校舎裏の階段へ向かった。
雨の日を除けば、なかなか居心地のいい場所だ。
チャイムの音で我に返り、慌てて教室へ戻った。
一人きりだと、つい時間の感覚を失ってしまう。
ドアを開けた瞬間、何か硬いものにぶつかった。人の背中だった。
「……なんだよ」
振り返ったのは、緑色の制服を着た背の高い男。顔つきが怖い。
「……す、すみません」
僕は慌てて頭を下げた。
「海斗くん」
教師の声が聞こえた。
「……はい?」
「この教室は今、模擬授業のために使っています。クラスの皆さんから聞いていませんか?」
――またか。どうしてこういう時、いつも最後に知らされるんだろう。
僕は小さく首を振った。
教師はため息をつく。
「授業が終わるまでの一時間、自由にして構いません。他の生徒たちは体育館に向かっていますよ」
え? 本当に授業が潰れるのか?
校長の話では、通常通り行うはずだったのに。
……まあ、一時間程度なら「中断」には入らない、ということなのかもしれない。あるいは単なる準備不足か。
返事をしようとした瞬間、小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げると、教室の中は見知らぬ生徒たちでいっぱいだった。
顔から火が出そうだった。
「す、すみません!」とだけ言って、そそくさと出ようとしたところで、教師が再び呼び止めた。
「海斗くん、荷物も持っていきなさい」
再び笑いが起こる。
恥ずかしさで胸が潰れそうになりながら、僕は教室を後にした。
体育館に着くと、もうほとんどのクラスメイトが集まっていた。
僕のあとからも数人が入ってきて、同じように不満をこぼす。
「ったく、先に言ってくれりゃいいのに」
「マジで恥かいたわ」
「俺なんか、遅刻したかと思った」
少しだけ、救われた気がした。どうやら僕だけの失敗ではなかったらしい。
僕たちは特にすることもなく、ただ時間を潰していた。
いつものように、天音は健太にぴったりとくっついている。
――頼むから、もう少し周りを気にしてくれよ。
暇を持て余した僕は、鞄の中を探り始めた。
ポケットの中の飴が切れそうだったので取り出そうとしたら、布の感触が指先に触れた。
結婚指輪だった。
指にはめておくと、余計な問題を招きかねない。
だからハンカチに包んで、いつも隠してある。
家でもつけることはない。
――そういえば、麗華はちゃんと身につけているのだろうか。
そんなことすら気にしたことがなかった。
手を洗っていると、他校の制服を着た数人の生徒が、笑いながら入ってきた。
「見たかよ、さっきの!」
「ああ、可愛かったな」
「はぁ、マジでヤりてぇ」
……なんの話だ? 関わらない方がいい。さっさと出よう。
六人ほどの集団だった。
何人かはトイレの個室に入り、僕は紙で手を拭くふりをして時間を稼ぐ。
一人だけが洗面台で髪を濡らしながらつぶやいた。
「チッ……まさかトイレがこんなに綺麗とはな。うちの学校じゃ考えられねぇ」
……僕に話しかけてるのか?
「おい、虎! ここ、水ちゃんと出るぞ! 聞いてんのか、虎!」
「今、クソしてる!」
どっと笑いが起きる。――もう、出よう。
だが、出ようとしたその時、個室から次々と彼らが出てきた。
「やべ、詰まったかも」
「ほっとけよ。どうせ金持ちの学校だ、掃除くらい誰かがするだろ」
人が多くて通れない。
どうにか背後を回り抜けようとした時――
「おい、ちょっと待てよ」
「トオル、お前、詰まらせたのか?」
「シーッ! でかい声出すな、誰かに聞かれたらどうすんだ」
「ははっ、いや、そこの奴には聞かれてるかもな」
ようやく僕の存在に気づいたらしく、全員が一斉にこちらを向いた。
「いやいや、冗談、冗談! な? 何も言うなよ?」
彼らは僕を囲むように立つ。
「トオル、どうする? 罰金か? それとも掃除か? ははは」
「こいつは俺の友達だ」
――え?
トオルと呼ばれた少年が、僕の肩に腕を回してきた。
「……え?」
「な? そうだろ? 名前は?」
顔を近づけてくる。
すると髪を濡らしていた龍が割って入った。
「心配すんな、トオル」
「でもよ、龍……」
「この子は友達だろ? な?」
龍は僕の頭に手を置いた。反射的に払いのける。
「おー」という茶化しが起こる。
次の瞬間、龍は大笑いした。
「ははははは!」
「いいじゃねぇか、もう。こいつは俺たちの仲間だ。な? 何も言わねぇだろ?」
「本当か?」
「ああ。もう放してやれよ。気に入ったのか?」
「ばっ、違う!」
ようやく腕が離れ、息ができた。
だが、出口に向かおうとした瞬間、龍が立ちはだかった。
「……俺たちの友達、だよな?」
動かない。
知らない相手にここまで踏み込まれると、何も言えなくなる。
逃げられないと悟って、僕は目を見据え、小さく答えた。
「……うん、そうだよ」
龍は満足げに頷いた。
「じゃあ、坊ちゃんは授業に戻ってもらおうか」
取り巻きの笑い声が背後で弾けた。
僕は無言でその場を離れた。
家に帰ったのは、いつもと同じ時間だった。
どうやら健太が先生から許可をもらうことには成功したものの、校長だけは首を縦に振らなかったらしい。
それでも一日中、頭の中は麗華のことでいっぱいだった。
どうやったら彼女に「せめて少しは家計を分担させてほしい」と伝えられるのか。
トイレでの出来事が頭から離れず、集中できなかったが――
考え抜いた末に、一つの結論に辿り着いた。
もし理屈で説得できないなら、正直に話すしかない。
自分がどう感じているのか、彼女に頼りきりでいることがどれほど情けなく、惨めに思えるのか。
僕は賢くも雄弁でもない。
だが、嘘をつきたくはなかった。
夜の七時ごろ、麗華の車の音がガレージに響いた。
玄関のドアが開く音を聞いて、僕は心の準備を整えた。
――今夜こそ、話し合おう。
そう思った矢先、麗華の声が響いた。
「海斗さん!」
不思議に思って玄関へ向かうと、すぐに悟った。
胸の奥に失望が広がる。
足取りがふらつき、顔に赤みが差している。
そして――酒の匂いが強かった。
「海斗さん、約束通り、今日は早く帰ってきたのよ」
扉にもたれかかりながら、彼女は笑った。その姿を見つめながら、僕は何も言えなかった。




