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第20章 『 ありがとう 』


そう長く待つこともなく、玄関の扉が開く音がした。やはり、麗華だった。昨日と同じように遅くなると思っていたから、少し驚いた。それに、夕食を早めに頼んでおかなかったことを後悔した。

けれど、迎えに出ることはしなかった。

主に――恥ずかしかったからだ。

彼女を待っていたなんて悟られたくなくて、スマートフォンを手に取り、意味もなく画面を叩いた。


「……あ、海斗さん。」


少し疲れの滲んだ声。

だから、無理にでも返事をした。


「……お、おかえり。」


落ち着いた声を意識して、できるだけどもらないように。

麗華はソファの横に鞄を置き、ハイヒールを脱いでスリッパに履き替えた。

そのまま冷蔵庫へ向かい、飲み物を取り出す。


「何か食べた?」


そう言いながら、気の抜けたようにキャップをひねる。僕は首を横に振った。


「……えっと、頼んでおいた。二人分。でも……」


後頭部をかいた。


「気に入るかは分からないけど。」


麗華は半分ほど残ったボトルをゴミ箱に放り込んだ。


「いいわ、なんでも食べるから。何を頼んだの?」


僕は肩をすくめる。


「……駅前のラーメン。」

「いい選択ね。」


麗華は片手で顔を覆うようにして、ゆっくりと息を吐いた。


「……麗華さん、体調でも悪いの?」


無理に笑みを作りながら答えた。


「ううん。ただ疲れただけ。今日は長い一日だったから。」


――休んだほうがいい、と言うべきか。それとも、ベッドまで食事を運ぶか? いや、そんなことを自然に言える人間じゃない。社交経験がほとんどない僕には、会話の進め方ひとつ分からなかった。だから、話題を安全な方向にずらすことにした。


「あの……麗華さん。」


首筋をさすりながら、彼女が「なに?」と返す。


「えっと……昨日の夕食の代金、払ってもらわなくていいです。」


今朝置いていったお札を差し出す。


けれど、麗華はすぐに首を横に振った。


「それは支払い。はあ……取っておきなさい。」


その言葉に思わずため息が漏れた。


簡単にはいかないと分かっていたが、それでもこのまま彼女にばかり負担をかけるのは違うと思った。だから、引かなかった。


「……麗華さん、お願いします。」


また、首を振られる。


「いい? 海斗。これは最低限のこと。お金のことは私がやるわ。私は大人だから。」


確かに、理屈は通っている。彼女の立場からすれば当然なのだろう。この家の責任を負うのは自分――そう考えるのも理解できる。だが、それは僕の気持ちをまるで無視していた。


「……あの。はあ……えっと……せめて、これくらいは……やらせてよ。大したことじゃないから。」


麗華は小さく吹き出した。


「もうやめましょう? 話しても平行線よ。」


その言葉に、何かが胸の奥でちくりと刺さった。


聞いてもらえていない。


もう一度、言葉を重ねた。


「……せめて、これだけでも。」

「海斗さん、やめなさい。何も分かってない。」

「……違う、麗華さん。」


少し声が強くなった。


「分かってないのは、あなたのほうです。」

「お願いだから。」


彼女はうんざりしたように言った。こめかみに手を当てる。


「あなたは学生でしょ。できることなんて、あるの?」


僕の指先が紙幣をぐしゃりと握りつぶした。顎に力が入る。思考より先に口が動いた。


「……そうだよ。学生だ。でも、それがどうした?」


声が自然と荒くなる。


「学生だからって、何もできないわけじゃない!」


麗華は目を見開いた。僕がそんな調子で言い返すとは思っていなかったのだろう。反射的に言葉が出てしまった僕自身も、すぐには引けなかった。そう、僕だって時々は頑固になる。


「……どう思ってるか分かる? 一日中部屋にこもって、何もせずに……あなたのお金で飯食ってる。そんな自分が、どれだけ惨めに感じるか、分かりますか、麗華さん?」


長い沈黙が落ちた。

麗華は目を大きく見開いたまま、動かない。まるで眠気が一瞬で吹き飛んだようだった。一方で、僕の怒りはすぐに冷め、背筋に冷たいものが走った。

――なんてことを言ったんだ。なんてことを。

彼女が何か言おうと口を開いたのが見えたが、もうその場にいられなかった。

立ち上がる。


「……海斗さん?」

「……ごめん、僕……ただ……。」


視線を合わせられなかった。罪悪感に負けて、逃げるようにリビングを後にした。小さく呟いた言葉だけが残る。


「……寝る。寝ます。」


―――――――――――――――――――――


麗華の視点


「……最悪。」


海斗を怒らせてしまった。普段は静かな子なのに、あの言葉にはっきりと怒気が混じっていた。でも正直、何がいけなかったのか分からない。ただ、彼にこの家で少しでも楽に過ごしてほしかっただけなのに。

頭が割れるように痛い。立っているのもやっとだ。気づけば、片脚が震え、かすかに床を叩いていた。爪を噛み、無意識のうちにタバコを取り出す。長年の癖だ。ストレスを感じると、手が勝手に動く。


ライターを指に挟んだまま、しかし途中で止めた。

――だめね。

小さく息を吐き、テーブルに放る。

そして海斗の部屋へ向かった。


「……今のままじゃ、明日がもっと気まずくなる。」


扉の前に立ち、深呼吸をする。

髪を整え、そっとノックした。


「海斗さん、あの……。」


声が震える。


「……別に、無理にお金を出してほしいなんて思ってないの。ただ、あなたに負担をかけたくなくて。今は一緒に住んでるけど、私はまだ大人だから。」


返事はない。


「分かってほしいの。あなたにそんなことをさせたら、私のほうが気が咎めるのよ。」


沈黙。


「お願い……。」


額を扉に押し当てる。肩が重い。限界が近い。


「……出てきて……お願い。」


そのとき、チャイムが鳴った。海斗が頼んだ料理だろう。行くべきか、ここに残るべきか。迷っていると――扉が開いた。体を預けていたせいで、そのまま部屋の中に引き込まれる。倒れかけたところを、海斗が支えた。


彼の肩に頭が乗る。思ったよりも温かくて、洗剤のやわらかな香りがした。その体がかすかに震えていたが、それでも離れようとしなかった。肩に額を預けたまま、口を開く。


「海斗さん、わたし……。」

「……疲れてるでしょう。」


うなずく。


「……じゃあ、この話は明日にしよう。」


少し考えて、結局もう一度うなずいた。

そして、小さく笑う。


「じゃあ、明日は少し早く帰るわ。」


またチャイムが鳴る。


「麗華さん。」

「なに?」

「……せめて、夕食を温めさせてください。」


三度、うなずいた。


……


「海斗さん。」

「……なに。」

「ありがとう。」

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海斗と麗華2人とも自分の気持ちばかりのコミュ障かな
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