第2章 『恐れ』(1)
休み時間の途中で兄が迎えに来たとき、胸の奥が一気に軽くなるのを感じた。あの人だけが、天音や高村のような息苦しいタイプから、僕を救い出してくれる存在だった。
両親がどんな嘘をついて僕を授業中に呼び出したのかは分からない。けれど、正直どうでもよかった。頭の中は混乱していたし、今さら詮索しても意味がないと思ったからだ。
僕と兄は法政学園の正門を出て、彼の車へと向かった。僕は少し離れた後ろを歩きながら、兄の背中を見つめていた。その背中は、顔よりもずっと見慣れた風景のように感じられた。
昔から僕は、人の目をまっすぐに見ることができなかった。だから、兄の顔もはっきりとは思い出せない。人の顔というものは、僕にとって黒板の消し跡みたいなものだ。目や口はあるけれど、輪郭は曖昧で、何も読み取れない――家族でさえも。
車に乗り込むと、沈黙が僕たちの間を支配した。車内の空気は重く、息苦しいほどだった。
そんな中、エンジン音に混じって兄が口を開いた。
「海斗、これは大事なことだ。……頼むから、しくじるなよ。」
返事をしたかった。でも、何を言えばいいのか分からなかった。どんな質問をすれば怒られないのか、それさえも。
僕は昔から、言葉を選ぶのが下手だ。けれど、意を決して小さく呟いた。
「優一……どうして……?」
兄は答えなかった。たぶん、僕の声が小さすぎて聞こえなかったのだろう。そういうことはよくある。無視されるたびに胸の奥がざらつく。指先をいじりながら、ただ待った。
どれくらい経っただろう。気づけば、指を強く握りしめていて、白く跡が残っていた。
車は静かに走り続けていたが、不意に、僕の足が小刻みに震えだした。
そして、思い切って顔を上げ、久しぶりに兄の横顔を見た。
視界の中で、ぼやけていた兄の像が次第に輪郭を取り戻す。
気づいたときには、思わずその名を口にしていた。
「……優一?」
黒髪に、鋭い眼差し。細い眼鏡の奥で光る瞳。
疲れの影もなく、整った顔立ち。どこか僕に似ていて、無意識に口元が緩んだ。
その瞬間、優一がこちらを振り返った。
彼の目が大きく見開かれる。僕の表情がそんなに変だったのか、急にブレーキを踏み込んだ。
……結果は、想像の通りだ。
後続車のクラクションが鳴り響き、怒号が飛んだ。
幸い、スピードが出ていなかったことと、今日に限って僕がちゃんとシートベルトを締めていたこと――それが唯一の救いだった。
おかげで前の座席に顔をぶつけずに済んだが、心臓はまだ早鐘を打っていた。
「……くそっ。」
優一が苛立ったように吐き捨て、車を路肩に停めた。
彼はハンドルに額を押し付け、しばらく動かなかった。
僕は何か言おうとしたが、もう彼の目を直視する勇気はなく、視線を落とした。
そのとき、不意に彼が笑い出した。
「はは……はぁ……。」
天井を見上げながら、息を整える。
「まったく、海斗。……どう説明したものか。いや、説明する必要があるのか?」
彼は僕の背中を軽く叩いた。
「お前も分かってるだろ、うちの家がどういう家か。」
僕は黙って頷いた。
「なら、政略結婚の一つや二つ、驚くことじゃない。」
正直、驚いてはいなかった。
僕たち藤村家は古い家系で、そうした取り決めは珍しくなかった。
今でこそ時代遅れかもしれないが、有利な縁談はいつだって家にとって重要なものだ。
「……そうじゃない。僕が聞きたいのは……。」
僕の言葉の意図を、優一は理解していなかった。
僕が本当に知りたかったのは、なぜ“僕”が選ばれたのかということだった。
十六歳。名前以外に何の価値もない僕が。
しかも、それが突然決まったというのだから、頭が追いつかない。
婚約ならまだしも、結婚だなんて。
「黒田って名字、聞いたことあるか?」
優一の声に、僕は首を横に振った。
――黒田?
藤村家では、地域の有力な家との関係を知っておくのが当然だった。だが僕は、そういうことに興味を持てなかった。
「ふぅ……」
優一がため息をついた。
「簡単に言うと、輸出関係の会社をやってる家だ。伝統はないが、金はある。……かなりな。」
彼は手を軽く振った。
「つまり、そういうことだ。」




