第18章 『静まり返った家 』(1)
これまでにないほどの金を手にして家へ戻った。
この金をどうするつもりなのか──そう考えたが、結局のところ、今はただ待つのが一番だと思った。いや、それどころか、二枚のカードに入っている金には一切手をつけず、当分は僕の貯金だけでやっていくつもりだった。
麗華から家の鍵の合鍵を渡されたものの、どうしても僕の部屋とリビング以外には足を踏み入れる気になれなかった。
もしも他人の家に住まわせてもらっている立場なら、誰だって同じように遠慮するはずだ。僕は所詮、居候なのだ。
半ば空っぽで散らかったままの自室に戻ると、しばらくベッドに仰向けになったまま天井を見つめていた。まだ荷物をきちんと整理する時間もなかった。
頭の中では、優一と交わした会話──麗華に娘がいるかもしれないという話──が何度も反芻されていた。もう僕の中で答えは出しているはずなのに、その考えを完全に振り払うのは難しかった。
静けさが妙に堪えた。
実家では、良くも悪くも、お母さんの声が常に家のどこかで響いていた。電話口で友達と喋っているか、テレビの登場人物に話しかけているか、あるいはいつも決まって「もう何か食べたの?」と声をかけてくる。
たとえ家を追い出されたとしても、その声が恋しかった。
この気持ちを分かってほしいとは言わない。
けれど麗華の家には、声がなかった。音もなかった。完全な静寂があった。
孤独を頭の片隅から追い出そうとして、今日の課題や溜まっていた宿題に手をつけたが、結局思考はまた麗華へと戻っていった。
ただし、それは恋愛めいた感情ではなく、純粋な興味だった。
──今、麗華は何をしているのだろう。
──どんな仕事をしているのだろう。
──どこで働いているのだろう。
──そして、今日はどれくらい遅くなるのだろうか。
そう思うのも無理はなかった。午後に届いたメッセージがそれを示していたのだ。
「仕事がたまってるから、今夜は一人で夕食を済ませてね」
僕は部外者だと分かっている。それでも、彼女が帰ってくるまで起きていようか──そんな考えが頭をよぎった。
どうせ食事を頼むなら、ついでに彼女の分も買っておこうか。悪くない案に思えた。
*********
夜の八時を過ぎた頃、温め直して食べられる牛丼を二人前注文し、僕の分を平らげた。
麗華の口に合うかどうかは分からない。けれどお母さんがよく言っていた。「何もないより、何かある方がまし」と。
何時に帰るか分からなかったので、彼女の分は温めずにそのままテーブルに置いておいた。
そして紙に一言だけ書いた。
「麗華さんへ。よかったら食べてください。」
──笑わないでほしい。僕にはそれしか思いつかなかったのだ。昔から、言葉を選ぶのが苦手だった。
課題の答えを見直すふりをしながら、もう少しだけ彼女を待った。だが、麗華は帰ってこなかった。
メッセージでも送ろうかと思ったが、さすがにそれは図々しい気がした。
諦めてベッドに入る。
天井をぼんやり眺めながら十分ほど、そして布団の中で足を出したり入れたりしながら五分、さらに十五分ほどして、ようやく頭の中が空になっていった。
眠りかけたその時、玄関の扉が開く音がした。窓の外に一瞬、車のライトらしき光が差し込む。──麗華が帰ってきたのだ。
だが僕はなかなか眠れず、スマートフォンを見たときには、すでに深夜零時近くだった。
──もう、こんな時間か。
車庫の扉が閉まる音、家の扉が閉まる音。どちらもはっきりと聞こえた。再び眠ろうとしたが、無理だった。
リビングにでも行こうか。水でも飲めば、少しは落ち着くかもしれない。
一階へ降りると、灯りがついていたのはリビングだけだった。キッチンと続きの空間に、麗華がいた。
ソファに腰を下ろし、天井を見つめたまま動かない。
スーツ姿のままで、ヒールを脱ぎ捨てたらしく、床の隅に転がっている。
その表情から、どれほど疲れ切っているかは一目で分かった。
テーブルの上の食事にも気づかない様子で、ただ静かに座っていた。
声をかけたくなった。
口を開いたものの、何を言えばいいのか分からなかった。──いや、何か言う方がましだ。
「……り、麗華さん……おかえりなさい。」
鼠のように気をつかいながら、できるだけ自然に見えるようにリビングへ入ると、麗華は瞬きをして我に返った。
「……海斗さん?」
僕は頷くことしかできなかった。水を一杯ついだとき、麗華は目をこすっていた。今にも眠りそうな仕草だった。
「……大丈夫ですか?」
「ええ、ただ……」
麗華は両手で顔を覆いながら、
「仕事がたまってて、こんな時間になっちゃったの。」と答えた。
僕の水の代わりに、週末に買っておいた果汁ジュースを彼女に差し出した。彼女が好きなのを知っていたからだ。
「ありがとう。」
テーブルの上の食事に手をつけないのを見て、温め直してあげようと思った。
──大人の世界はきっと大変だ。だから、少しでも楽になるなら、できることをしてあげたい。
メモの紙をくしゃりと丸めて捨て、電子レンジの前で待つ。
その間、不器用でどこかぎこちない会話が始まった。
麗華は学校のことをいくつか尋ね、僕は短く答えた。もともと口下手なのに加え、彼女が疲れ切っているのが分かったから、無理に話を広げる気にはなれなかった。とにかく早く食べて、休んでほしかった。
こちらからも二つほど質問を返したが、彼女も同じように短く答えた。
温め終わった牛丼を皿に盛り、震えないように注意しながらテーブルに置くと、麗華は少し眉を上げ、意外そうに僕を見た。
それでも小さな声で、もう一度「ありがとう」と言った。何か言いかけて口を閉じる。疲労の色が濃かった。
もう僕にできることはない。
「……それじゃ、僕は寝ます。」
麗華は黙って頷き、皿を見つめたままだった。
部屋を出ようとしたとき、背中越しに声がした。
「……あっ、海斗さん。」
振り返ると、麗華の目にかすかな光が戻っていた。
彼女は軽く頭を下げる。
「ありがとう。おやすみなさい。」
意外すぎて言葉に詰まったが、どうにか返す。
「……はい。おやすみなさい。」
階段の途中で、食器の音が聞こえた。麗華が食べ始めたのだ。
気づけば、口元がわずかに緩んでいた。ほんの少しだけ。──誰かに感謝されるなんて、滅多にないことだから。
ベッドに戻って初めて、水を持ってくるのを忘れたことに気づいた。
「……ちくしょう。」
だが、不思議ともう喉の渇きは感じなかった。
そのまま深い眠りに落ち、目を覚ましたのは授業が始まる五分前。スマートフォンのアラームが何度鳴っても、まるで夢の底で聞いているようだった。




