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第17章 『 赦しの代償 』

「海斗、大丈夫か?」


長い沈黙に気づいた優一が、そう声をかけてきた。

口を開けては閉じ、何かを言おうとしても言葉にならなかった。舌の上に残る苦い味を、どう形容すればいいのか分からなかったのだ。けれど、あれこれと考え続けても答えは出ない。結局のところ、僕はそんなに頭の回る人間ではないし、難しい謎を解くのも得意ではない。だからこそ、もっと単純な方法を選ぶことにした。


「……三週間……」


そう呟くと、優一が眉をひそめた。


「三週間? 何の話だ?」


時計をちらりと見ていた彼が、再び僕に視線を戻す。そう、三週間。それだけの時間があれば十分だ。そのあいだに、麗華が自分の意志であの件について話してくれるのを待とうと思った。

人によっては馬鹿げた考えに聞こえるかもしれない。今すぐ家に帰って直接問いただせ、と言うだろう。確かにそうかもしれない。だが、急いでも同じように事態を悪化させるだけかもしれない。


僕と麗華のあいだには、まだ信頼なんてものは存在していない。


僕たちの結婚は、ただの建前にすぎないのだ。お互いが、相手の私生活に踏み込む権利を持っていないことを分かっている。暗黙の了解。それに、もし彼女の娘の件が繊細な問題なら、せっかく築き始めた関係を壊すわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。

感情に流されても、何の得にもならない。


――つまり三週間という猶予は、僕自身が覚悟を決めるための時間でもあった。


「海斗、さっきから何考えてんだ?」


優一の声で現実に引き戻される。僕は肩をすくめて首を振った。けれど本当のところ、もっと気にしていたのは別のことだった。僕の復讐――お兄さんに受けたあの屈辱は、まだ終わっていない。

僕の顔に浮かんだ憎しみの色を見て、優一が訊いた。


「で、俺にどうしろって?」


そのとき彼は、何かを思い出したように目を見開いた。

ポケットに手を突っ込み、二枚のカードを取り出して僕に差し出した。


「危うく忘れるところだった。ほら、プレゼント。」

「……だ、誰から?」

「一枚はお母さんとお父さんから。もう一枚は黒田家からだ。まあ、金額を見れば“金持ちと結婚する”ことのメリットが分かるさ。」


僕はそれを受け取った。

一瞬、断ろうかとも思ったが、その考えはほんの刹那で消えた。

家を追い出された今、金は空気のように必要だ。麗華の好意にいつまで甘えられるかも分からない。それに、三週間後に彼女の過去を問うつもりなら、備えが必要だった。金があれば、多少のことはどうにでもなる。


「最初、黒田家の人たちは物を贈ろうとしたらしい。でもお前の趣味を知らなかったから、現金にしたんだとさ。」


優一はそう言いながら、車のエンジンをかけた。

帰るつもりなのだと分かった瞬間、胸の奥で再び怒りがくすぶり始めた。麗華の娘の話で忘れかけていた感情が、再び顔を出した。


「……優一」

「今度は何だよ。まだ怒ってんのか? はあ、三日もお前の使い走りしてやったんだぞ。あの情報を集めるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」


苛立ちのこもった声。反射的に身をすくめそうになったが、怒りがそれを押しとどめた。


「……それくらい……当然だろ……?」


僕が結婚という犠牲を払ったのだ。少しくらい助けてもらっても罰は当たらない。


「はっ、“当然”ね。じゃあ、他に何がしてほしいんだ?」


皮肉めいた口調に、僕はふとある考えを思いついた。成功する保証はなかったが、試すだけならタダだ。僕の顔を見て、優一は呆れたように頭を振った。


「やれやれ……」

「……もし、本気で謝りたいなら……」


わざと途中で言葉を切ると、優一が怪訝な顔をした。


「何だ? 何が欲しい?」


僕は手を差し出し、深く息をついて、できるだけ無感情に言った。


「……だったら……金で払え。」


重苦しい沈黙が車内を満たした。


「……は? “払え”って……どういう意味だ?」


優一が眉をひそめる。僕は静かに頷いた。


「……そうだ。僕があんたを許す代わりに、金を払え。」


「やめろ。」


優一が首を振る。


「……これは僕の赦しの代償だ。」


優一は呆れたように笑ったが、最後には観念したように肩を落とした。


「欲深いな。もう十分もらってるだろ? いくら欲しい?」


少し考えてから、僕は口を開いた。


「……百万円。」


再び、沈黙。


だが僕は手を引っ込めなかった。額に汗がにじむ。――本当にお兄さんをゆすっているのか?それでも、なぜか胸の奥で妙な爽快感があった。

優一は呆れたように笑い、だが僕の表情が変わらないのを見ると、真顔になった。


「……本気で言ってるのか? 百万円?」


「……い、いや……」僕は少し考え、「一千万……そう、一千万円だ。」


「はあ!?」


「……じゃあ、千二百万円。」


「海斗、いい加減にしろ!」


「……千五百……」


「分かった! 百万円だ、それで手を打て!」


僕は心の中で笑った。けれど、その額ではあの恥を贖うには足りない。


「……いや、一千万。」


優一の表情が凍りつく。長い沈黙ののち、絞り出すように言った。


「……百万円だけだ。」


「十……」


「まだ続ける気か?」


僕は黙って頷いた。


「二百万で終わりにしよう。」


「……十……」


優一の目が見開かれる。


「付き合ってられるか。」


「……一千万円か、さもなきゃ――もういい。」


頑固に言い切ると、優一は大きくため息をつき、時計を見た。


「……三百万。」


「十……」


ほとんど反射のように口にしていた。


三百万――それでもまだ足りない。


優一は、とうとう諦めたように息を吐いた。


「もう増やさない。四百万でも出しすぎだ……」


だが僕はその言葉にすぐ食いついた。


「四百万!? ……よ、よし。交渉成立だ。」


それでもなお不十分に思えたが、四百万円あれば少なくとも、数週間はこの怒りを鎮められる。欲をかけばすべてを失う。それくらいの理性はまだ残っていた。優一が小さく舌打ちをしたのが聞こえたが、無視した。


「数日中に振り込む。待ってろ。」


僕はうなずいた。――それが彼の悪ふざけの報いだ。自業自得だ。


「で、もう行っていいか?」

「最後に……一つだけ。」

「もう金は出さんぞ。」

「そうじゃない。……ついでに、麗華の家まで送ってくれ。歩くのは嫌だ。」

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