第16章 『 知らせ 』
優一の言葉は、まったくの不意打ちだった。あまりの衝撃に、しばらくのあいだ何も言えずにいた。その沈黙の間、週末のあいだじっくりと育ててきた彼への怒りさえ、どこかへ消えてしまっていた。
間の抜けた声で、ようやく問い返した。
「こ、これは……うそ、じゃないよな?」
「海斗、そんなことで俺が得すると思うか?」
優一は鼻で笑った。
肩をすくめながら、震える指で彼から受け取った封筒を開けた。だがその手を止めるほどの不安が、胸の奥で蠢いた。
「……まさか、またあんたの冗談じゃ……」
言葉の続きを探すように彼を見た。
「だから言ったろう。そんなことで得すると思うか? 中身を見てみろ。」
中には分厚い紙の束が、乱雑に押し込まれていた。どうしてこんな渡し方をするのか理解できなかった。
膝の上で紙を広げ、ざっと目を通す。緊張というより、長く頭の片隅にこびりついていた疑問の答えを知る好奇心の方が勝っていた。
そこには親族の名前、会社名、資産、そして――銀行取引の記録。
銀行取引? そんなもの、見ていいのか?
ふと、ある一枚に目が止まった。麗華から個人宛てに定期的に送金された記録。名前を見て、すぐに思い出す。ミカ――ミカ・黒田。あの電話の相手だ。ユナと一緒にいた女性。
しかも支払いは週に一度、すでに四か月も続いている。金額は多くも少なくもない。
黙り込んで紙を見つめる僕に、優一がため息をついて言った。
「それが一番気になったところだ。でもな、もっと妙なことがある。調べてわかったんだが――麗華は、一度も出産していない。」
「……え?」
意味がつかめず、思わず顔を上げた。
「少なくとも、病院で産んだ記録も、産後に入院した記録もない。ただし――」
その言葉をわざと宙に浮かせた。
「……じゃ、じゃあ……子どもはいないってことか?」
ようやく希望のような思いが胸に灯った。もしかしたら、あの電話もすべて誤解だったのかもしれない。
だが、優一は淡々と切り捨てた。
「いや、子どもはいる。ただし――名義が違う。」
「……は? 名義が……違う?」
意味がわからなかった。
「……そ、それは“物”じゃなくて、人間の話だぞ。」
「だが、まるで物のように扱われてきた。」
この時点で、もう完全に理解が追いつかなかった。冗談だろうと結論づけかけたそのとき、優一は深く息を吐いた。
「海斗、あの子――名前は、たしかユナだったか?」
僕はうなずいた。
「そのユナ、姓を三度も変えられている。」
――そんなこと、あり得るのか?
法律がどうなっているのか、もはや理解できなかった。
「そうだ。この国は……腐りはじめてる。」
優一は苦笑しつつも、楽しげに言葉を続けた。
「だから追跡が難しいんだ。三度もだぞ、三度!」
「……で、でも、それなら麗華の子どもじゃないかもしれない。どこか別の家庭から来たのかも……それで……麗華が引き取った、とか……」
「いや。麗華が母親だ。」
彼は紙の山から一枚の証明書を引き抜いた。僕が見落としていた書類だった。
「……こ、これは――!」
出生証明書。たとえ自宅出産であっても、出生届を出す義務がある。そこには――
「ここに書いてある。母親は麗華。誕生日当日からずっとな。」
頭が真っ白になった。
いったい、これはどういうことだ。
あの夜の電話を誤解だと思い込もうとした僕が、ばかばかしく思えた。
もちろん、これは彼女の私的なことだ。だが、一緒に生きていく相手に、そんな秘密があるなんて――。
優一は愉快そうに言葉をつづけた。僕が聞きたくないとわかっていながら。
「普通、子どもは父親の姓を名乗るだろう? 母親の姓は後ろに回る。」
僕はうわの空でうなずいた。視線は証明書から離せなかった。
「だが、ユナには父親の姓がない。だから生まれたときの姓は、母親の“黒田”。ユナ・黒田だ。」
――ということは、つまり……父親はいない?
「それだけじゃない。三年後、子どもの姓は“ペトロフ”に変わっている。」
「……ペトロフ?」
舌の上で重たい音を転がす。
「外国人だ。」
優一の目が光った。冗談ではない。本気でその事実を楽しんでいるようだった。
彼は昔からこういう人間だった。父親の跡を継がなければ、きっと探偵か記者にでもなっていただろう。
「ユナ・ペトロフ――それが二つ目の名。おそらく一時的に父親と和解したのかもしれないな。」
苦い味が喉を刺した。
「だが、その半年後……」
わざと間を置く。彼にとっては劇的な一瞬、僕にとっては苛立たしい沈黙。
「――麗華は、自ら親権を放棄した。」
「なっ……!?」
思わず腰を浮かせた。ここが車の中でなければ、立ち上がっていたに違いない。
ありえない。自分の子どもの親権を捨てるなんて。何かの間違いだ。
僕の動揺など意に介さず、優一は自分の思考の流れのまま語り続けた。
「その後、親権はペトロフ姓の男に移り……さらに、麗華の姉の名もそこにある。」
――姉? 麗華に姉が?
「もっと知りたいか?」
いや、もう十分だった。けれど、耳をふさぐことはできなかった。
「だが、そう長くは続かなかった。彼らも親権を手放した。」
――かわいそうに。
その瞬間、優一の「物のように扱われた」という言葉の意味が痛いほど理解できた。
「……で、今は? 誰が親権を?」
「麗華の両親だ。そして姓は再び“黒田”に戻った。だから言ったろう――麗華には娘がいる。ただし、名義上は別だ。」
長い沈黙が落ちた。
麗華に娘がいたという事実。
その親権を手放したという事実。
何も告げられなかったという事実。
――あの夜、ユナが電話をかけてきて、「大丈夫」と言った。
――そして、ミカという女性に定期的に送金していた。
頭がくらくらした。考えるには情報が多すぎた。
そのとき、優一が軽く手を叩いた。
「さて――これで俺を許す気になったか?」
僕は首を振った。何を言われているのかもよくわからなかった。ただ、胸の奥に渦巻く感情を振り払いたかった。
――許す?
ああ、そうだ。僕はこいつに怒っていたんだ。
「それで、どうなんだ?」
「ど、どうやって……こんな情報を……?」
優一は深く息を吐き、ゆっくりと言った。
「お前が言ったじゃないか、海斗。この国は――腐っている、とな。」




