第15章 『 知りたがっていたこと 』
麗華の家で過ごした数日は、穏やかに過ぎていった。
――とはいえ、その穏やかさの裏で、僕の心の一部は兄への憎しみに満たされていた。どうしても許せなかった。けれど、どうすれば「償わせる」ことができるのか……それだけが分からなかった。
一方で、麗華と一緒にいることへの気まずさは、いつの間にか薄れていた。
だが、だからといって急に打ち解けたわけでもない。夫婦らしい関係になったわけでもなかった。要するに、僕たちは依然として赤の他人のままだった。
会話も、やり取りも、どこか他人行儀で、言葉を選びすぎていた。まるで「知らない者同士」であることを、互いに確認しているかのように。
相手のことをもっと知ろうとする繊細さ――それを僕たちは持ち合わせていなかった。
少なくとも、麗華が料理をまったくしないことは分かった。いつも出前を取っていた。
責めるつもりはなかった。僕も料理はからっきし駄目だし、人付き合いも得意じゃない。
――僕たちは、どちらも不器用な人間だった。
ただ、一つだけ気になったのは、彼女が一度も「娘」のことを口にしなかったことだ。
本当に、彼女には娘がいるのだろうか? それとも僕の思い違いだったのか。
何も言わないのが不自然すぎて、むしろ僕の勘違いだったのではないかと疑い始めたほどだ。
いずれにせよ、優一は「月曜になれば分かる」と言っていた。
――つまり、それは今日だ。
*********
今朝目を覚ますと、麗華の姿はもうなかった。
どうやら早朝から出勤していたらしい。食卓の上に、短いメモが一枚置かれていた。
『朝ごはんを頼んでおいたわ。あなたの分は温めておいたけど、起きる頃には冷めているかもしれないわね。』
――僕たちの関係とは、まさにこんな感じだった。
もう、最初の頃のような刺々しさはなかったが、それでも距離は残っていた。
朝食を済ませ、制服に着替えて、始業ベルの二十分前には学校に着いた。
ただ、一つ問題があった。欠席した日の宿題が、まったく手つかずのままだったのだ。
友達がいればノートでも見せてもらえたのだろうが、残念ながら僕にはそんな相手はいない。
しかも今は麗華の家に住んでいる。もし学校が確認のために訪ねたとしても、行き先は両親の家だろう。そこにはもう戻れないし、優一の顔も見たくない。
……結局、教師たちの同情に期待するしかなかった。
とはいえ、まずは最悪の用件を片づける必要があった。
――病欠証明の提出だ。
校長の前に立ちながら、僕は死にたくなるほど恥ずかしかった。視線を床に落とし、頬も耳も熱くなっていた。
お兄さんへの怒りと、心の中で浴びせる呪いの言葉を、握りしめた拳の中で押し殺す。
やがて校長が読み終え、ゆっくりと顔を上げた。
「藤村くん、家の方は大丈夫かね?」
――はあ、勘弁してくれ。
他の教師たちの反応も似たようなものだった。
唯一の救いは、これで宿題を出さなかった理由が通ったことだ。
一時間目が終わる頃には、週末しっかり休んだはずなのに、すでにぐったりしていた。
……麗華、少し甘やかしすぎたかもしれない。
いつものように、休み時間も一人で机に突っ伏していた。
結婚指輪を指の間で転がしながら、ぼんやりと時間を潰す。今日はお菓子をカバンに忍ばせてこれなかったので、手持ちぶさただった。
「海斗、金曜も休んでただろ?」
声をかけてきたのは高村だった。
唯一、僕に話しかけてくれるクラスメート。
不意に声をかけられて、指輪を落としそうになる。
「……何それ、隠してたの?」
「な、なにもないっ!」
慌ててポケットに押し込み、話題を変えようとした。
社交性ゼロの僕には、会話を続ける技術なんてない。
「……あの、なにか……あったの?」
「んー、まあな。」
高村は顎に手を当てて、少し考えるような仕草をした。
「たいしたことじゃねぇけど、今日がちょっと面白くなるかもな。」
「……面白く?」
「奨学生が今日来るんだよ。」
「……え、本当に?」
彼は肩をすくめてうなずく。
「昼には自己紹介して、授業は明日からだってさ。」
「……ま、まさか……このクラスに?」
「いや、たぶん隣のクラス。2-Bだって。」
僕のクラスは2-A。
一日休んだだけで、世界が勝手に動いていく。
正直、興味はあったが、奨学生と僕には関係ないと思っていた。
だが高村は明らかに楽しそうだった。
新しい転入生の話題で、クラス中がざわついているらしい。
――「檻の中に犬を入れたら、チンパンジーが騒ぎ出す」ってやつだ。
まさにそんな空気だった。
その騒がしさは苦手だったが、それでも高村が話しかけてくれたことは、少し嬉しかった。
「教室の変人」扱いされる僕にとって、それだけでも救いだった。
*********
昼休みにスマホを確認すると、メッセージが二件届いていた。
一つは予想通り。もう一つは、全くの予想外だった。
最初の送信者は優一。
内容は簡潔だった。
『知らせがある。前と同じ駐車場で、午後二時。遅れるなよ。』
――そしてもう一通は、麗華から。
約束の場所に着くと、優一はすでに不機嫌そうに腕を組んで待っていた。
まあ当然だ。僕が一時間近く遅れたのだから。
「知らせ」とやらには興味があったが、正直、今はまだ顔を見たくなかった。
復讐の準備ができていないまま会うなんて、御免だ。
……もっとも、今日は何もできなくても、必ずいつか――。
そう心に誓いながら、僕は奴を睨みつけた。
「おい海斗、もうちょっとマシな顔しろよ。」
「……うるせぇよ。」
「母さんにまで怒られたんだぜ。あんなのただの冗談じゃん。お前、ユーモアのセンスないな。」
優一はため息をついた。
僕はゴミを見るような目で彼を見上げ、皮肉たっぷりに言い返した。
「……で? 冗談も済んだし、今度は拍手でも欲しいわけ?」
「やれやれ。……まあいい、これで許せ。」
そう言って、奴は黄色い封筒を差し出した。
「――麗華さんに“娘”がいるか、知りたかったんだろ?」
……それは――。




