第1章 『結婚』 (2)
俺の名前は藤村海斗。鳳聖高校の二年生だ。
もうすぐ十七歳になるが、人の顔を見ることができない。緊張しすぎてしまうのだ。誰かに話しかけられると、心の中では「消えてしまいたい」と思っている。
さっき、父さんに「結婚なんてしたくない」と言いたかった。でもその言葉は喉の奥でつかえて出てこなかった。
職員室を出て教室へ戻る途中、不安と恐怖が入り混じる。
朝食を抜いたのは幸運だった。もし食べていたら、吐いていたかもしれない。
落ち着こうと思って、トイレに向かった。
顔を洗い、鏡を見た。そこに映っていたのは――自分でも嫌になる顔だった。
長くて不揃いな髪、パソコンの前で夜更かししたせいのひどいクマ。
すぐに視線をそらした。見ていられなかった。
洗面台の上で震える自分の手を見ながら、小さくつぶやく。
「……やりたくない。」
何もせず、三十分ほどトイレに座っていた。ただ黙って、何も考えずに。
でも、気分がよくなることも、元気が出ることもなかった。
知らない人と結婚して、何がいいんだ?
ましてや、俺みたいに人付き合いが下手な人間が。
教室に戻った。両親から「一時間後に兄が迎えに行くから、それまで教室で待っていなさい」と言われていたのだ。
どうやら二人とも、式の準備で忙しいらしい。
正直、消えてしまいたい。でも怖い。問題を起こしたくない。
いや……問題なんて、起こしたくないんだ。
教室のドアの前で立ち止まる。中では先生の声が聞こえていた。
一瞬、入るのをためらったが、意を決してドアを開けると、みんなの視線が一斉に俺に向けられた。
「おや、藤村君。ご両親が来られてたね。入りなさい、今は授業中だよ。」
「あっ……え、えっと……は、はい。」
先生の言葉に小さく返事をして、慌てて席に向かう。
俺の席はドアの近くにある。声が小さくて聞こえづらいから、という理由でそこになったらしい。
でも今は、声のことなんてどうでもよかった。頭の中がぐるぐるして、授業の内容なんて一つも入ってこなかった。
休み時間になった。いつものように、クラスのみんなはグループを作って話している。
そのにぎやかな光景が、なんだか遠い世界のことのように思えた。同時に少しうらやましかった。
――みんな、楽しそうだな。
俺もあんなふうになりたい。言いたいことを言って、やりたいことをやる。
そんな当たり前のことができたら……。
気づけば、つぶやいていた。
「……普通になりたい。何でもいい、普通の人間に。」
「藤村、今なんか言った?」
「えっ!?」
突然声をかけてきたのは、高村健太。クラスの中心的存在だ。
男女問わず誰とでも仲が良く、いわば“社交界の王様”みたいなやつ。
高村の視線に耐えられず、俺はすぐに顔をそらす。
長い髪が顔を隠してくれるが、それでも恥ずかしくて、指先をいじることしかできなかった。
どの部分を聞かれたんだろう……? そう思うと、ますます顔が熱くなる。
「どうしたの、健太くん?」
高村の後ろから声をかけてきたのは、水月天音。
彼女もクラスの人気者だ。――というか、彼のことが好きなんだろう。
いつも一緒にいて、何かにつけて触れようとする。見ているこっちが恥ずかしいくらいだ。
「いや、別に。ただ藤村に英語のプリント渡そうと思って。」
「えっ……?」
マジか。今この状況でプリントの話?
俺の世界が崩壊しかけてるってのに!
……まあ、仕方ない。結婚のことを知ってるのは俺だけだ。誰にも言えるはずがない。
「今日の午後、俺、結婚するんだ」なんて言えるわけがない。
そんなこと言ったら、どんな反応をされるか……想像しただけで背筋が寒くなる。
「そういえば藤村、職員室に呼ばれてたけど、何かあったのか?」
「うんうん。悪いことするタイプには見えないけどね~」
高村と天音が俺の話を楽しそうにしている。
でも、俺はただ居心地が悪いだけだった。
かろうじて「えっ……」「あ、あの……」「え?」と返すのが精一杯。
――お願いだ。頼むから、放っておいてくれ。
机に視線を落とす。天音が高村に夢中なおかげで、少しは助かっている。
「ていうか、藤村さんって、友達いなさそうだよね?」
その言葉が胸に突き刺さった。
おいおい、それはもう暴力だろ……。
でも天音は止まらない。
「ねえ藤村さん、なんで友達いないの? なんであんまり話さないの?」
やめてくれ……。
人の気持ちを考えること、できないのか?
胃がキリキリして、肩をすくめながら、自分の手をつねって気持ちを落ち着かせようとする。
――兄さん、早く迎えに来てくれ。
……結婚、意外と悪くないかもしれない。少なくとも、この二人と話すよりは。




