第11章 『 行く宛のない場所 』 (2)
「公立、か……」
そんな言葉を口にしながら立ち去る高村の背中を見送り、僕は急ぎ足で待ち合わせ場所へ向かった。
着いたときには、すでに優一の車が停まっていた。
彼のそういうところは昔から変わらない。時間にきっちりしていて、早めに行動する。
車に乗り込むと、彼はスマートフォンに視線を落としたまま、何も言わなかった。
僕も同じく、沈黙を選んだ。
本当は一刻も早く聞きたかった。――両親を説得してくれたのかどうか。
だが、声が喉の奥で固まり、言葉にならなかった。
麗華の家には、もう戻りたくなかった。
昨夜の出来事が理由なのはもちろんだが、何よりも――あの電話。
「娘」という存在が、すべてを変えてしまった。
それに、麗華自身も僕の滞在を望んでいないだろう。
見知らぬ男と幼い娘。そんな不自然な組み合わせを、彼女が受け入れられるはずもない。
沈黙を破ったのは優一だった。
「拍手してくれ。」
妙に満足げな声だった。
「……な、なんで?」
「お前の願いを、ついに叶えてやったんだ。俺としては大手柄だと思うぞ。」
「ほ、本当か!?」
それはつまり――母を説得できたということだ。
優一はうなずいた。
「ああ、本当だ。ただ、すごく苦労したんだぜ。だからせめて拍手の一つくらい、あってもいいだろ?」
「な、なんでも奢るよ! ほ、ほんとに!」
「金、持ってるのか?」
「ち、貯金がある……。」
その金は、今朝タクシー代に使った残りだった。
毎月、父からかなりの額を小遣いとしてもらっている。
友人もいない僕は、使い道もなく、自然と貯まっていった。
母の許可なしには何も買えない家庭だったからこそ、なおさらだった。
もし本当に優一が両親を説得してくれたのなら、今持っている全財産を差し出しても惜しくなかった。
彼は一瞬考え込み、それから肩をすくめた。
「でもさ、まだ拍手してもらってないぞ。」
僕は思わず手を叩いた。ぱち、ぱち、と。
「で……どうだったんだ?」
「さっき言っただろ。うまくいったさ。ただし――三ヶ月だけ待て、って条件付きだ。」
彼は親指と人差し指を軽く合わせて見せる。
「もしその間に気持ちが変わらなければ、母さんがお前の帰宅を許す。」
その言葉は、冷たい水を頭から浴びせられたように感じた。
胸の中で膨らんでいた喜びも、兄への尊敬も、一瞬で消え失せた。
「な、なんだよそれ……聞いてない!」
「いいか、海斗。これは母さんだけの問題じゃない。黒田夫人との取り決めなんだ。二人の間で交わされた約束を、簡単に破るわけにはいかない。
でもな、一応抜け道は作っておいた。それに――黒田夫人は孫を欲しがってる。」
僕は思わず苦笑した。だが怒りは少しも和らがなかった。
頭の中で繰り返す。――こいつら、みんな頭がおかしい。
優一がため息をついた。
「いいか、俺は奇跡を起こしたんだぞ。母さんを説得するなんて普通は不可能だ。父さんと二人を騙すようにして、ようやく了承させたんだ。
お前がまだ青いってことを延々と説明して、さらに『支えてやるのが親ってもんだ』って二時間かけて説得したんだぞ。
俺の感覚では、真夜中に太陽を昇らせたようなもんだ。」
僕は笑い続けた。
喉の奥でかすれるような笑いだった。
笑えば笑うほど、目の奥から熱が引いていく。
やがて視線が足元へと落ち、音も消えた。
「……海斗?」
優一の声が、どこか遠くで響いた。
「期待外れかもしれないが、これでも精一杯なんだ。」
返事はできなかった。
考えることすら億劫だった。
まばたきすら、忘れていた。
沈黙が長く続いたのち、優一の声が少しだけ強くなる。
「海斗。」
その呼びかけに、僕はかすかに口を動かした。
「……麗華には……娘がいる。」
今度は、彼のほうが言葉を失った。
「な……何を言ってる?」
僕は静かにうなずく。
「ユナ……それが娘の名前だ。」
「いや、あり得ない。麗華に娘なんていない。俺が調べたんだぞ。家族関係も、取引履歴も、歯科のカルテまで! 俺を誰だと思ってる?」
僕は、普段は誰とも目を合わせないこの目で、彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。
そのわずかな時間のあいだに、兄の表情がわずかにこわばった。
「……いるんだよ。」
低く、鋭く。
そう言い放つと、すぐに視線を外した。
わずか数秒の対峙だったのに、全身の力が抜けた。
優一が何かを呟いたが、聞く気になれなかった。
ドアを開けて外へ出る。
背後から名前を呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。
家に戻ることはできない。
だが、麗華の家にも帰りたくなかった。
娘の存在を知ってしまった今、そこに身を置くのはあまりにも気まずい。
「……ママ、この人だれ?」
――もし、そんな言葉を聞くことになったら。
想像しただけで、背筋が凍る。
いや、そんな状況、絶対に嫌だ。
麗華もまた、僕を望んでいないはずだ。
所詮、僕は部外者――他人なのだから。
では、僕はこれから、どこへ行けばいいのだろう。




