第11章 『 行く宛のない場所 』 (1)
麗華の家での惨めな夜が明けて、夜明けと同時に僕が最初にしたことは――学校へ行くことだった。
最良の選択ではなかったのは分かっている。だが、あの家に居続けるよりは、まだ心が落ち着くだろうと思ったのだ。
勘違いしないでほしい。頭の中は滅茶苦茶だった。
前の晩はほとんど眠れず、せいぜい三十分ほど目を閉じただけ。だから今の僕は、まるでゾンビのような顔をしていたに違いない。
麗華は結局、家には戻らなかった。
彼女のことを案じる気持ちがなかったわけではない。だが、それよりも強く頭を占めていたのは――昨夜のあの電話だった。
……娘。麗華には娘がいた。
その事実は、僕の理解の範疇を越えていた。どう受け止めればいいのか分からない。
だからこそ、授業が終わり次第、実家へ戻ろうと決めていた。
そう思いながら、朝一番で優一にメッセージを送った。
「話がしたい。午後一時、学校から二ブロック先、駐車場の近くで。」
タクシーの運転手には、正門の少し手前で降ろしてもらった。
理由は二つ。まだ時間が早かったことと、校舎までの短い道のりで眠気を少しでも覚ましたかったからだ。
鳳星学園は、二階建てほどの建物がいくつも並ぶ、広々としたキャンパスだった。
私立とはいえ、造り自体は普通の学校とさほど変わらない。ただ、手入れの行き届いた施設だけが、その違いを物語っていた。
校門が見えてきたころ、ふと気づく。
「……指輪。」
結婚式の時からずっとつけっぱなしだった。
指にすっと馴染んでしまい、次第にその存在を意識しなくなっていたのだ。
だが、このまま学校に入るわけにはいかない。
普段は目立たないとはいえ、もし誰かに気づかれたら――その想像だけで背筋が冷たくなる。きっと、大騒ぎになるに違いない。
だから、校門の一ブロック手前で指輪を外した。
ポケットには入れず、ハンカチに包み、鞄の隠し仕切りの一つにしまい込む。
僕は昔からこうした鞄が好きだった。
実を言うと、その仕切りの中には飴やチョコレートも少し入れてある。授業中、こっそり口にしたり、緊張した時に食べたりするためだ。
教室に着いた時、まだ誰もいなかった。
一人きりの空間でさえ、存在を隠そうとするように、適当な教科書を取り出して開き、読むふりをする。
瞼は重く、目を開けているのがやっとだった。
疲労は極限に達していたが、それでも目を閉じれば、麗華の顔がまるで残像のように浮かんでくる。
「……くそ。」
一時間ほどして、二人目の生徒が現れた。
そう、僕はそれほど早く来ていたのだ。天音だった。だが彼女はスマートフォンに夢中で、僕に気づくこともなく席に着いた。
僕も声をかけなかった。もともと話しかけるのは得意ではない。
眠気に襲われながらも、どうにか意識を保つ。
十五分ほどの沈黙ののち、天音が口を開いた。
「英語の課題……プリントって、今日提出だっけ?」
スマートフォンを操作したまま、顔を上げずに言う。
その声は冷たかった。麗華の声の冷たさと似てはいるが、質が違う。
麗華のそれは、無駄を嫌う人の静けさ――いわば、礼節を保った冷たさ。
一方で天音の冷たさは、相手への関心を欠いた、自己中心的な冷たさだった。
僕は小さくうなずいた。なぜ彼女が僕に聞くのか分からない。昨日、彼女は欠席していたのに。
「ありがと。」
そう言って、またスマートフォンへ視線を戻す。
――いつもの学校生活とは、だいたいこんなものだ。
友人はいない。誰とも深く関わらないし、彼らも僕に関心を持たない。
これまで誰かとまともに言葉を交わした回数など、両手で数えられるほどだ。
教科書の影に隠しながら、鞄の中の小さな飴を口に放り込む。
空腹が少しずつ戻ってくる。口を動かしていれば、眠気を紛らわせることができた。
やがて生徒が次々と教室に入り始め、最後に入ってきたのは高村だった。
そして天音は、彼の姿を見るなり真っ先に立ち上がる。
――まったく、分かりやすい。
ちなみに、教室で僕に声をかけてくれるのは、いつも高村だけだ。
特に何事もなく、一日が過ぎていった。
誰かが僕の欠席理由を尋ねてくるかと思ったが、そんなこともなかった。
それどころか、僕はこの教室でどれほど存在感が薄いのかを改めて思い知らされた。
静かな一日。それをありがたく思う一方で、胸の奥ではひどく虚しさを感じていた。
三時間目の途中、とうとう眠気に負けてしまい、机に突っ伏した。
当然、教師に叱られ、クラスメートたちの笑いを買う。
「藤村くん! 僕の授業はそんなに退屈かね?」
僕は黙って頭を下げた。
「一体、昨夜は何をしていたんだ?」
「す、すみません……僕の不注意です。」
先生の指示で洗面所に行き、顔を洗ったあと、ようやくスマートフォンを確認する。
普段は天気予報と広告しか届かない受信箱に、優一からのメッセージが一件。
「分かった。けど二時にしてくれ。昼飯のあとで。」
最後の一文に少し苛立ちを覚えたものの、会う約束ができただけで十分だった。
その思いだけで、残りの時間を耐え抜くことができた。
部活動に所属していない僕は、放課後すぐに帰ることができる。
だが、約束の時間まで一時間ほどあったので、席に座ったまま待つことにした。
ちょうど帰ろうとしたとき、教室の出入口で高村とぶつかった。
彼は俯いたまま歩いており、眠そうな目をしていた。
「海斗、まだいたのか?」
「え? あ、す、すまん。」
高村はバスケットボール部に所属している。だから放課後も残るのは当然だ。
「なあ、今朝から気になってたんだけど、髪切った?」
「え?」
思わず目を見開いた。誰にも気づかれないと思っていたからだ。
男にとって髪型の変化というのは案外重要だ。他人の反応一つで、その日の気分が決まってしまう。
まして僕のような内向的な人間にとっては、その一言が小さな勇気にもなる。
「似合ってるじゃん。」
僕は反射的に髪に手をやり、前髪を少し引っ張った。
「ありがと」と、たどたどしく答える。
だが去ろうとしたその瞬間、高村が道を塞いだ。
「ところでさ、大丈夫か? なんか、いつもより顔色悪くね?」
少し上から目線の言い方だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
彼の声には、そうした角のない柔らかさがある。
肩をすくめながら答える。
「……ちょっとしたことだ。大したことじゃない。」
「そうか。でもさ、昨日いなかった間に、面白いことがあったんだぜ。」
すぐにでも行かねばと思いながらも、僕は会話を続けた。
他人とのやりとりに不慣れな僕は、言葉を選ぶのに神経を使いすぎてしまう。
「昨日、変わった生徒たちが来てさ。」
「……生徒?」
「ああ。交換留学生だ。」
高村は「交換」という言葉を強調した。
「男一人と女三人。文学の先生と一緒に校内を回ってた。どうやら編入の下見らしい。」
僕は特に興味を示さなかった。新入生が来ることに、何の特別さがあるのか分からなかったのだ。
だが、優一との約束の時間が近づいていることもあり、話を切り上げるタイミングを探していた。
「分かるか?」
首を横に振ると、高村は少し得意げに言った。
「奨学生かもしれないんだってさ。」
「……奨学生?」
思わず聞き返す。
鳳星学園は私立であり、入学金だけでも中古車が買えるほど高い。
創立以来、奨学生など一人もいないと聞いていた。
ということは――。
高村はうなずいた。
「公立から来たらしい。」
「……お、おお。」
そのときようやく、彼が何を言いたかったのかを理解した。
――興味。本来、自分の領域に他人が踏み込んできたときに芽生える、あの奇妙な好奇心。
僕もまた、少なからず興味を覚えた。
いや、ほんの少しばかりの好奇心――いや、どちらかといえば「下世話な興味」と呼ぶべきものかもしれない。
だがそれは、彼らの外見を覗き見たいという類のものではなかった。
むしろ、彼らが鳳星学園という空間に足を踏み入れたとき、どんな気持ちになるのか――そのことが気になったのだ。
そこには、微かな誇りがあった。
「ここは鳳星学園という、少しばかり特別な場所だ。君たちは今、どう感じている?」
そんな思いを、心の片隅で密やかに抱いていた。
もし本当に彼らが奨学生候補なのだとすれば、並外れた頭脳を持っているか、あるいは何かしら突出した資質を備えているはずだ。
才能ある者を軽んじるのは愚かだと知っていた僕は、礼儀として、彼らには近づかないことに決めた。
それでも高村は、独り言のように話を続けた。
「想像してみろよ、公立の学校だぜ……。それに、一番驚いたのは、その中の一人が――お前に似てたことだ。」
「……僕に?」
「雰囲気がさ、似てたんだよ。」
高村は慌てたように両手を振った。
「いや、悪い意味じゃないぞ。お前はいいやつだ、海斗。そこは誤解するなよ。」
悪い意味? そんなふうに思ったことはなかった。
むしろその言葉に、胸の奥にこびりついていた不安が少しだけ和らぐのを感じた。
その瞬間、僕は心の中でひとつの決意を固めていた。
もし高村がいつか、僕や家に助けを求めてくるようなことがあれば――そのときは、できる限りのことをしてやろう、と。
理由は単純だ。
彼のことが、好きだったから。
友人と呼べるほどの存在は、彼しかいなかった。
ただし、会話の大半を担っていたのは、いつも高村のほうだったが。
そういう意味では、僕の人生は常に「対話」より「思索」だった。
言葉よりも沈黙が支配する、内省的な物語。




