第10章 『 言葉も出ない 』
海斗の視点
まったく、とんでもない夜だった。
見知らぬ家にいるというだけで、やたらと身体がこわばる。できるだけ動かず、余計なものに触れないようにしていた。
というのも、どの部屋を使っていいのか誰にも聞かされていなかったからだ。仕方なくリビングのソファを簡易ベッド代わりにし、その上で一夜を明かすことにした。
「はぁ……やっぱり厄介な夜になりそうだな」
人生というのは、ほんの数分でひっくり返るものらしい。
朝の時点で、まさか夕方には結婚し、夜には自分の家を追い出される羽目になるなんて──そんな話を誰かにされたら、笑い飛ばしていたに違いない。
とはいえ、この調子だと明日がどうなるかなんて、想像するのも怖い。
優一は「明日には家に戻れる」と言ってくれたが、具体的な時間までは聞いていなかった。
それならいっそ、翌日は学校へ行こう。まだ水曜日だし。
そう考えて、少し計画を立てた。宿題も終わらせて、時間が経つにつれ、眠気が静かに押し寄せてくる。
麗華の帰る気配もない。いつの間にか、ソファの前のテーブルに突っ伏したまま、意識が遠のいていった。
──その時だった。
電話のベルが鳴った。家の固定電話だ。
「……え? 誰だ?」
本来なら出ないほうが正しい。ここは僕の家じゃないし、そもそも僕がここにいることを知っている人間なんて、家族以外いない。
もし麗華の知り合いだったらどうする?
なんて答えればいい? 『夫です』なんて言えるわけがない。
それに、相手が男だったら? 麗華のことをまだよく知らない以上、彼女にそういう関係の相手がいてもおかしくない。
……よし、やっぱり出ない。
そう決めた矢先、留守電に切り替わり、スピーカーから少女の声が流れ出した。
《もしもしー? ママ、もう寝ちゃったの?》
女の子の声だ。思わず身体が固まった。
確かに「お母さん」と言った。麗華のことを呼んでいるのか? 一瞬、間違い電話かと思った。
《ユナだよ。元気だって言いたくて電話したの。叔母さんがいいって言ってくれたの。》
続いて、今度は大人の女性の声に変わった。
《麗華さん、ミカです。ユナがあなたの声を聞きたがっていて、一日中「ママに電話する」って言ってたんですよ。ほら、ユナ、お母さんに言って。私たち元気だからって。》
……今、確かに「麗華」って言ったよな。
ということは、間違い電話じゃない。
《ママ、私たち元気だよ。心配しないでね。》
《麗華、あなたの携帯、すぐ留守電になるの。だけどユナには「きっとママは大丈夫だよ」って言っておいたからね。ね、ユナ?》
《うん! これ聞いたら電話してね!》
《じゃあ、ユナともう寝るね。おやすみ、気をつけて。》
《気をつけてね、ママ!》
…… ……
気づけば、僕は立ち上がり、電話の前まで歩いていた。
間違いなく「麗華」と呼んでいた。
だが──ユナって誰だ?
あの子、何度も「お母さん」って呼んでいた。
「……まさか、麗華に娘が?」
その瞬間、身体の中から一気に熱が引いていくのを感じた。




