第9章 『 地獄にでも落ちなさい 』
麗華の視点
人は考えごとをしたいとき、どこへ行くのだろう。
自分の家は論外だった。だから頭の中でいくつかの場所が浮かんだ。
まず思い浮かべたのは職場だったが、そこで落ち着けるはずもない。というより、そもそも腹を立てたのがあの場所だった。
次に考えたのは、公園か、どこかのレストラン。
けれどこの大都市では、深夜に公園へ行けば区の条例に引っかかる。午前零時を過ぎて公共の場所にいるのは禁止だ。
レストランも、時間のせいで論外だった。
結局、家出した大人が行ける場所なんてバーしかない。
皮肉なことに、私が探していたのは静かに考えられる場所だったのに。
バーには、いつだっていろんな人間がいる。
多くは自分の悩みを忘れたい者たちだ。
*********
入ったバーは小さく、木製のテーブルに静かな音楽、客たちは控えめに飲んでいた。
私はカウンター席に座り、二杯目のグラスをいじりながら、半分空になったタバコの箱を指先で転がしていた。
そのとき、隣の席に男が腰を下ろした。
黒髪で、年の頃は中年にさしかかったあたり。見た目は特に目立たないが、背が私とほとんど同じくらいある。それだけでも珍しかった。
こんな展開は、正直、予想していなかったわけじゃない。
女が一人でバーにいれば、たいてい誰かが「親切」を装って声をかけてくるものだ。
だがこの男は、ウイスキーを頼んだきり、黙って飲んでいた。
ありがたかった。今夜はそういうのを相手にする気力がない。
私は「結婚した」という事実をようやく飲み込みつつあった。
それも、怒りに任せてとはいえ、高校生くらいの少年を巻き込んで。
これからどうすればいい?どう話しかければ?どうやって「普通」に振る舞えば?
うちの家は金持ちだが、藤村家はどちらかといえば地域の名士で、長い歴史を持つ家柄だ。
母ちゃんが言っていた――あの家では政略結婚なんて珍しくない、と。
けれど、だからといって気分が晴れるわけじゃない。
この結婚に愛も情もない。それでも、せめて相手がもう少し私の年に近ければよかったのに。
あの少年のこれからは、どうなるんだろう。
きっと自分の意志じゃない。私は彼の未来を奪ったんだ。
もう一本タバコに火をつける。煙で思考を少しでも晴らしたくて。
どうすればいいの?
もし――もし彼に「好きにしていい」と言ったら?
「他の誰かと付き合ってもいい」と。
「この結婚はただの紙の上のことだ」と。
そう言えば、彼は普通の未来を手に入れられるかもしれない。
そんな考えが形になりかけたとき、左側のカウンターに二人の男が座った。
大学生くらいだろう。シャツははだけ、安いビールの匂いをまとい、馬鹿みたいに笑っている。
ひとりは金髪に染めていて、首から金のチェーンをぶら下げていた。
もうひとりは浅黒くて筋肉質、笑い声はガアガアと耳障りだった。
「へえ、俺たち運がいいな」
金髪の方が言った。私の方に体を寄せ、軽薄な笑みを浮かべながら。
「こんな美人が一人なんてさ。俺たちに一杯奢らせてよ」
「チッ」
返事はしなかった。
ただ無表情のまま顔を向け、煙を吐きかけるようにして彼らの間に一線を引いた。
「結構です」
だが、浅黒い方は空気を読まない。いや、読む気がない。
「まあまあ、そう言わずに。ちょっと話すだけだって。俺はケン、こっちはタロウ。中心街のIT企業で働いてるんだ。君は?」
無視して少し右へ椅子を動かす。
結果的に、さっきの静かな男のほうへ寄る形になった。
けれど、しつこい。金髪――タロウらしい――が笑いながら手を伸ばした。
「ほら、噛みついたりしないだろ?一杯だけ。それでおしまいにするから」
胃の奥がねじれるような不快感。恐怖じゃない、単なる苛立ちだ。
立ち上がって帰ろうとした、その瞬間――隣の男が口を開いた。
「彼女は俺と一緒だ」
二人の若者も、私も動けなくなった。何を言っているの?
「マジかよ?」
浅黒い方が言う。男は私のほうへ少し体を向け、私の手を取って、甲に軽く口づけた。
ほんの一瞬の、けれど意図的な動作。
「チッ。やっぱりな。こういう女はいつも誰かのものだ」
二人は舌打ちしながら、バーの隅へ移動していった。
男は私の手をそっと離した。
「すまない。他に方法が思いつかなかった。触って悪かった」
私は彼を見、それから自分の手を見て、手首を軽く振った。
「まあ……助かったけど。知らない人に触られるのは気分のいいものじゃないわ」
ポケットからハンカチを出して、いつもより強く手の甲を拭いた。
男は黙ってうなずき、グラスを傾けた。
「俺は静かに飲むのが好きなんだが、さっきのは少し気に障ってね」
――そういうタイプか。
男は私のグラスに目をやり、それから横のタバコの箱を見た。
「悩み事か?」
私は苦笑した。
「まあ、そんなところ」
グラスを指先でくるくる回す。
「多分、因果応報ってやつ。考えたくてここに来たのよ」
「なるほど。でもバーって、考えるための場所じゃないだろ。むしろ、考えるのをやめる場所だ」
「そうかもね」
沈黙が流れた。心地よい沈黙だった。
二分、三分の後、また彼が口を開く。
「そういうもんだ。大人ってのは、そうやってやり過ごす」
その言葉に、思わず眉をひそめた。
大人?私が?――そんな資格、あるわけない。
溜息をつき、カウンターに肘をついて頭を支えた。
もうやめよう。大人らしく、ちゃんと向き合わなきゃ。
「大丈夫か?」
うなずく。
「ただの厄介ごとよ」
「厄介ごとか。……一杯じゃ足りなさそうだな」
「今何時?」
「たぶん午前一時くらい」
男は私のタバコを指さした。
「もう一本?」
ライターを軽く揺らす。
一瞬見つめたが、新しい一本には手を伸ばさなかった。
代わりに、吸いかけの一本を最後まで吸い、指先に熱を感じながら灰皿に押しつけた。
「またあとで」
――いや、もう少しで帰るつもりだった。
「そうか。まあな、たまには……誰かと分け合うのも悪くない。
少し話すだけでも、気が紛れるかもしれない。
二人きり、一晩だけ、何のしがらみもなく。考えるのをやめるために」
その言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。
そして気づいた瞬間、笑ってしまった。
「はっ! 本気?それがあなたの口説き文句?」
「誘ってるわけじゃない。誤解しないでくれ」
「なら、もう少しうまく言えばいいのに」
タバコを灰皿に押しつぶし、煙が消えていくのを見送った。
彼は灰皿をこちらに押しやる。
「それで?」
彼の問いに、私はまっすぐ目を合わせた。
ゆっくりと指先で灰皿の中の吸い殻を潰し、そして微笑む。
左手を持ち上げ、薬指の指輪を見せつけながら――
「地獄にでも落ちなさい」
最も冷たい声でそう言って、立ち上がった。
ジャケットを整え、バーを出る。
背後で男が「ちくしょう」と呟いたのが聞こえた気がする。
――なんてこと。感じのいい人だと思ってたのに。
何様のつもり?港町の娼婦とでも?
それとも、男漁りに夜な夜な出歩く女の一人だと思った?
ふん。
私はそんな安い女じゃない。
*********
どうにか車まで辿り着いた。
けれど酔って運転なんて絶対にしちゃいけない。
だから近くの駐車場に車を止め、そのままシートの上で眠り込んだ。
目を覚ましたとき、スマホの時計は朝の八時を過ぎていた。
「うそ……どれだけ寝たのよ!」
昨日の極度のストレスのせいだろう。
ハンドルに額を打ちつけながら、こめかみの脈打つ痛みに耐える。
喉が渇く。首も痛い。車の中で寝たせいだ。
でも、一晩の逃避が少しだけ頭を冷やしてくれた。
そして、まだ酔いの残る頭で、何をすべきかを理解していた。
今いちばん大切なのは――
「帰らなきゃ。海斗のところへ」
彼のもとへ、戻らなきゃ。




