第8章 『 起きて待たないで 』(1)
海斗の視点
持ってきた荷物といえば、スーツケースが二つだけだった。
一つ目には学校の制服、もう一つには翌日使う教科書を入れた。
それを片付け終えるのを手伝ってくれた優一は、それきりどこかへ姿を消してしまった。
式の途中から鳴りはじめた腹の妙な音は、今になってさらにひどくなっていた。
たぶん、空腹というよりも単なるストレスのせいだろう。
どうすればいいのか、まったくわからなかった。
何もかもが居心地悪くて、頭の中で言葉を探しても、どれも気恥ずかしく響いた。
それでも今夜を乗り切ることが第一の課題だと、わかっていた。
麗華がリビングに入ってきた瞬間、反射的に背筋を伸ばした。
「何か必要なものでも?」
冷たい声が、静かな空間に落ちた。
話さなければ、きっともっと気まずくなる――そう思い、慎重に口を開いた。
「い、いえ……特に……」
麗華はゆっくりと近づき、ソファに腰を下ろして脚を組んだ。
「本当に?」
問いかけられて、小さくうなずくしかなかった。
その存在感はあまりにも強くて、目のやり場に困るほどだった。
思春期の男子の前で、そんなふうに座るなんて――麗華、お願いだからやめてくれ。
沈黙が落ちる。
煙草に火をつける音が聞こえた。
もしかすると、彼女も何を話せばいいのかわからないのかもしれない。
胸の中にいくつもの疑問が渦巻いた。
だが、どれも口に出すべきではないとわかっていた。
――黒田家はこの結婚で何を得ようとしているのか。
――どうして式にオフィスの服で現れたのか。
――最後に煙草に火をつけたとき、なぜ手が震えていたのか。
――この家のどこで眠ればいいのか。
……いや、最後のは聞いてもいいかもしれない。
「れ、麗華さん……」
その瞬間、腹の音がいっそう大きく鳴った。
麗華の視線がこちらに向く。
「お腹、空いてるでしょ。」
彼女は立ち上がり、リビングとつながったキッチンの冷蔵庫を開けた。
「大したものはないけど……ピザがあるわ。これでいい?」
顔が熱くなる。恥ずかしさで言葉が詰まり、かろうじて答えた。
「だ、だいじょうぶです……」
本当は空腹なんて感じていなかった。式の後、軽いものをつまんだし、ポケットにはまだ飴が残っている。
麗華が冷蔵庫の中をのぞきこむ姿を、つい視界の端で追ってしまう。
そして慌てて目を逸らした。
……大きい。いや、冷蔵庫のことだ。もちろん。
ピザを取り出した麗華は、電子レンジに入れた。
「一分くらいね。待ってて。」
「い、いえ……気にしないでください。」
静寂の中で、電子レンジの低い唸りだけが響く。
その微かな音が、かえって居心地の悪さを増幅させた。
気づけば、指先を強く握りしめていた。
視線を横にずらすと、麗華はいつものように無表情だったが、
組んだ腕の指先が小さく動き、腕を叩くようにしていた。
焦れているのだろう。
――やっぱり、彼女も同じように居たたまれないのだ。
何か言わなければ。
頭に浮かんだのは、母のことだった。
おそらく、僕がここに世話になるよう黒田夫人に勧めたのは母に違いない。
だから、まずはそのことを謝ろう。
それから、「心配しないでほしい」と伝える。
今夜だけのことだし、明日には家に戻るつもりだ。
言いたいことが山ほどあった。
うまく言えるといいのだけれど。
拳を握りしめる。
黙っていても何も変わらない――勇気を出せ。
「れ、麗華さん……その……」
「なに?」
短く返され、心臓が跳ねた。
「ご、ご迷惑を……おかけして……でも、あなたのせいじゃなくて……だから……そんなに気をつかわないでください……」
僕の言葉を聞いた麗華は、ほんの一瞬、目を見開いた。
その表情がわずかに揺れて、苦しげに歪んだように見えた。
ああ、やってしまった――そう思った。
頭を抱えたくなる衝動を、どうにかこらえる。
「れ、麗華さん、僕――」
けれど、電子レンジの「ピッ」という音がその続きを遮った。
麗華は小さく息を吐き、ミトンをはめてピザを取り出すと、テーブルに音を立てて置いた。
「少し出かけてくるわ。食べて。心配しなくていい。あなたが迷惑なんて思ってないから。」
その言葉に思わず聞き返した。
「ど、どこへ行くんですか?」
自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからない。
麗華は変わらぬ口調で答えた。
「気にしないで。」
どうしてこうなったのだろう。
確かに気まずい状況ではあるけれど、
それでも、今のうちに言いたいことを少しでも伝えたかった。
「僕……話が……」
声がかすれる。
頭の中で一瞬、はっきりとした思考が走った。
――「行かないで」なんて言えるわけがない。
だから、言葉を変えた。
「話が、したいです。」




