第6章 『 嫌いな自分の部分 』
夜もすっかり更けたころ、ようやく式が終わった。
食事を終え、少しばかり言葉を交わしたあと、私たちは本館を出て建物の庭へ向かった。
優一と私は、中庭の端に置かれたベンチのひとつに腰を下ろした。
一方で、両親はまだ入口の近くで黒田夫妻と談笑していた。笑い声は聞こえるものの、何を話しているのかまでは分からない。その輪の中には麗華の姿もあったが、彼女の目はどこか虚ろだった。
式が終わった今でこそ、張りつめた空気は幾分やわらいでいたものの、彼女の表情を見るかぎり、大人たちの中にいるのはやはり居心地が悪いのだろう。
「ほら、そんなに大変じゃなかっただろ」
優一の言葉に思わず苦笑がこみ上げる。
見知らぬ相手と結婚することを“楽”だと感じる人間なんて、この世にいるのだろうか。
自分の手元に視線を落とす。——ましてや、私のように内向的な人間にとっては。
けれど、言い返す気力もなかった。ただ黙ってうなずき、彼の言葉を肯定するしかない。
「ま、まぁ……そうだな。」
再び大人たちのほうに目をやると、いつのまにか麗華の姿が消えていた。
思わず周囲を見渡す。自分でも理由は分からない。ただ、探さずにはいられなかった。
……だが、見つからなかった。
優一は気にする様子もなく、ぼんやりとした口調で続けた。
「これで父さんの仕事もやりやすくなるな。」
その瞬間、体がこわばった。
そんなことを軽々しく口にしていいはずがない。ましてや、相手方の耳に入る場所で。
確かに彼の言葉は事実かもしれない。だが、黒田家の前で話す内容ではない。
結婚式のあいだ整えていた前髪が、今はまた目にかかるほど伸びている。その隙間から、私は「やめろ」という視線を優一へ送った。
もちろん、直接目を見ることはできない。せいぜい顎のあたりまでだ。
……麗華だけは、例外だった。ほんの数秒でも、彼女とだけは視線を交わせた。
優一は肩をすくめるだけだったが、彼の言葉はいつまでも頭の中に響いていた。
——私たちは、黒田家の輸出事業から利益を得る。
では、彼らは? 彼らにとっての利点は、いったい何だ?
裕福な家の中には、古い名家の姓を欲しがる者もいると聞く。
影響力を得るため、あるいは地域の中枢に近づくため。
……それかもしれない。たぶん、そうだ。
今は考えても仕方がない。
家に帰ってからだ。慣れた空間に戻れば、少しは勇気も出るだろう。そのときに聞けばいい。
握りしめた拳の中で、小さくつぶやく。
「……勇気を出せ、勇気を。」
「どうした?」
「えっ、あ、い、いや……なんでもない。」
顔を伏せる。たぶん声が大きかったのだろう。恥ずかしさで耳まで熱くなる。
「ほんとに? それじゃあ、何考えてたんだ? たしか、あまり話さない人って、心の中ではよく独り言を言うんだって聞いたけど、当たってる?」
「そ、そ、それは……! えっと……ただ、早く……家に帰りたいなって……思ってただけ。」
「家?」
その声に驚いて横を見ると、そこにはお母さんが立っていた。
彼女は深いため息をつき、まるで長い一日を終えた後のように額を押さえた。
「海斗、海斗……はあ。あんた、何言ってるの。帰る? 帰るって、どこに?」
「そ、それは……えっと……宿題もあるし、あの、明日学校も……」
けれど、返ってきた言葉は、夢にも思わなかったものだった。
「海斗。」
「……はい?」
「もう結婚したのよ。分かってる?」
結婚——。いや、それは書類の上だけの話だろ?
ただの形式。そうだろう?
父さんは黒田家の支援を受け、黒田家はうちの姓と影響力を得る。それだけのはずだ。
「麗華ちゃんの夫になったんだから、二人で一緒に暮らすのが当たり前でしょう?」
一、二、三秒……そして突然、声が爆発した。
「——えっ!?」
あまりの大声に、黒田夫妻までこちらを振り向いた。
庭が静まり返る。
全員の視線が自分に突き刺さる。思わず身を縮め、視線を落とし、指先をいじる。
けれど、さすがに譲れなかった。
見知らぬ相手と一緒に暮らすなんて、想像しただけで恐ろしくて、震える声を必死に押し出した。
「そ、それは……ちょっと……違うと思う。つまり……」
深呼吸して、言葉を整える。誤解されないように、はっきりと。
「……嫌だ。行かない。お母さん。」
言えた。——やっと、言えた。
自分の気持ちを、ちゃんと口にできた。
こればかりは、絶対に譲れない。
だが、お母さんは吹き出した。
「ぷっ……あはははっ!」
手をあおぎながら、笑いをこらえきれない様子だった。
「なに言ってるの、海斗。おかしいじゃないの。」
そして、優一に視線を向ける。
「優一、海斗を家まで連れていって。必要なものだけ詰めたら、そのまま麗華ちゃんのところへ。ああ……」
額に手を当てて思い出すように言う。
「住所ね、あとで携帯に送っておくわ。急いでね、今日中に。お父さんと私は、もう少しだけ向こうのご両親と話を詰めておくから。」
なんてことだ。完全に無視されたじゃないか。
思わず頭を振る。——このまま引き下がれるわけがない。
私は黒田夫妻のほうへ戻っていくお母さんの背中を追いかけた。
けれど、二歩ほど踏み出したところで、優一に腕をがっしりと掴まれた。
「落ち着け。」
反射的に振りほどこうとする。
「でも……でも俺は、麗華の家になんて行かない。」
優一は、まるで兄の顔を演じるように、私の肩に腕を回して押さえつけた。
外から見れば、ただの兄弟のじゃれ合いにしか見えないだろう。
「どうしてだよ? 今日はいつになくよくしゃべるじゃないか。なあ、海斗。いつものように流れに任せろよ。」
歯を食いしばる。——いつものようには、いかない。
私の表情からそれを察したのか、優一は疲れたようにため息をついた。
「分かった、分かったよ。母さんには俺が話しておく。」
「……ほんとに?」
胸の奥から安堵がこぼれる。優一が言うなら、もしかしたら——。
「だから。」
「でもな、今は言うとおりにしておこう。いいな?」
「嫌だ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。優一の体が一瞬、固まる。
きっと、こんなに頑なな私を見るのは初めてなのだろう。
「いいか、今はタイミングが悪いんだ。必ず話してやる。約束する。けどな、海斗、今ここには黒田家の人たちがいる。騒ぎを起こしたら、全部が台無しになる。
今夜は麗華の家に泊まって、明日、母さんに話して戻ればいい。それでいいだろ?」
納得はできなかった。
でも、逃れることもできなかった。七つも年上の兄の腕は、まるで岩のように重かった。
「ほら、海斗。たった一晩だ、ほんの数時間のことだ。あとは俺に任せろ。
それとも、お前、お母さんが簡単に折れると思うか? 逆らったときの顔、知ってるだろ。」
足が止まる。
「……そうだな。父さんを先に説得できれば、母さんも折れるかもしれない。けど、お前に父さんを説得できるか?」
歯を食いしばる。——そう言われると、返す言葉がない。
「……無理だ。」
「だろ? だったら二つに一つだ。
俺に任せて明日帰るか、自分で話して大騒ぎになるか。
下手すれば、家から追い出されるかもしれないぞ。」
背筋がぞくりと震えた。その一瞬の隙を逃さず、優一が私の耳もとで囁く。
「“一晩”のほうが、“一生”よりましだろ? お前、説得なんて向いてない。ここは俺に任せとけ。」
このとき、格好よく反抗した——と言えたらよかった。
怒りを燃やしてお母さんの前に立ちはだかった——と胸を張れたらよかった。
だが、それは嘘になる。
私は痛いほど知っていた。自分には気骨も力もない。
だから結局、「一晩だけ」という条件で折れた。
それでも、口の中には苦い味が広がっていく。
「……で、今度は何が不満なんだ?」
私が拳をさらに強く握りしめるのを見て、優一が眉をひそめる。
「その顔、どうした?」
——嫌いだ。こんな自分が、心底嫌いだ。
言われるままに従ってしまう、この弱さが。
たしかに、兄の言葉に従ったのは自分だ。
けれど、もう限界が近い。
このまま、みじめで情けないままでは、
きっと一生、誰かに踏みにじられ続けるだろう。




