第9話 跪く王子、凍る花 ――季節は、人の都合では変わらない。都合が、人の季節を変えるのだ。
◇
翌朝の学園は、昨夜の「断罪の夜会」の余韻を、まだ身体のどこかに残していた。
掲示板の前では、学内有志が夜会資料の閲覧案内を張り替え、図書塔の投函口には“出所と日付のみ”の小さな紙片が増えている。
噂は熱を失い、言葉は短くなる。短くなった言葉は、長く残る。
中庭の噴水には、春だというのに薄い冷気が漂っていた。
石の縁に光が跳ね、芝の早芽が露を抱く。
レティシアは、そこに立っている。
剣は帯びず、書類も持たない。
あるのは、呼吸の列と、昨夜まで積んだ「手順」の手触りだけだ。
人の輪が、音もなく開いた。
輪の向こうから歩み出たのは、第二王子ではない。
昨夜、席から立てなかったほうの王子――エルマー。
衣に皺はない。髪も整えられている。
けれど、足取りは平らではない。
彼は人びとの視線の線を切り裂き、噴水の前で止まり、膝をついた。
石畳に片膝が触れる鈍い音が、中庭の静けさに小さく刺さる。
「過ちを認める。戻ってきてくれ」
それは、叫びのようで、囁きのようでもあった。
群衆は息を呑む。
昨日まで「追放」を口にした者の膝が、今、石に置かれている。
音は小さい。だが、姿勢は雄弁だ。
レティシアは、少しだけ瞬きをして、足元の芝を見た。
春の色は柔らかい。
けれど、柔らかさだけでは、重みを支えられない。
「殿下」
声を出すまでに、ひとつ呼吸をおいた。
合図の外。
夜会で学んだ置き方を、今朝の空気へもそのまま運ぶ。
「あなたが私に向けたのは愛ではなく、都合です。
都合は季節で変わる。
私は、自分の季節を生きたい」
言葉は短く、角がない。
だが、柔らかくもない。
彼女の言葉は、置かれた。
「……都合、だと?」
エルマーの顔が、わずかに歪む。
歪みは怒りというより、理解に追いつこうとする筋肉の遅れだった。
「私は――君を、」
「殿下。名ではなく、手順でお示しください。
昨夜の夜会で示されたのは、記録でした。
今日、ここで必要なのは、記録に等しい姿勢です。
それでも――季節は、私には戻って来ません」
噴水の水面が光を裂く。
遠くの塔の鐘は、今朝だけ一度も鳴らない気がした。
エルマーの唇が震えた。
彼は、膝をついたまま言葉を探し、やがて見つけられないまま、唇だけが閉じた。
その横で、ミリアが崩れるように腰を落とす。
扇子は開かれず、ただ胸元で握り締められる。
目には涙がない。
涙の手前で、善意という言葉が硬くなっていた。
(泣かせたいのではない。――私怨のために、誰かの季節を折りたくない)
レティシアは一歩、噴水から離れた。
その踵のわずかな音が、彼女自身への合図になる。
合図の外へ、怒りも哀れみも置いたまま、言葉だけを届ける。
「殿下。
あなたがここで膝を折られた姿勢は、王子としてではなく、一人の人としてのものです。
だから私は、それに礼を置きます」
レティシアは、深く、しかし短く礼をした。
誰の号令も要らない礼。
群衆の空気がわずかに揺れ、誰かが息を吐く。
礼の代わりに、彼女は掌を軽く上げた。
噴水の水面が、一息だけ冷える。
氷属性の瞬間冷却。
術式は短く、詠唱は音にならない。
水面に、薄い花が咲く。
氷華――“凍る花”。
春の陽を受けて、透きとおった花弁が一瞬だけ光り、すぐに解けて消えた。
儀礼ではない。
飾りでもない。
「季節は私が決める」という宣言に、ほんの薄い形を与えたに過ぎない。
「私は、私の季節を生きます」
静かに、しかし明確に、繰り返す。
◇
人の輪の後方から、空気を割る気配が近づいてきた。
王家の紋章を肩に掛けた近衛――外部監察官の青年だ。
付き従うのは、書記局の書記官、塔司書、学園の監督官。
昨夜の「見る会」の帰り道を、今朝は逆向きに歩いてきた人々。
「この場は記録に残る」
近衛の青年は静かに言った。「礼の角度、言葉の長さ、だれも傷つけないという選択――すべて、手順だ。
殿下、どうかお立ちください。公務は、公務の場で」
その言葉に、エルマーの肩が微かに震え、やがて彼はゆっくりと立ち上がった。
膝の埃を払う仕草は、昨夜の彼より丁寧だった。
彼は視線をレティシアに投げ――受け取りを求める眼差し――しかし彼女は首を振る。
「殿下。
あなたの季節が、あなた自身の手で来ますように」
それは拒絶であり、祈りでもあった。
王子の顔に、言葉にならない色が走り、やがて消える。
彼は踵を返し、ミリアのほうへ向き直る。
ミリアは顔を上げない。
扇子は握られたまま、白い指が震えている。
エルマーは小さく彼女の名を呼び、触れず、ただ立ち尽くした。
――群衆は、弱い紐から解ける。
今朝、解けたのは「悪役令嬢」という粗末な名札の紐ではない。
「都合で結ぶ器量」という、もっと細く危うい紐だ。
◇
「アーデル嬢!」
輪の別の側から、三人が駆けよってきた。
昨日まで王子派の後列で笑っていた顔。
今朝は眉根を下げ、声音は低い。
彼らは、少し誤った方向から礼をし、言った。
「お力になりたい」「困ったことがあれば」「今後は、こちらにつきます」
レティシアは、彼らの礼の角度に似た柔らかさで、しかしきっぱりと距離を取る。
一歩、石畳を滑らせるだけで、間ができる。
その「間」は、侮辱ではなく、保存だ。
関係を壊さずに、位置だけを確かめ直すための保存。
「ありがとうございます。
ですが――あなた方は私を助けたのではなく、ただ風向きに乗っただけ。
風はまた変わります。
そのたび、位置を変えることは、私の手順にはありません」
「いえ、私たちは――」
「いいえ」
彼女は穏やかに遮る。「今日の言葉は、紙に残しません。
だからこそ、重くしません。
――私に近づくなら、数字を持ってきてください。あなた方自身の、成績でも、働きでも。
それなら、私の側に置けます」
三人の顔に、羞恥も怒りも湧かなかった。
代わりに、奇妙な安堵が宿った。
「数字を持ってくればいい」という分かりやすい通行証に、彼らの目は救われる。
人は時に、正しさよりも、「どの扉が開くのか」を知りたがる。
「……努力します」
「どうぞ」
レティシアは小さく頷いた。「あなた方のために」
彼らは去る。
去り際に、彼ら自身の季節が、わずかに回り始めているのが見えた。
◇
群衆の端で、昨日名乗り出た若手騎士が、静かに彼女に近づいた。
彼はもう、名乗らない。
昨日、名乗るべきを名乗り、今朝はただ表情で名乗っている。
「あなたの……今朝の言葉は、刃でしたか、それとも秤でしたか」
「秤です。
刃を使うのは、紙のほうです」
若手騎士は目を細め、短く笑った。
「ならば、私も秤を置く練習をします」
「一緒に。――塔で」
彼は軽く礼をし、戻っていった。
その背は、昨夜より一日分だけ、大きくなっていた。
◇
人の輪がほどけると、塔司書が杖を鳴らして近づいてきた。
「氷の花は、一輪で十分だね」
「はい。二輪目からは、説明になります」
「説明は、紙に書くほうが綺麗だ」
レティシアは笑った。「いつも通りですね」
「いつも通りが、季節を守るのさ」
司書はそれだけ言って、杖を鳴らしながら去った。
その背を見送り、レティシアは噴水の縁に指先を置く。
冷たさが皮膚から骨へ降り、骨から呼吸へと昇る。
合図の外に、呼吸を置く練習。
次の舞台は、もう迫っている。
魔術科首席アーサー・ヘイルとの二回戦。
音のない戦い。
◇
午前の講義が始まる鐘の直前、ノアが中庭を横切ってきた。
いつもの銀髪、いつもの距離、いつもの無駄のなさ。
彼は礼をしない。
礼の必要がない場所で礼をすると、意味が薄れる。
「見事だった」
「ありがとうございます。――塔の外ですから、受け取ります」
「受け取る場所の区別を、君はよく知っている」
ノアは噴水の縁の氷の痕をちらりと見て、目だけで笑った。
「一輪で十分」
「二輪目からは、説明になるからです」
「同じ答えを返すのも、今朝は美しい」
ノアは小さく息を吐き、声を低める。
「王太子は、今朝の一件を記録扱いにした。
“王子が膝を折った”――人の姿勢を、政の紙にどう載せるか。
彼は“載せない”を選んだ。載せずに、噴水にだけ残した」
「それが、殿下の季節なのですね」
「そうだ。王位継承は、季節の入れ替わりを管理する役目だ」
ノアは短く頷き、声の調子を変えた。
「午後、審判規定の臨時追補が出る。“観客の妨害を誘うジェスチャー”の定義が厳密になる。
王子派が、君の試合で最後の揺さぶりを試みる筈だった。――先に釘を打つ」
「感謝します。釘は、合図を綺麗にします」
「その言い方、好きだ」
ノアは踵を返しながら、ふと付け加えた。
「君の父上からの手紙、良い文だった。家の名誉と人の幸せ――両立させてみせろ」
「はい。――幸せの側から」
ノアは嬉しそうに片手を振り、講義の波に消えていった。
◇
講義の合間に、学内有志の「記録ボランティア」が塔の掲示に新しい短文を貼った。
《本朝の出来事:
・噴水前にて第二王子エルマー殿下、片膝。
・アーデル嬢、礼とともに辞退。
・氷華一輪。解氷。
・近衛より、公務は公務の場で、の一文。
――以上、出所と時刻のみ》
文は短く、余白は広い。
読んだ者が自分の解釈を置けるだけの余白。
それが、学園という小さな国の教育だ。
◇
昼。
学食の入口で、また誰かが席を譲ろうとした。
今日は四人。
昨日まで距離を置いていた顔、昨夜の「見る会」で紙を覗き込んでいた顔、今朝、王子の膝を遠くから見ていた顔。
レティシアは同じ言葉を、同じ調子で返す。
「ありがとう。ですが――私の力で勝ち取る席でないと、意味が薄れます」
一度目は驚き、二度目はざわめき、三度目は学習、四度目には文化になる。
「彼女は席を譲られない」――それは、善人像でも悪人像でもない。
「私の手順を守る人」という、短く正しいラベルだ。
トレイにスープを受け取って席へ向かうと、前に座ったのは一年生のカイン・ロートだった。
武道大会決勝の相手。
彼は少し照れた笑顔を見せ、言った。
「“一輪で十分”――僕、あれ、好きです」
「二輪目は、説明になりますから」
「説明が必要な場は、塔の中だけでいい」
彼は匙を持ち上げ、真剣にスープを飲んだ。
なにかを言い足すべきでない空気を読むのに、彼は長けている。
たぶん、剣だけでなく、生き方も強くなる。
◇
午後の鐘とともに、臨時追補の掲示が出た。
《審判規定・観客と競技者の距離》《ジェスチャーによる妨害の定義》《抗議の手順》。
紙は、噂ではなく動線を整える。
動線が整えば、足音は短くなる。
短い足音は、戦いの音を鳴らさない。
観覧席の端で、王子派の数人が顔を見合わせ、肩をすくめる。
「仕込み」が効きにくくなった。
だが彼らは気づいていない。
効かせたいのは「仕込み」ではなく、稽古なのだと。
◇
夕刻。
レティシアは剣の柄を握らない手で、布短冊を一枚だけ撫でた。
呼吸の乱れを吸わせる布。
審査では使えず、試合でも使う予定はない。
ただ、指先に「吸う」という感覚を思い出させるためだけの、静かな儀式。
正門のほうから、軽い足音。
ミリアが、ひとりで歩いてくる。
扇子は持っていない。
髪は乱れていない。
泣いてもいない。
ただ、季節を探している顔だった。
「レティシア様」
「ミリアさん」
互いの名を、初めて等距離で置いた気がした。
ミリアは立ち止まり、空を見上げ、言う。
「今日――殿下が膝を折られたとき、私、ほっとしたのに、怖くなりました」
「怖い?」
「“楽になれる”と思ったから。
“楽になる”って、自分がいなくなるみたいで。
それは、怖い」
レティシアは、噴水の縁に目を落とした。
わずかな氷の痕が、もう形を留めていない。
「楽になることが、悪ではありません。
けれど、楽のために、名や手順をねじると、私たちは誰かの季節を奪います」
「奪ったの、私ですね」
「“した”と“なってしまった”の間を、あなた自身が言葉にしてください。
私が決めることではありません」
ミリアはしばらく黙り、やがて小さく頭を下げた。
「……自分のための善意を、考えてみます」
「それが、鞘です。刃ではなく」
ミリアは、扇子のない手で胸元を押さえ、深く息を吸い、去っていった。
背中は軽くなっていない。
軽くなっていない背のほうが、強いときもある。
◇
夜。
図書塔の窓辺に、ノアの影。
彼は紙片を一枚、机の中央に置いた。
公的な文言ではない。
塔で交わしてよい、個人的な針のメモ。
《明日、二回戦。
審判席は釘で固めた。
観客は音で揺れる。
――呼吸で勝て。》
レティシアは頷き、薄い笑みを落とした。
「呼吸は、合図の外に置きます」
「氷の花は、一輪で終わりだ」
「戦いの場に、花は要りません」
「……その言い方、やっぱり好きだ」
ノアは肩をすくめ、窓外の夜に視線を預ける。
塔の外では、学園の夜が静かに回っている。
噂は低くなり、記録は厚くなり、季節は一歩だけ進んだ。
◇
寮の自室で、彼女は今日の記録をノートへ移した。
・噴水前、第二王子エルマー殿下膝。
・謝辞の辞退。「都合」「季節」「私の季節」。
・氷華一輪。
・近衛の「公務は公務の場」。
・追従の三名に「数字で来て」。
・若手騎士の問いに「秤」。
・ミリア「楽になる怖さ」。
・臨時追補、妨害定義。
・ノアの紙片「呼吸で勝て」。
最後に、一行だけ自分のための行を許す。
《都合が人の季節を塗り替えるなら、私は手順で季節を守る》
インクが乾くまでの短い時間、彼女は目を閉じ、呼吸を数えた。
胸郭が上がり、下りる。
数の列が、心拍の列と重なる。
重なったところへ、矢を番える。
今度の矢は、人に向けない。
術に向ける。
連鎖術の“合図”へ。
“合図”へ向けて、合図の外から。
◇
深夜。
中庭の噴水は、もう冷えていない。
花は消えた。
だが、誰かがそこに一輪の紙花を挟んでいった。
学内有志の誰かだろう。
白い紙片に、細い字で。
《花は、季節の証拠。
一輪で、十分。》
風がそれを揺らし、石の縁で止める。
止まった紙は、朝になってもそこにあるだろう。
誰かが手に取り、誰かが戻し、誰かが別の紙を添えるだろう。
そうやって、学園という小さな国は、自分の季節を記録していく。
――跪く王子。
――凍る花。
――首を振る令嬢。
それらの光景は、噂ではなく、紙のほうに残った。
◇
次の朝、鐘が鳴る。
戦いの鐘ではない。
始業の鐘だ。
けれど、その音に合わせて、彼女の呼吸は半拍ずれる。
合図の外に、呼吸を置くために。
――季節は、人の都合では変わらない。
――都合が、人の季節を変える。
――ならば私は、手順で季節を守る。
そして、呼吸で勝つ。
◇