第7話 暴露の矢、静かに番える ――矢は、放たれる前から音を孕む。
◇
王家監査院の検証は、静かな侵蝕のように三日間を流れた。
書記局の複製印。掲示改竄。孤児院寄付の水増し。
単発で見れば「ケシ粒」のような不正も、並べて見ると縫い目であることが露わになる。
縫い目は布を繋ぐ。つまり、行為を組織へ接続する。
老監察官は最終日、帳簿の端を指で弾き、短く言った。
「これは“評判工作”の域を越えた。――王家の公文に触れた疑いがある」
図書塔の閲覧室に淡いざわめきが走った。
レティシアは息を浅くし、すぐに平常へ戻す。
ノアは頷きもせず、机上の紙束を等間隔に揃え、乾いた声で応じる。
「では、王家の夜会で開示を。噂を噂で返さないために」
「夜会は社交の場だぞ」
老監察官の目尻に疲れが刻まれる。
「だからこそ“見せる”。――公衆の前で、手順がどう人を守り、どう欺きを剥ぐかを」
短い沈黙ののち、監察官は渋々といった風で頷いた。
「夜会の第三部。時刻は巽の鐘から。……紙が主役だ。人は脇役でいろ」
◇
準備は冷たく、速かった。
“私怨”の色を一滴も混ぜない――それがノアとレティシアの共有原則だ。
第三者証言のリストが塔の机に広がる。
・書記官(押印・出納の実務者)
・孤児院長(寄付の受領者)
・仲介人(寄付の橋渡し人)
・塔司書(朱肉・紙の扱いという“生活の知”)
誰一人、レティシアの友人ではない。
それが良い。友誼は、証言の表面張力を歪める。
「証言順は“紙→人→紙”。」ノアが指で三拍刻む。「まず記録のギャップを示し、次に第三者の体温を載せ、最後にもう一度冷やす。――温度差が説得力を作る」
「矢羽の角度みたいに」
レティシアは思わず言って、照れくさく笑った。
「弓を引くのか?」
「基礎だけ。昔、父に教わりました」
「ならば話は早い。弦は紙、矢尻は事実、矢羽は順序だ」
二人のあいだに、ごく淡い笑いが生まれて消える。
塔の空気はいつも通り冷たい。冷たいが、話が速い。
◇
最初の面談は書記官だった。
年季の入った革手袋、爪の隙に残る朱の筋。
彼は椅子の背に手を掛けただけで、“押す手”の重さを語った。
「複製印は、押し跡の怠けでわかる。生の印は、紙の気分に引っ張られる。湿っていれば縁がずさつき、乾けば押圧の輪郭に濃淡ができる。ところが、綺麗すぎるときがある。均一に濃い。角が角のまま。……それは“押した”のではなく“捺した”だ」
「捺す?」
レティシアが反芻すると、書記官は頷いた。
「木札でも樹脂でも作ってな、均一な圧で置くのさ。置けば、紙は怒らない。怒らない紙の印は、笑ってない」
「笑ってない……」
「印は笑うよ。正しく押せばな」
書記官は口の端だけで笑い、朱肉を指で撫でた。
「夜会では、“笑ってない印”だけ見せてやればいい」
ノアが手帳に二行、走り書きする。
《押印:紙の“怒り”と“笑い”》
《均一=置く=複製印の疑い》
◇
二人目は孤児院長だった。
痩せた背。固い握手。言葉は少ないが、目が逃げない。
「寄付の額は運営の胃袋です。多ければ助かる。だが、二度は食べられない」
「二度?」とノア。
「同じ額が二度、違う紙に記されて回ってきた。片方は教会の代書、片方は学園の掲示責任者。私はどちらにも礼を言った。しなければ、誰かが怒る。だが、胃袋はひとつだ」
レティシアが静かに問う。「返金の申請は?」
「申請すれば、善意が疑われる。善意は、疑うと壊れる。――だから、次の配分で相殺するよう、教会に頼んだ」
「相殺の記録は?」
「ここに」
孤児院長は薄い布袋から三枚の紙を出した。
紙の端の裁ち。インクの揺れ。筆圧。
そのどれもが、夜会の矢羽になる。
◇
三人目は仲介人の女商人。
評判は芳しくない。だが、数字は裏切らない種類の人間だ。
彼女は単刀直入だった。
「私は運ぶだけ。誰の善意も、誰の悪意も、重さは同じ。――動かすには明細が要る」
「明細の“書式”が変わった日は?」とレティシア。
「殿下の舞踏会翌日だ。あの日から、寄付の注記に“匿名希望”が増えた。で、匿名の筆跡は、美しすぎる」
ノアの眉がわずかに動く。「“美しすぎる”は、証言に向かない」
「向かないな。だから紙で言う。――筆圧の波形だ。私は商売柄、こういう玩具が好きでね」
女商人は細い筒を取り出し、紙に走る筆圧の上下を“波”として可視化して見せた。
「癖のある手は、揺れる。お手本の手は、揺れない。揺れない波は、人間の字じゃない」
塔司書が横で咳払いし、「人間の字だよ」と呟いた。
女商人は肩をすくめる。「比喩だよ、司書殿」
ノアが乾いた笑みを寄せる。「夜会では“波”を出そう。比喩は要らない。線だけ見せる」
◇
その日最後の面談は、塔司書だった。
杖の先で床を二度、軽く叩き、司書は朱肉の蓋を開けた。
「朱肉は生きている。温度で機嫌を変える。押し慣れた者は、日の機嫌を読む。押し慣れない者は、均一を好む。均一は見目が良い。だが、紙は機嫌が悪いほうが正直だ」
「夜会で、機嫌の悪い紙を並べます」とレティシア。
「そうしなさい。王宮の明かりは暖かい。暖かい場所でこそ、朱肉はよく喋る」
ノアが短く頷いた。「ありがたい」
◇
準備は整いはじめた。
夜会用の資料束は“紙→人→紙”のリズムで編まれ、余白は削られ、語尾は短く切り詰められる。
レティシアは自室で、一枚の便箋に四文字だけ記した。
《私怨:排除》
(矢は、私のためにではなく、場のために放つ)
ペン先が少しだけ震え、やがて止む。
窓の外で夜風が枝を鳴らす。
心拍が一本の弦のように引き絞られていく。
◇
夜更け。
ノック。
差し出された封筒は、アーデル家の紋章。
父の手紙――簡潔で、強い。
「家は名誉で生きる。
だが、人は幸せで生きる。
お前の選ぶ方を、私は支持する」
名誉と幸せ――二つの名詞が胸の奥で静かに位置を変えた。
重しがふっと軽くなる。
涙は落とさない。
ただ、呼吸が深くなった。
(名誉のために矢を射てば、人を忘れる。
人のために矢を射てば、名誉はあとから付いてくる)
彼女は便箋の裏に小さく書いた。
《幸せの側から射る》
灯りを落とす直前、ノアからの短い紙片が扉の下から滑り込んだ。
《矢羽:紙→人→紙。
弦:監査院。
的:自ら名乗る口。》
レティシアは微笑を一度だけ零し、紙片をノートへ貼った。
――矢は、静かに番えられた。
◇
夜会前日。
噂は、ふたつの川筋に割れていた。
「王家に取り入っただけ」
「努力が実っただけ」
前者は声が大きい。
後者は声が短い。
短い言葉は長持ちする――ノアの言葉が頭に残る。
王子は、焦りを隠せなかった。
彼は取り巻きを従え、回廊の要所で“善意”を配る。
落書きを消させ、花を飾らせ、孤児院への献立表を掲げさせた。
やっていること自体は悪くない。
ただ、時間が悪い。
沈黙すべきときの善意は、音になる。
音は、矢の的に最も届きやすい箇所を知らせてしまう。
ミリアは慈善告知をさらに重ねた。
掲示板に並ぶ「今週の善意」は、もはや一枚の壁画のようだ。
だが、学内有志の“記録ボランティア”は、そこに日付と出所だけを静かに書き添えた。
彩色の上に、薄い鉛筆の線が交差する。
派手な貼り紙の裏に、素朴な事実が透けた。
(ありがとう)
レティシアは声に出さない。
記録に礼を言えば、記録は運動になる。
運動には旗が要る。
旗が立てば、風が必要になる。
風は、真実より気分を運ぶ。
彼女はただ塔に戻り、矢羽の角度を微調整した。
証言の順番、差し込む図表、話者の立ち位置。
視線の流れも矢羽だ。
視線が迷えば、矢は逸れる。
◇
午後、ノアとの最終打ち合わせ。
図書塔の窓を背に、彼は紙束を三つに分ける。
「第一束は“押印”。笑っていない印を見せる。
第二束は“寄付”。胃袋は二度食べられないという比喩を、数字で言い換える。
第三束は“書式の波”。波だけを出す。名前は出さない。――名は、口から出させる」
「『名を言わせる』」
「そう。……王子派は、審問に持ち込ませようとするだろう。議論にしてしまえば、言葉で濁せるからだ。
だから此方は、会見にする。――“見る会”。見ることの連続。問答は最後に三問だけ」
「三問?」
「ひとつ目。“この印影を、笑っていると言えるか”。
二つ目。“この胃袋に、二度目の食事が入るか”。
三つ目。“この波を、人の手と呼べるか”。」
レティシアは頷いた。
短い問いは、長い議論を拒む。
拒まれた者は、焦る。
焦りは、合図を乱す。
「……ありがとう、ノア殿下」
「ノアでいい。塔の中では」
「では、“塔の外”でお礼を言います」
ノアは口の端だけを上げた。「では、塔の外で」
◇
その夜。
自室に戻ると、机の端に小さな包みが置かれていた。
寮母からだ。
中身は、薄い布の手袋――弓用の指皮。
昔、父と練習したときと同じ手触り。
指先で革を撫で、レティシアは弦の“ない”弓を握る仕草をしてみた。
番えるとは、置くことだ。
置くべき位置に、置くべき角度で、置く。
それが、矢の半分だ。
窓の外、夜空は濃い。
星を結べば、線ができる。
線は、説得になる。
説得は、勝利に変わる。
◇
夜半。
塔の明かりが一本だけ残っていた。
ノアが佇み、窓越しに王都の灯を見ている。
レティシアは足音を殺して近づき、隣に立った。
二人とも口を開かない。
沈黙は、刃になる。
余計な言葉は、矢の軌道を逸らす。
長い沈黙のあと、ノアが低く言った。
「君は“私怨を排除”と書いたな」
「見ましたか」
「見える位置に置いていた。置き方がいい」
ノアは横目で笑う。「私怨を無くすのではない。置き場所を変えるのだ。合図の外に」
「はい」
「ならば明日、君は勝つ。勝つとは、矢が自然に飛ぶことだ」
窓の外で、夜が深さを一段増した。
塔は静かだ。
静かな場所にこそ、音は育つ。
矢の音は、まだ弦に宿らない。
心拍の列に整列し、夜明けを待っている。
◇
王家定例夜会。
第三部――“見る会”。
王宮大広間の天蓋は深い藍。燭台の灯は白に近い。
舞曲の余韻が消えると同時に、壇上に机が運び込まれた。
花でも布でもない。机だ。
机の上に並んだのは、押印紙、帳簿、図表、温度計、朱肉、砂時計。
紙が主役の舞台装置。
「――開示を始める」
老監察官の声は低く、短い。
賓客のざわめきが、音階を落として静まる。
ノアは壇上に立ったが、語らない。
“橋”の役割は終わり、いまは場所の役割だけが残る。
第一束。“押印”。
塔司書が朱肉の蓋を開け、温度計の数字を掲げる。
書記官が、実際に押す。
観衆は押印そのものを初めて“見る”。
笑っている印は、縁が生き物のように揺れる。
笑っていない印は、縁が静止画だ。
差は、言葉より先に目へ落ちる。
老監察官が砂時計を返す間の短い沈黙ののち、第二束。“寄付”。
孤児院長が一歩進み、三枚の紙を机に置く。
「胃袋は二度、食べられない」――彼は比喩を言わない。
代わりに、月別の収支表と、相殺の記録を指で示した。
数字は、情緒を削ぐ。
削がれたあとに残るものが、事実だ。
第三束。“書式の波”。
女商人が波形筒を掲げ、筆圧の“揺れ”を線として見せた。
人間の手の波は、不規則の規則を持つ。
お手本の手は、規則の規則だ。
規則が過ぎれば、作り物になる。
観衆の視線は、線の粘りに吸い寄せられた。
レティシアは壇上に上がらない。
壇の下、最前列の椅子で、ただ見る。
見る会において、「見ている」という行為もまた役割だ。
視線の輪廻に、余計な色を加えない。
砂時計の砂が落ち切る頃、老監察官はようやく言葉に切り込みを入れた。
「――以上の差に関し、学園より、説明はあるか」
沈黙。
やがて、王子派の列から一人が進み出る。
掲示責任者。
彼は「善意」を口にした。
「学園の名誉を守るため」「寄付者を慮って」「混乱を避けるため」。
善意は多い。
だが、波は揺れない。
善意に揺さぶられない線が机の上に残り続ける。
「では、誰が捺した」
監察官の三問目。
会場に圧が落ちる。
責任者は唇を噛み、だが視線は壇の下――誰かを呼ぶ視線。
ミリアはその視線から逃げ、扇で顔を隠した。
やがて、別の影が立つ。
シェラ。
レティシアのかつての女官。いまはミリアの書記。
「……私が、やりました」
名が、名乗られた。
矢はまだ放たれていない。
的が、自ら矢に胸を向けたのだ。
老監察官は頷かない。
頷く代わりに、机上の紙を指で一度だけ叩く。
「理由は」
「……“良かれ”と思って。……でも、やってはいけないことだと、わかっていました」
膝の力が抜けそうになるのを、レティシアは呼吸で押しとどめた。
裁くのは自分ではない。
名誉のためだけに矢を放てば、人が壊れる。
人のためだけに矢を放てば、名誉が泥になる。
だから、矢は事実に番える。
監察官は短く告げた。
「内部処分と再発防止――学園の責務。王家としては“複製印”の再発防止指針を、明日付で通達する。
名は公には出さない。紙だけが記憶する」
薄いざわめき。
赦しではない。
だが、破壊でもない。
“紙が覚える”という冷たい救済。
壇の脇で、ノアが一歩だけ前に出る。
彼は断罪をしない。
ただ、手順を通達する。
「――以上。見る会を終わる。以後、社交に戻れ。紙は片づけない」
机上の紙は、舞台の上にそのまま残された。
酒の香りと笑い声が戻る。
だが、机の上の線は笑わない。
見たい者が、いつでも見られる位置に紙はある。
◇
会の終わり。
王子は席から立てなかった。
脚が重い。視線が重い。
彼は今日、何も失っていない“ように見える”。
だが、何も得ていない。
得られなかったものは、次回に支払う請求書の形で手元に積もる。
ミリアは扇を閉じ、胸の前で握りしめる。
目に涙はない。
ただ、善意という言葉が重くなった。
重くなった善意は刃になる。
彼女がそれを鞘に収められるかどうかは――まだ、わからない。
シェラは、監察官に伴われて退室する。
処分は軽くないだろう。
けれど、名は公に出ない。
紙が覚える。
紙は忘れない。だが、復讐もしない。
◇
夜会の灯が細り、塔の窓にだけ静かな光が戻る。
レティシアはノアと向かい合って座った。
二人とも、何も言わない。
沈黙が完全に冷え切ったところで、ノアが紙片を差し出す。
《君は、よく置いた。
置く=“私怨”を合図の外へ。
矢は、自然に飛ぶ。》
「……ありがとうございます」
「言葉は要らない。次がある」
次。
武道大会の続き。
連鎖術との二回戦。
審判席を揺さぶる“手続き”に、手続きで返す舞台。
レティシアは父の手紙を思い出す。
《家は名誉で生きる。人は幸せで生きる。》
(私は、幸せの側から勝つ)
「ノア殿下」
「ノアでいい。塔の中では」
「では――塔の外で、改めて」
小さな笑いが、冷たい空気に小さく弾けた。
◇
寮へ戻る回廊。
“記録ボランティア”の掲示が目に入る。
《本日の“見る会”資料 閲覧は図書塔へ》
文は短い。
短い文は長持ちする。
レティシアは歩を緩めない。
歩幅は一定。
心拍は整列。
弦は張られたまま。
矢は、まだ残っている。
戦いのための矢ではない。
説得のための矢だ。
――暴露の矢は、静かに番えられ続ける。
――放つべき的は、まだ先にある。