第6話 図書塔の出会い――第二王子 ――静かな場所にこそ、名前は置かれる。
◇
朝の図書塔は、まだ夜の冷気を少しだけ残している。
高窓から落ちる光は細く、埃はそれぞれの思惑のようにばらばらな動きで漂っていた。
その窓辺に、銀の髪がひと筋。
彼はいつものように名を告げず、頁を閉じ、まっすぐこちらを見る。
「座るといい」
低い声。
何度も聞いたはずなのに、胸の奥に少しだけ緊張が走る。
レティシアは一度礼をし、向かいの椅子に腰を下ろした。
沈黙が流れ、彼は机の引き出しから小さな封筒を取り出す。封蝋には王家の紋章。だが、見慣れた第一王子――アドリアンの紋ではない。
斜めの双翼に、細い星。王位継承第二位。次弟の印。
「……まさか」
「まさか、だろうね」
銀髪の青年は微笑を動かさず、封蝋に親指をあててこちらへ滑らせた。
「ノア・アルヴェイン。王太子アドリアンの次弟――第二王子だ。学園図書塔の“臨時監督”としての身分は、これで確認できる」
封の中には短い認証書。
塔司書の署名、学術連合の付記、そして近衛の認証印が並ぶ。
飾りはない。けれど、動く紙だ。
心臓の鼓動が一拍ぶんだけ速くなる。それを呼吸で沈め、レティシアは膝を正した。
「ご尊名、肝に銘じます。――私は王家に訴えるために勝ち続けると決めました。数字と手順で。弁舌ではなく、記録で」
ノアの瞳が、短く光る。
微かな共鳴の色だった。
「そう言ってくれてよかった。――君がもし、ここで感情で糾弾するなら、私は動けなかったろう。王家の動きはいつも、冷たい書式の上でしか始まらない」
「冷たさは、磨耗しません」
「同意する」
彼は机上に薄い地図を広げる。王都の簡略図、そして学園の見取り図。
その上に、朱の点を三つ落とした。
書記局、倫理委員会、図書塔。
「この三点を“最短距離”で結ぶ。監査院の到着まで四十八時間。彼らの儀礼に時間を奪われる前に、最初の照合を通す必要がある。――橋渡しは私がやる」
「助かります」
「助けられるのは、君が“助けやすい”からだよ。『あなたが感情で糾弾しないから、私は動ける』――本気でそう思っている」
ノアは爪先で地図の端を叩いた。
「噂は割れているな。『王家に取り入った』派と『努力が実った』派。前者は声が大きいが、後者は言葉が短い。短い言葉のほうが、長持ちする」
「音の長さは、嘘の粘りと比例する」
「面白い言い方だ。学術的根拠はないが、経験的には合っている」
二人の間に、薄い笑いが走った。
塔の空気は冷たいまま、だがその冷たさの中で話が速く転がる。
◇
午前のうちに、ノアは近衛の紋章を肩へ掛け、最短経路を片づけていく。
書記局――鍵の出納と押印台の管理簿。
倫理委員会――照会受理の文書と、監査院来訪時の閲覧動線。
図書塔――閲覧席の確保と、参考資料の索引。
「“複製印”の件、環境要因を添えておくといい。均一な縁は、室温と朱肉の状態で揺れやすい。なのに均一であるなら、『押した者が素人である』か『押す場を固定している』か。どちらにせよ、監査院の嗅覚は動く」
「塔司書が、朱肉の“気難しさ”について証言できます」
「そういう“生活の知”が、監査官には刺さる」
ノアが歩けば、事務方は一拍の間を置いて頭を下げる。
王子という肩書が紙を通すのではない。
紙を通すための肩書を、必要なだけ使うのが彼の合理だった。
廊下の角を曲がったところで、王子派の一人がこちらを見て固まる。
ノアは足を止めず、目だけで会釈した。
礼儀は最短の武器だ。
見下さない。煽らない。
だが、通る。
◇
昼の食堂。
噂は数字より速い。
「図書塔の銀髪の人、王子様だって」「第二王子?」「取り入りだ」「いや、監査院を通すために必要なんだろ」
揺れる視線。
分母は変わらない。分子が微妙に動く。
レティシアはいつも通り列に並び、パンとスープを受け取る。
「アーデル様、こちらへ――」
一年生が席を譲ろうとする。
昨日と同じ笑み、同じ言葉。
「ありがとう。でも、私の力で勝ち取る席でないと、意味が薄れます」
同じ文句を繰り返すことは、概念にすることだ。
概念になった言葉は、噂の海で腐りにくい。
隣卓で、だれかがぼそりと言った。
「“努力が実った”派に、票を入れる」
票という言葉が、ふと耳に残った。
この学園では、何かを決めるたび、誰かが“票”という比喩を使う。
政治の訓練は、こういうところから始まるのだろう。
◇
午後、王子は苛立ちを隠せなかった。
自らに都合のいい舞台でだけ善人を演じたい彼にとって、図書塔という冷たい現場は居心地が悪い。
彼は取り巻きを従えて廊下を歩き、噂の水位を確かめる。
その横を、レティシアは書類を抱えて静かに通り過ぎる。
視線は交わらない。
交わる必要がない。
「……余裕だな」
聞こえる声量の独り言。
取り巻きが笑う。
笑いは薄い。
薄い笑いは、長く響かない。
◇
同じころ、ミリアは焦りから“慈善活動”を乱発し始めていた。
孤児院への寄付、貧民地区での配膳、教会への献金。
掲示板には彼女の名前入りの告知が日に一枚のペースで増える。
「善性は、紙の上でも光る」――彼女の支援者はそう囁く。
けれど、紙は冷たい。
冷たい紙を、熱だけで温めることはできない。
(数字で見よう)
レティシアは図書塔で、学内有志の記録係三人と寄付記録を並べた。
日付、金額、名義。
孤児院の帳簿――上乗せの痕跡。
同額が二度、数日違いで記入されている。
一度目は教会の代書。二度目は、学園の掲示責任者の署名。
名義はどちらもミリア・バートン。
(だれかが、裏で操っている)
上乗せが“善意の誤記”でないことは、三冊の帳面の紙質の違いが告げている。
“同じインク”で同じ週に書かれたはずなのに、片方の筆運びにだけ“癖”がない。
代書の手ではない。
帳場の手でもない。
――見覚えのある、綺麗すぎる字。
レティシアの記憶の奥に、細い指先が浮かぶ。
かつて自分の身の回りを見ていた女官。名はシェラ。
退職後、行方を聞けば、「ミリア様の書記に」と噂で聞いた。
あの癖のない、装飾の多い筆先――彼女の字だ。
(操る者――シェラ)
名を紙に書く。
紙に落ちた名は、重くなる。
噂の中で軽く飛ばされない。
◇
夕刻、図書塔の窓辺。
ノアは地図の横に寄付帳の写しを並べ、指先で“同じ溝”を示した。
「ここだ。紙の端の裁ち。孤児院の記帳は修道士見習いの手。紙商の供給が一定で、端の“筋”が同じ。二枚目の“同額記入”は、別ロットだ。つまり、後から持ち込まれた紙」
「筆運びはシェラのものに似ています。――私の元付き人でした」
「なるほど、繋がる」
ノアは短く息を整えた。
目が一点だけ遠くを見る。
その横顔は、政治の距離のとり方を知っている者のものだ。
「シェラをいきなり詰めるな。――ミリアは“善性”で自分を支えている。そこを潰せば、人が壊れる。壊れた人間は、嘘と真実の区別をしなくなる」
「壊したくは、ありません。……ただ、記録は正しく」
「それなら道がある。監査院の照会は“複製印”の件だ。付随として、帳簿管理の適正が審査に乗る。そこで紙とインクと筆運びの差分を出す。――『操る者』の影だけを示し、名を口にしない。名を言うのは、相手に名乗らせるときでいい」
「名乗らせる」
「そうだ。政治の場では、相手に名乗らせることほど強い勝利はない」
ノアは眼差しだけで笑い、机の端に新しい紙を置いた。
“監査院向け要点整理”。
そこに三行。短く、冷たい。
押印の均一性と室温変数(朱肉の状態の補足)
帳簿紙質とロット差分(端裁ちの筋の比較)
筆運びの筆圧波形(癖の有無のみ、名指しはしない)
「これで十分動く。監査院は“数字で殴られる”と、しばしば見事に動く」
「殴りすぎないように」
「殴るのは“数字”だ。私たちではない」
◇
その夜。
王子派は、焦りから“反証噂”を試みた。
「寄付の上乗せは、学園の名誉のための配慮だ」「アーデルが妬んでいる」「監査院だって買収できる」
声は大きい。
だが、軽い。
軽い噂は、笑いとよく混ざる。
混ざった言葉は、翌朝には色を失う。
一方、図書塔の閲覧席では、有志の生徒たちが“日付と出所”だけを淡々と並べ続けた。
『記録ボランティア』と紙片に小さく記されたその輪は、三人から七人へ、七人から十人へ。
噂を「見る」網が、静かに広がる。
(ありがとう)
レティシアは礼を言わない。
言えば“運動”になる。
運動は、すぐに色がつく。
記録は、色がついてはいけない。
◇
監査院到着の朝。
王家監査院の旗を掲げた馬車が、石門をくぐる。
門番が敬礼し、窓から覗く老監査官の目は、すでに疲れている。
疲れている者は、無駄を嫌う。
無駄の少ない言葉で、最短経路に案内する。
ノアが先に立ち、学園長が儀礼を短くした。
すばらしい動きだった。
儀礼は最短に、数字は最短に。
閲覧室。
朱肉、押印紙、帳簿、紙端の比較資料、温度計、砂時計。
すべてが机に並び、塔司書が杖で床を二度叩いた。
「ここは、記録の場。――声ではなく、紙で」
老監査官は、まず朱肉を見た。
指先で軽く撫で、温度計を覗き、押印。
その縁の“揺れ”を目だけで読み、頷かない。
頷かないことが、信頼の印だった。
彼は“揺れない人間”の前でしか頷かない。
次に紙端の筋。
孤児院の紙と、上乗せ記載の紙。
端の“筋”は木の年輪のようなものだ。
素人が見ても“別物”だとわかるほどに違う。
老監査官は、ようやく低く言った。
「――続けなさい」
続ける。
筆運びの癖。
波形。
名を言わないまま、差だけを重ねる。
差は、相手の中に“名”を浮かせる。
誰も口にしない名が、閲覧室の静けさに薄く滲む。
シェラ。
ミリアの書記。
ノアは一歩だけ下がって、全体を見ていた。
王子であることを、ここでは何の役にも立たせない。
役に立つのは、順序だけ。
順序が正しければ、真実は沈まない。
◇
休憩の鐘。
老監査官は短い茶を口にし、窓辺で外を眺めた。
校庭の端で、ミリアが孤児院の子どもたちに絵本を配っているのが見える。
彼女の笑顔は、嘘ではない。
嘘ではない笑顔の後ろで、誰かの手が紙を動かしていた――それだけだ。
「殿下」
監査官がノアに声をかけた。
“殿下”という呼称は、儀礼であり、切り札でもある。
「はい」
「本件、内部調整にて処理可能。――ただし、学園の規定と記録体制の改善を前提にする。名を挙げる必要はない。名は、言わせなさい」
「その方針を、支持します」
レティシアは、窓辺の子どもたちの笑い声を聞いていた。
記録は冷たい。
けれど、その冷たさでしか守れない笑いが確かにある。
◇
午後。
“内部調整”は速かった。
書記局の押印台は交換、朱肉は温度管理の規定が付く。
掲示責任者は、手順違反の戒告。
孤児院への寄付記録は学園会計が直接管理へ移管。
上乗せ分は次回配分で相殺。
どれも“名”を出さない。
だが、関係者の机にだけ届く文書には、短い一文があった。
――「代書の限度を超えた記帳を控えること。再犯は指名の上での聴聞」
その紙は誰の名も書いていない。
けれど、読むべき者の胸へだけ重く落ちる。
◇
宵の口。
回廊の角で、レティシアはシェラを見た。
深い灰の外套、淡い香。
彼女は一瞬、昔の癖で深く礼をしかけ、途中で止めた。
レティシアも礼を返さない。
礼を交わせば、昔へ戻る。
戻る場所は、もうない。
「アーデル様」
「シェラ」
名を呼ぶだけ。
責めない。
赦しもしない。
彼女の目が、短く揺れた。
「……私は、ミリア様のために」
「あなたのためにもしなさい。――そのほうが、強い」
返す言葉を探す舌の動き。
見つからない。
見つからないまま、彼女は会釈をして去った。
外套の裾が石畳を掠め、角で消える。
風が一度だけ吹き抜ける。
虚像の欠片が、また一つ、音もなく剥がれ落ちた。
◇
夜。
図書塔の窓辺。
ノアが短い紙片を渡してきた。
公的な文言ではない。彼の文字で、ほんの数行。
《今日の君は、よく置いた。
置くとは、感情を“合図の外”に置くこと。
それができる限り、君は負けない。》
レティシアは紙片をノートの余白に貼り、呼吸をゆっくり落とした。
「第二王子様」
「ノアでいい。塔の中では」
「では、ノア殿下」
「妥協点だな」
ふたりは同時に笑った。
塔の外では、噂がなお生き、なお割れている。
『王家に取り入った』派と『努力が実った』派。
その真ん中に、“記録が通った”という静かな事実が居座っている。
噂はそれを飲み込めない。
噂が飲み込めないものは、やがて常識になる。
「次は“武道大会の続き”が数字に出る。――勝て」
「はい。勝って、訴えます」
「どこへ」
「王家へ。……そして、学園へ。未来へ」
ノアは頷き、窓の外へ視線を投げた。
「王子は、苛立っている。ミリアは、焦っている。焦っている人間は、善意で自分を守ろうとする。善意は、刃になる」
「刃は、鞘に収める術が要ります」
「君がそれを知っているのが、強い」
ノアは立ち上がった。
椅子の脚が床で柔らかく鳴る。
彼は名乗った。
名乗ることの重さを知る者の声で。
「ノア・アルヴェイン。――図書塔は、私の現場だ。君の“最短経路”を、ここから繋ぐ」
「レティシア・アーデル。――図書塔は、私の戦場です。ここで勝ちを積み、王家に訴えます」
握手はしない。
この場所で交わすのは、手順だけ。
それで十分だ。
十分であることを、この塔はよく知っている。
◇
深夜。
寮の窓外に、遅い鐘が一度、低く響く。
噂の海は、いまは引き潮だ。
引いた海の底に、拾える貝殻が残っている。
それが、ピース。
明日、繋がるべきピース。
――複製印。
――帳簿のロット差。
――書記の筆圧。
――寄付の上乗せ。
――そして、第二王子ノア。
レティシアはノートにそれぞれを小さく描き、線で結ぶ。
線は形になる。
形は、説得になる。
説得は、勝利に変わる。
彼女は灯りを落とし、静かな闇に身を置いた。
合図の外で、心拍をひとつずつ数える。
その数え方は、剣とも術とも政治とも同じだった。
乱れを吸い、余計を捨て、置くべき場所にだけ置く。
それが、無双の形。
――静かな場所にこそ、名前は置かれる。
――図書塔は、今日も静かだ。
◇