第5話 『悪役令嬢』の虚像が軋む ――虚像は音を立てない。だが、確かに軋む。
◇
春の武道大会から一夜。
学園の空気は、勝者の名を反芻しながら、なお「昨日までの物語」を手放せずにいた。
朝の回廊、石畳に差す光の筋が細い。
すれ違う生徒たちの囁きは、褒め言葉でも悪口でもなく、ただ確かめ合いに近い気配を帯びている。
「外連は一度だけだった」
「なのに刺さった。あれは運じゃ無理」
「でも“悪役令嬢”なんだろ? そこは変わらないはずだ」
「はず」――という単語が増えた。
昨日までの断定は、今日の朝には仮定に後退する。
人の噂は、勝利に正面から打たれると、まず語尾から壊れていく。
レティシアは、誰の目も見ない。
誰の目も避けない。
いつも通り、朝一番の間合いの行を中庭で一巡し、汗を袖口に収め、講義の前に図書塔へ上がった。
塔の空気はひんやりとしている。
早朝にもかかわらず、投函口の真鍮箱に封筒が入っていた。
白紙の封蝋。差出人は記されていない。
中からは薄い便箋が一枚――しかし、その一枚に、彼女の午前中を変えるだけの情報があった。
《寮の使用人より。
ミリア・バートン様が書記局の鍵を借り出した夜は、掲示担当の夜勤と一致します。
その翌朝、内部掲示の修正がありました。
私は偶然見ています。記録は……怖くて残していません。
どうか、真実だけが残りますように。》
癖のない、震えの混じった字。
使用人が正式な訴えを起こすには、主の保護なしに難しい。
匿名でしか届かない声というものは、確かにある。
(匿名は、物語になる。……だからこそ、手順が要る)
レティシアは便箋を二つに折り、封筒へ戻した。
「いま動く」でも「すぐ暴く」でもない言葉が、舌の裏側で自然に砕けた。
――勝手な断罪は愚かだ。
その教訓は、自分自身の皮膚に刻まれている。
断罪は、舞台に上がる者たちの自己満足になりがちだ。記録が伴わない声は、やがて別の声に飲み込まれ、真実ごと流れる。
(確かめる。記録で)
塔を降り、講義の鐘が鳴る前に書記局へ向かった。
石造りの廊下は冷えている。窓の縁に薄く結露。
帳簿のにおい――布と墨と皮表紙が混ざった、古い室内の匂いが鼻を掠める。
「また君か、アーデル嬢」
帳簿を守る年配の書記官は、先日の照合の折に顔見知りになっていた。
渋い声は、嫌味より先に職務の硬さを含む。
「照合をお願いします。掲示の原本と、鍵の出納記録、印影を」
「印影ね。……目利きの真似事は嫌いだが、君は目で遊ばない人間だ。いいだろう」
鍵束が机上で乾いた音を立てる。
革手袋をはめた書記官が棚から帳面を引き抜き、閲覧机に平らに置く。
ページを開けば、朱の印、黒の筆記、欄外の小さな押印――学園の呼吸がそこに重ねられている。
「ここ数か月分。掲示の原稿は写しを残している。鍵の管理簿もだ」
「感謝します。閲覧のみ、指は置きません」
「わかっている」
レティシアは身を屈め、印影に顔を近づける。
朱肉は、日が経つほど鉄の風合いを濃くする。
紙が湿っていた日には縁がぼさつき、乾いていれば押し跡が濃淡の環を作る。
本物の印は均一ではない――それが前提だ。
(……均一な縁。濃い輪郭。にじみの“無さ”。)
便箋の情報と照らし合わせる夜。
該当の行だけ、縁が美しすぎる。
ほんの僅かに、右上だけが濃く、斜めに複写の押圧が乗っている。
(複製印――原印を写し取り、別体で押す“真似”の印。
悪用すれば、記録を装える)
決めつけはしない。
だが、疑いは記録の行間に残った。
彼女は書記官に視線を上げる。
「読みは?」
「――疑い。確証ではない。王家監査院の照合が要ります」
書記官は薄く笑う。「慎重だな。……だが、帳簿はそう扱うものだ」
押印の「押し」は、手の証言だ。
手は、嘘が下手だ。
だが、人は道具で嘘を補う。道具の痕跡を拾うには、道具の使い方を知っていなければならない。
「監査院に話を回すには、学園の連署が要る。監督官、倫理委員会、そして外部監察官。……走り回る覚悟は?」
「あります」
書記官は頷き、机の縁を指で二度叩いた。「なら、言葉より先に紙を持って来い。依頼書式は廊下の掲示にある。今日中なら窓口は開けよう」
「感謝します」
回れ右。
廊下の掲示板へ。
「王家監査院照会依頼書」――欄外の小さな注意書きは、「感情的な記述は禁止」。
事実のみ。日時、閲覧ページ、理由。
誇張も憶測も削ぎ落とす。
冷たい骨だけを紙に載せる。
(“悪役令嬢の虚像”に、感情は供物だ。……捧げない)
彼女は廊下の手すりを使い、立ったまま依頼書を埋めた。
筆圧は一定。数字は読みやすく。
視界の端で、数人の生徒が覗見する。
「また何かやってる」「監査院?」「王子派が黙ってないぞ」
(黙らせるのは、私ではない。手順だ)
午前の二限が始まる鐘が鳴る前に、彼女は受付に封を置いた。
事務員は目だけで確認し、時間の印を押す。
「午後、倫理委員会に回ります。連署者が揃えば監査院へ飛びます」
「お願いします」
レティシアは会釈し、講義室へ戻った。
背に受ける視線の温度が、昨日までより一度低い。
冷えるのは悪くない。冷たいものは割れやすいが、形を保ちやすい。
◇
二限目の途中、教壇に出入りの用務員が立ち、教授へ耳打ちした。
教授は短く頷き、レティシアの名を呼ぶ。
「アーデル嬢。倫理委員会より。三限後、来室とのこと」
囁きが走る。
視線が一斉に動く。
誰かが、机を一席分だけ引いた音がした。
昨日の距離は、今日もそこにある。
だが、距離は距離のまま測れる。
(“呼び出し”は、過程。焦る理由はない)
ノートに“午後・委員会”と一行を足す。
ページの上は、汚れない。
彼女の紙には、泥を乗せない。
◇
昼。
学食の入口で、レティシアは一瞬だけ立ち止まった。
肉の煮込みの香り。パンの焦げの縁。
ざわめきは、昨日より低い位置で揺れている。
列に並ぶ。
盆にスープを受け取り、パンを二切れ。
空いている席を探すと、一年生の少女が慌てて立ち上がり、椅子を引いた。
「あ、アーデル様、どうぞ!」
驚いてこちらを見上げている。
瞳はまっすぐだが、期待と怯えが混ざる色。
レティシアは首を横に振り、微笑を崩さず言った。
「ありがとう。でも――私の力で勝ち取る席でないと、座った意味が薄れますから」
「……!」
少女の手が、椅子の背で止まる。
周囲の耳が、音もなくこちらを向いた。
誰も「偉そうだ」とは言わない。
誰も「やっぱり悪役だ」とは、言わない。
ただ、言葉ごとこの場の空気に沈んだ。
(“譲られる”のは、私の物語ではない。
“取る”のでもない。――選ぶ)
二つ隣の空席に座る。
スープを口へ運ぶ。
温度が喉を落ちる。
食べることは、準備だ。
準備は、戦う者の礼儀だ。
向こうの卓で、低い声が交わる。
「断った……」「“座った意味が薄れる”って、なんだろ」「自分に厳しいのか、格好つけなのか……」
「どっちでも、格好いいよ」
最後の一言は、やけに素直だった。
誰が言ったのか、レティシアは振り向かない。
音は、残響の形で耳の後ろに残る。
◇
三限後、倫理委員会室。
机は三つ、椅子は五つ。
壁面には、規定集の帙が整然と並んでいる。
審判長と監督官、外部監察官。
先日の“補助具条項”の件と同じ顔ぶれだが、空気は先より冷たい。
「監査院への照会依頼――受理した。書記局からの付記もある」
審判長が紙を指で整え、レティシアへ視線を送る。
「“印影の均一性ならびに押圧方向の偏りから、複製印の疑い”。――事実のみの記述、悪くない。感情がない」
「感情は、書面上では要りません」
監督官が微かに笑う。「まったく、君らしい」
外部監察官は、近衛の紋章の金具に指をかけながら、少し身を乗り出した。
「この照会は、王家監査院が学園に踏み込む道を開く。……騒ぎになるぞ」
「騒ぎの大小は、私の関知するところではありません。記録の適否が先です」
審判長が頷き、封筒に文面を収め、封蝋を押した。
蝋が固まるまでの短い沈黙。
外から、廊下のざわめきが薄く届く。
何人かが、扉の向こうで立ち止まり、耳を寄せている。
「本照会、連署のうえ送付。――以上だ」
会議は短い。
だが、短いほど内容が濃い。
レティシアは礼を置き、退室した。
廊下に、見知った顔がある。
ミリアが、扇子を閉じたまま胸の前に立てていた。
顔色は良い。頬には血色。
だが、眼の端――笑っていない。
「……監査院なんて、大袈裟」
「規定に従った結果です」
「あなた、本当に冷たいのね。人の心を、数字にする」
「数字は、人の心に勝手にされないための最小単位です」
ミリアの扇子が、小さく軋んだ。
布の骨が、少しだけ鳴く。
「殿下は、私の味方よ」
「味方という言葉は、便利です」
「どういう意味?」
「味方と呼べば、相手にも自分にも、考えずに済むようになるから」
ミリアの睫毛が、ゆっくり上下する。
怒りでもない。
軽蔑でもない。
言葉にできない居心地の悪さ。
彼女は扇子を開き、顔半分を隠した。
「……あなたは、悪役令嬢よ」
「虚像です。それは、いずれ軋みます」
会話はそこで終わった。
廊下の向こう、窓枠の外では、陽が角度を変え始めている。
影は長く、冷たく伸びる。
虚像の影も同じだ。
伸びるほど、薄くなる。
◇
夕刻、図書塔。
銀髪の青年は、席にいなかった。
代わりに、閲覧卓の上に紙片が一枚置かれている。
筆致はいつもの彼のもの。
短い文が、短剣のように鋭い。
《複製印の“均一な縁”は、道具の温度で変わる。
室温が高いほど輪郭は滲む。
なのに均一のままなら――押した者は慣れていない。
つまり“最近、初めてやった”。》
(温度。……そう、朱肉は生きている)
押し慣れた者ほど、朱肉の機嫌を読む。
慣れない者は、一様に押そうとする。
均一さは、むしろ不自然だ。
「お願いがあります」
レティシアは紙片を握り、塔司書に声をかけた。
老司書は、石壁の陰から杖をとんとんと鳴らして現れた。
「監査院が来たら、ここに閲覧席を一つ空けておいてください。記録の読み方を、学園が用意できるという形にしたい」
「やるつもりはあったが、君から言われると義務になる」
「義務で構いません。――よろしくお願いします」
司書は目を細め、唇だけで笑った。
「君は冷たい。だが、丁寧だ」
(丁寧さは、冷たさと両立する。
どちらも、虚像を削るための刃だ)
◇
夜。
寮の自室。
机の上に、今日の記録を並べる。
匿名の便箋、出納の印影メモ、温度に関する補足、依頼書の控え。
すべてを日付順に挟み、封筒に収める。
「誰でも読めるように」――それが基準だ。
蝋燭の炎が低い。
窓の外で、誰かが笑う声。
廊下の端で、誰かが足を止める音。
この学園は、音の重なりでできている。
声が声を呼び、虚像は音の海で育つ。
(いま、海が引きにある)
勝利の翌日、噂は逆流する。
引き潮のときに、岩の形が露わになる。
海が戻る前に、岩肌の傷を数える。
そこに嘘が引っかかる。
ペン先で、便箋の端を叩く。
「監査院」という字だけ、インクが濃い。
濃い字は、乾くのに時間がかかる。
待つ。
焦らない。
焦りは、合図を乱す。
(虚像は、音を立てない。
だが、確かに――軋む)
彼女は灯りを落とした。
暗闇は、昨日と同じ濃さで部屋を満たす。
だが、同じ暗闇でも、手触りは違う。
指の腹に、薄い亀裂の感覚。
それは、虚像に刻まれた最初の線かもしれない。
◇
翌朝。
武道大会の余熱は消えず、しかし新しい火種も生まれていた。
学園の掲示板には、誰が書いたとも知れぬ落書きが走り書きされている。
――「勝ったくらいで赦されると思うな」
――「断罪されるべき者は、いつかまた断罪される」
赤いチョークで書かれた文字は、すぐに消された。
だが消された後に残る白い粉の跡が、かえって強い印象を残す。
王子派の動きが、静かに再開した証拠だった。
「……焦りが混じっている」
レティシアは小声で呟いた。
落書きは証拠にならない。
けれど、“言葉の綻び”は必ず焦りの側から現れる。
彼女は板書された講義ノートの端に、ひとつだけ単語を記す。
《綻び》
◇
午後、図書塔。
いつもの机の周りに、三人の生徒が集まっていた。
二年生の男子、図書委員を務める女子、そして先日の一年生――席を譲ろうとしたあの少女だ。
「アーデル様。……僕たち、記録の整理を手伝ってもいいですか」
少年の声は、思ったより真剣だった。
聞けば、彼らは自主的に「学内有志」の名で、古い掲示や試験結果を写し取って保存しているらしい。
単なる物好き。だが、物好きの積み重ねは時に武器になる。
「手伝い、というより……“同じことをしている”だけでしょう。なら、並べてみませんか」
レティシアが応じると、三人は目を輝かせた。
机の上にノートが三冊置かれる。
中には、日付ごとにまとめられた掲示の写し、噂の発生源を追うメモ、さらには「講義中に教授が口にした小言」まで書き留められていた。
(……侮れない。記録は誰の手にも宿る)
レティシアは自分のノートと重ね合わせ、重複や不足を指で示した。
「体裁は問わなくていい。ただし、日付と出所は必ず残して」
三人は真剣に頷く。
こうして、学園内に小さな「記録の網」が広がり始めた。
虚像は声で育つ。
声を捕らえるには、網が要る。
◇
学食の昼。
昨日の一件が尾を引き、今日は二人の生徒が彼女に席を譲ろうとした。
一人は男子で、視線を泳がせながら「ここ、空けます」と言い、もう一人は女子で、少し誇らしげに椅子を引いた。
「ありがとう。でも――」
昨日と同じ微笑みで、レティシアは断った。
「その席は、私の力で勝ち取ったものではありません。あなた方が座るべきです」
二人は一瞬、呆然とした。
周囲がざわめく。
「二日連続で……」「悪役令嬢って、もっと横暴じゃ……」「違うのか?」
囁きは囁きのまま、しかし確かに形を変えていく。
「横暴な悪役」という虚像に、音もなく亀裂が走る。
◇
その日の午後、外部監察官が彼女を呼び止めた。
近衛の紋章を肩にかけた青年は、封筒を手にしていた。
「照会書、承認された。監査院へ正式に回る」
「ありがとうございます」
「ただし――」青年は声を潜める。「王子派が黙っていない。監査院の人間がここへ来るまでに、“虚偽の反証”を用意してくるだろう。お前は……どうする?」
「私は何もしません。記録を差し出すだけです」
「冷たいな」
「冷たさは、熱のない刃です。磨耗しにくい」
青年は、ふっと笑った。
「言い回しも冷たいが、悪くない。――近いうち、公的な場で真価を問われる。覚悟は?」
「あります」
青年はそれ以上言わず、封筒を渡して去った。
レティシアは封を撫で、胸にしまった。
真価。その言葉が、背に重く残る。
◇
夕刻、図書塔。
銀髪の青年が久しぶりに窓辺にいた。
本を閉じ、彼女を見るなり、低く言う。
「……虚像の音、聞こえるか?」
「はい。静かに、でも確かに軋んでいます」
青年は長く息を吐いた。
「ならば近い。――近く、公的な場で、君の真価が問われる」
「そのとき、あなたにお願いがあります」
「何を」
「“均一な印影”――その誤差を、あなたなら見落とさないでしょう?」
青年の瞳が一瞬、細くなった。
そして、頷く。
「……承知した」
◇
夜。
寮の自室。
机上に並んだ記録を、日付ごとに綴じ直す。
匿名の便箋。出納印影の写し。温度と均一さに関する補足。
そして「虚像の軋み」を示す、生徒たちの小さな証言。
積み重なった紙の束は厚くはない。
だが確かに、虚像を削る重みを持っていた。
――虚像は音を立てない。だが、確かに軋む。
レティシアはインクを拭い、灯りを落とした。
◇
◇
監査院到着の前夜。
学園の回廊は不自然にざわついていた。
王子派の生徒たちが、あちこちで囁きをばらまいている。
「照会はでっち上げだ」
「複製印なんて、誰にでも間違えられる」
「殿下の御名があれば、すぐに覆る」
根拠のない言葉。だが声量だけは大きい。
虚像を守ろうとする声は、往々にして大きすぎる。
大きさは、不安の裏返しだからだ。
レティシアは、廊下の影でその囁きを聞き流した。
自分の手元には、記録がある。
匿名の便箋、印影の不自然さ、そして学内有志が日付ごとに残したノート。
声はやがて消える。
だが記録は、残る。
◇
その夜、寮の灯りの下。
ミリアは自室で扇子を握りしめていた。
指先に汗が滲み、白木がすべりそうになる。
(なぜ……なぜ崩れないの?)
勝利は一度きりの偶然。そう言い張ればよかった。
噂は武器。そう信じていた。
だが彼女の噂は、徐々に形を失っていく。
「悪役令嬢」と口にすればするほど、空疎な響きに変わっていく。
(殿下は……殿下はきっと守ってくださる)
そう繰り返す。
しかし心の奥では、微かな恐れが芽吹いていた。
「守ってくださる」という言葉の後ろに、
「守られなければならない」という弱さが潜むことを。
ミリアは扇子を閉じ、顔を覆った。
夜の静けさが、逆に心臓の音を強調する。
◇
翌朝。
監査院の馬車が学園に入る前から、掲示板の前には人だかりができていた。
理由はただ一つ。
昨日、匿名で貼られた一枚の紙。
「“悪役令嬢”は、監査院に記録を差し出した」
署名もない。
だが、便箋に記された整った筆致は――誰かの「見たまま」だった。
虚像の噂に混ざり、ひとつだけ冷たい事実が差し込まれる。
噂は熱い。
だが、冷たいものが混じれば、熱は急速に冷める。
「本当に?」「監査院に?」「じゃあ……」
囁きの尾は、揺れながら薄れていく。
◇
学食。
昨日と同じように、席を譲ろうとする生徒が現れる。
だが今日は三人。
しかもその中には、かつて距離を置いていた同級生の顔もあった。
「アーデル様、どうぞ」
レティシアは微笑み、首を振った。
「繰り返しますが――私の力で勝ち取った席でなければ、意味が薄れます」
一言一句、変えずに。
その“繰り返し”こそが、噂を揺らす。
虚像は、音もなく。
けれど確かに、軋んでいた。
◇
夕刻、図書塔。
銀髪の青年が机に肘をつき、彼女を待っていた。
「……噂は逆流を始めたな」
「はい。虚像に、ひびが入った音がします」
青年は小さく笑い、頷いた。
「ならば次は――音を立てて崩れる番だ」
彼はまだ名を告げない。
けれど、その立場がただの学生でないことは、もはや明らかだった。
◇
夜。
レティシアは机の上に紙束を並べ直し、ペンを置いた。
噂より遅く、だが噂より強い。
それが記録。
それが証拠。
それが、虚像を崩す刃。
窓の外、夜風が枝を揺らす音がした。
軋む音に似ていた。
――『悪役令嬢』の虚像が、音もなく崩れ始めている。