表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

第5話 『悪役令嬢』の虚像が軋む ――虚像は音を立てない。だが、確かに軋む。

 ◇


 春の武道大会から一夜。

 学園の空気は、勝者の名を反芻しながら、なお「昨日までの物語」を手放せずにいた。

 朝の回廊、石畳に差す光の筋が細い。

 すれ違う生徒たちの囁きは、褒め言葉でも悪口でもなく、ただ確かめ合いに近い気配を帯びている。


「外連は一度だけだった」

「なのに刺さった。あれは運じゃ無理」

「でも“悪役令嬢”なんだろ? そこは変わらないはずだ」


「はず」――という単語が増えた。

 昨日までの断定は、今日の朝には仮定に後退する。

 人の噂は、勝利に正面から打たれると、まず語尾から壊れていく。


 レティシアは、誰の目も見ない。

 誰の目も避けない。

 いつも通り、朝一番の間合いの行を中庭で一巡し、汗を袖口に収め、講義の前に図書塔へ上がった。


 塔の空気はひんやりとしている。

 早朝にもかかわらず、投函口の真鍮箱に封筒が入っていた。

 白紙の封蝋。差出人は記されていない。

 中からは薄い便箋が一枚――しかし、その一枚に、彼女の午前中を変えるだけの情報があった。


 《寮の使用人より。

 ミリア・バートン様が書記局の鍵を借り出した夜は、掲示担当の夜勤と一致します。

 その翌朝、内部掲示の修正がありました。

 私は偶然見ています。記録は……怖くて残していません。

 どうか、真実だけが残りますように。》


 癖のない、震えの混じった字。

 使用人が正式な訴えを起こすには、主の保護なしに難しい。

 匿名でしか届かない声というものは、確かにある。


(匿名は、物語になる。……だからこそ、手順が要る)


 レティシアは便箋を二つに折り、封筒へ戻した。

「いま動く」でも「すぐ暴く」でもない言葉が、舌の裏側で自然に砕けた。


 ――勝手な断罪は愚かだ。

 その教訓は、自分自身の皮膚に刻まれている。

 断罪は、舞台に上がる者たちの自己満足になりがちだ。記録が伴わない声は、やがて別の声に飲み込まれ、真実ごと流れる。


(確かめる。記録で)


 塔を降り、講義の鐘が鳴る前に書記局へ向かった。

 石造りの廊下は冷えている。窓の縁に薄く結露。

 帳簿のにおい――布と墨と皮表紙が混ざった、古い室内の匂いが鼻を掠める。


「また君か、アーデル嬢」


 帳簿を守る年配の書記官は、先日の照合の折に顔見知りになっていた。

 渋い声は、嫌味より先に職務の硬さを含む。


「照合をお願いします。掲示の原本と、鍵の出納記録、印影を」


「印影ね。……目利きの真似事は嫌いだが、君は目で遊ばない人間だ。いいだろう」


 鍵束が机上で乾いた音を立てる。

 革手袋をはめた書記官が棚から帳面を引き抜き、閲覧机に平らに置く。

 ページを開けば、朱の印、黒の筆記、欄外の小さな押印――学園の呼吸がそこに重ねられている。


「ここ数か月分。掲示の原稿は写しを残している。鍵の管理簿もだ」


「感謝します。閲覧のみ、指は置きません」


「わかっている」


 レティシアは身を屈め、印影に顔を近づける。

 朱肉は、日が経つほど鉄の風合いを濃くする。

 紙が湿っていた日には縁がぼさつき、乾いていれば押し跡が濃淡の環を作る。

 本物の印は均一ではない――それが前提だ。


(……均一な縁。濃い輪郭。にじみの“無さ”。)


 便箋の情報と照らし合わせる夜。

 該当の行だけ、縁が美しすぎる。

 ほんの僅かに、右上だけが濃く、斜めに複写の押圧が乗っている。


(複製印――原印を写し取り、別体で押す“真似”の印。

 悪用すれば、記録を装える)


 決めつけはしない。

 だが、疑いは記録の行間に残った。

 彼女は書記官に視線を上げる。


「読みは?」


「――疑い。確証ではない。王家監査院の照合が要ります」


 書記官は薄く笑う。「慎重だな。……だが、帳簿はそう扱うものだ」


 押印の「押し」は、手の証言だ。

 手は、嘘が下手だ。

 だが、人は道具で嘘を補う。道具の痕跡を拾うには、道具の使い方を知っていなければならない。


「監査院に話を回すには、学園の連署が要る。監督官、倫理委員会、そして外部監察官。……走り回る覚悟は?」


「あります」


 書記官は頷き、机の縁を指で二度叩いた。「なら、言葉より先に紙を持って来い。依頼書式は廊下の掲示にある。今日中なら窓口は開けよう」


「感謝します」


 回れ右。

 廊下の掲示板へ。

「王家監査院照会依頼書」――欄外の小さな注意書きは、「感情的な記述は禁止」。

 事実のみ。日時、閲覧ページ、理由。

 誇張も憶測も削ぎ落とす。

 冷たい骨だけを紙に載せる。


(“悪役令嬢の虚像”に、感情は供物だ。……捧げない)


 彼女は廊下の手すりを使い、立ったまま依頼書を埋めた。

 筆圧は一定。数字は読みやすく。

 視界の端で、数人の生徒が覗見する。

「また何かやってる」「監査院?」「王子派が黙ってないぞ」


(黙らせるのは、私ではない。手順だ)


 午前の二限が始まる鐘が鳴る前に、彼女は受付に封を置いた。

 事務員は目だけで確認し、時間の印を押す。

「午後、倫理委員会に回ります。連署者が揃えば監査院へ飛びます」


「お願いします」


 レティシアは会釈し、講義室へ戻った。

 背に受ける視線の温度が、昨日までより一度低い。

 冷えるのは悪くない。冷たいものは割れやすいが、形を保ちやすい。


 ◇


 二限目の途中、教壇に出入りの用務員が立ち、教授へ耳打ちした。

 教授は短く頷き、レティシアの名を呼ぶ。


「アーデル嬢。倫理委員会より。三限後、来室とのこと」


 囁きが走る。

 視線が一斉に動く。

 誰かが、机を一席分だけ引いた音がした。

 昨日の距離は、今日もそこにある。

 だが、距離は距離のまま測れる。


(“呼び出し”は、過程。焦る理由はない)


 ノートに“午後・委員会”と一行を足す。

 ページの上は、汚れない。

 彼女の紙には、泥を乗せない。


 ◇


 昼。

 学食の入口で、レティシアは一瞬だけ立ち止まった。

 肉の煮込みの香り。パンの焦げの縁。

 ざわめきは、昨日より低い位置で揺れている。


 列に並ぶ。

 盆にスープを受け取り、パンを二切れ。

 空いている席を探すと、一年生の少女が慌てて立ち上がり、椅子を引いた。


「あ、アーデル様、どうぞ!」


 驚いてこちらを見上げている。

 瞳はまっすぐだが、期待と怯えが混ざる色。


 レティシアは首を横に振り、微笑を崩さず言った。


「ありがとう。でも――私の力で勝ち取る席でないと、座った意味が薄れますから」


「……!」


 少女の手が、椅子の背で止まる。

 周囲の耳が、音もなくこちらを向いた。

 誰も「偉そうだ」とは言わない。

 誰も「やっぱり悪役だ」とは、言わない。

 ただ、言葉ごとこの場の空気に沈んだ。


(“譲られる”のは、私の物語ではない。

 “取る”のでもない。――選ぶ)


 二つ隣の空席に座る。

 スープを口へ運ぶ。

 温度が喉を落ちる。

 食べることは、準備だ。

 準備は、戦う者の礼儀だ。


 向こうの卓で、低い声が交わる。


「断った……」「“座った意味が薄れる”って、なんだろ」「自分に厳しいのか、格好つけなのか……」


「どっちでも、格好いいよ」


 最後の一言は、やけに素直だった。

 誰が言ったのか、レティシアは振り向かない。

 音は、残響の形で耳の後ろに残る。


 ◇


 三限後、倫理委員会室。

 机は三つ、椅子は五つ。

 壁面には、規定集の帙が整然と並んでいる。

 審判長と監督官、外部監察官。

 先日の“補助具条項”の件と同じ顔ぶれだが、空気は先より冷たい。


「監査院への照会依頼――受理した。書記局からの付記もある」


 審判長が紙を指で整え、レティシアへ視線を送る。

「“印影の均一性ならびに押圧方向の偏りから、複製印の疑い”。――事実のみの記述、悪くない。感情がない」


「感情は、書面上では要りません」


 監督官が微かに笑う。「まったく、君らしい」


 外部監察官は、近衛の紋章の金具に指をかけながら、少し身を乗り出した。

「この照会は、王家監査院が学園に踏み込む道を開く。……騒ぎになるぞ」


「騒ぎの大小は、私の関知するところではありません。記録の適否が先です」


 審判長が頷き、封筒に文面を収め、封蝋を押した。

 蝋が固まるまでの短い沈黙。

 外から、廊下のざわめきが薄く届く。

 何人かが、扉の向こうで立ち止まり、耳を寄せている。


「本照会、連署のうえ送付。――以上だ」


 会議は短い。

 だが、短いほど内容が濃い。

 レティシアは礼を置き、退室した。


 廊下に、見知った顔がある。

 ミリアが、扇子を閉じたまま胸の前に立てていた。

 顔色は良い。頬には血色。

 だが、眼の端――笑っていない。


「……監査院なんて、大袈裟」


「規定に従った結果です」


「あなた、本当に冷たいのね。人の心を、数字にする」


「数字は、人の心に勝手にされないための最小単位です」


 ミリアの扇子が、小さく軋んだ。

 布の骨が、少しだけ鳴く。


「殿下は、私の味方よ」


「味方という言葉は、便利です」


「どういう意味?」


「味方と呼べば、相手にも自分にも、考えずに済むようになるから」


 ミリアの睫毛が、ゆっくり上下する。

 怒りでもない。

 軽蔑でもない。

 言葉にできない居心地の悪さ。

 彼女は扇子を開き、顔半分を隠した。


「……あなたは、悪役令嬢よ」


「虚像です。それは、いずれ軋みます」


 会話はそこで終わった。

 廊下の向こう、窓枠の外では、陽が角度を変え始めている。

 影は長く、冷たく伸びる。

 虚像の影も同じだ。

 伸びるほど、薄くなる。


 ◇


 夕刻、図書塔。

 銀髪の青年は、席にいなかった。

 代わりに、閲覧卓の上に紙片が一枚置かれている。

 筆致はいつもの彼のもの。

 短い文が、短剣のように鋭い。


 《複製印の“均一な縁”は、道具の温度で変わる。

 室温が高いほど輪郭は滲む。

 なのに均一のままなら――押した者は慣れていない。

 つまり“最近、初めてやった”。》


(温度。……そう、朱肉は生きている)


 押し慣れた者ほど、朱肉の機嫌を読む。

 慣れない者は、一様に押そうとする。

 均一さは、むしろ不自然だ。


「お願いがあります」


 レティシアは紙片を握り、塔司書に声をかけた。

 老司書は、石壁の陰から杖をとんとんと鳴らして現れた。


「監査院が来たら、ここに閲覧席を一つ空けておいてください。記録の読み方を、学園が用意できるという形にしたい」


「やるつもりはあったが、君から言われると義務になる」


「義務で構いません。――よろしくお願いします」


 司書は目を細め、唇だけで笑った。

「君は冷たい。だが、丁寧だ」


(丁寧さは、冷たさと両立する。

 どちらも、虚像を削るための刃だ)


 ◇


 夜。

 寮の自室。

 机の上に、今日の記録を並べる。

 匿名の便箋、出納の印影メモ、温度に関する補足、依頼書の控え。

 すべてを日付順に挟み、封筒に収める。

「誰でも読めるように」――それが基準だ。


 蝋燭の炎が低い。

 窓の外で、誰かが笑う声。

 廊下の端で、誰かが足を止める音。

 この学園は、音の重なりでできている。

 声が声を呼び、虚像は音の海で育つ。


(いま、海が引きにある)


 勝利の翌日、噂は逆流する。

 引き潮のときに、岩の形が露わになる。

 海が戻る前に、岩肌の傷を数える。

 そこに嘘が引っかかる。


 ペン先で、便箋の端を叩く。

「監査院」という字だけ、インクが濃い。

 濃い字は、乾くのに時間がかかる。

 待つ。

 焦らない。

 焦りは、合図を乱す。


(虚像は、音を立てない。

 だが、確かに――軋む)


 彼女は灯りを落とした。

 暗闇は、昨日と同じ濃さで部屋を満たす。

 だが、同じ暗闇でも、手触りは違う。

 指の腹に、薄い亀裂の感覚。

 それは、虚像に刻まれた最初の線かもしれない。


 ◇


 翌朝。

 武道大会の余熱は消えず、しかし新しい火種も生まれていた。

 学園の掲示板には、誰が書いたとも知れぬ落書きが走り書きされている。


 ――「勝ったくらいで赦されると思うな」

 ――「断罪されるべき者は、いつかまた断罪される」


 赤いチョークで書かれた文字は、すぐに消された。

 だが消された後に残る白い粉の跡が、かえって強い印象を残す。

 王子派の動きが、静かに再開した証拠だった。


「……焦りが混じっている」


 レティシアは小声で呟いた。

 落書きは証拠にならない。

 けれど、“言葉の綻び”は必ず焦りの側から現れる。

 彼女は板書された講義ノートの端に、ひとつだけ単語を記す。


 《綻び》


 ◇


 午後、図書塔。

 いつもの机の周りに、三人の生徒が集まっていた。

 二年生の男子、図書委員を務める女子、そして先日の一年生――席を譲ろうとしたあの少女だ。


「アーデル様。……僕たち、記録の整理を手伝ってもいいですか」


 少年の声は、思ったより真剣だった。

 聞けば、彼らは自主的に「学内有志」の名で、古い掲示や試験結果を写し取って保存しているらしい。

 単なる物好き。だが、物好きの積み重ねは時に武器になる。


「手伝い、というより……“同じことをしている”だけでしょう。なら、並べてみませんか」


 レティシアが応じると、三人は目を輝かせた。

 机の上にノートが三冊置かれる。

 中には、日付ごとにまとめられた掲示の写し、噂の発生源を追うメモ、さらには「講義中に教授が口にした小言」まで書き留められていた。


(……侮れない。記録は誰の手にも宿る)


 レティシアは自分のノートと重ね合わせ、重複や不足を指で示した。

「体裁は問わなくていい。ただし、日付と出所は必ず残して」

 三人は真剣に頷く。


 こうして、学園内に小さな「記録の網」が広がり始めた。

 虚像は声で育つ。

 声を捕らえるには、網が要る。


 ◇


 学食の昼。

 昨日の一件が尾を引き、今日は二人の生徒が彼女に席を譲ろうとした。

 一人は男子で、視線を泳がせながら「ここ、空けます」と言い、もう一人は女子で、少し誇らしげに椅子を引いた。


「ありがとう。でも――」


 昨日と同じ微笑みで、レティシアは断った。


「その席は、私の力で勝ち取ったものではありません。あなた方が座るべきです」


 二人は一瞬、呆然とした。

 周囲がざわめく。


「二日連続で……」「悪役令嬢って、もっと横暴じゃ……」「違うのか?」


 囁きは囁きのまま、しかし確かに形を変えていく。

「横暴な悪役」という虚像に、音もなく亀裂が走る。


 ◇


 その日の午後、外部監察官が彼女を呼び止めた。

 近衛の紋章を肩にかけた青年は、封筒を手にしていた。


「照会書、承認された。監査院へ正式に回る」


「ありがとうございます」


「ただし――」青年は声を潜める。「王子派が黙っていない。監査院の人間がここへ来るまでに、“虚偽の反証”を用意してくるだろう。お前は……どうする?」


「私は何もしません。記録を差し出すだけです」


「冷たいな」


「冷たさは、熱のない刃です。磨耗しにくい」


 青年は、ふっと笑った。

「言い回しも冷たいが、悪くない。――近いうち、公的な場で真価を問われる。覚悟は?」


「あります」


 青年はそれ以上言わず、封筒を渡して去った。

 レティシアは封を撫で、胸にしまった。

 真価。その言葉が、背に重く残る。


 ◇


 夕刻、図書塔。

 銀髪の青年が久しぶりに窓辺にいた。

 本を閉じ、彼女を見るなり、低く言う。


「……虚像の音、聞こえるか?」


「はい。静かに、でも確かに軋んでいます」


 青年は長く息を吐いた。

「ならば近い。――近く、公的な場で、君の真価が問われる」


「そのとき、あなたにお願いがあります」


「何を」


「“均一な印影”――その誤差を、あなたなら見落とさないでしょう?」


 青年の瞳が一瞬、細くなった。

 そして、頷く。


「……承知した」


 ◇


 夜。

 寮の自室。

 机上に並んだ記録を、日付ごとに綴じ直す。

 匿名の便箋。出納印影の写し。温度と均一さに関する補足。

 そして「虚像の軋み」を示す、生徒たちの小さな証言。


 積み重なった紙の束は厚くはない。

 だが確かに、虚像を削る重みを持っていた。


 ――虚像は音を立てない。だが、確かに軋む。


 レティシアはインクを拭い、灯りを落とした。


 ◇


 ◇


 監査院到着の前夜。

 学園の回廊は不自然にざわついていた。

 王子派の生徒たちが、あちこちで囁きをばらまいている。


「照会はでっち上げだ」

「複製印なんて、誰にでも間違えられる」

「殿下の御名があれば、すぐに覆る」


 根拠のない言葉。だが声量だけは大きい。

 虚像を守ろうとする声は、往々にして大きすぎる。

 大きさは、不安の裏返しだからだ。


 レティシアは、廊下の影でその囁きを聞き流した。

 自分の手元には、記録がある。

 匿名の便箋、印影の不自然さ、そして学内有志が日付ごとに残したノート。

 声はやがて消える。

 だが記録は、残る。


 ◇


 その夜、寮の灯りの下。

 ミリアは自室で扇子を握りしめていた。

 指先に汗が滲み、白木がすべりそうになる。


(なぜ……なぜ崩れないの?)


 勝利は一度きりの偶然。そう言い張ればよかった。

 噂は武器。そう信じていた。

 だが彼女の噂は、徐々に形を失っていく。

「悪役令嬢」と口にすればするほど、空疎な響きに変わっていく。


(殿下は……殿下はきっと守ってくださる)


 そう繰り返す。

 しかし心の奥では、微かな恐れが芽吹いていた。

「守ってくださる」という言葉の後ろに、

「守られなければならない」という弱さが潜むことを。


 ミリアは扇子を閉じ、顔を覆った。

 夜の静けさが、逆に心臓の音を強調する。


 ◇


 翌朝。

 監査院の馬車が学園に入る前から、掲示板の前には人だかりができていた。

 理由はただ一つ。

 昨日、匿名で貼られた一枚の紙。


「“悪役令嬢”は、監査院に記録を差し出した」


 署名もない。

 だが、便箋に記された整った筆致は――誰かの「見たまま」だった。

 虚像の噂に混ざり、ひとつだけ冷たい事実が差し込まれる。

 噂は熱い。

 だが、冷たいものが混じれば、熱は急速に冷める。


「本当に?」「監査院に?」「じゃあ……」

 囁きの尾は、揺れながら薄れていく。


 ◇


 学食。

 昨日と同じように、席を譲ろうとする生徒が現れる。

 だが今日は三人。

 しかもその中には、かつて距離を置いていた同級生の顔もあった。


「アーデル様、どうぞ」


 レティシアは微笑み、首を振った。


「繰り返しますが――私の力で勝ち取った席でなければ、意味が薄れます」


 一言一句、変えずに。

 その“繰り返し”こそが、噂を揺らす。


 虚像は、音もなく。

 けれど確かに、軋んでいた。


 ◇


 夕刻、図書塔。

 銀髪の青年が机に肘をつき、彼女を待っていた。


「……噂は逆流を始めたな」


「はい。虚像に、ひびが入った音がします」


 青年は小さく笑い、頷いた。

「ならば次は――音を立てて崩れる番だ」


 彼はまだ名を告げない。

 けれど、その立場がただの学生でないことは、もはや明らかだった。


 ◇


 夜。

 レティシアは机の上に紙束を並べ直し、ペンを置いた。

 噂より遅く、だが噂より強い。

 それが記録。

 それが証拠。

 それが、虚像を崩す刃。


 窓の外、夜風が枝を揺らす音がした。

 軋む音に似ていた。


 ――『悪役令嬢』の虚像が、音もなく崩れ始めている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ