第1話 公衆の面前で、婚約破棄 ――歓声の海は、ひとつの言葉で静まる。
王都最大の冬至祭舞踏会。天蓋のクリスタルは、千の火を閉じ込めたように輝き、貴族の笑い声と弦の音が高い天井で渦を巻く。
その中心に立った第二王子エルマー殿下が、銀のグラスを軽く掲げ、涼しい声音で告げた。
「公爵令嬢レティシア・アーデル。貴様との婚約を、ここに破棄する」
息が止まる音が、あちこちで同時にした。
けれどレティシアは、ただ一礼し、落ち着いて問い返す。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
殿下の背に庇われるように立ったのは、淡い金髪の男爵令嬢ミリア。潤んだ瞳で、舞踏会の真ん中に小鳥のような声を放つ。
「わ、わたくし……ずっとレティシア様に虐げられて……書庫の鍵を取り上げられたり、実技の順番を奪われたり、殿下の前で悪口を……」
「それは本当だ。俺も見たぞ」「同席していた」――取り巻きが次々に証言を積む。
波は、同じ方向に寄せれば寄せるほど、形を持った「噂」に変わる。
レティシアは唇を結んだ。感情的な反駁は容易い。だが社交の場で声を荒らげれば、真実さえ軽くなる。
「父上」
一歩、背後から父であるアーデル公爵が進み出る。その視線は王子にではなく、群衆の温度を計るように会場を一巡し、最後に娘に落ち着いた。
「家の名誉は私が守る。――レティ、退こう」
「はい。お言葉のままに」
礼を取って踵を返す。
たったそれだけの動作で、場の空気が割れ、彼女を見送る視線は、憐みと好奇の間で揺れた。
(必要なものは感情ではない。手順と、記録と、結果)
玉座の間を出る一歩ごとに、彼女の思考は整っていく。
この場で争わないこと。翌朝までに最低三箇所の「証拠」を確保すること。噂の芽は、早朝の霞のうちに摘み取ること。
そして――学園での総合実技試験。武道大会。
社交の掌の上で踊る者たちに、弁舌ではなく「数値化された実力」の冷たさを教える。
◇
翌朝。学園の大掲示板には、乾いた炭で拙く書かれた落書きがあった。
《悪役》《断罪》《公衆の面前で》
筆致は幼い。だが文字は目に入り、目に入ったものは心を揺らす。
すれ違う生徒の視線には温度差が混ざる。憐れみ、面白がり、距離を取る薄さ――。
レティシアは掲示板に近づき、袖口から取り出した小さな革袋を掲げた。
袋の口に仕込まれた微細な魔石が、淡く光る。
「掲示板は学則第十七条により、許可者以外の掲出は禁止。――監督官、採取をお願いします」
通りがかった学園監督官が眉を上げ、魔石封入の採取袋を受け取る。魔石は、接触した炭の粒に残る魔力の癖(エーテル汚染)を記録する。
これで落書きの“書き手”は、後で特定できる。
「用意がいいな、アーデル嬢」
「規定ですから」
レティシアは平板に微笑み、踵を返した。
目指すのは図書塔、最上階。学術連合から貸与された、禁書庫準閲覧鍵。
過去の戦術記録、魔術式の最短展開手順、失伝した儀礼魔法の断片――偏見は言葉では崩れない。ならば数字と勝利で叩き折る。
◇
図書塔の最上階は、朝の冷気をそのまま閉じ込めている。
石壁に沿って積まれた書物群の間を、レティシアは迷いなく進む。
鍵を錠前に差し込み、二度、三度と静かに回す。
「……おや、珍しい」
塔司書の老紳士が、杖の先で床をとんとんと叩いた。「昨夜の舞踏会は、さぞ喧しいと聞きましたが」
「どこにいても音はついて回ります。なら、静かな場所を先に選ぶほうが早いだけです」
微笑の角度を一定に保ちつつ、彼女は羊皮紙を広げた。
選んだのは、古式の「重奏陣」。術式を“短冊”に分解し、同時展開して伝播を加速させる理論。
ふつうは魔力の質量が足りず破綻しやすい。ゆえに“机上の理論”と嘲られて久しい。
(要は、最小単位で割ること。人ひとりでは重い荷でも、十に分ければ持てる)
羽根ペンが走る。
術式の第二項を削る。媒介を石から空気へ。同期の基準を脈拍ではなく足裏の圧に。
試作の紙片を三つ、掌に敷き、息を吸う。
す、と塔の窓から差し込む風が、紙片の縁を震わせた。
「――起動」
目に見えぬ糸が、三つの短冊を結ぶ。
灯りの魔術が、瞬きほどの遅延もなく連続点灯する。
ふつうなら、微細なラグが生じるはずだ。
塔司書が目を丸くする。
「……連鎖遅延が、ない?」
「足の裏、です。人は意識より先に、立っているものに反射します。意識を通さなければ、遅延は消えます」
「学術連合の大会で試すのかね」
「――はい。数字が必要です」
老紳士は満足げに頷いた。「レディ、君は時々、極めて冷徹だ。だが学問はときに、冷たさゆえに美しい」
レティシアは答えず、紙片を重ねて封筒に入れる。
そのとき、塔の扉が乱暴に開いた。
「アーデル嬢! 実験棟で事故だって!」
息を切らして飛び込んできたのは、錬金科の一年生リオ。顔面蒼白で手が震えている。
「事故?」
「二年の合同実技、爆縮処理の試験で! 魔力比重の逆算が狂って、式が――!」
レティシアは羽根ペンを置いた。「塔司書。封印、お願いします」
彼女はスカートの裾を押さえ、塔の階段を駆け下りた。
踊り場で足を止め、革靴の踵を二度鳴らす。
足裏の圧覚――同期基準は、もう身体に馴染んでいる。
◇
実験棟の大扉の前には、人だかりができていた。焦げた臭い。石床に広がるひび。
監督官たちが封鎖に走り回り、学生が混乱する。
「下がっていろ!」
「起爆まで三十秒は切ってる! 離脱させろ!」
見えた。室内中央、作業台の上で、赤黒い術式が脈動していた。
爆裂ではない。――内側に向けて畳み込む色。爆縮。
(逃がさない。なら、止める)
レティシアは群衆を掻き分ける。「監督官、短冊の使用許可を」
「アーデル嬢? なにを――」
「あと二十秒はないでしょう。許可を」
監督官の瞳がわずかに揺れ、一拍の後に頷いた。「責は私が負う。やれ」
レティシアは内ポケットから三枚の短冊を出す。
床に膝をつき、靴底の下に二枚。両手の指先に一枚。
息を吸った。吐いた。
足裏と、紙と、空気がひとつになる。
「――起動」
短冊が、彼女の意思よりも速く繋がる。
術式は、繋がりたがっていた。
伝播は、爆縮の中心へ一直線に走り、赤黒い膨張の“縁”を掬い上げる。
膨張の縁は、もっとも脆い。そこを押さえ込む。
紙片が焦げる匂い。指先に針ほどの痛み。
レティシアは眉根ひとつ動かさない。足裏の圧を、床のひびに合わせて微調整する。
膨張の縁が、ほどけた。
――沈黙。
赤黒い脈動は、炭になって崩れ、床に灰となって落ちた。
しばし、誰も声を出せなかった。
やがて、監督官のひとりが小さく息を吐く。
「……安全、確認」
次の刹那、押し殺された歓声があがる。
レティシアは立ち上がり、灰の温度が下がったのを確かめてから、手袋を脱いだ。
指先が赤い。だが皮膚は破れていない。
短冊の縁が、わずかに焼けて波打っている。
「アーデル嬢、いまのは……」
「簡易の重奏陣です。危険物への直接干渉は本来禁忌ですが、爆縮は“内に畳む”性質上、縁に触れる手順が安全です」
監督官が目を細める。「“本来禁忌”の判断を、学生が即時に?」
「――許可を頂きました」
監督官は苦笑し、肩を落とす。「君の強さは、論理が先に歩くことだな」
「ありがとうございます。評価は後ほど記録で」
軽く会釈をして、レティシアは周囲を見渡す。
見知った顔がある。男爵令嬢ミリア――昨夜、殿下の影に隠れて、涙ながらに訴えた少女。
彼女は群衆の後方で、青い顔のまま立ち尽くしていた。足元には、魔法基材の入った小袋。
その口は、かすかに開いている。驚愕に、か、恐怖にか。
レティシアは視線を止めず、素通りした。
噂には噂で返さない。大切なのは、記録。
(午前のうちに、採取袋の解析。午後、事故の起票。夕刻、魔術倫理委員会へ提出。夜、図書塔で第二案の検証)
「アーデル嬢!」
呼び止めたのは、錬金科主任の教授だった。
白髪をオールバックにし、灰の付いた前掛けのままの老教授が駆け寄る。
「もしや、昨夜のことは……聞いた」
「噂なら、いずれ収まります」
「いや、違う。――君は実技試験に出るのだろう? 学術連合の。ならば、私の研究室に来なさい。対価として、うちの連絡網を使って“書庫鍵の件”の反証を出す」
レティシアは目を瞬いた。「反証?」
「“書庫の鍵を取り上げた”という噂だ。君は鍵の貸出簿を厳密に管理している。記名と刻印の記録があるはずだ。うちが連合に照会すれば、あの噂は一日で萎む」
「……助かります」
教授は手を振る。「礼は要らん。今日、君に助けられたのは、あの子らだけじゃない。研究室そのものだ」
教授は一歩離れ、声を潜めた。
「それと。――殿下の周辺で、術式を“粗く回す”連中がいる。誰が何を吹き込んでいるのかは知らんが、学園は学び舎だ。政治の無知を、学術の現場に持ち込ませるな」
「はい」
老教授はそのまま走り去り、監督官たちと合流した。
レティシアは深く息を吐き、焦げた短冊を封筒に戻す。
掌の熱が、静かに退いていく。
昨夜の舞踏会で、冷たい視線が皮膚に刺さる感覚を、彼女はまだ覚えている。
けれど、いま掌に残る熱は、違う。――ここで積んだ手順は、必ず数字に変わる。
◇
昼下がり。鐘が二度鳴る。
レティシアは倫理委員会の提出箱に、事故報告の写しと採取袋の解析依頼書を入れた。
封蝋に公爵家の刻印を押す。
押印の音は、静かで確かな手応えを残した。
「……アーデル嬢」
委員会室の脇に、白い制服の青年が立っていた。
剣帯の金具には、王国近衛の紋。学園に出向している実技試験の外部監察官だ。
若いが、眼差しはまっすぐだった。
「君の“処置”を見ていた。――今日のは、正しく勇気だった」
「規定に基づく行動です」
青年は苦笑を隠さず、細い紙片を差し出す。「ならば規定に基づき、通達を一枚。学術連合、総合実技の“個別課題”枠――推薦」
紙片は短い文と印章だけで構成されていた。
推薦があれば、通常の課題ではなく、独自の研究・技術を“公開の場で実証”できる。
歓声も、嘲笑も、すべて正面から注がれる舞台。
「……ありがたく」
青年は小さく会釈した。「ただ、忠告も。――君が勝てば勝つほど、昨夜の場面は“政治”になる。剣も、術も、数字も、時に人を斬る。自分を守る術も、同じだけ用意しておけ」
「肝に銘じます」
青年は去り、廊下に残った風が、封蝋の蝋香をゆらす。
レティシアは視線を落とす。紙片の隅に、小さな墨のしみ――。
筆を置くとき、誰かが震えていたのだろう。
人は、弱い。
けれど、弱さは、手順で補える。
(“個別課題”――重奏陣の実証でいく。媒介と同期、もう一段深く)
彼女は踵を返し、図書塔へ戻る廊を急いだ。
◇
夕刻。塔の窓は赤く染まり、尖塔の影が長く床を斜めに分ける。
レティシアは机を二つ並べ、短冊の材質を変えた試作を五種類用意した。
羊皮紙、麻紙、薄革、樹皮、そして――布。
布は、紙よりしなる。伝播の速度は落ちるが、衝撃の吸収に優れる。
使い方次第で、武道大会にも転用できる。
剣の間合いに術を重ねるのは難しいが、同期の基準を足裏から“呼吸”に移せば、剣筋に絡められる。
(武道大会の審判規定。人体に直接の攻撃となる魔術は禁止。ただし“補助具”としての術的補助は裁定で許可される場合がある)
規定集の頁に親指をかけ、彼女は息を整えた。
呼吸。吸って、吐く。
呼気の長さを基準に、二枚、三枚と重ねる。
――ふ、と短冊が、呼吸の底で重なる音を立てた。
塔司書が目を細める。「それは、珍しい音だ。うまくいっている」
「重ねる場所を、呼気の終わりに合わせました。呼吸は人の嘘を嫌いますから」
「……実に冷ややかで、美しい」
塔司書は奥の棚から、古い木箱を持ってきた。「これを使いなさい。昔、誰かが“布の術式”を研究して、残したものだ。名は記録にない。名より手順が残ったのだろう」
木箱には、布の短冊が数十枚、色褪せた糸で束ねられていた。
レティシアはひと束を手に取る。
布は、思ったよりも軽く、手の熱にやわらかい。
誰かの手が、長い時間をかけて、ここまで持ってきたのだ。
「お借りします。――必ず“返せる形”で」
「期待しているよ、アーデル嬢」
◇
夜。塔を出ると、校庭の端で、木剣の音がした。
淡い灯りの下、剣術科の上級生が二人、稽古をしている。
その傍らに、審判役の青年が一人。
昼間の監察官だ。
彼はレティシアに気づくと、軽く片手を上げた。
「見学か?」
「呼吸と足運びの観察です」
「なら、一本、試してみるか。――木剣で」
「私が?」
青年は笑む。「大会は混戦だ。剣の速度に術を合わせる練習は、机上ではできない」
レティシアは袖口を留め、木剣を受け取った。
足裏の圧覚は、石床から土へ。
呼吸は、塔の静けさから、夜気に溶ける。
相対する上級生が、軽く礼をする。「手加減は不要で?」
「――数字がほしいので」
開始の合図。
上段から、速度を殺した素直な一太刀が降る。
木剣で受ける直前、レティシアは呼気の底に短冊を合わせた。
布が、音もなく、腕の可動域を半分だけ“滑らせる”。
衝撃が、吸われる。
剣筋が、ずれる。
「っ……?」
上級生の目が驚きに見開かれる。
レティシアは懐に潜り、柄を軽く相手の胸元へ。
木剣が触れるだけの、最小の“点”。
上級生の身体が、重心を崩し、膝をついた。
「一本」
監察官の声は淡々としていた。
上級生は、苦笑して立ち上がる。「いまのは、術か。――補助?」
「呼吸に布を合わせただけです」
「恐ろしいな。術の“音”がしない」
監察官が一歩近づく。「君は、見せ方を知っている。派手さはない。だが、数字と勝ちだけは取り零さない」
「大会は、弁舌ではなく記録ですから」
監察官は木剣を受け取り、短く息を吐いた。「――明朝、王宮から連絡が来る。殿下の周辺が、今日の“事故”をも噂に組み込もうとするだろう。だが、もう手は打ってある。教授連と監督官の連名で、公式記録を走らせた」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。学園に政治を持ち込ませないための、最低限だ。君は数字を積め。こちらは手続きを積む」
青年は背を向け、稽古を続ける上級生の方へ戻っていく。
レティシアは木剣を見下ろし、指先を握りしめた。
掌の熱は、もう痛みではない。
――勝つことは、静かだ。
静かで、冷たい。
だが、その冷たさでしか、切れないものがある。
◇
夜半。自室に戻ると、机の上には一通の封書が置かれていた。
公爵家の印、だが父の筆ではない。
封蝋を割ると、中には短い手紙と、薄い金属板が一枚。
《明朝、王宮より呼び出し。学園側の記録は承知。
これは、家ではなく、おまえ個人への“盾”だ。》
金属板には、古い紋章――学術連合の前身となった研究騎士団の印。
個人に与えられることは稀だ。
突き刺さる噂を、正面から受け止め、突き返すための、古びた“盾”。
(父上……)
レティシアは目を閉じ、ひとつだけ深く息を吸った。
明日、王宮。
殿下。
ミリア。
そして、数字。
(――ここから、学園で“無双”する)
彼女は短冊の束を枕元に置き、灯りを落とした。
静かな夜が、音もなく降りてくる。
――そして、夜明けは、必ず来る。
◇
翌朝――王宮謁見の間。
緋色の絨毯が玉座へと続き、その両脇に高位貴族たちが列をなしていた。
王の不在を補う摂政の席に、王妃と宰相が並ぶ。
そしてその中央に、昨日と同じ声が響いた。
「レティシア・アーデルは、事故の元凶だ! 実験棟で術式が暴走したのも、すべて彼女の仕組んだこと!」
声の主は第二王子エルマー。
背後には、やはりミリアが涙ぐみながら寄り添っている。
宮廷内の空気がざわつき、嘲笑と憐れみが混ざり合った。
(予想どおり、昨日の事故を利用する……)
レティシアは静かに前へ進み出た。
父公爵は背を正し、ただ一歩も退かぬ気配を娘の背に預けている。
「弁明はありますか、アーデル嬢」
宰相が問う。
レティシアは深く礼を取り、言葉を選ばず淡々と告げた。
「事故現場には、監督官および錬金科主任教授、ならびに監察官が立ち会っておりました。――こちらがその記録でございます」
差し出した封筒には、昨夜の事故処理の“公式記録”と、魔石採取袋の解析結果。
監督官が封を切ると、淡く光る魔術印が浮かぶ。改竄の余地はない。
「ここに記されているのは……事故を鎮静したのはアーデル嬢本人。むしろ被害を防いだと?」
「事実にございます」
ざわめきが広がる。
宰相が目を細めた瞬間、錬金科主任教授が列の奥から声をあげた。
「ここに証言いたします! 救われたのは学生だけではない。我ら研究室そのものが守られたのです!」
さらに別の声。「監察官としても、彼女の判断は正しかった!」
続く声が次々と謁見の間に響く。
王妃が小さく息を吐いた。「……どうやら、断罪するには証拠が逆ね」
「ぐっ……!」
第二王子の顔が紅潮する。
その背後で、ミリアの涙が凍り付いたように止まった。
レティシアはただ一礼し、視線を落とす。
勝利を誇示する必要はない。
数字と記録が、雄弁に語ってくれる。
(第一幕は終わり。次は――学園)
◇
学園掲示板前。
午後には、武道大会の組み合わせ抽選が貼り出された。
群衆の視線が一点に集まる。
《第一回戦 アーデル嬢 vs 騎士科上級生ペア》
「おい見ろよ、相手は殿下に取り入ってる奴らだぞ」「悪役令嬢は初戦敗退確定か」
嘲笑混じりの声が飛び交う。
レティシアは無表情で掲示板を見上げた。
(……なるほど。殿下の影が濃い相手を、あえて充ててきたわけね)
その横で、数人の女子学生がひそひそ声を交わす。
「でも昨日の事故、ほんとに彼女が止めたって……」
「嘘でしょ、そんなことできるわけ……」
「でも教授や監督官が証言してたじゃない」
揺れる視線。揺れる評価。
けれど一度揺れた天秤は、数字ひとつで傾く。
ならば必要なのは――勝利。
◇
夜の図書塔。
レティシアは机の上に布短冊を広げた。
足裏ではなく、呼吸に合わせる。剣筋に織り込む。
紙ではなく布だからこそできる“剣術と魔術の融合”。
(呼吸と剣。――術を溶かす)
木剣を振る。
息を吸い、吐く。
短冊が呼吸に共鳴し、剣筋がわずかに速くなる。
塔司書が静かに頷いた。「これは……術ではなく、剣そのものだ」
「ええ。剣が術を帯びるのではなく、術が剣に馴染む。大会では、これで示します」
◇
そして、大会当日。
観覧席に詰めかけた学生たちのざわめきが、開会の鐘で静まった。
砂の舞台に立つレティシア。
対するは騎士科上級生二人。剣術も体格も、確かに優位。
彼らの背後には、王子派の視線。
周囲は「どうせすぐ終わる」と笑い声を漏らす。
「始め!」
審判の声とともに、上級生たちが一斉に斬りかかる。
だがレティシアは、ただ一歩、呼吸を合わせた。
布短冊が息に応じ、剣筋に絡む。
一撃――木剣が滑るように相手の刃を逸らし、反撃の点で胸元に触れる。
二撃――踏み込みの隙を突き、もう一人の脚を払う。
わずか十秒。
「勝負あり!」
沈黙。
次の瞬間、観覧席が爆ぜるようにどよめいた。
「嘘だろ……」「一瞬で……」「悪役令嬢が……!」
レティシアは剣を下げ、呼吸を整える。
観客の視線はもはや嘲笑ではなく、畏怖と驚嘆。
数字は嘘をつかない。
勝利は何よりも雄弁だ。
◇
――舞台の片隅で、ミリアが蒼ざめていた。
その横に立つ第二王子は、歯を噛みしめて拳を握る。
断罪劇の続きは、もはや彼らの思惑ではなくなっていた。
(これが、私の反撃)
レティシアは静かに視線を落とし、剣を収めた。
新たな舞台は、これから始まる。
ありがとうございます。