2 兄の存在
エリアナはぐっと唇を引き結んで涙をこぼし、馬車の中で小さく揺られた。最近は会えていなかったカイルに会えることを喜んでせっかく綺麗に着飾ってやってきた。
それなのに、まさかこんな話だとはまったくもって思っていなかった。
辛いんだか、悲しいんだか、悔しいんだかわからないような感情が襲ってきて、華やかにしてもらったメイクの事など気にせずにハンカチで乱暴に涙をぬぐって屋敷に帰るまでの間にどうにか気持ちを落ち着けたのだった。
クリフォード公爵家の屋敷にもどってから、エリアナはすぐに、兄や姉が仕事をしている執務室へと向かった。
カイルから呼び出しがあった事や、出発の挨拶もしていたので彼らも用事がなんであったかは気になっているはずだ。
もちろん父や母から後から聞くことにはなると思うが、エリアナがいち早くこの婚約破棄について、彼らに話をしなければならないだろう。
しかし、姉ならまだしも兄に会いに行くのは気が引けて、後回しにしたい気持ちが顔を出したが、後回しにしたらしたで何と言われるかわからない。
エリアナは嫌なことは先に終わらせたいタイプだ。
というわけで、執務室へと入った。
「チェスターお兄さま、コンチェッタお姉さま。ただいま戻りました」
ここまで泣いて帰ってきたことがばれないように、エリアナは少しうつむいて目元を隠し、声をかける。
すると彼らは普段は、並べられている執務机に腰かけて仕事しているのに、今日は部屋の手前側にあるソファーセットに座って、難しい顔をしていた。
向かい合っていた彼らは、ぱっとこちらに顔をあげて、コンチェッタの方が立ち上がって心配そうな目線を向けた。
「エリアナ。つい先ほど一時帰宅なさったお母さまから事情を聴きました。……べルティーナ様をカイル王太子殿下は選ばれたと」
彼女は少し言いづらそうにそう口にして、エリアナのそばへと寄ろうとする。
お母さまから聞いたということは、すでに国王陛下やクリフォード公爵たちの間では決まっていた事実だったのだろう。少なくともカイルとべルティーナの独断専行ではないらしい。
けれども、エリアナが転生者であったから、当人同士直接、話をする機会が設けられたという事だろうか。
「うん……突然すぎて……すごく驚いたっていうか……」
「そうですよね。私もまさかこんなことになるなんて思ってもいませんでした」
エリアナの事を考えてあまり明確な言葉を言わないコンチェッタにエリアナは少し助かったような気持になった。
けれどそんな姉妹二人の会話に、イラついたような様子でテーブルを拳でたたいて、チェスターが口を挟んだ。
「なにが、突然だ。なにが、こんなことにだ! やっぱり所詮、お前みたいな女が嫌になったんだろ、カイル王太子殿下は」
「……チェスター、やめてください。エリアナが悪いわけでは」
「なに言ってんだよ! こいつが女としての魅力に欠けるから、捨てられたんだろ! あーあ、どうすんだよこれから」
「チェスター」
コンチェッタとは違って、チェスターはエリアナに非があるからこうなったと考えている様子で、立ち上がってずかずかとこちらに歩いてくる。
それから威圧するようにエリアナの事をにらみつけた。
彼はいつも、エリアナに対してこんな調子だが今日だけはそれもバツが悪く視線を逸らす。
「黙ってろよ! ……そもそも俺は、こんな気持ちの悪い存在、妹だなんて認めてなかったんだ! はぁ、このソラリア王国には転生者が多いし、その力を使って国だって豊かだが、実際、自分の身内にいると気色悪くて仕方ない」
「……」
「お前にとって俺達なんて家族じゃないんだろ? その癖に、養ってもらって贅沢させてもらって、それなのに王家に嫁ぐことすらできないなんて、クズだな!」
チェスターはエリアナの肩を押して、突き飛ばす。
その通りであることはたしかで、今にも殴り掛からんばかりのその態度にエリアナは、すぐに言葉を切り返すことができない。
カイルにもあんなふうに否定されて、自分の役目も果たすことができないなど、とても立派とはいいがたい。
それでも、前世の記憶がある人間だとしてもクリフォード公爵家の人間はちゃんと育ててくれた。
……それなのに。
「ああ、でも、カイル王太子殿下は見る目があるな! あんなに可愛い人とお前みたいな気の強いだけのガキなら、当然あの人を選ぶだろ」
チェスターはエリアナを馬鹿にしたように笑みを見せて、カイルの肩を持つ。その言葉を否定できない程度には、べルティーナは可愛らしい容姿をしている。
「それに、人間様が何より気高い生き物に決まってんだろ? あの人なら、醜い獣どもも、精霊もどきも、汚い小人もきっちり追い出してくれるだろ!」
「っ、チェスター、そんなことを言ったって、ほんの数年前までは、私たちはともに国を歩んでいく仲間ではありませんでしたか!」
チェスターの言葉にコンチェッタが間に入るようにして、イラついた様子の彼を止める。
何故唐突にそんな話をしているかというと、このソラリア王国は多種族国家なのだ。
エルフや、獣人、ドワーフなんかがともに暮らしている。
しかし今現在世界では多くの国が、人間以外を差別する傾向にあり、隣国であるアカシーレ帝国からやってきたべルティーナももちろんその考えに属している。
だからこそ、エリアナは獣人の従者を連れていかなかったし、カイルが彼女を選び国王がそれを承諾したとなると、国の在り方さえ変わってきてしまう。
「だからなんだ! 今は、国の足を引っ張るお荷物だろ! それに帝国出身の聖女様がそういうお考えなんだ! 醜い亜人どもなんて奴隷のように使役していればそれでいいんだよ!」
「きゃぁっ」
「エリアナが婚約者から降ろされたって事は、そういう事だ! 俺らの立場も危ういかもな! なんせ父上や母上は獣人の肩を持ってんだから! あーあ、跡継ぎの俺の苦労も考えろよ! エリアナ!」
コンチェッタの髪をひっつかんでチェスターは、苦労も考えろなどといいながらも半笑いでエリアナをにらみつけた。
「コンチェッタお姉さまを離してください、チェスターお兄さま」
「はっ、お前は本当、女のくせに生意気で、妹のくせに偉そうで、虫唾が走る……ま、婚約も破棄されたんだ。もう俺に偉そうな口を利けると思うなよ。エリアナ」
「……っ、は、離して、チェスター」
脅えたような様子でコンチェッタはチェスターの手に触れる。
彼女の丁寧に結われた綺麗な赤毛ははらりと解けて髪がおちる。
「お願いしますだろ、エリアナ。お前に手を出さないでいてやるのは、お前が転生者なんて厄介なもんだからだ。そのせいでこいつがこんな目に合っているのに、お前はお兄さまにお願いもできないってのかよ」
「…………」
「ははっ、そういう気の強いところに呆れられたんじゃないのか? だってカイル王太子殿下は記憶がないんだろ? 王族は転生者の多い家系だとしても、自分よりも精神年齢がどれほど上かわからん頑固なおばさんなんて嫌だっただろうなぁ!!」
……おばさん…………いうほど年取ってないのに……。
カイルの言葉にはもちろん傷ついた。しかしそれ以上にこの兄は明確に悪意を持ってエリアナに接している。
昔から仲は悪かったし、なんだか嫉妬というか色々な複雑で黒い感情を向けられているとは思っていたが、エリアナの立場が悪くなったことで、こんなになるとは想像もしていなかった。
「……離してください、お願いします。チェスターお兄さま」
けれどもここで逆らっても、エリアナに勝ち目はない。というかそうするとコンチェッタが酷い目を見るだろう。
それはいくらなんでも善良な姉さまが可哀想だ。
エリアナの懇願に満足したのか、チェスターは笑って彼女を離し「これから覚悟しとけよ、エリアナ」なんて言葉を吐き捨てる。
その姿はまさしく悪役そのもので、どこの時代、どの世界にもこういう性格の悪い人というのはいるものなのだなと思ったのだった。




