18 愛おしい婚約者
前世のエリアナには、それはもう目に入れてもいたくないような愛おしくてたまらない婚約者がいたのだった。
……幼なじみで気が付いたときには友達で、気弱で、不健康そうな色の顔をしていていつも唇が紫だったのをよく覚えている。
しょっちゅう体調を崩すので、幼稚園には行けなかったし、小学校では男の子からいじめられていた。
反対に前世の私は、元気はつらつという言葉を地で行く女の子だった。
足が速くて、勉強が嫌いで、友達と遊びまわることが大好きだった。よく転んでけがをしたし、友達と喧嘩をしても次の日にはケロッとして、学校へ行く。
そういう生活をしていた。
けれども決して、彼との縁がすぐに切れたわけではない。むしろ、駄目な弟分を守る姉貴分みたいなつもりで面倒を見てやっていた。
「だから、足が速くないなら頭が良ければいいじゃない?」
「うん」
「頭が悪くても、絵がうまくてもいいじゃない?」
「うん」
「よく風邪ひくとしても、頑張ってないわけじゃないじゃない?」
「……うん」
ベッドの上でぽやんとした顔で私の話を聞いていた彼は、小さく頷く。それに私は満面の笑みを浮かべて続きを言った。
「だったら何も気にしないで、明日は学校に行ったらいいの。うっさい男子たちが、ずる休みだって言っても別にずるしてないんだから、こっちだって学校に来れるものなら来たかったっていえばいい!」
「そうかなぁ」
「そうだよ! あんなこというなんてあなたの大変さをさ、知らないから言えるんだよ。毎日、学校で友達と遊べる方が一人で家にいるよりずっと楽しいのに、休むしかないんだから、大変なんだなって思うはずでしょ」
「うん。……たしかに、家に一人は退屈かも」
「そうでしょ? 私だったら退屈で死んじゃうよ」
「退屈では死なないよ」
「知らないの? こういうの。ヒユ、っていうんだよ!」
「ヒユ?」
「そー!」
首をかしげて、聞いてくる彼に私は自慢げにそう返した。なんだか難しい言葉を使って彼よりもお姉さんだという事をアピールしたい気持ちだったのかもしれない。
「どういう意味?」
おっとりと聞いてくる彼に、私はギクッとして「えとぉ」と視線を空において考えた。
パパとママがそういうふうに話をしているのを聞いただけでこういう意味があってどういう事をそういうのかをきちんと説明できるほど私はその言葉をよく理解していなかった。
「ヒユ、はヒユだよ」
「そうなんだ?」
「うん。ヒユヒユだよ」
私はベッドの上でニコニコしている彼に、語感がいいので適当に言ってごまかした。
そうすると、彼は素直に「そっかぁ」と言ってそれから声をあげて笑った。
すると、少しそうして声をあげて笑っただけなのに、はぁっと大きく息を吐きだして、眉間にしわを寄せて、自分の胸を拳で何度も強くたたいた。
「あ、あーあ、もう! 駄目だよ、あなたは”風邪”なんだから、あんせーあんせー!」
「っ、ゔっ」
「背中摩ったげる!」
苦しそうに呼吸を繰り返す彼のごつごつした骨の浮いた背中を私は、雑巾で拭き掃除するような気持ちでシャカシャカといっぱい摩った。
風邪の人にはこうしてあげるんだとパパやママから習ったし、苦しそうな彼を放っておくことなんかできない。
「っ、ごめ、っ、はーっ、はぁっ、ごめんっ、ごめん……」
「あんせーあんせー、喋るな! お馬鹿!」
「っ、はぁ……ごめんね……ありがと」
「……うん」
彼はこうしていつもこんな調子だった。
それでも彼は次第に元気になっていった。”風邪”を引く回数も減っていって、相変わらず顔が青白い事と、吹けば火が消えてしまいそうな蝋燭のような儚さは変わらなかったけれど、彼の一番の理解者だった私は、いつしか友人から恋人になっていた。
といっても、私のように彼の体が丈夫になったというわけではない。運動は相変わらずできないし、長時間仕事や勉強をすることも出来ない。
そういうわけで一緒に過ごす時間はいつもテーブルゲームをして遊んでいた。
外に繰り出して、街歩きをしたり、アクティビティー体験をしたりと普通の男女のようにデートをすることはかなわなかったけれど、それでもうらやましいなんて思ったことはなかった。
ただこれが自分たちの在り方だと思っていただけなのだ。
「よく考えてみるとさ」
「うん」
「ウノってさ、最後のカード出すときウノって言わなきゃいけないの、よく考えると、意味が分からないんだけど」
「ああ、たしかに」
「もっと言うとこれって二人で遊ぶとき、リバースの意味がないよ……」
「それもそうだ、あ、色チェンジ」
「何色?」
「赤にする。好きだから」
「好きな色聞いてるんじゃないんだけど?」
「冗談だって、赤、手持ちが多いから」
彼は自分の持っているカードを注視しながら私に視線を向けてきた。その瞳になんとなくじっと彼を見ていた私は目が合ってしまう。
やっぱり吹けば飛びそうな彼の事を私は、目に入れても痛くないぐらいには愛おしいなとふと思った。
丁度休日の午後、特になんの思い入れもない日で、付き合った記念日でもどちらかの誕生日でも、めでたいことがあった日でもない。
ただローテーブルに広げたウノのカードを指先でいじりながら、ぽつりとそう思った。
しいて言うなら午後の日差しが暖かかったからだろうか。だから、降って湧いたようにこんなに愛おしい気持ちになったのだろうか。
「……なんか告白でもされそう」
あまりにもじっと見られて彼は、ふざけてか、真剣にか、そんなことを言った。
「告白って、例えばどんな?」
「……ドラマの録画消しちゃったとか?」
「困る」
「いや、君が告白するんだから困るのは俺だと、思うけれど」
「そっか、消してないよ。最終回までちゃんと残ってる」
「あ、ありがと?」
「どういたしまして、ふふっ」
疑問符を浮かべながらも、お礼を言う彼はやっぱり愛おしくて、私は機嫌よく赤の数字のカードを出して、また彼に視線を送った。
「あ、そうだ。……告白、といえば」
「え、やっぱりドラマ消しちゃった?」
「違う違う、違うよ、全然」
「なんだ。じゃあ、何、浮気でもした?」
「違うって……揶揄わないで」
そういって彼は徐にテーブルのすぐ下についている、小さな引き出しを開けて、トンと音を立ててアクセサリーボックスを置いた。
見るからに高級そうなそれに視線を奪われて、私は、ウノのカードを持ったままキョトンとした。
「……俺なんかには、君はもったいないけれどずっとそばにいてくれるって言ってくれる君を、独身高齢者にするわけにもいかないから、覚悟決めた」
箱が開かれてこちらにきらりとダイヤが光る指輪が向けられた。
「俺なんかでごめんね、結婚してほしいんだけど」
「…………」
「……駄目かな……」
「…………」
そういいつつも指輪をアクセサリーボックスから外して、彼は私の手を取った。
俺なんか、なんて言葉から始まったプロポーズはとても情けなく思えたし、あまりにもムードもなければ前置きもない。
唐突なプロポーズだった。
自信なさげにそう聞いてくるのならば、もう少し頷かせようという努力を見せて欲しい所だが、端から彼はきっと断られるという選択肢は頭にないのだろう。
その証拠に、右手の薬指にすっと指輪が通されて「あ、ぴったり。よかった」とほっとしている。
きっと、駄目なんて私が言ったら、ちょっと恥ずかしがっているか、それとも冗談かのどちらかだと思って笑うに違いない。
そんな様子の彼に私は満を持して、左手にウノのカードを持ったまま聞いた。
「……なんで今?」
「なんとなく、君がすごく好きだなって思ったから」
そういって笑う彼に、ああ、私もだと柄にもなく頬を染めたのだった。




