10 第二王子
アルフのブラッシングを終えると、部屋にオールストン公爵家の侍女がやってきて、オールストン公爵からの言伝をエリアナに伝えた。
その内容は、アリアンナが帰ってきたというものではなく、アリアンナに予告なしに会いに来たフィル第二王子が、アリアンナが王城から戻ってくるまでの間滞在しているので、話し相手になってくれないかという事だった。
突然のことに驚いたが、何も不思議はない。アリアンナは突然やってきてもなんだかんだと言って仕方ないと相手をしてくれる好人物だ。
そんな彼女に甘える人間はエリアナだけではなく、年下婚約者であるフィルも同様だったというだけだろう。
エリアナは彼とは一応面識もあるし、アリアンナから多少話も聞いている。
アリアンナの事をこの屋敷で待つということは、その後の話し合いも一緒にすることになるだろう。であれば暇をしている彼と情報交換をしておくのは良い事だろう。
それに何より、エリアナはアリアンナとフィルの関係性に少々興味があったのだ。
彼が通されている応接室へと向かい、入室を許可される。しかし中へと入ると彼は、とても戸惑っている様子で、少年然としているそのまん丸の可愛い瞳を不安にゆらしてエリアナを見ていた。
「……エリアナ、お久しぶりです。……まさかここにいるとは、考えもしていませんでした」
「お久しぶりです。アリアンナが戻るまで時間を持て余しているとお聞きしたので、参りました。少しお話をしてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
向かいに腰かけると、彼はなんだか気まずそうに、膝の上で手を組んで、チラリとエリアナを見る。
……? あまり深く関係を持っているというわけではないけれど、そんなふうに警戒されるような関係性でも……ないと思うんだけど……。
彼は義弟になるはずだった子である程度の顔見知りだ。彼がなんだか警戒をしているのでその後ろにいる三人の騎士たちもエリアナをじっと警戒するように見つめている。
その様子にソファーの真横に控えさせているアルフが少し姿勢を低くして臨戦態勢に入っているのがわかる。
「あ、あの、フィル王子殿下、私は何かタイミングの悪いときに来てしまいましたか? それとも、アリアンナのところでお世話になっているのはそんなに不自然でしょうか……」
心配になって彼に問いかける。すると、ハッとしてフィルは手を胸の前でぱたぱたと振って否定した。
「ち、違うんです。申し訳ありません。つい動揺してしまって。先日、噂を聞いたばかりで、僕は今日アリアンナの今後が心配でここに来たんです」
「……噂、ですか」
「はい……あ、あの、決して僕も真に受けているというわけではありませんが、お兄さまは否定をしなくて…………少なくとも何か根拠はあるのだと思っていたので……」
口ごもるようにそういうフィルはまたバツが悪そうに、手をすり合わせるように自分の手を手に触れる。
こちらを気遣っているような言葉に、エリアナはやっぱりいい子だなと思う。
この子は、まったく記憶もないしギフトももたない王家にしては珍しい転生者ではない生まれの子だ。
なので実年齢そのまま、十三歳の男の子だ。
このぐらいの歳の子ならば、敬語なんか使わずに、ずばずばなんでも口にしてあっけらかんと笑っている印象が強いので、真剣な顔で続きを考える彼がエリアナには賢くてよいこに見えた。
「つまり、私に関する噂ですか? 大丈夫です、教えてください。フィル王子殿下」
「……すみません。直接こんなことを言うつもりはなかったのですが……王城では今、エリアナの悪い噂が出回っています。なんでも、夜な夜な遊び回っていて屋敷に帰らないほどの非行少女で、神聖なべルティーナとは大違いだとか……」
「……」
「そばに置いている出来損ないの獣人とデキているとか、人間の技術ではなく亜人の技術を贔屓して人間の食い扶持を減らそうとしている……とか」
自分が話に上がったとわかったのかアルフは首をかしげてフィルの言葉に耳を傾ける。
多分意味は分かっていない。
「だから、お兄さまはべルティーナを選んだと、使用人層から広まって、実際お屋敷に戻ってないという情報もあったとかで、お母さまが難しい顔をしていました」
所詮は悪い噂といっても、ただの事実無根の悪口みたいなものだろうと考えていたが、エリアナが家出したことも含めて急速に、噂というには具体的すぎるエリアナの悪い話が広められているらしい。
そんな話になってもカイルは否定せずにデルフィーナ王妃殿下まで困らせているとなると、フィルがアリアンナの事を気にしてやってくるのもまったく当然のことだと思う。
「で、でも、オールストン公爵家にいるのならば、少なくとも夜な夜な遊びまわっているというのは嘘ですから、そのほかだって信憑性はないし、エリアナをそんな人だと僕は思っていません」
「……ありがとうございます」
「けれど、エリアナ……お兄さまと何かあったんですか? 僕に対する態度は変わりませんけど、べルティーナが王城に入り浸るようになってから何か変なんです」
「変、ですか?」
「はい。なんだかずっと怒っているような、イラついているみたいな、ちょっと怖い雰囲気なんです。だからエリアナと喧嘩でもしたから自暴自棄になっているのかな、なんて勝手に想像していたんですけど……とにかく何か理由はあると思うんです」
エリアナは自分の噂がどういうふうに広められていて、その目的はどう考えてもべルティーナの策略だろうということは想像がつくし、ひどい言葉だとしても、不審には思わない。
それをフィルのようにエリアナの人となりを知っていて、間違いだと思ってくれる人もいるが、そうではない人もいるだろうなという事もわかる。
チェスターお兄さまのように、他種族を差別したいと思っている人は特にそうだろう。
しかしそれは、同時にエリアナやクリフォード公爵家や亜人たちのような共生を望む人道主義者には大して効果のない事だ。だから、嫌なことを言われていても耐えられる。
けれど、カイルについてそういわれるとエリアナはドキッとして、それから前のめりになってフィルに聞いた。
「それは、体調が悪いとか何か切羽詰まっているような雰囲気とかそういう事はない? だからそんなふうに見えたなんて可能性は?」
「……体調は、悪くないですよ。というかお兄さまは……特段丈夫ですから、だから大丈夫ですし、そういう理由があってべルティーナの対応を実質的に任せられたとうかがってます」
彼はエリアナが一番心配なことをきっぱりと否定して、べルティーナの相手をクィンシー国王陛下が直々に任命したことを引き合いに出した。
教会を通して要望を出してくるべルティーナと直接やり取りをするためにカイルは彼女と密に接していた。
そうして忙しくなってエリアナと会う機会が減って、いつの間にやらべルティーナにカイルを奪われてしまった。
「……そう、でしたね。それにしても何が原因で、変なのでしょうか。私の方に心当たりはないんですけど」
「あ、いえ! 勝手に僕がそんなふうに思っているだけですから、単純に噂など関係なく、心変わりをしただけかもしれません」
言いつつフィルは少しうつむいて暗い顔をした。
「僕は、転生者の気持ちがわからないただの子供ですから……だからきっとエリアナが感じることが一番正しいですから、気にしないでください」
「……」
彼は、たしかに転生者ではない。しかしカイルだって自分だって転生者の魂が宿っていても、列記としたこの時代に生まれたただの人だ。
記憶があってもギフトがあっても、人間でないわけではない。
同じ転生者だからと言って分かり合えると決まっているわけでもないのだ。
「……いいえ、フィル王子殿下の言葉を信じます。もしかしたら、何かがあって止む終えず、こういう状況になったのかもしれません」
言葉を返しつつ、どんな理由があろうと”ヤれない女に意味なんかない”というようなことを言うのはひどい事だと思うが、と心の中で付け足した。
「お気遣いいただき嬉しいですが、本当に気にしなくとも」
けれどもそれを気遣いと受け取って、悲しい笑みを浮かべる彼にエリアナは続けていった。
「気遣いじゃなく、本音だよ。フィル王子殿下はとても勤勉で、真面目で人をよく見ているいい子だってアリアンナが言っていたから、信じる。転生者かどうかなんてあなたの発言を計るうえでは関係ありません」
「! ……お兄さまは見る目がないですね。こんなに素敵な方なのに、あの人を選ぶなんて」
エリアナの言葉に少し驚いてから、フィルはそう小さくつぶやいた。
そういってもらえるとエリアナは少しはましな気分になるけれど、実際問題、カイルに何か事情があったうえでああいう結果を招いた可能性もあるのかと一つの可能性を手に入れたのだった。




