表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏の怪異譚  作者: アブ信者
魚見 優花
11/36

坐魚

 その部屋の中にいたのは、1人の女性であった。


 白い貫頭衣を着ているだけで、それ以外には何もない。


 真っ白な部屋の隅で蹲り、死んだ魚のような目で虚空を見つめては、何かを呟いているようであった。


「こんな部屋に閉じ込められたら気も狂うだろ…」


 傑は呟いた。しかし、彼女がこうなったのはここに来るよりも前からで、今はまだ落ち着いている方だとのこと。


「見てみて、何か分かったかい?」


 雪目に問われ、傑は考える。


 2人の発言からして、彼女には魚が視えているらしいことは分かる。


 しかし、部屋の中にそんなものはいない。じゃあ一体、何が視えているのか。


 そう考えていても答えは出ず、そんな中、後ろでパイプ椅子から人が立ち上がる音がした。


「名は魚見 優花、25歳。先日、街中で錯乱状態になり頭を壁に打ち付けていた所を巡回中の警察官に保護された。しかし、事情聴取中も意味不明な妄言を吐き連ねたために薬物による幻覚症状が出ているのではと考えられた。が、陽性反応が出ることはなく、自宅を捜索しても何も出てこなかった。そしてどうしようもなくなっていた所を我々が介入し回収した。というのが、事の顛末だ」


 榊はそう語る。


「はぁ……」


「そして捜査中、彼女は頻りに魚という単語を連呼しては発狂していたと、担当の人間が残していた」


「それで…魚が視える……か」


「そう言うことだ。あの女にとり憑いたのは坐魚という妖怪でな」


「雑魚?」


 傑は問い返した。


「合っているが違う。坐るに魚と書いて坐魚だ」


 坐魚。それが彼女、魚見 優花に視えているものの正体である。


「視えるだけか?」


 傑は問う。


 視えるだけでこうまで追いつめられるものなのかと、そんな経験のない彼には不思議に思えたのだ。


「そう、視えるだけだ。座してその人間を恨みがましく睨みつける、魚の姿がな」


「実際にどういうものが見えているのかは分からない。私はなったことが無いし、あまり多くの情報が残されているわけではないからね。ただ言われているのは、こちらを睨む魚が視えるということだ。どこを向いても、目を閉じたとしても視えるみたいだ。自分をじっと見つめる魚の姿が。そしてそれは日を追うごとに表情を険しくさせていき……それにつれて正気を失っていくというものらしい」


 榊と雪目は答えた。その人間にしか見えない以上、視たことのある人間の証言でしかないが、とにかくそんなものが視えるようになるらしい。


 魚は放置すればするほどはっきりと意識できるようになっていき、最期はもう目の前にいるのと変わらない状態で睨みつけてくるという。


 それが見えるようになった人間は、魚を視界から消すための2パターンの行動をとるようになる。


 1つはその原因を断ち切り、精神を安定させること。


 魚が見え始めた初期の段階であれば、その原因を突き止めて解消することで、そのうち魚は見えなくなっていくらしい。


 2つ目は、これは魚を放置してしまった人間のとる行動ではあるのだが、


「自殺だよ。逃げる手段としては手っ取り早いだろう?尤も、魚を視界から消そうとして自分を世界から消してしまっているわけだけど」


 と、雪目は言う。


「まぁ、魚っていうのは本当に魚が見えてるんじゃなくて、視界の歪みなんかを脳が魚だと認識して、そこからはもう完全に魚にしか見えなくなっていく……っていうのがこの妖怪の正体だとは思うんだけどね」


「視界の歪み……か」


 勘違い。


 脳による誤認を勘違いと言っていいのかは分からないが、魚というのは実際にはいないらしい。


 しかし、視界が歪み、脳がそれを誤認するレベルで追い込まれているのは事実だ。


 そんな妖怪がいるのか、傑がそう思っていると、雪目がそれを否定した。


「何度も言ってるじゃないか。そんなものはいないと」


「じゃあ何であそこまで……」


 傑が雪目に寄ると、後ろから榊が言う。


「言っただろう。ストレスを溜め込みすぎると魚が視える、と」


「ストレス……」


 そう言われて、傑は考える。


 ストレスくらい彼も感じる。しかし、いまだかつてそんなものを見たことはなかった。


 それはつまり、彼がストレスを普段溜め込まずに生活できているという事で、もしそれを感じたとしてもすぐに発散できているという事でもあった。


「そうだ、ストレスは溜め込み続ければいずれ脳を破壊していく。魚が見えるのはその時だ」


「じゃあ…妖怪じゃなくてストレスの所為……なのか?」


「そうだよ、そういうものだって言ってるじゃないか」


 雪目はそう言い、成り立ちを説明した。


「これはその昔、ストレスなんて概念さえなかったような時代の産物でね。激しいストレスで精神を病んだ人間に起きた──まぁ、一種の精神病なのだけど。それを当時の人たちは妖怪や悪霊が悪さをしていると考えて、それに名前を付けたことで生まれたのが、妖怪としての坐魚だ」


「現代社会にストレスが多いことは火を見るよりも明らかだが、これはその人間にも問題があってな。坐魚が見えるような人間は大抵、ストレスの原因を自分に求めてしまう者が多い。だからこうなる」


「でも……ん?妖怪の所為じゃないんだったらどうやって解決すんだ…?」


 そんな傑の質問に、雪目が手をパタパタと振りながら答える。


「いや、元を辿ればそんな妖怪はいないという話で、魔力のある今はそれが妖怪として形を持ってしまっているんだよ。ストレスを抱え込んだ人間の前に現れて座り込む坐魚は、確かにいるよ」


 傑は混乱した。いや、人々の思い違いや恐怖心が妖怪を生み出すという事は聞いていた。


 しかし、そもそもが精神病の一種なのであれば、これはもともと人間の、ごく自然なものとしてあったわけだ。


 なら何故今になってそんな人間が出てくるのか、そう尋ねた。


「それは単純に妖怪というものが実体化したからだろうな。これまでにもストレスが原因の精神病なんざ掃いて捨てる程あったわけだが、そこに坐魚が入り込んだ形だ。ただの精神病よりよほど面倒だと言える」


「坐魚が出た以上はそのストレスの原因を断ち切らないと、どんな治療も役に立たないからね。そもそも、そこまで追い込まれた人間を救うのは、妖怪なんて関係なかったとしても苦行なんだけど」


「じゃあこれから2人で……ストレスの原因を断ち切るのか?」


 傑は問いかけた。


 ここまで錯乱状態に陥った人間を助けるなど、それこそ精神科医にだってできはしないだろうと、もしそれが出来るのだとすればそれは凄い事で、賞賛するほかない。


 しかし、


「龍崎、どんな期待をしているのかは知らんがそれは無理な話だ。ストレスなんていうものは自分の中にある小さな世界の中の問題で、外側からどうこうできるもんでもなければ、どうにかしていい問題でもない」


 榊は首を振って答え、饅頭を齧った。


「じゃあ何しに来たんだよ」


「ストレスの原因を知ることだ」


「原因を……知る?」


 傑は首を傾げた。知ったのなら解決してやるのと同じなのでは、と。


「こうなってしまった人間はもはや、落ち着いてストレスの原因が何だったのかを考える余裕さえなくなってしまうワケだからな。俺達が介入するのはそこだ」


「知った上で……どうするんだ?」


「さぁな。取り敢えず魚は消してやる。その上でどうするかは、本人がどういう問題を抱えているのか次第だ」


「……場合によっては、原因の解決は自分でやれと?」


「そうなるな。外から何かをしようとするのは──国なんかで例えるのなら、それは内政干渉ってヤツになる。それは問題だ」


「そう言われると……けど、自分じゃどうにもできないこともあるだろ」


「あるな。だがそれを一度他人に依存すれば、あの女は近いうちにここへ戻ってくる事になる」


 榊は急須で茶を注ぐと、それを飲んだ。


「冷たいように聞こえるかもしれないけど、こういうのは結局気の持ちようだからね。対処法を知り、それを自分で対処する。そうした成功体験を持てなければ、坐魚から逃げることは叶わない」


「そういうもんか……で、それはどうやるんだ?俺らには見えねぇだろ」


「そこで私が手を貸すんだよ。気に食わないけど、私情は挟んでいられないしね」


 雪目が道具を用意しながら言った。


 今回は物をいくつも用意しなければならない訳ではないらしい。


「……?」


 今回はどうするつもりなのかと、榊を見た。


「坐魚を俺の身体に移す。そうすれば一時的とはいえこの女には余裕ができる。そこでストレスの原因として思い当たるものを挙げさせる」


「移すって……大丈夫なのか?」


「坐魚は大したストレスを抱えていない人間には効果を持たん。俺に移しても放っておけば勝手に消える──が、消えたら今度はこの女の下に戻っていくだろうな。それまでに何とかできなければ、そこまでだ」


 榊はそう言うと、隣の部屋へと続くドアの前に歩いて行き、ロックを解除した。


「……!…………っ」


 優花は入室した榊を見ると、すぐに目を逸らし、またブツブツと何かを呟き始める。


 そんな彼女のそばまで歩いていくと、榊はそれを見下ろし言った。


「無慈籠、しくじるなよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ