「ボヴァリー夫人」の普遍性
フローベールの「ボヴァリー夫人」を読んでいます。新潮文庫の新訳が結構いい感じで、愉しく読んでいます。
自分は以前、「フローベールとドストエフスキーの描写の違い」といった文章を書いたのですが今読むと、半分くらいあたっているというか、まあその時にはその時の考えがあったので別にいいんですが、今から振り返るとまた少し違う風に見えてます。
当時の自分はフローベールも「ボヴァリー夫人」も自分とは縁遠いものに見えており、ドストエフスキーは身近なものに感じていたので、そのラインからの考察を書いたのですが、今はフローベールも、わかってみれば存外近い、というか、全然わからない事はない、むしろよくわかる、という感じがしてきました。
具体的には、フローベールの元にはセルバンテスがいると思います。セルバンテスの「ドン・キホーテ」ですね。だからドストエフスキーと関連して考えれば
セルバンテス → フローベール
→ ドストエフスキー
のように分岐して進んでいったと考えています。フローベールはドストエフスキーと同世代だったはずです。ですが、フローベールはフランスですし、洗練された中にフローベールの強烈な感情が見えるのに比べて、ドストエフスキーの場合はロシアという国を象徴するように混沌とした形式を取っています。良くも悪くもフランスは形式にこだわる国という気がしています。そういう所はもしかしたら日本の美学と交差する所もあるかもしれません。
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もうちょっと掘り下げて、考えてみます。「ボヴァリー夫人」は、エンマという女性が結婚しているのですが、不倫を繰り返し、その挙げ句に死んでしまうという、まあ至って普通の話です。
自分はこの話は、人間の自由について描いた物語であると思っています。こうした傑作というのは、大抵象徴的というか、意味が多義的にできているので色々な解釈が可能なのですが、人間が自由を求め、幸福を求める、その行く末を描いた作品だと感じました。当たり前の事と思いますが、「ボヴァリー夫人」も「アンナ・カレーニナ」もただの自分勝手な女の話ではない。その背後に様々なものを読み取れるから傑作なのであって、それと比べると例えば、よく例に出す川上弘美の「センセイの鞄」という作品はただの少女漫画的恋愛肯定の作品としか読めません。
せっかくですから、川上弘美との対比で考えてみます。「センセイの鞄」は、ツキコという少女漫画趣味の三十代後半の女性が「センセイ」という初老の男性を好きになる話ですが、ここでは作者自身が恋愛に酔って、つまりは恋愛を美化して書いているので、作品自体が浅い構造としてしか現れてこない。
その結果ともいうべきか、本来一番重要なキャラクターである「センセイ」はかなり薄っぺらな像としてしか現れてこない。これは嫌味な言い方をすれば、例えば、ジャニーズファンが見るジャニーズジュニア像のように、あるいはもっと一般に言えばタレント・芸能人に憧れや美を見るファンのような関係にしかなっていません。この構造の中では、美化される対象は薄っぺらいものとして現れてこない。対象化された人間が実は根のある奥深い、リアルな人間だというのが露出されれば夢は溶けてしまうからです。
フローベールはこの構造をよく抑えています。フローベールは残酷な作家の目で、エンマに恋をさせます。エンマの内面もしっかり描きますが、同時にその恋愛がただエンマが見た幻影に過ぎない事もよく承知している。フローベールという作家はエンマという女性をしっかり抑えている。エンマには己の運命は見えないが、フローベールにはエンマの運命は見えている。ここに作家と作家に描かれた人物の関係がある。もっと言えば天才と凡人、あるいは神と人間の関係もこんなものかもしれません。
今のエンタメ全体の限界というもの、同時に現代社会の欺瞞性というものの限界というのを自分は強く感じていますが、その一つは「酔う」という事です。村上春樹なんかは若干目覚めている所もあるのですが、しかし同時に、やはり、自分達の消費社会の生き方に酔っている部分がある。簡単に言えば「かっこつけている」「美化している」のです。ドストエフスキーにしろ、フローベールにしろ、トルストイにしろ、冷酷な、残酷な作家の目というものがあります。残酷な視点というのは人間を皮相な目で眺めたいと念じているから現れる視点ではなく、真実に迫りたいと思っているから現れてくる視点なのだと思います。
フローベールはエンマの恋を徹底的に描いていますが、同時にフローベールは恋愛に覚めている。夢から覚めたから夢の話を完全な形で語れるのであって、夢の中でさまよっている人間には、夢は輪郭のないあやふやなものでしかない。川上弘美は恋愛に酔って、恋愛を素敵なものとして描き出そうとする為にかえってその全体像は示されない。フローベールは作家が持つべき「正当なニヒリズム」とでも言うべきものに到達していると思います。もっと言えば生きる事をやめた人間だけが生そのものを描き出す事ができるのだと思います。こう言うと奇妙な事を言っていると思われるかもしれませんが、実際、自分で世界を形作っていくという行為に参入していくと色々わかってくるかと思います。酔っていては書けないのです。
フローベールはエンマに色々な困難を課させます。エンマに恋の試練を与えます。エンマに、理想や憧れを与えるのですが、それが成就しないようにうまく仕組んでいる。成就しないようにするのはフローベールが意地悪だからではなくて、それが「必然」だからです。そしてこの必然を噛みしめる為に人生があるのではないかと自分は考えています。エンマからフローベールへの移行、ラスコーリニコフからドストエフスキーへの移行というのは、人生の辛酸を舐め、遂に書く事が生きるようになるまでの途方も無い努力の道であるように思います。この道において人は成長するのですが、それは今の世の中が与えるポジティブ幻想とは逆向きの成長です。
エンマはドン・キホーテの後継者とも言うべき存在で、多量の理想と夢を与えられている。それが著者フローベール自身の分身でもある理由でしょうが、その周囲には凡庸な人間ばかりおいている。エンマは凡庸な人間の背後にも、恋愛の炎で非凡なものを見出そうとするが、そこには結局、なにもないという事がわかる。凡庸な人間に囲まれて窒息死するように死ぬ……その境遇は、フローベール自身が感じていた実感と通じると思います。
アマゾンの「ボヴァリー夫人」のレビューにこんなものがありました。要するに、ボヴァリー夫人=エンマはただの自分勝手な不倫女で全然共感できない、こんなものはくだらない、といった意見です。無論、笑うべき意見でしょうが、違う見方もできるようにも思えました。エンマが、理想を見出そうとして失敗し、彼女を失望に叩き落とした人、エンマをペシャンコにした凡庸な人々とはまさにこのように立派な意見を吐く常識人達なのだと。
逆に言えば、こうした人達が未だに世界を支配しているからこそ、あいも変わらず「ボヴァリー夫人」は現代の作品としても読み替える事が可能なのだと思います。現代においても何一つ変わっておらず、エンマは、理想を抱いて、自由や幸福を求め、人々の型にはまった生活を脱しようとするが故に破滅するでしょう。こんな女には共感できない、といった人々はまさに作品の中に丁寧に書き込まれています。古典作品にしばしばこういう事があります。そうしてーーだからこそ、「ボヴァリー夫人」は今にも通じる普遍的な物語として通用するのだと思います。我々に足りないのはこれらの関係を描いていくフローベールその人だけであるように僕には思われます。
(この文章は小林秀雄のフローベール論を下敷きに書きました)